Showing posts with label documentary. Show all posts
Showing posts with label documentary. Show all posts

Saturday, 20 March 2021

『映画』The Last Artisan(最後の職人)

202095

The Last Artisan(最後の職人)」・・・「自分にとってハウパーヴィラが全てであったということだ」

公開年: 2018

製作国: シンガポール

監督: Craig McTurk

見た場所: 自宅(有料動画配信)

 

 COVID-19の大流行により大打撃を受けている映画館だが(シンガポールでは現在も座席数が限られた形での興行であり、9月時点で一会場最大50人までの入場)、映画館側の試みとしてオンデマンド配信を行っている所もある。The Projectorはかつてのインド映画(だったと思うが)上映館を改装して5年くらい前から興行している、日本で言ういわゆる「ミニシアター」である。シンガポールでCircuit Breaker(セミロックダウン)が発令されて、全てのエンターテイメント施設が一時閉鎖された時から、The Projectorは「The Projector Plus」というオンデマンド配信を進めてきた。映画館で興行できるようになった現在も絶賛配信中で、映画館の方では上映されていない作品をレンタルすることができる。この「The Last Artisan」というシンガポールのドキュメンタリー映画も、The Projectorのオンデマンド配信でレンタルしたのだった。

 

 

 Haw Par Villa(ハウパーヴィラ)はシンガポールの歴史あるテーマパークである。元々は、ビルマ出身の中華系実業家Aw Boon Haw(胡文虎)が、弟のAw Boon Par(胡文豹)のために建てた邸宅のあった所で、その敷地はシンガポール海峡を見下ろす丘を占めていた。ハウ(Haw、虎)とパー(Par、豹)のヴィラ、ハウパーヴィラである。兄弟は、シンガポールのお土産としても有名な軟膏、タイガーバームの製造販売で財を成した実業家であり、この公園もかつて「Tiger Balm Gardens(タイガーバームガーデン)」と呼ばれていたことがある。

 

 さて、1937年にヴィラの敷地は一般に開放されるようになり、以来、Aw Boon Hawの中国文化と神話に対する情熱に基づいて、園内が造成されていった。第二次世界大戦中、シンガポールを占領した日本軍によって、ハウパーヴィラは監視ポイントとして接収されていたが、戦後再びAw Boon HawAw家の人達によって公園の再建が進められた(弟Aw Boon Parは戦時中に亡くなった)。

 

 こうしてハウパーヴィラは、およそ1,000体の彫像と150ものジオラマが、中国の文化・神話・民話・文学をその独特すぎる造形とヴィヴィッドな色使いで再現する、一大テーマパークとなった。Singapore Tourism Board(シンガポール政府観光局)が運営を引き継いで以来、紆余曲折を経て、現在は無料で一般に開放された公園として親しまれている。マリーナ・ベイ・サンズだのユニーバサル・スタジオ・シンガポールだのの派手な観光地の影に隠れ、「B級」「珍名所」などという位置づけになってしまっているハウパーヴィラだが、しかし1970年、80年代頃までは、特に家族連れに人気のメジャーな観光施設であったという。

 

 私も2013年に訪れてみたが、意外にも(というと失礼だが)、「珍名所」という言葉から連想されるような廃れた感じはしなかった。確かに、入場者もまばらな、静かな公園ではある。レストランや土産物店といった観光地っぽい施設も特にない。往時は賑わったのだろうな(でも今は・・・)、と思わせる雰囲気を醸し出してはいる。醸し出してはいるが、でも、見捨てられた公園ではなかった。というのも、公園内のそこここにある彫像やジオラマの中に、明らかに新しく塗り直されたものがあり、公園全体がメンテナンスされていることが窺われるからである。洋服を着た変な動物達も、どうしてこういう表現になったのかよくわからない民話の一シーンも、まだその生命を保っているのだ。

 

 さて、えらい長い前振りであったが、この「The Last Artisan」というドキュメンタリー作品は、ハウパーヴィラで彫像達を塗り直してメンテナンスしている老人が主人公なのである。Mr. Teo Veoh Seng(テオ・ヴェオセン)は、83歳。今から70年ほど前の、第二次世界大戦後まもなくの頃、父が職人として働いていたハウパーヴィラで、テオ氏は見習いとして働き始めた。13歳の時であった。以来働き続けて70年、今やテオ氏は、ハウパーヴィラ創設初期を知る最後の職人となった。80歳を越えても毎日ハウパーヴィラに通い、8.5ヘクタールある広大な園内で、彫像やジオラマをメンテナンスしている。今日、決して高給ではないうえに野外での肉体労働となる仕事には、シンガポール国内で後継者を見つけることができず、テオ氏の他には、中国から採用された弟子が一人いるだけである。(ただし、テオ氏の退職が近くなった時、もう一人、やはり中国から採用された。)映画は、いよいよ退職の日を迎えるテオ氏の、職場での最後の日々とこれまでの思い出を描いている。本人や周囲の人へのインタビューだけではなく、それを元に作られたアニメーションも交え、見る人がイメージを掴みやすいように作られている。

 

 

 職人にもいろいろなタイプの人がいると思うが、テオ氏は基本的には弟子を誉めない。叱ってるんだか教えてるんだかという感じで、弟子の仕事にあれこれ言う、口やかましいタイプのじいさまである。しかし、これにはそれなりの理由もある。刻々と退職の日は近づいているのに、弟子はなかなか一人前にならない。結局、退職の後も、テオ氏はパートタイムで弟子達の指導を続けることとなる。しかし、第一線からは退いたわけで、それは仕事一筋であったテオ氏にとって、大きな変化であった。退職前、テオ氏の娘さんは、退職後の父にやることがなくなるのではないかと心配しているが、その心配はわりと当たっていた。ハウパーヴィラに行っていない時のテオ氏は、自宅で4-Dくじ(注1)をせっせとしてみたり、近所のコーヒーショップ(注2)でコピ(注3)を前にぼんやりと座ってみたりしている。見ている方としては、「ようやくゆっくり休めるようになって良かったですね」と言い難い、ちょっと微妙な気持ちになる。

 

 テオ氏は、奥さんとの間に8人の子供を儲け、末広がりの大家族を築いている。チャイニーズニューイヤー(旧正月)の家族の集まりともなれば、それは大変な賑わいである。この作品では、テオ氏の仕事だけではなく、彼の個人史とハウパーヴィラの歴史、そしてシンガポールの歩みまで描かれている。テオ家の発展が、イギリスの植民地から日本の占領支配、大戦後の独立とその後の経済成長というシンガポールの歴史と重ね合わせられている。・・・のかどうかわからないが、いささか盛り込み過ぎな気がしなくもない。確かに、民間人にも関わらず故なく日本軍に殺されたテオ氏の祖父の話や、中国からいわゆる出稼ぎに来ている弟子達の話など、興味深いものは多い。しかし、テオ氏に焦点を絞って70分くらいの作品にした方が良かったのではないかと思う(実際には90分の作品だった)。見ていると、テオ氏の人生を描いているのか、ハウパーヴィラという希有な施設を紹介したいのか、それともテオ氏やハウパーヴィラを題材としてシンガポールの過去と現在を俯瞰したいのか、若干わからなくなってくる。

 

 この映画の本来の肝は、「work hard(懸命に働く)」ということにあると、私は思う。作品の最初の方、シンガポールの歴史に触れるくだりで、昔のRun Run Shaw(ランラン・ショウ)へのインタビュー映像が挿入される。1920年代に映画製作会社を始め、Shaw Brothersという香港、東南アジアをまたぐ一大映画王国を築いたショウ兄弟の一人にして、シンガポールにかつてあったMalay Film Productions(マレー・フィルム・プロダクションズ)のプロデューサーだったランラン・ショウが、巨万の富を築いた成功の秘訣を聞かれて、こう答える。

 「work hard、ただそれだけだ。」

 その後の字幕で、この「work hard」は、シンガポール人の基本的な通念、理想となったことを説明している。そうかもしれない。しかし、この「work hard」の意味合いは、人種によって(シンガポールには中華系だけがいるわけではないので)、さらには各人によって、違ってくるのではないかと思う。インタビューに対するランラン・ショウの答えを端的に要約すると、一生懸命働けば成功して金持ちになれる、ということだろう。「work hard」は金をもうけることと直結しており、それは多くの人にとってそうだろうと思う。テオ氏もまた、「work hard」という言葉を口にする。しかし、この「work hard」は、単に金を生み出すための方法であることを越えて、一人前の仕事をすることで自分と家族の生活を支えるという必死さをにじませたもののように思える。

 

 作中でテオ氏は、子供に関して罰金、罰金と言っているが、これは、シンガポール政府が1970年代に人口抑制策の一環として導入していたTwo-Child Policyに関係していると思われる。かつてシンガポールでは、子供は二人で十分とされ、三人目の子供からは様々な費用が余計にかかった。(例として、政府系の病院での出産費用が高くなる、三人目の子供について所得税の扶養控除額が減る等々。)それでなくても、八人の子供を育て上げるのは大変だったろう。作中では触れられていないのだが、他にもっと収入の良い勤め先があったら、テオ氏だって転職したいと思った時期があったかもしれないのだ。

 

 別にテオ氏は、ハウパーヴィラがすごく好きでこの仕事を始めたわけではない。そしてハウパーヴィラは歴史的文化遺産でも何でもない単なるテーマパークだったわけだから、この仕事が(技術を必要とされても)いわゆる伝統技術を継承するものであるわけでもない。ハウパーヴィラの盛衰の中、まさに一職人として、普段誰にも顧みられないような仕事で「work hard」し続け、結果的には、この希有な公園が次の世紀まで人々に愛される場所となるに大きな寄与をした。最後にはあの広大な園内を、自分とわずかな弟子達で支えきった。それがテオ氏の、ハウパーヴィラでの仕事であり、生き様であった。映画の終盤、テオ氏は塗りを確かめるように彫像達を優しく撫でながら、園内を歩いて回る。それはもう何年も何十年もしてきたことであろう。このシーンにかぶさるテオ氏の言葉、

 「私はここで70年働いてきた。それは私にとってハウパーヴィラが全てであったということなのだ。」

 ハウパーヴィラで働き始めた13歳の時、テオ氏はこの人生を予想し得ただろうか?この瞬間、私は人生というものの不思議、そして人間の不断の努力というものに感じ入った。だからこそ、この映画はテオ氏のハウパーヴィラ人生にもっとフォーカスすれば良かったのにと、少し残念になったのだった。20201014日)

 

    注1 4-Dくじ: 0000から9999までの四つの番号を自分で選ぶ宝くじ。シンガポールで人気がある。

    注2 コーヒーショップ: 「コーヒーショップ」というが、ホーカーセンターに近く、飲み物だけではなく食事も売る。ただ、ホーカーセンターのような独立した建物ではなく、団地の一階などに設けられていることが多い。通常正面の壁がないので、良く言えばオープンテラス式。

    注3 コピ(Kopi): シンガポール、マレーシアの伝統的なコーヒーで、独特の香りを持ち、濃い。コーヒー豆はマーガリンを加えてローストする。練乳または砂糖と無糖練乳が入っているものが基本。

 

 以下は2013年5月19日に私がハウパーヴィラで撮った写真。ご参考までに。

 

丘に沿って公園が作られている。






有名な"Ten Courts of Hell"(閻魔大王の地獄の様子を描写した展示)に至る道

Thursday, 3 December 2020

『映画』Bamboo Theatre (戏棚/劇棚)

 

20201010

Bamboo Theatre (/劇棚)」・・・Singapore Chinese Film Festival

公開年: 2020

製作国: 中国(香港)

監督: Cheuk Cheung(卓翔)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

 毎年45月頃に行われる中国語映画の映画祭、Chinese Film Festivalが、今年はCOVID-19の影響により、10月開催となった。と言っても、シンガポールではまだ映画館は、300席以上の映画館で150席まで、300席より小さい館では座席数の50%までを最大数としている。そのため今年の映画祭は、劇場で上映する作品とオンデマンド配信を行う作品の二種のプログラムを持ち、さらに、開会の挨拶、監督とのQ&Aセッション、パネルディスカッションは、オンラインで行われた。

 

 

 この「Bamboo Theatre」は、映画館で上映された。香港の各地で、祭事の時に寺の門前で行われるチャイニーズ・オペラ(曲)の上演。その会場となるのが、釘を使わずに竹で組み立てられた仮設劇場、「Bamboo Theatre」である。この映画は、出現しては消えていく仮設の劇場と、そこで働く人々を活写したドキュメンタリーである。

 

 映画は、竹の束が船で島へ運ばれて行くシーンから始まる。竹の束は陸に上げられ、作業員達によって劇場となるべく組み上げられて行く。アルミニウムらしき薄い金属を筒状に丸めたものが、竹の骨組みの一番上に上げられ、そこで広げられ、建物を覆う屋根となる。こうして劇場が形作られていった後は、劇団が荷物の搬入を行い、公演初日の準備が進み、初日の幕が開き、人々が集まって賑わう。そして映画の最後に、竹の劇場は解体されていく。

 


 

 大枠としては、劇場の設営から解体まで、その過程を描いているが、どこか一つの劇場や劇団にフォーカスしているわけではない。また、インタビューは一切なく、ただ建設作業員や劇団の面々の仕事ぶり、舞台での上演の模様、舞台裏の様子、劇場が設置された寺の門前の賑わい、そうしたものが淡々と映し出されていく。字幕で説明が入るが、それは最小限に抑えられており、後は前述したような映像とその編集によって、作り手の言わんとすることが表現されている。どのくらい説明がないかと言うと、この映画には複数の一座が登場するが、エンドクレジットで5つくらいの劇団名が出てきて、驚いたくらい。複数の劇団が出て来たとは思っていたが、こんなにあったとは。作品の中では、公演が行われる地名や演目名の字幕表示はあったが、何という劇団かという説明は(映像から分かる場合もあるが)全くなかったのである。役者達の名前も紹介しなかった。

 

 巡業する伝統的なチャイニーズ・オペラの俳優やスタッフと言えば、ちょっと変わった人生を送ってきた人もいるだろうし、面白いエピソードもいろいろ持っているのではないかと思われる。にも関わらず、特に誰かに、またはある集団に焦点を当てるということのないまま、作品は進んで行く。この点が、見る人によっては退屈と感じる部分かと思う。しかし私はむしろ、この場所—-伝統的なチャイニーズ・オペラを上演する仮設の劇場——とは何なのか、という問いかけに振り切った作品として評価をしたい。

 

 説明のための字幕は最小限に抑えられているが、一方、この仮設劇場という場を定義するための字幕は何度か挿入される。例えば、

 「この空間は、神と人を楽しませるための場である。」

 「この空間は、人が己の役割を捜し求め、そして家を見つける場である。」

 その後にそれぞれの定義を敷衍するような映像が続いていく。映画は一貫して、竹で作られた劇場の意義を求めて行く。

 

 香港というと高層ビルの立ち並ぶ風景をイメージしがちだが、約700万人という人口を抱える香港は、実は広かった(シンガポールよりも人口が多い)。多くの離島があり、そこにお寺があり、そして祭事には劇場が立つ。最先端都市の街並とは全く別の風景がそこにはある。芝居を見ている観客はやはり高齢者が多いのだが、しかし、お年寄りばかりでもない。線香が煙る祭壇にも、屋台が並ぶ境内にも、老若男女の賑わいがある。

 


 

 そして劇場内では、スタッフが着々とそれぞれの仕事を進め、俳優達が台本を手に打ち合わせをし、舞台監督が上演の進行を仕切っていく(舞台裏でコーラスにも参加していたりする)。白塗りの舞台化粧のスター俳優が、楽屋で老眼鏡をかけて台本を確認している。しかし、いよいよ本番ともなれば、衣装係の手を借りつつ、あの厚くて重そうな衣装をビシッと着こなす。スターの意気が大いに感じられる。一方、若い俳優は、大部屋で見本の写真を見ながら舞台化粧をする。彼女が舞台袖で出番を待っている時には、その緊張が見ているこちらにも伝わって来る。どちらも終始無言のシーンなのだが、その雰囲気までもが見事に捉えられている。

 


 

 しかし、このドキュメンタリーは、劇場の人々を活写することで、個々の人々を際立たせるというよりも、劇場という世界の森羅万象を描き出そうとしているように見える。劇場が作られ始めてから解体されるまでおよそ2ヶ月、そして劇場として使用されるのはわずか37日というかりそめの場。しかし、それは己の役割を知る人々が、黙々と働くことによって作り上げられる祝祭空間である。神々に感謝を捧げ、そして人々を楽しませるために、幻のように立ち現れる場。劇場とは建造物のことではない。このような特殊な場のことを言うのだと、改めて感じさせられた。作中、劇団の守り神の像を映したシーンが何度か挿入される。人々がそれぞれの仕事を果たし、その祝祭空間がつつがなく運営されている限り、守り神は優しく微笑んでいるかのようである。

 

 ところで、楽屋にいるスター俳優に対して、劇団員達が「おはようございます」と声をかけていくのだが、この、楽屋にいる先輩に「おはようございます」と挨拶をするという、日本の芸能界で行われていそうな習慣が、香港のチャイニーズ・オペラの劇団でも行われていることに感心した。芸能の世界では万国共通なのだろうか。20201025日)

 

Sunday, 26 April 2020

『映画』Approved for Adoption(Couleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)


20181028
Approved for AdoptionCouleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)」・・・Painting with Light (Festival of International Films on Art)
公開年: 2012
製作国: フランス、ベルギー、韓国、スイス
監督: Jung(ユン), Laurent Boileau(ローラン・ボアロー)
見た場所: National Gallery Singapore

National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術についての映画を集めた映画祭「Painting with Light」で上映。この「Approved for Adoption(原題Couleur de peau: Miel)」は、ベルギーのバンド・デシネ作家Jung(ユン)が、自らの半生をアニメーションとドキュメンタリー映像で描いた作品で、ドキュメンタリーの作り手であるLaurent Boileau(ローラン・ボアロー)との共同監督作。日本でも「はちみつ色のユン」というタイトルで公開された。

映画祭のプログラムから

冒頭、雪の積もる山間の施設から、先生のような人と一緒に歌いながら歩いてくるアジア系の子供達。一転して食堂のシーンになり、子供達がお椀に注がれたお粥を食べている。自分に与えられたお椀を食べ終わると、隣の子が食べ残していったお椀を当然のように取り上げて、ひたすら食べ続けている男の子が一人いる。この子が、この作品の主人公、ユンである。彼の境遇とどんなキャラクターの子であるのかをこの最初の数分で描き切った、非常に印象的な出だしだった。

ユンは、朝鮮戦争後、海外に養子縁組に出された20万人の孤児の一人である。彼らは米兵と韓国人の母親との間に生まれた子などで、母親が韓国社会の中で子供を育てることができずに捨てられ、海外に養子としてもらわれて行ったのである。ユンも5歳の頃、1人でソウルの通りをさ迷い歩いているところを警察に保護され、孤児院に収容された。そして、ベルギーの夫婦に引き取られて海を渡った。

映画は、アニメーションによるユンの子供時代の回想を中心に、養父母達が撮影した当時の8mm(?)映像、朝鮮戦争後の韓国の状況を説明する記録映像、そして現在、四十代のユンが、養父母に引き取られて以来初めて韓国に「帰った」時の様子を撮影した映像からなっている。

 養父母にはすでに男女合わせて四人の実子がいた。冒頭のシーンからわかるようになかなかタフな性格のユンは、しっかりした養父母の元、四人の子供達とともに、かなりやんちゃな子供としてのびのびと育っていった。しかし、その一方で時おり開かれる密かな記憶の扉があった。


人種が違うゆえにどうしても養子であることを意識せざるを得ない瞬間。街をさ迷っていた孤児の頃。そして(自分を捨てた)顔も思い出せない幻のような母。自分は愛されていたのか、そして愛されているのか。腕白坊主として振舞っているだけにいっそう、言い知れぬその悩みは深い。

 ティーンエイジャーになると、その不安はアイデンティティの揺らぎとともに、ユンの生活態度に現れるようになる。(同じアジアのせいか)日本人に憧れてみるのはまだしも、家出して教会に転がり込み、そこで韓国人たらんとして、ご飯にタバスコ(!)をかけて食べ続ける。(韓国人なら辛い物が食べられるという認識なのだ。)

 タバスコご飯で体を壊したユンを家に連れ帰り、彼の苦悩を優しく受け止めたのは、ベルギーの養母だった。その時、ユンが夢想してきた幻の母はようやく実体を持つ。最後のユンのナレーションの一部、
「人が自分にどこから来たのかと問うのなら、自分はここからで、同時に、別のどこかからなのだ。自分はアジアであり、そしてヨーロッパである。」
 どちらでもない、のではなく、どちらでもある。ユンがそこに行き着くラストは、とても感動的だった。

 ところで、ユンの養父母はさらにもう一人韓国人の女の子を養子にするのだが、養父母が体の弱いその子を特に気遣うことにやきもちを妬いたユンは、こっそり彼女をいじめる。人が悪いことだが、私はこのシーンが何となく好き。2020325日)

Saturday, 28 July 2018

『映画』Manfei(曼菲/マンフェイ)


2018427
Manfei(曼/マンフェイ) 」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 2017
製作国: 台湾
監督:  En Chen怀恩)
見た場所: Golden Village Vivo

 今年のSingapore Chinese Film FestivalSCFF、シンガポール・チャイニーズ・フィルム・フェスティバル)のオープニング作品。中国本土の作品に限らず、マレーシアやシンガポールまで各国・各地の中国語映画を集め、今年も無事開催されたのだった。ちなみに今年、Singapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)と日程が完全にかぶっており、鑑賞予定を立てることが困難だった。SCFFが例年この時期に開催しているにも関わらず、今年SIFAの方が前倒ししてきた(昨年までは9月頃開催だった)結果である。いい迷惑だったよ、SIFA

 そういうわけで、あまり思ったように見に行けなかったというのが、今年のSCFFだった。オープニングは、このドキュメンタリー作品「Manfei(曼/マンフェイ)」。レトロスペクティブのタイトルは「Loving Leslie」、2003年に亡くなった俳優レスリー・チャンの特集で、彼の「Happy Together(春光乍洩/ブエノスアイレス)」がクロージング作品となった。あまり見に行けなかったわりに、オープニングとクロージング両方の上映に行ったという、自分にとっては珍しい年となった。

 「Manfei」は、2006年に50歳で亡くなった台湾のダンサー/コリオグラファー、Lo Man-fei(羅/ロー・マンフェイ)についてのドキュメンタリーで、彼女の死後に製作された。台湾の名門コンテンポラリー・ダンス・カンパニー、Cloud Gate Dance Theatre(雲門舞集/クラウド・ゲイト・ダンス・シアター)でのダンスとともに最もよく知られているダンサーである。

今年のSCFFのプログラムの表紙。踊る美しいロー・マンフェイ

 しかし、彼女の功績はそこに止まらない。ニューヨークで学び、恵まれた容姿と優れた技量で台湾を代表するダンサーとなっただけではなく、指導者として多くの教え子を育てた。台湾の若手ダンサー達が活動できる場を、というクラウド・ゲイトの創立者、Lin Hwai-min(林懐民/リン・ファイミン)と理想を同じくし、リンとCloud Gate 2(クラウド・ゲイト2、若いコリオグラファー、ダンサーに特化したカンパニー)を立ち上げ、その芸術監督となった。後進の指導だけではなく、40歳を過ぎて新たにTaipei Crossover Dance Companyを結成して踊った。癌を患い闘病を続けながら、それでも踊り続け、そして最期まで若いダンサー達の指導に当たった。作品は、ロー・マンフェイの家族や友人、リン・ファイミンを始めとするコリオグラファー、教え子だったダンサー達へのインタビューを中心に構成され、彼女の足跡を辿りつつ、その功績を讃えている。

 この作品を見て、もし原節子が1962年の映画出演を最後に不慮の事故か病気で亡くなってしまい、その10年後にドキュメンタリー映画を作ったら、こういう感じになるのではないか、となんとなく思った。このドキュメンタリーを見ると、ロー・マンフェイのダンサーや教師としての素晴らしさはよくわかる。しかし一方で、彼女自身についてはよくわからない。美しい人なのだが、同時にミステリアスでもある。コンテンポラリー・ダンスの定義というのは難しいが、ダンサーが自身の経験や感情を反映させることをその特徴の一つと言うならば、ロー・マンフェイは、時に自分の人生を刻みつけるかのように踊っていたように思える。そういう意味では、まさにコンテンポラリー・ダンサーだったと言えるだろう。作品中の彼女のダンス・シーンはどれも素晴らしい。しかし、彼女が話しているシーンはほとんどなく、ロー・マンフェイが実際に何を思って踊っていたのかはよくわからない。インタビューを受けた関係者の話によってしか、彼女を知ることができないのだ。一人のダンサーの功績がつまびらかにされる一方、ここに、解き明かされることのない永遠の謎がある。

 彼女のプライベートでの素顔や、芸術論というかダンス論が描かれない、ということ自体は悪いわけではない。一人の芸術家についてのドキュメンタリーを作る際、どこに着眼点を置くかは作り手それぞれだろうから。しかしこの作品が、120分間を長く感じさせるわりにはどこか物足りないのは、功績の称賛を超える、大切な何かを今にも提示しそうで、結局は十分に提示することがなかったからだと思う。

 作品の冒頭、「私がダンスを選んだのではない。ダンスが私を選んだのだ。」というロー・マンフェイの言葉が引用される。芸術家が用いがちな言葉の綾と取れなくもないこの言葉に、どれほどの思いが込められていたのか。実際にダンスに一生をかけたロー・マンフェイにとって、彼女の言うダンスとは一体何だったのか。それがはっきりしないからこそ謎を感じるわけだが、この謎にもう少しフォーカスした方がよかったのではないか。もちろん、作品中でその答えを出す必要は全くない。ただそこにフォーカスすることで、単なる偉大なダンサーの功績を知るためのドキュメンタリーではなく、そもそもダンスとは何かという問いかけを備えた、より深い作品になったのではないか、と思う。

 作品の最後は、インタビューに答えたコリオグラファーやダンサー達が、それぞれ生き生きと仕事をしている姿で終わる。ロー・マンフェイのレガシーが引き継がれている様を描いており、このドキュメンタリーの意図としては正しい終わり方だったかもしれない。しかし、そのシーンより前に、ここで作品を終えた方が良かったのではないか、と思うシーンがあった。ロー・マンフェイの友人へのインタビューで、その友人は、ダンサーとは壊れやすいものであり、理解するのは難しいというようなことを語っていたのだ。さらに、彼女はこう言った。「ダンサーが去る時、ダンスもまた去る。」彼女のダンスを掴もうとしても、もはや不可能であると言いたかったのだろうか。それはまさに、舞台芸術、とりわけある種のコンテンポラリー・ダンスのように、演者と演ずる内容との私的な関わりが強いものの本質を突いているようでもある。謎は永遠に謎のままなのだ。2018615日)

Tuesday, 19 December 2017

『映画』The Song of Plastic(Le Chant du Styrene/プラスチックの歌)


The Song of PlasticLe Chant du Styrene/プラスチックの歌)」
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1958
製作国: フランス
監督:  Alain Resnais(アラン・レネ)
見た場所: National Gallery Singapore

 フランスのSociete Pechiney(ペシネー社)が、自社工場で製造されているポリスチレン製品を称揚するために製作を依頼した作品。プラスチックの花園から始まるこの映画は、完成品から原料へと製造工程を逆に辿っていく点がミソである。オーケストラの音楽に合わせて展開する映像は、いかにも往年の短編芸術映画っぽい。素材そのものが持つ意味を伝えるという目的以上に、カメラワークや編集や色や音楽やナレーション、そうしたものの集合による一つの体験として、作品が作られている。あのカラフルで身近なプラスチック製品が、その製造工程を巻き戻して行くと、どんどん大がかりな重化学工業へと変貌していく。あぁ、プラスチックって、石油から作られるんだよなぁ、物からではないんだよなぁ、としみじみ思い出した。その点、教育映画的でもあった。20171111日)

映画の最初、咲き誇るプラスチック
 

『映画』Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)


Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1966
製作国: イギリス
監督:  Adrian Cowell
見た場所: National Gallery Singapore


  この作品は、当時あったイギリスのTV会社ATVAssociated Television)の企画により製作された。チベット動乱そして1959年のダライ・ラマ14世亡命後の1964年、中国軍と戦うチベット人ゲリラを取材している。監督のAdrian Cowell、カメラマンのChris Menges(クリス・メンゲス)、ジャーナリストのGeorge Patterson(ジョージ・パターソン)は、ネパール中部、ヒマラヤの山々に囲まれたTsum Valley(ツム谷)へ向かう。隔絶されたこの土地には、チベット人ゲリラの分遣隊の拠点がある。彼らの許可を得た監督達は、行を共にしてヒマラヤの峠を巡る。ゲリラ達は、チベットからネパールへ抜ける街道を建設中の中国軍に対し、奇襲作戦を行っているのだ。チベット仏教の祈りに支えられながらチベット独立のために戦うゲリラ達を取材したこの作品は、資料的な価値の高いものだと思う。
 
 しかしそれだけではなく、壮大なヒマラヤ山脈を背景に、人の通わぬ道を歩んで行くゲリラ達を捉えた映像は、驚くほど美しい。モノクロの16mmプリントからレストアされているのだが、この美しさは単にレストア・バージョンだから、と言うにとどまらない。そういう意味でも心に残る作品だった。20171111日)

 

『映画』The Crown Jewels of Iran(Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)


The Crown Jewels of Iran (Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)
 The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1965
製作国: イラン
監督:  Ebrahim Golestan
見た場所: National Gallery Singapore

 産業界や政府の依頼によって作られた短編4作品を集めている。どれも過去作品なのだが、全てレストアされたバージョンでの上映。事情によりチケットの一般販売が途中からできなくなったため、私はこの映画祭の運営に関わっている知人から直接チケットを買った。そのような事情があったため、ゲストも来ていたのだが、観客が少なくて残念だった。  

写真ではキラキラさ加減は伝わりませんが・・・

 イラン中央銀行の依頼によって作られたこの作品は、過去300年にわたるイラン王朝の宝物を紹介している。これらの宝石は非常に高価なため、イラン通貨の保証として銀行が保管しているのである。レストア・バージョンのこともあり、ビロードのような真っ黒な背景に次々と登場する宝石は、まさに目が眩むような輝きである。非常に手の込んだ美しい品ばかりで、各王朝の勢威が偲ばれる。

 しかし、ただそれだけなら、国の宝をスタイリッシュに紹介した作品に過ぎないのだが、この作品には微妙に批判的な視点が入っている。映画の最初に映されるのは、広大な大地で働く農民達の姿である。国の歴史がこのような名も無き人々によって築かれてきたことを前提とし、この宝石コレクションはその対極として位置づけられているかのようである。(あるいは、本当の宝は彼らなのだと言いたいのかもしれない。)ナレーションでは、コレクションを王達の退廃の歴史としている。微妙に批判的なゆえに、(中央銀行なので)国がスポンサーにも関わらず、この作品は当時の検閲に引っかかった。その際にカットされたナレーションが復活しているのだが、それは、現在の王が最後の王になる、という意味合いことを言っている部分である。皮肉なことに、1979年のイラン革命により、この映画製作当時のシャー(王)、モハンマド・レザー・シャーが最後の王となった。

 映画上映後のQ&Aコーナーに、この作品の監督Ebrahim Golestanについての映画を製作中である、イランの映画監督Mitra Farahaniさんが登場。フレンドリーかつ、ゴージャスな女性だった。2017119日)

Wednesday, 13 December 2017

『映画』China's Van Goghs(中国梵高/中国のファン・ゴッホ)


20171013
China’s Van Goghs(中国梵高)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2016
製作国: 中国/オランダ
監督:  Yu Haibo(余海波)/Yu Tianqi Kiki(余天琦)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Painting with Light」は、National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術をテーマとした映画祭である。「芸術的な」(美術が凝っている?)映画を集めた、というわけではなく、文字通り芸術———美術館、絵画、舞台芸術、映画、パフォーマンスアート等々———を題材とした作品達で、ほとんどがドキュメンタリーである。映画そのものを楽しむというよりも、映画を通して様々な芸術の世界を覗く、という感じの映画祭なのではないかと思う。

ナショナル・ギャラリーのロビー

上映会場入口。写真はケイト・ブランシェット主演の「Manifesto」


 さて、この「China’s Van Goghs(中国のファン・ゴッホ)」というドキュメンタリー映画である。中国広東省深圳市にある大芬村は、「大芬油画村」と呼ばれる油絵の町である。1980年代の終わりに香港のビジネスマンによって油絵の生産が開始されて以来、現在では数千人の画工が集まり、年間10万枚以上の油絵が制作されているという。西洋絵画の傑作を模写した彼らの作品は世界中に輸出され、ウォルマートのような大手スーパーマーケットから小さな土産物店まで、様々な場所で販売されている。

 このドキュメンタリーの主人公であるZhao Xiaoyong小勇)は、1990年代に大芬村にやって来た。以来20年、ここで油絵、特にファン・ゴッホの模写を描き続けている。現在では何人かのスタッフを擁し、納期と戦いながら、アパートの一室の狭いスタジオで制作に勤しむ毎日である。貧しい農家の子として生まれ、中学も満足に通えなかった小勇だが、模写の筆一本で身を立て、お金のやりくりに苦労しつつも仕事を維持し、立派に家庭も築いている。ちなみに彼の最初の絵の「生徒」は、彼の妻だそうで、夫婦で、さらに妻の兄弟とも一緒にこの仕事をしている。なお、彼のスタジオのシーンでは、狭い空間にずらりと並んで立った画工達が各々の作品を仕上げて行く様子が映される。その光景は壮観で、(部屋の広さきれいさとか、立っているか座っているかとかの違いはあれど)なんとなくアニメーターの仕事場を思い出させた。大勢の人が黙々と絵を描いているというその雰囲気のせいだと思う。

 多年ファン・ゴッホの作品を描き続けてきた小勇だが、オランダに取引先ができて以来、ゴッホのオリジナルを見るためにオランダに行くという夢を持つようになった。このドキュメンタリーでは、彼が(お金がかかるので)オランダ行きを渋る妻を説き伏せ、初めてパスポートを取得し、仲間とともにファン・ゴッホの足取りを追ってヨーロッパを旅する姿が描かれる。そして、その旅の後に何が起こったのかを。

 アムステルダムでの小勇は、取引先の言っていた「ギャラリー」が小さな土産物店に過ぎなかったことにショックを受け、にもかかわらず、自分達の卸値からすると結構いい値段で販売していることにさらにショックを受ける。模写販売もファストファッションその他諸々のビジネスと同じく、経済格差を利用した商売なのだ。そしてついにファン・ゴッホ美術館でオリジナルの作品と対面し、完全に落ち込む。自分のことを「芸術家」だと思ってきたわけではないが、それでも、ここに飾られるような価値が自分の絵には全くない、ということを痛感してがっくりするのだ。

 しかし、その後ファン・ゴッホの足取りを辿ってパリ、アルルを旅し、ファン・ゴッホが訪れた場所を訪れ、見たであろうものを見るうちに、彼は元気を取り戻していく。アルルでは「夜のカフェテラス」のモデルとなったカフェを訪れ、ファン・ゴッホが描いたのはこの宵闇、まだ完全に夜になりきっていない空の青さだったのだ、と感動してはしゃぐ。夜中、酔っぱらって、「俺はここに残るぞ!」とアルルの裏通りで叫ぶ。そして、旅の最後にオーヴェル=シュル=オワーズのファン・ゴッホの墓を訪れると、親しみと尊敬を込めて、中国から持って来た煙草を墓石に供える(小勇は大変なヘビースモーカーである)。

 帰国後、小勇は大芬の画家仲間と話し合う。自分達もそろそろ自分達のオリジナル作品を描いてもいい頃だ、と。彼が最初に描いた作品群は、湖南省の一寒村である故郷の裏通り、そこに住む自分の祖母の肖像、そして大芬の自分のスタジオである。(ちなみに小勇の実家では、いまだ土間のかまどで料理をしている。国の発展から取り残されたようだが、皮肉なことに、それだけに深圳のような都会と違ってフォトジェニックな風景が広がる。)

 非常に明確なプロットの元、ストーリーがわかりやすく流れて行くので、見やすく、かつ楽しめる作品である。社会情勢を滲ませつつ、模写で生計を立てることと、確立された芸術との間の葛藤が、大芬の何千という絵描きの中の一人を通して描かれている。しかしそれと同時に、過去の一人の画家が、国も人種も異なる後世の画家をいかにインスパイアしてその仕事に向かわせていくかという、画家の系譜の不思議を描いた作品ともいえる。

 パリのカフェに集う画家というと、何の根拠もなくロマンチックでおしゃれな感じがするが、大芬の小勇達は上半身裸で、通りに出された食堂の椅子に座ってくつろぐ。たぶん蒸し暑く、かつ洗濯をするのが面倒くさいからだと思うのだが、仕事場でもよく彼らは上半身裸である(男性の場合)。シンガポールでも団地の下のコーヒーショップで、下着のようなランニングにショートパンツのおじさんがくつろいでいたりするが、まぁそういう感じ。「オープンエア」というとなんだか格好いいが、格好よさとは無縁の世界である。そこは「おしゃれな」パリではなく、中国の都会の裏通り。でも、酔って作品と自分達の進むべき方向性について熱く語っている小勇達を見ると、あぁ芸術家だなぁ、と思うのだった。「いつか、後50年、100年したら、俺たちの仕事が認められる日が来るだろう」そう管を巻く小勇の———これまでそうやって人生を切り開いてきたであろう———その楽天主義、明るさが胸を打つ。2017114日)

小勇とファン・ゴッホ。スタジオ内はゴッホの絵でいっぱい。

Tuesday, 7 November 2017

『映画』In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)


2017108
In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)」・・・いつか、でも必ず来る時
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Tan Pin Pin(タン・ピンピン)
見た場所: Filmgarde Cineplex

 シンガポールのドキュメンタリー映画監督、Tan Pin Pin(タン・ピンピン)の最新作。タイトルが示すように、テーマは“時間”である。映画は、新旧二つのタイムカプセル、Singapore Institute of Managementのロビーに新しく設置されるTime Cube(タイム・キューブ)の製作過程———立方体のオブジェで、中に思い出の品がつめられ、学校のロビーを飾る———と、アジア文明博物館前に埋められたタイムカプセルの取り出し作業———1990年にシンガポール建国25周年を記念して埋められた———を軸としているが、ストーリーらしいストーリーはない。現在のシンガポールの各所各所が撮られており、自然に聞こえてくる音声———ショッピング・センターの館内放送や学校の校内放送など———以外は、ナレーションもインタビューも会話もない。

映画館前のポスター。新しく開通したハイウェイで撮られている。SFっぽい。

 こういう作品を「映像詩」などと言うのかもしれないが、撮影されているものは、風光明媚な風景でもなければ先端のデザイン性を備えているわけでもない。例えば、

       自然公園でカヌーに興じる若者達
       新しく建設されたNational Stadium(国立競技場)を見に訪れている人々
       作業現場から戻って来て、ホースで洗浄されるトラック
       オーチャード・ロードにある紀伊國屋書店の朝の開店風景
       中学校の朝礼
       団地で害虫駆除剤が散布される様子
       ハイウェイMCEMarina Coastal Expressway)のオープン
       オフィス街の昼休み、ビルの外で煙草を吸って休む人々
       地下鉄Downtown Lineのオープン
       芸術センターThe Substation裏に生えるbanyan(ガジュマル)の古木の伐採作業
       SG50(シンガポール建国50周年)記念イベントの会場
       シンガポール動物園にいる1990年生まれのホッキョクグマInukaがプールで泳ぐ姿
       ショッピング・センターTanglin Mall前で行われる人工雪を降らせるクリスマス・イベント
       庭師が植物園で栽培している植木に水をやる姿
 (なお、上に挙げた順番で、各場面が作品に登場するわけではない。)

 それらは、観光用の映像では決して見ないシンガポール。豪華でもなければ垢抜けてもいない。しかし、なぜか美しい。

 一見すると、現在のシンガポールの様々な風景を、できるだけ美しく切り取って集めただけのような映画に見える。そのような作品ならどんな映画監督でも作ることができるだろうが、この「In Time to Come」は、誰しもが作れるようなものではない。ここでは、言葉にすると明確すぎて逆にあまり的確でなくなるような、しかし映像にすると情動に訴えかけるためにより体感として信じられるようなことが、少しく微妙に表現されている。

 変化を美徳とし、変わり続けるのがシンガポールという都市国家だと私は思っている。それは、過去を忘れる都市。建国50周年も経て、自国の歴史を打ち立てるために、近年は過去を振り返り、見直す傾向にあるが、それでも変化し続けることを止めたわけではない。作品には、朝礼の場面が撮影されたのと同じ学校での、避難訓練のシーンもあった。校庭に集まって来た生徒達に向けて、校長先生か誰かのアナウンスが聞こえて来る。先生は、「以前(避難に)20分かかっていたのが、今回は12分間だった。進歩があってよろしい」というようなことを言っている。このアナウンスは極めて象徴的だと思った。

 変化すれば、得るものもあれば失うものもある。The Substation裏のガジュマルの古木は芸術コミュニティでは有名らしいが、この都心の一等地に大学の法律図書館を建設するために、バッサリ伐られたのだった。しかし、この作品では、変化や進歩の是非を問うているわけではないと思う。

 新しい競技場、ハイウェイや地下鉄の開通、この作品には、新しく何かが始められる様子が何度か登場する。しかしこれらの場面は、通常表現されるような開始の熱気を全く感じさせない。淡々としており、そう楽しげでもない。ハイウェイのオープン・セレモニーなど、むしろ侘しさを感じさせなくもない。全く特別感のないオープン。それは、毎朝繰り返される紀伊國屋書店の開店の「儀式」−——日本のデパート式に、スタッフ全員が並んで、シャッターが開くと同時に入って来る購買客をお辞儀して出迎える———や、中学校の朝礼−——毎朝生徒達が校庭に集まって並んで座り、国旗掲揚を待つ—−–と同じように扱われている。この作品は、新しくなること、変化すること、それ自体が日常であるということを描き出した。都市の森羅万象、その変化が淡々と眺められていく。

 (言葉にするとつまらなくなるのだが)害虫駆除の白い霧が死や荒廃であるのなら、白い人工雪の中で遊ぶ子供達は未来と喜びであるのか。夜の街、陽光あふれる自然公園。アジア文明博物館前のタイムカプセルと同じ1990年生まれのホッキョクグマは、まるで25年どころか永遠にそれを続けるかのように、動物園のプールの水中で回転し続けている。永遠に続ける−——永遠のように見えることが逆説的に、永遠などないことを示しているかのようである。ガジュマルの古木は切り倒され、その切り株は植物園に運ばれ、そこからまた新しい芽が出る。シンガポールは変わり続けている。変わり過ぎているかもしれない。しかし、時の流れとともに、変わらないでいられるものなど何一つない。変わる“その時”はいつか必ず来る。

 しかし、止めようもない変化の時の中でも、人は何かを残すことによって、その時間を止めようとする。忘れる都市にあっても、自分達やそれらのものが存在した痕跡を残そうとする。ガジュマルの木が伐採される様をひっそりと写真に撮る人がいる。タイムカプセルを作るという試みは繰り返される。時の流れの中で何かを留めておきたいと思う、人々の小さな願いの点。

 都市国家シンガポールの考察という枠に止まらず、いつか来る(変わる)時を繰り返し続ける我々の営みというものが見つめられている。静謐な映像とともにあるその眼差しが、その場よりもむしろ後になって、胸にじわじわときた。

 なお、この作品はシンガポールに住んでいると、どこで撮影されたかわかる場所が結構ある。だから私などは、「あーここ、ここ」と思って喜んで見ていられる。しかし、そういう思いのできない国外の人が、出て来る映像の意味だけを考えて一生懸命見ていたら、ちょっと疲れるのではなかろうか(眠くなるとも言う)。でも、そんなことをあまり気にしないで作っていそうで(シンガポールを宣伝する気がなさそう)、いいと思う。

 ところで、作品の本筋とは全然関係ないのだが、中学校の避難訓練のシーンで、先生のアナウンスに「実際に火事や、戦争などの時にはこのように速やかに避難を云々」とあって、ちょっとびっくりした。火事はわかるよ、火事は。「戦争」って。確かにシンガポールは治安が良いだけに、危機管理を怠らない国ではあると思う。先生はたぶん、火事の後に続ける他の災害を思いつかなかったのだろう。なぜなら、シンガポールには地震などの自然災害がまずないので。むしろ戦争の方が想定しやすかったのだろうが、まぁね・・・。20171023日)

Monday, 19 June 2017

『映画』日常対話(日常對話/Small Talk)


201755
日常対話(日常對話/Small Talk)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 2016
製作国: 台湾
監督: Huang Hui-chen惠偵
見た場所: National Museum of Singapore

 Chinese Film Festival、「Documentary Vision」カテゴリーの一作品で、母と娘(監督自身)についてのドキュメンタリーである。プログラム記載のあらすじがえらく漠然とした感じだったのだが、R21指定作品になっていた。シンガポールではレイティングとともに、通常その理由が表示されているが、プログラムには「R21 Homosexual theme」とある。よくありそうな話としては、娘がレズビアンでそれを母に告白して云々というものだ。しかし、この作品は逆で、それと知りつつ今まで踏み込めずにいた母の性的志向について、娘が母と対話を持とうとするという内容。あらすじを知らないで見始めると、この想像の斜め上を行く状況にまず不意を突かれる。

 監督であるHuang Hui-chenの母は、食事の支度をすると一人外に出かけて行く。背が低くてずんぐりとした体型、髪はベリーショートよりさらに短く、ポロシャツにチノパンという出で立ちである。人のことをおばさんおばさん言える立場ではないが、まぁでも、こういう性別不詳な感じのおばさん、地元のスーパーにもたまにいるな、という雰囲気。しかし、単に女らしいおしゃれをあまりしなくなったおばさんというには、どこかりりしい。一方、娘である監督と彼女の幼い娘は、母が用意しておいた食事を二人だけで食べる。この家庭は、母、娘、孫娘という女三人だけの三世代家族で構成されているのだ。一方、娘達をおいて母が出かけた先は、公園のような場所である。中年の女性達がボードゲームに興じている所へ母がやってくると、一人が別の一人に声をかける。「ほら、あんたのだんなが来たよ。」・・・そういうことかい。

 現在、アジアで初めて同性婚が合法化されるかもしれないと沸いている台湾。LGBTというしゃれた言い回しが一般的に広まる一方で、あるいは広まってきたからこそ、LGBTの人々に対するパブリック・イメージは、型にはまったものになりがちな気もする。しかしここに、グラマラスでもなければビューティフルでもクィアでもなく、ついでに言うと金もあまり持っていなさそうな一市井の人が、同性婚の合法化云々よりもずっと昔から、レズビアンとして人生を過ごしている。

映画祭パンフレットに掲載されているイラスト。
向かって左が娘である監督、右の老けた男子中学生のように描かれてしまっているのが監督のお母さんである。

 Huang監督の母は、当時としては当たり前のこととして、親の手配で結婚し、夫との間に二人の娘(Huang監督と妹)をもうけた。子供の頃からボーイッシュだった母だが、そういうこと以前に、この結婚は不幸だった。博打をして暴力を振るうならず者の夫から、母は二人の娘を連れて逃げた。監督が10歳の頃だった。

 以来母は、寺院での葬儀の際に歌や踊りで死者を送り出す、日本語でいういわゆる「泣き屋」(しかし、日本語からイメージされるものとはかなり違う)を生業として、二人の娘を育て上げた。しかし、娘である監督の思いは複雑だった。幼い頃から母と一緒に寺院で働き、満足に学校に通えなかったこと。台湾でブルーカラーと見なされる「泣き屋」という職業ゆえに、世間の人から見下されていると感じたこと。そして何よりも、彼女の記憶の中では、母はいつも「女友達」と出歩いていて、決して家に居着かなかった。母は自分のことが好きではないのか、娘である自分のことをどう思っているのか。この多年の疑問を抱えたまま、今や三世代同居となったわけだが、母と娘との間に会話はほとんどない。監督自身が娘を持って母親となり、娘が自分の人生に喜びを与えてくれたと実感する今、母はますます不可解な存在と感じられるようになった。そこで、このドキュメンタリー映画である。

 お母さんにだって自分の好きなように生きる権利はあるんだ、などと他人事ならいくらでも言うことはできる。しかし、娘からしてみれば、同性愛者であることを隠さない「異常な」母の娘と見なされるのは辛かった。母を理解したいと思う監督は、うるさがられながらも母にインタビューする。母の故郷に一緒に帰り、母の兄弟達にもインタビューする。自分の妹やその娘達(不思議とこの一家は娘ばかりに恵まれている)にもインタビューする。ちなみに妹は監督に比べ、母に対しておおらかなスタンス(子供の頃手伝っていた母の「泣き屋」の職業を、今も引き続きやってもいるらしい)。

 また監督は、母の歴代のガール・フレンド達にもインタビューをしている。往年の彼女なので若くはないのだが、皆なかなかの美人。・・・やるなぁ、お母さん。冒頭で述べたように、ずんぐりむっくりな感じの母なのだが、実はモテるのだ。彼女達へのインタビューを聞いていると、モテのために大事なことは、容姿ではなく、マメで優しいことなのだとしみじみ思った。それはともかく、インタビューを受けたかつてのガール・フレンドの一人が言う。「彼女に子供はいないわよ。そう言ってたわ。結婚して一週間で夫と別れた後、養子を二人取ったって。」「じゃあ(子供がいないのなら)、今あなたの目の前にいる私は何?」と笑って答える監督の声。そしてこのシーンの後の、監督によるナレーション。「あの時私は笑っていたが、実は子供の頃、母の態度から自分が養子なのではないかと考えたことがあった。母が本当にそう言っていたことを知って、落ち込んだ。」

 母を巡る監督の旅は、母子が一番辛かった時期、ならず者の夫(父)の下で暮らし、そして身一つで逃げ出した頃へと行き着く。監督は、かつて父と一緒に暮らしていた、今や誰も住んでいないアパートの一室を訪れる。10年ほど前に父はすでに他界し、苦い思い出だけがそこにある・・・。

 作品のクライマックスにおいて、娘である監督は、母と話し合うために食卓で差し向かいになる。家族の日常的な風景だが、この母子の間ではこれまで難しかったことである。そこで監督は言う。「私はもうすぐ40になる。でも、いくつになっても、私はあなたの娘なのよ。」・・・それは、多くの人が親に抱く当たり前の感慨かもしれない。しかし、この作品では、それまでの全てが、このセリフに辿り着くためにあったとさえ言える。監督は母を理解したいと思って、このドキュメンタリーを作ることを思いついたのだろう。しかし、最終的に彼女が辿り着いたのは、母が娘の自分をどう思おうが、母がどんな人間であろうが、自分はやはり母を愛しているのだ、ということだった。母への理解を深めるための作品は、転じて、自分が母をどう思っているか、そしてそれを母にもわかってほしいという、自分自身についてのものとなっていた。

 この作品は、映像も演出もよくできているが、特に構成が劇映画のように巧みである。それだからこそ、時代や社会の変化によらない、市井の同性愛者に密着したドキュメンタリーが、親子の葛藤とそれを乗り越えようとする子の、一つの普遍的なドラマへと美しく展開していったと思う。

 なお、作品の最後の方で、同性婚が法的に認められたら結婚したいか、監督が母に訊ねる。母は、「したくない。自由でいたい。」・・・やるなぁ、お母さん。2017519日)