Monday 19 June 2017

『映画』日常対話(日常對話/Small Talk)


201755
日常対話(日常對話/Small Talk)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 2016
製作国: 台湾
監督: Huang Hui-chen惠偵
見た場所: National Museum of Singapore

 Chinese Film Festival、「Documentary Vision」カテゴリーの一作品で、母と娘(監督自身)についてのドキュメンタリーである。プログラム記載のあらすじがえらく漠然とした感じだったのだが、R21指定作品になっていた。シンガポールではレイティングとともに、通常その理由が表示されているが、プログラムには「R21 Homosexual theme」とある。よくありそうな話としては、娘がレズビアンでそれを母に告白して云々というものだ。しかし、この作品は逆で、それと知りつつ今まで踏み込めずにいた母の性的志向について、娘が母と対話を持とうとするという内容。あらすじを知らないで見始めると、この想像の斜め上を行く状況にまず不意を突かれる。

 監督であるHuang Hui-chenの母は、食事の支度をすると一人外に出かけて行く。背が低くてずんぐりとした体型、髪はベリーショートよりさらに短く、ポロシャツにチノパンという出で立ちである。人のことをおばさんおばさん言える立場ではないが、まぁでも、こういう性別不詳な感じのおばさん、地元のスーパーにもたまにいるな、という雰囲気。しかし、単に女らしいおしゃれをあまりしなくなったおばさんというには、どこかりりしい。一方、娘である監督と彼女の幼い娘は、母が用意しておいた食事を二人だけで食べる。この家庭は、母、娘、孫娘という女三人だけの三世代家族で構成されているのだ。一方、娘達をおいて母が出かけた先は、公園のような場所である。中年の女性達がボードゲームに興じている所へ母がやってくると、一人が別の一人に声をかける。「ほら、あんたのだんなが来たよ。」・・・そういうことかい。

 現在、アジアで初めて同性婚が合法化されるかもしれないと沸いている台湾。LGBTというしゃれた言い回しが一般的に広まる一方で、あるいは広まってきたからこそ、LGBTの人々に対するパブリック・イメージは、型にはまったものになりがちな気もする。しかしここに、グラマラスでもなければビューティフルでもクィアでもなく、ついでに言うと金もあまり持っていなさそうな一市井の人が、同性婚の合法化云々よりもずっと昔から、レズビアンとして人生を過ごしている。

映画祭パンフレットに掲載されているイラスト。
向かって左が娘である監督、右の老けた男子中学生のように描かれてしまっているのが監督のお母さんである。

 Huang監督の母は、当時としては当たり前のこととして、親の手配で結婚し、夫との間に二人の娘(Huang監督と妹)をもうけた。子供の頃からボーイッシュだった母だが、そういうこと以前に、この結婚は不幸だった。博打をして暴力を振るうならず者の夫から、母は二人の娘を連れて逃げた。監督が10歳の頃だった。

 以来母は、寺院での葬儀の際に歌や踊りで死者を送り出す、日本語でいういわゆる「泣き屋」(しかし、日本語からイメージされるものとはかなり違う)を生業として、二人の娘を育て上げた。しかし、娘である監督の思いは複雑だった。幼い頃から母と一緒に寺院で働き、満足に学校に通えなかったこと。台湾でブルーカラーと見なされる「泣き屋」という職業ゆえに、世間の人から見下されていると感じたこと。そして何よりも、彼女の記憶の中では、母はいつも「女友達」と出歩いていて、決して家に居着かなかった。母は自分のことが好きではないのか、娘である自分のことをどう思っているのか。この多年の疑問を抱えたまま、今や三世代同居となったわけだが、母と娘との間に会話はほとんどない。監督自身が娘を持って母親となり、娘が自分の人生に喜びを与えてくれたと実感する今、母はますます不可解な存在と感じられるようになった。そこで、このドキュメンタリー映画である。

 お母さんにだって自分の好きなように生きる権利はあるんだ、などと他人事ならいくらでも言うことはできる。しかし、娘からしてみれば、同性愛者であることを隠さない「異常な」母の娘と見なされるのは辛かった。母を理解したいと思う監督は、うるさがられながらも母にインタビューする。母の故郷に一緒に帰り、母の兄弟達にもインタビューする。自分の妹やその娘達(不思議とこの一家は娘ばかりに恵まれている)にもインタビューする。ちなみに妹は監督に比べ、母に対しておおらかなスタンス(子供の頃手伝っていた母の「泣き屋」の職業を、今も引き続きやってもいるらしい)。

 また監督は、母の歴代のガール・フレンド達にもインタビューをしている。往年の彼女なので若くはないのだが、皆なかなかの美人。・・・やるなぁ、お母さん。冒頭で述べたように、ずんぐりむっくりな感じの母なのだが、実はモテるのだ。彼女達へのインタビューを聞いていると、モテのために大事なことは、容姿ではなく、マメで優しいことなのだとしみじみ思った。それはともかく、インタビューを受けたかつてのガール・フレンドの一人が言う。「彼女に子供はいないわよ。そう言ってたわ。結婚して一週間で夫と別れた後、養子を二人取ったって。」「じゃあ(子供がいないのなら)、今あなたの目の前にいる私は何?」と笑って答える監督の声。そしてこのシーンの後の、監督によるナレーション。「あの時私は笑っていたが、実は子供の頃、母の態度から自分が養子なのではないかと考えたことがあった。母が本当にそう言っていたことを知って、落ち込んだ。」

 母を巡る監督の旅は、母子が一番辛かった時期、ならず者の夫(父)の下で暮らし、そして身一つで逃げ出した頃へと行き着く。監督は、かつて父と一緒に暮らしていた、今や誰も住んでいないアパートの一室を訪れる。10年ほど前に父はすでに他界し、苦い思い出だけがそこにある・・・。

 作品のクライマックスにおいて、娘である監督は、母と話し合うために食卓で差し向かいになる。家族の日常的な風景だが、この母子の間ではこれまで難しかったことである。そこで監督は言う。「私はもうすぐ40になる。でも、いくつになっても、私はあなたの娘なのよ。」・・・それは、多くの人が親に抱く当たり前の感慨かもしれない。しかし、この作品では、それまでの全てが、このセリフに辿り着くためにあったとさえ言える。監督は母を理解したいと思って、このドキュメンタリーを作ることを思いついたのだろう。しかし、最終的に彼女が辿り着いたのは、母が娘の自分をどう思おうが、母がどんな人間であろうが、自分はやはり母を愛しているのだ、ということだった。母への理解を深めるための作品は、転じて、自分が母をどう思っているか、そしてそれを母にもわかってほしいという、自分自身についてのものとなっていた。

 この作品は、映像も演出もよくできているが、特に構成が劇映画のように巧みである。それだからこそ、時代や社会の変化によらない、市井の同性愛者に密着したドキュメンタリーが、親子の葛藤とそれを乗り越えようとする子の、一つの普遍的なドラマへと美しく展開していったと思う。

 なお、作品の最後の方で、同性婚が法的に認められたら結婚したいか、監督が母に訊ねる。母は、「したくない。自由でいたい。」・・・やるなぁ、お母さん。2017519日)

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