Sunday 29 April 2018

『映画』The Hand of Fate(運命の手)


20171126
The Hand of Fate(運命の手)」・・・Singapore International Film Festival
公開年: 1954
製作国: 韓国
監督: Han Hyeong-mo
出演: Yoon In-ja, Lee Hyang
見た場所: National Museum of Singapore

 「Gerak Kilat(ガラック・キラット)」と同じSingapore International Film Festival(シンガポール国際映画祭)のスパイ映画特集なのだが、こちらの作品はずっとシリアスで、朝鮮戦争休戦直後の韓国を舞台としたメロドラマ的スパイ映画である。バーのホステス、Margaret(マーガレット)と貧しい大学生、Young-chul(ヨンチョル)が恋に落ちるが、実は女は北朝鮮から来たスパイ、男は防諜捜査に従事する政府機関の捜査員であった。互いの正体を知らずに愛し合う男女の悲劇が描かれており、メロドラマ的スパイ映画というよりも、スパイもの設定のメロドラマ、という感じである。


 バーホステスを装った女スパイというと、ハニートラップとかそういう言葉が頭に浮かぶが、1954年の映画なので、そういうシーンはない。店に出る前に港や駅に立ち寄っては、到着する韓国軍の兵力を目測するという、むしろかなり地味なスパイ活動に従事するマーガレットの姿が描かれる。映画の途中で銃撃戦もあるにはある。またラストでは、マーガレットのボスである北朝鮮スパイと、貧乏学生の振りをしていたが実は捜査員なヨンチョルとの格闘シーンも見られる。しかし、それらに見応えがあるわけではなく、(表の顔においても)異なる世界に生きる男女二人の交情を描くことが中心になっているように見える。作品全体を通して、二人が彼女のアパートにいるシーンばかりが印象に残る。

 マーガレットは、泥棒に間違われて警察に捕まったヨンチョルを助けたことをきっかけに、以降彼に何くれとなく世話を焼き始める。貧相なハンサムに人目惚れしたと言ってしまえばそれまでだが、「なぜ?」とは彼自身も観客も不思議に思う。しかし、それはマーガレットに言わせると、彼女のような職業の女にとっては、夢のあることなのだ。「水商売の女が、貧しい学生に経済的な援助を施していた。数年後、罪を犯した女が法廷に立った時、それを裁くのは立派な法律家になったかつての学生だった。」というような話をヨンチョルにするのだが、彼女が言及しているのは「滝の白糸」ではなかろうか。韓国にも同じような物語があるのかもしれない。お金は持っているが社会的地位の低い女性が、貧しいゆえに将来を閉ざされている若者を身を挺して助けるというロマンに、彼女が自分の夢を仮託している点がいじらしい。マーガレットのボスは、「西側の自由に味をしめやがって」みたいに彼女をなじるのだが、彼女にとっての「西側の自由」とは、資本主義社会のひずみにひっそり咲いた恋である。西側にいれば万事解決というものでもなく、表の顔の方であっても二人の恋には悲恋の予感がある。

 休戦直後にして(それとも休戦直後だからなおさらなのか)、マーガレットが「なぜ38度線なんてものがあるの」と、直球でヨンチョルに嘆いていて印象的だった。ラストは、ヨンチョルを救うために仲間を裏切り、ボスに瀕死の重傷を負わせられたマーガレットが、あなたの手で死なせてほしいとヨンチョルに頼む。(ラストでは、お互いの正体はすでに明らかになっている。)ヨンチョルはマーガレットに口づけると、悲しみをこらえて彼女を撃つ。

 上映前に、Nanyang Technological University(南洋理工大学)のAssistant ProfessorLee Sang Joon氏の作品紹介があった。この映画は、韓国で初めて女性スパイが描かれた作品というだけではなく、韓国で初めてキスシーンが描かれた作品としても記憶されている。それが前述したマーガレットの最期のシーンである。ヒロインの美しさが極まった美しいシーンではあるけれども、キスそのものは今ならちょっとしたもので、紹介したLee先生も「あまり期待しないで」と上映前に言っていた。しかし、当時はセンセーショナルに受け取られたようだ。監督のHan Hyeong-moは、日本の東宝で撮影技術を学び、第二次大戦後に映画監督としてデビューした。1950年代の韓国映画史において、最も重要な監督の一人と見なされている。

 アクションものを期待するとがっかりするのだが、メタシアター的に「滝の白糸」を演ずる東西スパイ男女の悲恋メロドラマだと思うと、味わい深い。この時代の韓国映画を見る機会があまりないので、貴重な体験でもあった。オープニングのタイトル「運命の手」の表記が、当時は漢字とハングル混じりで、それもまた興味深かった。2018111日)

Tuesday 24 April 2018

『映画』Gerak Kilat (Operation Lightning/ ガラック・キラット)


20171124
Gerak KilatOperation Lightning/ガラック・キラット)」・・・Singapore International Film Festival
公開年: 1966
製作国: シンガポール
監督:  Jamil Sulong
出演: Jins Shamsudin, Sarimah, Salleh Kamil
見た場所: National Museum of Singapore

 ここ数年、開催時期にシンガポールにいなかったため行けていなかった、Singapore International Film Festival (シンガポール国際映画祭)に久しぶりに行ったのだった。でも、11日間の開催期間中で、見に行ったのは5本だけだった。仕事が忙しかったり、チケットが売り切れだったりしたためだが、そのうちの3本は、クラシック映画特集からの作品だった。今年のクラシック映画プログラムはスパイ映画の特集で、そのタイトルも「Secret Spies Never Die!」。1950年代から80年代までのアジア各国のスパイ映画6本を集めて上映を行い、映画研究者によるパネル・ディスカッションも行われた。行けたら全部見ても良かったくらいだった。1967年のタイのスパイ・コメディ「Operation Revenge」など、いかにも面白そうだった。しかし、そう思っている人間はシンガポールにはあまり多くなかったらしく、観客の少ない上映もあって残念だった。今や日本でもそうではなかろうかと思っているのだが、シンガポールでは、わざわざお金を払って昔の映画を見に行く人はそうはいないのだ。

 さて、この「Gerak Kilat(ガラック・キラット)」である。1962年に「007 ドクター・ノオ」が公開されて以降、ジェームズ・ボンドとスパイ映画ブームはシンガポールにも及んだ。マレー語タイトル「Gerak Kilat」、日本語で「電光石火」とでも訳すことのできるこの映画は、「シンガポール国自身のジェームズ・ボンド」、Jefri Zain(ジェフリ・ザイン)を主人公としたスパイ・アクションものである。製作は、映画会社ショウ・ブラザーズのマレー語映画製作会社であるMalay Film ProductionsMFP)。かつてシンガポールのJalan Ampasにスタジオを持ち、P. ラムリーを代表とするスター達の映画を製作してきたMFP落日の時期の作品である。しかし、この「Gerak Kilat」はヒットし、続編が製作されてシリーズ化されていった。

ヒーローのジェフリ・ザインと仲間の女性スパイ、ティナ

 ある日、海水浴客で賑わうチャンギ・ビーチ(というところからしてローカル色豊か)に男の死体が上がった。男は、秘密諜報員ジェフリの仲間で、何者かによって消されたものらしい。ジェフリは、殺された仲間の残したネガフィルムから、大量の武器を保有する巨大な地下組織の存在を知る。平和のために、このどこにあるかもわからない謎の組織を壊滅させよう!といきり立つジェフリ。一方、ネガフィルムがジェフリの手に渡ったことを知った悪の組織は、彼の正体を突き止め、フィルムを取り戻そうと画策する・・・。というように、話は始まっていく。

 映画の冒頭、殺される諜報員が海岸の岩場を逃げているのだが、その後を追うのは、悪の組織のナンバー2か3の通称「Botak」(マレー語で禿げのこと。Botak氏は禿げているというかスキン・ヘッドである)。海岸に向かう斜面を駆け下りる、強面のBotak氏の走り方が女子!肘から上に挙げた腕を、外側に向けて走る姿が女子!なことにまず驚いた。いや、これがBotakのキャラクター設定からくるものだったら別に驚かない。でも、明らかにそうではない。たぶん足場が悪いので急いで下ろうとしたら、自然に腕がああなってしまったんだろうと思う。ここは監督がダメを出すべきところではなかろうか。冒頭にあるべき緊迫感がだだ崩れである。さらに、この諜報員の死体が発見されるビーチの、第一発見者である白人カップルのセリフが棒読み!またしても萎える緊張感。

 最初のうちからこんなユルさを見せられて、大丈夫なのかこの映画、と思ってしまった。と思ってしまったのだが、以降だんだん調子が上がって来て、結果的にはなかなか楽しいスパイ映画になっていたと思う。高い予算をかけて作っているようには見えない。しかし、そのつつましい予算で、ジェフリの自宅地下の秘密基地やちょっとした発明品、海底に入口を持つ悪の組織の巨大基地など、いろいろ見せてくれる。ジェフリの自宅が高層マンションではなく、しゃれた平屋の一軒家というところに、時代を感じた。場所がシンガポールの設定で、今これはあり得ないなーと。当時のシンガポールの風景は、今のように(高層ビルやアパートで)縦長になってはいないのだ。

 ジェフリのガールフレンドが誘拐されて殺されたり、ジェフリ自身も死の危険に曝されたりするのだが、全体的にのどかな印象。「007」の東南アジア版を見ているというよりは、なんとなく少年探偵団的な、子供向けの冒険活劇ものを見ているような気持ちになる。たぶんどことなくゆとりを感じさせる作りだからだろう。例えば、悪者を追ってジェフリがシンガポールの街中を走り続けるシーンなど、長い長い。Capitol Theatre周辺など、ありし日のシンガポールの姿を見ることができて興味深い。が、もう少しメリハリをつけてほしいと思う。加えてジェフリのキャラクターが、複雑な過去を背負ったクールなタフガイ、というようなものではない。ちょっとハンサムな近所のお兄さんという感じ。どんな時でも不敵な笑みを絶やさないというよりは、あまり何も考えていないのでは・・・と思ってしまう。仲間の中の紅一点、焼き餅焼きのTina(ティナ)とのやり取りも、なんだかラブコメみたいである。

 そんなわけで、南国(だからなのか?)のゆったり感を備えたスパイ映画「Gerak Kilat」、仕事帰りの金曜の夜(だった)に見るにはふさわしい楽しい映画だった。なお、ここで私が悪の組織、悪の組織と繰り返しているのは、最後まで見ても悪の組織の組織名がよくわからなかったからである。ボスが、Commander Jeeman(ジーマン司令官)と名乗っているのはわかった。しかし、どこの何という組織だったのか・・・。構成員の制服も、男性は半袖ワイシャツにジーンズ、女性は全身黒タイツという質素さで特徴がない。そもそも組織名以前に、武器を集め構成員に戦闘訓練を施している彼らの目的がなんなのか、それも最後まで定かではなかった。しかしそれを言うなら、ジーマン司令官が知りたくて知りたくてたまらなかったこと———ジェフリが所属している国際的な組織(らしい)がなんなのかも、やはり最後までわからなかった。いや、ジーマン司令官じゃなくても、私も知りたかったよ。201818日)

Wednesday 11 April 2018

[Theatre] Trojan Women


9 September 2017
“Trojan Women”---Singapore International Festival of Arts (SIFA)
Country: Singapore, South Korea
Produced by: National Changgeuk Company of Korea, National Theater of Korea and SIFA
Directed by: Ong Keng Sen
Written for Changgeuk by: Bae Sam Sik
Pansori Composed by: Ahn Sook Sun
Composed by: Wen Hui
Cast: Kim Kum-mi, Yi So-yeon, Kim Ji-sook
Location I watched: Victoria Theatre


For SIFA Founding Festival Director, Ong Keng Sen, 2017 was his final year. “Trojan Women”, his new work based on Euripides’ play, was co-produced with the National Changgeuk Company of Korea belonging to the National Theater of Korea. This company performs changgeuk, traditional Korean opera in the Korean folk song style called pansori.

Trojan Women” is a simple story. It is set in the Kingdom of Troy just after 10 years’ Trojan War ended with Greece’s victory. Trojan women from the royal family were captured and now, they are waiting to be taken to Greece as slaves. The women realize their fate and grieve deeply.

Trojan Women” opens with Soul of Souls singing the prologue with an orchestra. After that, the queen of Troy, Hecuba, and the other Trojan women sing their lines like they are shouting almost for the next 2 hours. The performers have put on microphones, but I did not think that they needed it. Their voice was very loud. As already mentioned, the story is just that horrible fate is awaiting them. There is no solution or surprise at the end. The women erupt with their anger, grudge and grief.

The white stage set is simple. In the centre of the stage, there is a square arcade shaped like an entrance of a tent for captives. The roof of the arcade is connected to a platform with two staircases on either side of the stage. The back of the stage is cut into a semicircle shape. Various images---fire, stars and clouds---are sometimes projected in that arcade and the semicircle part. Trojan women wear white while Helen and the Greek solders wear gray. “Trojan Women” focuses on each woman one by one---Hecuba’s lament, Cassandra, her daughter’s grudge and madness, Andromache, the wife of Hecuba’s son’s grief and sorrow, and then the queen of Sparta who was the main cause of the Trojan War, Helen... In one scene, Andromache’s baby son was taken by the Greeks. When he was returned to his mother, the cloth that wrapped him turned from blue to red. Even this tragic incident is not the climax of this story. The play climaxes when Hecuba’s fury and grief explode. She says that even if they die, their brave figures will be talked about long into the future. She climbs up to the roof of the arcade and stands firm. Then she declares that she will never leave Troy. Finally Soul of Souls appears again and sings for the end of the play.

Before the show starts

For me, Ong Keng Sen’s work from last year, “Sandaime Richard” was not a successful one. “Sandaime Richard” is based on a Japanese theatre director/play writer, Noda Hideki’s play. “Sandaime Richard” was written for Noda’s former company, “Yume no Yumin-sha” in 1990. In this play, Shakespeare meets Shylock and the world of “Richard ” is replaced by a family feud in a school for Japanese flower arrangement. While the narrative is deconstructed using vast wordplay, actors “play” using up their bodies. Chaos on the stage suddenly drives the audience to a moving catastrophe. That is the unique feature of Noda’s play, I think. Ong Keng Sen’s concepts were ambitious --- mixing Southeast Asian culture with Japanese culture, making the characters’ gender vague and showing traditional arts with contemporary style. However, perhaps one of the most important things to make that play fascinating was where Ong Keng Sen as a theatre director is not his strongest. There is not enough “play” on Ong’s stage. This “play” does not mean performing arts and literary means “playing”. Maybe it is better to describe as being a “fool”. Ong’s “Sandaime Richard” was beautifully unified and the intellectual theme was clear. However, its beauty or intellect did not have enough enthusiasm to move the audience. Performing arts are done by the human body, and the audience directly experiences that. The human body is not always beautiful. Enthusiasm given by the human body is not so logical. On stage, vulgar passion or nonsensical energy is often important to give enjoyment to the audience, I think.

On the contrary, this year’s “Trojan Women” is Ong’s more successful work. Trojan women’s grudge or grief becomes passionate and powerful by Korean pansori. This simple concept worked well. The rough and strong impression of the performance prevented the stage from falling into unexciting beauty.

However, one scene was unacceptable for me. That was Helen’s scene. After the Trojan women brought out their grief, Helen appears on stage. Suddenly a grand piano with an accompanist appears as well. She starts singing along with the piano accompaniment. She is the root cause of the Trojan War. Nevertheless, Helen is singing for forgiveness to Menelaus, her former husband. Menelaus is moved by her song, entreaty and eventually forgives her. She never meets the tragic fate of the Trojan women. That unfair and injustice makes Hecuba furious. Helen is wearing grey, the colour used by the Greeks. More importantly, a male actor is playing this role. The male actor is disguised as “the most beautiful woman all over the world” and sings with the piano accompaniment. He is not just wearing a grey costume, but his song also does not sound like pansori, used by the Trojan women. This completely different and sudden scene should have created modulation on the stage because the Trojan women’s passionate grief by pansori constantly keeps high tension and it makes the audience tired. However, I do not think that this modulation worked well. It should have become a partly comical scene, but it is likely to have caused a snigger. Maybe the reason is that until reaching this moment, the serious scenes were too long and there was no space for a playful tone. This sudden comical or sarcastic scene feels like a not funny joke and it is lacking in balance. Besides I do not like the idea that the only one woman who never share the sorrows with the Trojan women is played by a male actor. Grey and white, Greece and Troy, men and women and a “traitor” among the women acted by a man...the contrast is beautiful as formation. However it is unexciting on stage because we see the concept too clearly.

The general impression of this “Trojan Women” is that everyone is constantly shouting for grief or grudge. It is like listening to sirens that never stops. This makes the audience a little bit exhausted. However, this unrefined passion and tension eventually makes that climax powerful. When Hecuba climbs up to the roof and declares that she will not leave Troy there, she raises the audience’s spirit, as well. In the tragedy of war, the Trojan women cannot do anything. They are violated and there is only despair and ruin in front of them. However, even though they know there will be no happiness in their future, they strongly show how they are surviving through this terror. Among the sorrow of women, war casualties, on the contrary, women’ vitality wells up.

However, the most moving moment is when the characters just speak in ordinary and calm tomes---no shouting and no singing. There are only a few scenes in this play, so they feel more impressive. For example, Cassandra --- she has the power to predict the future --- told Hecuba, “Mother, your suffering will end soon because you can live only for a few days.” Or, one of the Greek soldiers offered the Trojan women for Andromache’s killed baby, the heir to Troy, “I will help to bury him.” On the one hand, the intense passion from anger and sorrow show the audience the last glow of the Trojan women’s life. On the other hand, the words in natural and ordinary tones touches us with humanity to sympathize with others. And “The 10 years’ war ended, and the next 10 years’ war will begin.” When Hecuba quietly says, that sounds as if she talks about our era, our anxiety and tension in the contemporary world. There is no requiem. There is just a shout and fury. (3 January 2018)

Curtain call by the cast

Victoria Theatre

Sunday 8 April 2018

『ダンス』And So You See (アンド・ソー・ユー・シー) ...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun... Can Only Be Consumed Slice By Slice...


201797
And So You See(アンド・ソー・ユー・シー)...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun...Can Only Be Consumed Slice By Slice...」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: South Africa
製作: City Theater & Dance Group
: Robyn Orlin
パフォーマンス: Albert Silindokuhle Ibokwe Khoza
見た場所: SOTA Studio Theatre


 タイトルが長いが、短く言うと「And You See...」は、南アフリカのコリオグラファー/アーティストであるRobyn Orlinが、ダンサーAlbert Ibokwe Khozaとともに作った作品である。単純なダンス作品ではなく、パフォーマンスアート的である。

 舞台背後には大きなスクリーン、手前には観客に背を向けた安楽椅子。椅子には、カーテンのような布で包まれたものが置いてある。スクリーンにはそのカーテンが拡大して映されているが、その「もの」は呼吸をしているように見える。モーツアルトのレクイエム(らしい)が流れ始めると、舞台背後のベンチにいた男性が、椅子の上の「もの」のカーテンを取って行く。スクリーンの映像は以前より全体がわかるように映し出されており、椅子の向こうで布を取り払われたものが何なのか、私達観客にもよくわかる。それは、透明のプラスチック・ラップで包まれた肉塊であった。男性がナイフでラップを切ると、その肉の塊は動き出す。今やそれは、とても太った人間となり、身体に半分ラップを付けたまま、軽快に歩き回り、歌い踊る。男か女かは、よくわからない。

上演前。カーテンみたいな布に包まれた何か。

 ここから、この男か女かよくわからない(実は男性)太ったダンサー、Albert Ibokwe Kohzaのオンステージとなる。ビデオ・カメラが、椅子を正面から捉える位置と天井に設置されており、先ほどのプラスチック・ラップを切った男性が、ベンチのところで適宜切り替え操作を行っている。観客は、たとえAlbert Ibokwe Kohzaが椅子に座って背を向けていても、スクリーンに映し出されるカメラからの映像によって、彼の顔を正面から見ることができる。

 山羊か羊(と思うけど)と交わる動きをし、ナイフで切ったオレンジをむさぼり食べ、ここで今まで体についていたプラスチック・ラップを全て取ってパンツ一枚になる。そして客席から女性観客を二人選び出して、自分の体を拭かせる。「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら、「シュシュシュシュ」と言いながら踊る。自分の大きな腹を使って腹芸を見せる。そして豹柄のパンツをはくと、鏡を持ち出してメーキャップをし、宝石のついた指輪を着け始める。南アフリカでは庭の土を掘るとこれが出てくる、みたいなことを言いつつ。「皆が私をうらやましがる」と歌いながら踊る。さらに、背後のスクリーンでは、巨大なロシアのプーチン大統領が踊り始める。プーチンを責め、金を乞い、一緒に踊ろうとする。一緒に踊りたがらないのは自分が黒人だからか、などとスクリーンのプーチンに叫ぶ。大統領がスクリーンから消えた後、孔雀の羽根のような飾りを背中に着ける。それは、宝塚のレビューやブラジルのサンバの衣装のような装備だが、暗い派手さで七色の蛾のように見える。それで歩き回り、奇声を発する。最後は全裸になり、首にかけた青色ペイントを入れたネックレスを使って、全身を青く塗り、美しく歌う。スクリーンの映像が揺らぎ、移動して、最後に彼の青い腹の上に映し出される。ぼんやりしたそれが次第にはっきりしてくると、小銃を持った子供の背に白い蝶の羽根が重なっている映像であるとわかる。そしてAlbert Ibokwe Kohzaは舞台から去る。

 プログラムの解説を大雑把にまとめると、この作品は、新時代を迎えて20年を経た現在の南アフリカの葛藤を念頭に置きつつ、七つの大罪をモチーフとして“人間性へのレクイエム”を表現したものらしい。七つの大罪と言われると、Albert Ibokwe Kohzaの一連のパフォーマンスは、それぞれが七つのどれかに当たっているように思われる。しかし、この作品を見て私が最初に思ったのは、太ったオネエキャラのピン芸人がテレビでできない芸を舞台で披露している、みたいなことだった。動物の鳴き声のような奇声を発したり、自分の腹の肉をつかんで顔を作ったり。切ったオレンジをナイフに刺し、それをナイフごと口に入れて食べるかと思えば、「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら踊る。大道芸を見ているようでもあれば、アホな小学生がふざけているのを見せられているようでもある。変な生き物をあっけにとられつつ見た感じ。

 しかし、ダンサーが自由奔放に振る舞っているように見せてはいるが、その実よくコントロールされた作品であると思う。椅子の正面に設置されたビデオ・カメラは、椅子に座ったAlbert Ibokwe Kohzaの顔を正面から捉え、それを背後のスクリーンに映している。オレンジを食べる時も、メーキャップをする時も、スクリーンの彼は正面を見据えている。それはつまり、自分の手元を見ることなくナイフ(と言っても小さな果物ナイフではなく、包丁である)でオレンジを切り、ナイフに刺したオレンジを口に持って行っているのだ。包丁を口の中に入れている時も正面を見ており、よくこんな恐ろしいことをするな、と思った。鏡に顔を写しながら化粧をする時もやはり正面を見ているので、これもまたよく上手いこと化粧をするな、と思ったのだった。

 また、クライマックスで青いペイントを全身に塗る際、全裸である。しかし、照明の絶妙な加減によって大きなお腹の影になるため、彼の下腹部は見えない。なんだか妙なところに感心しているようだが、そういうこともあって、パフォーマーたるAlbert Ibokwe Kohzaは、最後まで男か女かよくわからない。男のような女のような生き物、一個の裸の人間の身体であった。

 プラスチック・ラップに包まれた肉の塊が自由を得た。それは罪にまみれ、凶暴で醜く、グロテスクである。しかし同時に、目の離せない何か、その存在に対する言い知れない痛み、七色の蛾のような奇妙な美しさがある。それはまた、青い色が想起させる、悲しさだったかもしれない。20171130日)

上演終了後の舞台。オレンジや羽根、いろいろなものがある。

Saturday 7 April 2018

『パフォーマンス』/『アートエキシビション』The Nature Museum(ネイチャー・ミュージアム)


201797
The Nature Museum(ネイチャー・ミュージアム)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: シンガポール
製作: Singapore International Festival of Arts
: Institute of Critical Zoologists
パフォーマンス: Robert Zhao, Joel Tan
見た場所: 72-13


  Institute of Critical Zoologists(批判的動物学者協会)は、写真家・ビジュアルアーティストのRobert Zhaoによるプロジェクトである。今回の「The Nature Museum」では、19世紀から現在までのシンガポールの自然史を取り上げている。会場は、Ong Keng Sen(オン・ケンセン)のカンパニー、Theatre Worksの本拠地である72-13の二階。観客は、開演時間まで72-13の外で待ち、開演時間になるとスタッフに案内されて二階に行く。そこは、写真や標本、見本が展示され、ちょっとした博物館の一室のようになっている。Robert Zhaoと解説用の台本を書いたJoel Tanが観客を迎えてくれる。それからおよそ一時間、観客は彼ら二人が交替で解説するのを聞きながら、会場内の展示物やスクリーンに映された資料写真を自由に見てまわるのである。

開演まで72-13の外で待つ。

解説を聞きながら展示を見る。立っている白い服の男性が、解説者の一人Joel Tan。

 彼らの調査・研究の結果を要約すると、19世紀末から現在までのシンガポールの自然や生物が、環境の変化とともにどのように変容していったか、ということになると思う。展示は美しく、解説は説得力にあふれている。

 例えば、1970年代のシンガポール。東部海岸で大規模な干拓が開始され、干拓地は人もめったに訪れない、広大な砂丘となった。しかし、1979年にThe Coast Exploration Society(海岸探査協会)なる、砂丘の魅力に惹かれた人達による団体が結成された。彼らは砂丘を巡るツアーやピクニックなど、様々なアクティビティを実行運営し、砂丘の魅力を一般に広めた。また、砂丘を調査することによって、いくつかの発見をした。今回展示している彼らの発見の一つが、フルグライト(閃電岩)である。フルグライトは、落雷の電流によってできるガラス質の岩石。砂が熱せられ、雷が通った経路に沿った形でガラス管が作られるのである。年に186回落雷のあるシンガポールだけに、砂丘では小さなものがちょくちょく発見されたが、最も大きなフルグライトは、Tanah Merah(タナ・メラ)の砂丘から出たもの。もう一つの発見は、白いゴキブリである。砂丘に住む白いゴキブリは、昆虫学者達によって理論化されるまでは、脱皮中か白子のように考えられていた。しかし実は、70年代の干拓事業の結果として起こった現象であった。砂丘となった場所に住む上で、保護色としてふさわしい、より色の薄いゴキブリが生存、交配していくことによって、白いゴキブリへと進化をしていったのである。いわゆるadaptive melanism(適応暗化)、大気汚染の著しい工業地帯のガなどで暗化型の個体が増加することと同様である。展示されている白いゴキブリは、協会メンバーであったSong Pack Choon氏が捕獲した。

白いゴキブリ

 上記のように、現代シンガポールの歩みとともに変容していった自然環境を解説していく。うーん、勉強になるなぁ。

 ・・・・・・いや、待て待て待て待て、ちょっと待て。

 シンガポールは、19世紀初頭から干拓によって土地を造成してきた。1966年から東海岸の干拓事業が開始され、70年代を通して行われてきたことは本当。でも、The Coast Exploration Societyって何よ。フルグライトという物質はある。でも、シンガポールで取れるのか?工業地帯のガが黒っぽくなるという工業暗化(industrial melanism)は確かに議論されている。しかし白いゴキブリって?Institute of Critical Zoologistsの「調査」って何?彼らの解説は本当なの?展示は?そもそもInstitute of Critical Zoologists(批判的動物学者協会)って・・・名前からして怪しい。

 Institute of Critical Zoologistsは、史実の中にさももっともらしい空想を織り込んだ物語を作り出した。そして、やはりさももっともらしい展示物を見せながら、もっともらしく解説してみせる。参加者はここで、いわば架空のシンガポール自然史博物館のガイド・ツアーを体験することができるのだ。なんとなく思い出すのは、ピーター・シェーファーの戯曲「レティスとラベッジ」である。観光ガイドのレティスは、歴史ある貴族の屋敷を観光客に案内しながら、その屋敷にまつわるエピソードに尾ひれをつけて、面白可笑しく語る。屋敷という実物を前に、しかもホラ話は正しい時代考証に則っているため、もっともらしく、かつ楽しい。この「The Nature Museum」もしかり。知っていると思い込んでいたシンガポールの過去が、退屈だと感じていたその歴史が、新しい興味を持って開けて来る。楽しい。

 解説が終わった後も、Robert ZhaoJoel Tanの二人にいろいろ質問することができる。さて、彼らの解説の中に、ティラピアの話があった。ティラピアという食用魚は、第二次世界大戦中に日本軍がジャワ島からシンガポールに持ち込んだものである。戦時中の植民地におけるタンパク源確保のためであった。それから歳月が流れ、シンガポールのティラピアの外見が、当初日本軍が持ち込んだものから変化していることが確認された。シンガポールで養殖されている同科他種との自然交配によって、シンガポール独自のハイブリット種となっていたのである、云々。・・・このティラピアの挿話に関して、日本軍がなぜ特にティラピアを持ち込んだのかを質問した人がいた。Robert Zhaoいわく、食料増産が急務だったのだが、ティラピアのような魚は養殖がしやすいためであろう。他にも食用のために養鶏などが行われたのだ。・・・などとまぁ、まことしやかに答えているのを、私は聞いた。自分の知識だと、第二次世界大戦中、日本がシンガポールを占領していたこと以外、どこまでが史実なのかよくわからない。とりあえず、シンガポールのハイブリッド・ティラピア、というのはうさんくさい。

ティラピアの養殖場を見学する日本のお役人・・・だそうだ・・・
 
このジャワ島のティラピアが、

シンガポールでこうなった。

 しかし、この作品は単に、史実や自然科学の知識に基づいた作り話の披露、というに止まらない。Institute of Critical Zoologistsの意図するところは、現代都市としてのシンガポールの発展が、シンガポールの自然環境にいかに影響を与えて来たか、そこに参加者達を着目させることにあったと思う。それは、私達の生活、活動が、一見そうは見えなくとも、自然と密接に結びついていることを思い起こさせる。彼らの生き生きとした「調査・研究」結果は、常にそこに観点が置かれている。
 人と自然の結びつきをテーマとして事実に空想を織り込む、というその手並みの鮮やかさだけでなく、この作品を一種の演劇的パフォーマンスと考えても、その丸ごと信じてしまいたくなるような作り込んだ展示と解説は極めて印象的だった。舞台の上のことはみんな嘘、とかっこ良く言い捨てられない、この、虚実の間にあるパフォーマンスには、なんだかわくわくさせられるものがある。たぶん、自分の知っていると思っている世界を、違ったものに———刺激的で豊かなものに———見せてくれるからだろう。20171117日)

 下記はその展示の数々である。 




民間の博物学者Francis Leowの書斎


鳥の捕獲器

Sunday 1 April 2018

『演劇』Germinal(ジェルミナル)


201792
Germinal(ジェルミナル)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: フランス
製作: L’Amicale de Production
コンセプト・演出: Halory Goerger, Antoine Defoort
出演: Jean-Baptiste Delannoy, Beatriz Setien, Denis Robert, Halory Goerger
見た場所: SOTA Drama Theatre

舞台の床下には何が・・・
 
 まず、舞台上の照明が上手くつかない。変な緑色のスポットライトになってしまう。それでもようやくまともにつくと、舞台上には4人の人々がいる。彼らはその場にある、昔のラジオコントロールの送信機みたいな機械を操ってみる。すると、自分達の考えていることが英語の字幕となって背後の壁に!そのうち、実は送信機は必要のないことがわかる。さらに、(4人いるので)誰の考えであるのかがわかるように、字幕の頭にそれぞれの名前をつけることが思いつかれる。
 
 やがて舞台の床からマイクを見つける。わざわざ英語で話さなくとも、マイクを通してフランス語を話せば英語の字幕が表示されることがわかる。そのうちマイクは必要なくなり、それぞれが普通にフランス語で会話をすれば、背後に英語字幕が現れるようになる。
 
 この4人———HaloryJean-BaptisteBeatrizDenis———は、舞台上の閉じられた世界にいる人々である。そして今彼らが体験し、観客の私達が目撃したものは、非常にひねくれた形の、または、舞台上の登場人物の視点からの、舞台作品における字幕の誕生である。
 
 さらに彼らの冒険は続く。舞台上に存在しているものについて、床、壁、マイク、ガラクタといった物質的なものから、一緒にいること、愛といった抽象的なものまでを挙げていく。彼らが思いついて言うごとに、それらの単語はプロジェクターによって背後の壁に映し出される。さらに、それらを実際にマイクで叩くと、「パクパク」という音がするかしないかという基準によって、分類化を図るようになる。いや何よ、「パクパク」って。ゆるーい感じの分類は、いくつかの派生的なカテゴリーを生み、意外に複雑になってゆく。
 
 エレキ・ギターが発見され、歌うことが思いつかれ、アンプが床から取り出される。創造主(?)のカスタマーサービスに電話をかけ、アドバイスを受けた結果、彼らは黒い箱を見つける。ウィンドウズ・ビスタ(だと思う)を搭載したノート・パソコンである。パソコン画面は壁に映写され、それによって舞台の背景を変えることも言語設定を変える(例えば言語設定を日本語に変えると、Halory達は日本語を話すことができる)ことも、今や自由自在となった。そして床の下に、細かい発砲スチロールで作られた「沼」(舞台装置)を発見し、電子ドラムで効果音を手に入れる。
 
 最後は、先に分類した単語を列挙した順に(ウィンドウズを使って)時系列に並べ直すと、その各単語とともに、これまで自分達がしてきたことを歌い上げる。この時とばかりに照明効果もばっちり使い、バカバカしくも楽しいフィナーレだった。
 
 こうやって説明すると何がなんだかよくわからないようだが、75分間のこの作品が明示したもの、それは、歴史的知識に依らないテクノロジーの歴史である。歴史的知識によらない歴史という言い方だと何だかよくわからないので、別の言い方をすると、舞台上の登場人物の視点から見た、テクノロジー発見の歴史である。そしてここでのテクノロジーは、特に舞台で使用されるものについてのように見える。発見されたテクノロジーは解体され、そしてまた別の技術へと引き継がれて行く。その過程がちょっとトボケた風味で面白く表現されており、私達観客を時々笑いへと誘う。舞台上の世界の住人から見た時、普段私達が当たり前に受け入れているテクノロジーは新鮮なものとして映り、私はその斜め上からの視点にハッとさせられもした。そんな知的な冒険を彼らと共にできる一方、子供向け芝居のような遊びもあって、楽しかった。
 
 ところで、わざとというわけではないのだろうが、なぜか今回、字幕がちょっと薄くて読みづらかった。それがちょっと困った。20171011日)