Monday 26 June 2017

『映画』追凶者也(Cock and Bull)


201756
追凶者也(Cock and Bull)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 2016
製作国: 中国
監督:  Cao Baoping(曹保平)
出演:  Liu YeZhang Yi张译
見た場所: Golden Village, Suntec City

あらすじ:
 中国南西部の片田舎。村の住人の一人が惨殺される事件が起こり、自動車修理工のSong Laoer(宋老二)が疑われる。一本気な性格の宋老二は、自らの手で汚名をはらすべく、犯人探しに乗り出すのだが・・・

 今年のChinese Film Festivalで見た新作はこれのみだった。この作品は、最初に主人公の宋老二、次に容疑者となる田舎の不良、Wang Youquan(王友全)、それから犯人という順で、それぞれの視点を引き継いで行きながら事件の顛末を語って行く。そのため最初の方では気づかないのだが、最後まで見てしまうと、話運びがどことなくコーエン兄弟の映画っぽいと感じる。人生の風向きを良くしようと思って犯罪に足を踏み入れたらとんでもないことになった、というタイプの話で、なかでも「ファーゴ」を思い出させる。殺人事件の話なのに、ユーモラスな作品でもある、という点が特に。

 しかし、「ファーゴ」のように後で人生をしみじみと思うような滋味はない。そして、そこがこの作品の良い所である。人生の悲哀もないわけではないが、それよりも、村のおばあさんから町のチンピラまで、誰しもが大雑把(おおらかとも言う)にタフでないと生きられない世界が描かれる。この人達、落ち込んで家に閉じこもって誰にも会わないとかないのな、たぶん。そんな人々が、殺人事件に端を発する一連の出来事を引き起こしたり、それに巻き込まれたりしていくブラック・コメディである。

 この作品最大の面白さは、事件の追跡者、容疑者、犯人の全員がアマチュア(探偵としても犯罪者としても)、というところにある。必死の逃走劇も、命に関わる死闘も、トム・クルーズのアクション映画のようには決してならない。本人達が真剣であればあるほど、その慌てぶりやもがきもあがきが滑稽に見える。そんなアマチュア、素人(役)だからと言って、彼らがあまり動いていないかというと、そうではない。素人が切羽詰まっているという状況だからこそ、全員が体を張っている。必死さを、可笑しくもスリルあふれるものとするために、努力と工夫が凝らされた作品である。特に、宋老二と容疑者王友全の村内追っかけっこと、王友全と犯人との船での死闘は一番の見所。また、一流の殺し屋を装う犯人が、素人ゆえにミスにミスを重ねて行く姿も、可笑し過ぎて逆に愛おしくなってくる。人間ってなんてバカなんだろう。

 そんな、我々誰しもがそうであるような人というもののバカさを、(命に関わっているけど)おおらかに受け止めて笑い、非常に楽しい映画だった。2017528日)

Sunday 25 June 2017

『映画』海上花(Immortal Story)


201756
海上花Immortal Story)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 1986年
製作国: 香港
監督:  Yon Fan
出演:  Sylvia Chang艾嘉)、TSURUMI Shingo(鶴見辰吾)、Yao Wei
見た場所: National Museum of Singapore

あらすじ:
 マカオで一人の女性が日本人男性を殺害した容疑で逮捕された。容疑者であるMei Lingは、弁護士の求めに応じて、殺された男性との関係を語り始める。10年前、1970年代の古き良きマカオ。レストランの歌手をしていたMei Lingは、旅行中の日本人学生中村と恋に落ちるが、彼はマカオを去って行った。その後、新しい恋人に騙され、絶望の淵に陥ったMei Lingは、高級ナイトクラブの女性経営者、Pak Lanによって救われた。Pak Lanのクラブで歌い、今や売れっ子ホステスとなったMei Lingだったが、再びマカオを訪れた中村と偶然再会する・・・。

中村氏殺害容疑で法廷に立つシルヴィア・チャンのMei Ling

 Chinese Film Festival、「Restored Classics」カテゴリーの一本。当時21歳だった鶴見辰吾が、Sylvia Chang(シルヴィア・チャン)演じる主人公Mei Lingの恋人、日本人青年中村さんを演じる。俳優の実年齢が演じている役の年齢より上で、この役にしては老けてるなー、という苦情は一般的によくある。しかし、この映画では逆に、10年後にマカオに戻って来た鶴見辰吾の中村さんが、若すぎて全くビジネスマンに見えない。でも、大丈夫。この映画の鶴見辰吾は主人公の思い出の中の青年であって、彼に限って言えば、10年前のパートの方が重要。つまり、10年前の学生の姿に真実味があった方が良いのだ。ちなみに、相手役のシルヴィア・チャンは当時すでに30歳過ぎていたが、役柄上は鶴見辰吾とほぼ同い年か、むしろシルヴィアの方が年下という設定である。

 冒頭、弁護士に被害者との関係を問われ、「私は彼を知らなかった。10年前に知っていたかもしれない、いえ、やはり知らない。」などと、まるで「二十四時間の情事」みたいな応答をする主人公Mei Ling。しかし、ひとたび彼女が語り出してみれば、「初恋の思い出はいつまでも美しい」という「冬のソナタ」のような話から、次第にナイトクラブ、ホステス、ヤク中と、夜の世界のメロドラマになっていく。

 この映画を見てしみじみ思う教訓は、貧しい娘が美人であるのに野心がないと、ろくなことにならない、ということである。ギラギラしていれば逞しくのし上がっていく女一代記ができるのだが、そうでないと、美人なだけに、他人の仕掛ける罠にはまって堕ちて行ってしまうのだ。

 単にそういう筋であれば、わりと古典的なメロドラマと言える。しかし、この作品が特徴的なのは、主人公を巡る三角関係が、初恋の男性と現在の雇用主の女性という点。Mei Lingが歌うレストランに毎日通い、恋人に捨てられて弱っている彼女を助け、ついに自分のクラブで雇い、ついでに自分の高級マンションで一緒に暮らすという、やり手ビジネス・ウーマンのPak LanYao Wei)。売れっ子のMei Lingに無理に枕営業をさせておきながら、その後、彼女を風呂に入れて優しく体を洗ってやるというこのアンビバレンス。なお、このお風呂のシーン、見所の一つです。

 ここまで書いてくると、中村さんを殺した犯人が誰なのかは、もう簡単に予想がつくのだが(作品を見ている間でも)、そこはわりとどうでもよいことだと思う。風光明媚なマカオの古い街並も楽しめる、印象的な異色メロドラマ。2017523日)

Monday 19 June 2017

『映画』日常対話(日常對話/Small Talk)


201755
日常対話(日常對話/Small Talk)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 2016
製作国: 台湾
監督: Huang Hui-chen惠偵
見た場所: National Museum of Singapore

 Chinese Film Festival、「Documentary Vision」カテゴリーの一作品で、母と娘(監督自身)についてのドキュメンタリーである。プログラム記載のあらすじがえらく漠然とした感じだったのだが、R21指定作品になっていた。シンガポールではレイティングとともに、通常その理由が表示されているが、プログラムには「R21 Homosexual theme」とある。よくありそうな話としては、娘がレズビアンでそれを母に告白して云々というものだ。しかし、この作品は逆で、それと知りつつ今まで踏み込めずにいた母の性的志向について、娘が母と対話を持とうとするという内容。あらすじを知らないで見始めると、この想像の斜め上を行く状況にまず不意を突かれる。

 監督であるHuang Hui-chenの母は、食事の支度をすると一人外に出かけて行く。背が低くてずんぐりとした体型、髪はベリーショートよりさらに短く、ポロシャツにチノパンという出で立ちである。人のことをおばさんおばさん言える立場ではないが、まぁでも、こういう性別不詳な感じのおばさん、地元のスーパーにもたまにいるな、という雰囲気。しかし、単に女らしいおしゃれをあまりしなくなったおばさんというには、どこかりりしい。一方、娘である監督と彼女の幼い娘は、母が用意しておいた食事を二人だけで食べる。この家庭は、母、娘、孫娘という女三人だけの三世代家族で構成されているのだ。一方、娘達をおいて母が出かけた先は、公園のような場所である。中年の女性達がボードゲームに興じている所へ母がやってくると、一人が別の一人に声をかける。「ほら、あんたのだんなが来たよ。」・・・そういうことかい。

 現在、アジアで初めて同性婚が合法化されるかもしれないと沸いている台湾。LGBTというしゃれた言い回しが一般的に広まる一方で、あるいは広まってきたからこそ、LGBTの人々に対するパブリック・イメージは、型にはまったものになりがちな気もする。しかしここに、グラマラスでもなければビューティフルでもクィアでもなく、ついでに言うと金もあまり持っていなさそうな一市井の人が、同性婚の合法化云々よりもずっと昔から、レズビアンとして人生を過ごしている。

映画祭パンフレットに掲載されているイラスト。
向かって左が娘である監督、右の老けた男子中学生のように描かれてしまっているのが監督のお母さんである。

 Huang監督の母は、当時としては当たり前のこととして、親の手配で結婚し、夫との間に二人の娘(Huang監督と妹)をもうけた。子供の頃からボーイッシュだった母だが、そういうこと以前に、この結婚は不幸だった。博打をして暴力を振るうならず者の夫から、母は二人の娘を連れて逃げた。監督が10歳の頃だった。

 以来母は、寺院での葬儀の際に歌や踊りで死者を送り出す、日本語でいういわゆる「泣き屋」(しかし、日本語からイメージされるものとはかなり違う)を生業として、二人の娘を育て上げた。しかし、娘である監督の思いは複雑だった。幼い頃から母と一緒に寺院で働き、満足に学校に通えなかったこと。台湾でブルーカラーと見なされる「泣き屋」という職業ゆえに、世間の人から見下されていると感じたこと。そして何よりも、彼女の記憶の中では、母はいつも「女友達」と出歩いていて、決して家に居着かなかった。母は自分のことが好きではないのか、娘である自分のことをどう思っているのか。この多年の疑問を抱えたまま、今や三世代同居となったわけだが、母と娘との間に会話はほとんどない。監督自身が娘を持って母親となり、娘が自分の人生に喜びを与えてくれたと実感する今、母はますます不可解な存在と感じられるようになった。そこで、このドキュメンタリー映画である。

 お母さんにだって自分の好きなように生きる権利はあるんだ、などと他人事ならいくらでも言うことはできる。しかし、娘からしてみれば、同性愛者であることを隠さない「異常な」母の娘と見なされるのは辛かった。母を理解したいと思う監督は、うるさがられながらも母にインタビューする。母の故郷に一緒に帰り、母の兄弟達にもインタビューする。自分の妹やその娘達(不思議とこの一家は娘ばかりに恵まれている)にもインタビューする。ちなみに妹は監督に比べ、母に対しておおらかなスタンス(子供の頃手伝っていた母の「泣き屋」の職業を、今も引き続きやってもいるらしい)。

 また監督は、母の歴代のガール・フレンド達にもインタビューをしている。往年の彼女なので若くはないのだが、皆なかなかの美人。・・・やるなぁ、お母さん。冒頭で述べたように、ずんぐりむっくりな感じの母なのだが、実はモテるのだ。彼女達へのインタビューを聞いていると、モテのために大事なことは、容姿ではなく、マメで優しいことなのだとしみじみ思った。それはともかく、インタビューを受けたかつてのガール・フレンドの一人が言う。「彼女に子供はいないわよ。そう言ってたわ。結婚して一週間で夫と別れた後、養子を二人取ったって。」「じゃあ(子供がいないのなら)、今あなたの目の前にいる私は何?」と笑って答える監督の声。そしてこのシーンの後の、監督によるナレーション。「あの時私は笑っていたが、実は子供の頃、母の態度から自分が養子なのではないかと考えたことがあった。母が本当にそう言っていたことを知って、落ち込んだ。」

 母を巡る監督の旅は、母子が一番辛かった時期、ならず者の夫(父)の下で暮らし、そして身一つで逃げ出した頃へと行き着く。監督は、かつて父と一緒に暮らしていた、今や誰も住んでいないアパートの一室を訪れる。10年ほど前に父はすでに他界し、苦い思い出だけがそこにある・・・。

 作品のクライマックスにおいて、娘である監督は、母と話し合うために食卓で差し向かいになる。家族の日常的な風景だが、この母子の間ではこれまで難しかったことである。そこで監督は言う。「私はもうすぐ40になる。でも、いくつになっても、私はあなたの娘なのよ。」・・・それは、多くの人が親に抱く当たり前の感慨かもしれない。しかし、この作品では、それまでの全てが、このセリフに辿り着くためにあったとさえ言える。監督は母を理解したいと思って、このドキュメンタリーを作ることを思いついたのだろう。しかし、最終的に彼女が辿り着いたのは、母が娘の自分をどう思おうが、母がどんな人間であろうが、自分はやはり母を愛しているのだ、ということだった。母への理解を深めるための作品は、転じて、自分が母をどう思っているか、そしてそれを母にもわかってほしいという、自分自身についてのものとなっていた。

 この作品は、映像も演出もよくできているが、特に構成が劇映画のように巧みである。それだからこそ、時代や社会の変化によらない、市井の同性愛者に密着したドキュメンタリーが、親子の葛藤とそれを乗り越えようとする子の、一つの普遍的なドラマへと美しく展開していったと思う。

 なお、作品の最後の方で、同性婚が法的に認められたら結婚したいか、監督が母に訊ねる。母は、「したくない。自由でいたい。」・・・やるなぁ、お母さん。2017519日)

Sunday 18 June 2017

『映画』超級大国民(超級大國民/Super Citizen Ko)


201752
超級大国民超級大國民/Super Citizen Ko)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 1995
製作国: 台湾
監督: ワン・レン萬仁)
出演: リン・ヤン林揚)、スー・ミンミン蘇明明)
見た場所: National Museum of Singapore

 今年で5回目となるSingapore Chinese Film Festival428日から57日まで開催された。「Chinese」と銘打っていて「China」ではないのは、「中国映画祭」ではなく、「中国語映画祭」だからだと思う。つまり、中国語による映画であれば国を問うていないので、毎年中国に限らず、台湾、マレーシア、シンガポールなどで製作された中国語の映画が上映されている。言語をテーマに据えるという意味では、Alliance Francaise(日本のアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)のような機関と思われる)で毎年催されているFrancophonie Festivalを気持ち連想させる。しかし、フランス語圏の各国大使館が主催者に名を連ねるFrancophonie Festivalと違い、この映画祭は民間団体であるSingapore Film Societyと研究機関であるSingapore University of Social Sciences (Centre for Chinese Studies)が主催。政治的な色合いはなく、映画の好きな人たちが中国語映画の多様性を紹介したいと思ってやっている映画祭、というのが実際のところだと思う。

フェスティバルのパンフレット表紙。今年で5回目なのである。

 作品はいくつかのカテゴリーに分けられており、新作劇映画を紹介する「Chinese Panorama」、ドキュメンタリー作品の「Documentary Vision」、短編作品を集めた「Chinese Shorts Showcase」。そして毎年、過去作品の特集上映を行っているのだが、今年は一人の監督の回顧上映などという形ではなく、近年修復された作品の特集「Restored Classics」だった。超級大国民」は、その「Restored Classics」の一本である。 

あらすじ:
 かつて大学教員であった許(Ko)氏は、仲間達と政治的な勉強会を開いていた罪で16年間投獄され、出所後も養護施設に閉じこもり、長らく世間と隔絶して生きて来た。投獄から30年あまりもの月日が経ち、今や老人となった許氏は、ある日突然養護施設を出て、一人娘の元に身を寄せる。彼の目的は、自分が「裏切った」ことによって逮捕、処刑された友人の墓を探し出すことにあった。


 映画「悲情城市」は二・二八事件を描いた作品として有名だが、この「超級大国民」では、その後の台湾の政治、社会状況が取り上げられている。逮捕された許氏は、取り調べ時の拷問に耐えかね、逃げ延びた友人の名前を「自白」してしまう。捕まった友人は、自分が勉強会のリーダーだったと名乗ることで許氏達仲間の命を救い、自分一人処刑されていった・・・。この友人の墓を探して死んだ彼に詫びるという、許氏の贖罪の旅路が描かれる。

 劇中繰り返し流れる悲しげなテーマ曲が、くどいなとは感じたのだが、いい映画だったと思う。

 友人の情報を得るため、許氏は一緒に逮捕されたかつての仲間達や、自宅の強制捜査を行った元警官のもとを訪れる。その過程で、許氏が自らの過去をも回想するというオーソドックスな構成。脚本が上手くできていて、訪ねた人達との会話の一端から許氏の過去が導きだされ、次第に明らかになっていく。さらに、最初からぎこちなかった彼と娘との間で、しだいに緊張が高まっていき、それが頂点に達した時(それは許氏の捜索の旅が終わりに近づいた時でもある)、娘の口から彼の妻の死が語られる。心から許氏を愛していた妻は、投獄された彼が何の説明もなく彼女に離婚届を突きつけたことにショックを受け、自ら命を断ったのだった。これは、許氏の回想では決して語られなかった(彼が触れたくなかった)部分であり、彼が終に友人の墓を見つける前の一つのクライマックスとなっている。

 日本でいう戦中派の許氏は、第二次世界大戦では若くして日本軍に所属して戦い、辛くも生還した世代である。日本の植民地下の台湾で教育を受けたために日本語を話すことができ、日本語の習慣が端々に残っている(仲間達の間でお互いを呼び合う時も、「許さん」「陳さん」という「さん」付けである)。知識階級の本省人として、日本去りし後の台湾で政治の理想を志向した結果、それが国民党政府による白色テロによって打ち砕かれ、彼は16年間投獄される身となった。許氏の挫折は、ひとえに政治についてだけではなく、暴力に屈して友人を死に追いやったという、自身の人間性に対する挫折でもあった。

 昔ながらにスーツを着こなし、きちんと帽子をかぶった許氏は、白色テロ時代の過去からやって来た「亡霊」として、民主化の推し進められている90年代初頭の台湾を彷徨う。この作品が上手く作られていると思うのは、ただ過去を描くのではなく、現代との対比の上で描いている点にある。かつて彼が取り調べを受けた拘置所も、政治犯の処刑場も今はその名残を留めていない。デモ行進が繰り広げられる一方、政治が金儲けの一種となっている現代の台湾を、半ば呆然と半ば不思議な面持ちで眺める許氏。彼が訪ねる先は、かなり裕福な娘一家の邸宅に始まり、バラック街、中流家庭のアパート、麺屋の屋台、海に近い地方の村と多様で、白色テロ禍に関わった人達のその後もまた、人それぞれである。

 「死んだ友人は、生き残った仲間達に自分の分まで生きてほしいと思っているに違いない。だからがんばって生きればいい。」などという都合のいい前向きな発想は、許氏には全くない。終に打ち捨てられた小さな墓を見つけた許氏は、その墓前で手をついて友人に詫びる(なお、その時素直に出て来るのは日本語の「すみません」である)。そして言う。「30年の辛苦に免じて、自分を許してほしい」と。犠牲者の鎮魂を一生の悲願とした許氏が無念の魂に捧げる灯りは、悲しくも小さく、しかし美しかった。2017514日)