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Sunday, 8 April 2018

『ダンス』And So You See (アンド・ソー・ユー・シー) ...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun... Can Only Be Consumed Slice By Slice...


201797
And So You See(アンド・ソー・ユー・シー)...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun...Can Only Be Consumed Slice By Slice...」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: South Africa
製作: City Theater & Dance Group
: Robyn Orlin
パフォーマンス: Albert Silindokuhle Ibokwe Khoza
見た場所: SOTA Studio Theatre


 タイトルが長いが、短く言うと「And You See...」は、南アフリカのコリオグラファー/アーティストであるRobyn Orlinが、ダンサーAlbert Ibokwe Khozaとともに作った作品である。単純なダンス作品ではなく、パフォーマンスアート的である。

 舞台背後には大きなスクリーン、手前には観客に背を向けた安楽椅子。椅子には、カーテンのような布で包まれたものが置いてある。スクリーンにはそのカーテンが拡大して映されているが、その「もの」は呼吸をしているように見える。モーツアルトのレクイエム(らしい)が流れ始めると、舞台背後のベンチにいた男性が、椅子の上の「もの」のカーテンを取って行く。スクリーンの映像は以前より全体がわかるように映し出されており、椅子の向こうで布を取り払われたものが何なのか、私達観客にもよくわかる。それは、透明のプラスチック・ラップで包まれた肉塊であった。男性がナイフでラップを切ると、その肉の塊は動き出す。今やそれは、とても太った人間となり、身体に半分ラップを付けたまま、軽快に歩き回り、歌い踊る。男か女かは、よくわからない。

上演前。カーテンみたいな布に包まれた何か。

 ここから、この男か女かよくわからない(実は男性)太ったダンサー、Albert Ibokwe Kohzaのオンステージとなる。ビデオ・カメラが、椅子を正面から捉える位置と天井に設置されており、先ほどのプラスチック・ラップを切った男性が、ベンチのところで適宜切り替え操作を行っている。観客は、たとえAlbert Ibokwe Kohzaが椅子に座って背を向けていても、スクリーンに映し出されるカメラからの映像によって、彼の顔を正面から見ることができる。

 山羊か羊(と思うけど)と交わる動きをし、ナイフで切ったオレンジをむさぼり食べ、ここで今まで体についていたプラスチック・ラップを全て取ってパンツ一枚になる。そして客席から女性観客を二人選び出して、自分の体を拭かせる。「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら、「シュシュシュシュ」と言いながら踊る。自分の大きな腹を使って腹芸を見せる。そして豹柄のパンツをはくと、鏡を持ち出してメーキャップをし、宝石のついた指輪を着け始める。南アフリカでは庭の土を掘るとこれが出てくる、みたいなことを言いつつ。「皆が私をうらやましがる」と歌いながら踊る。さらに、背後のスクリーンでは、巨大なロシアのプーチン大統領が踊り始める。プーチンを責め、金を乞い、一緒に踊ろうとする。一緒に踊りたがらないのは自分が黒人だからか、などとスクリーンのプーチンに叫ぶ。大統領がスクリーンから消えた後、孔雀の羽根のような飾りを背中に着ける。それは、宝塚のレビューやブラジルのサンバの衣装のような装備だが、暗い派手さで七色の蛾のように見える。それで歩き回り、奇声を発する。最後は全裸になり、首にかけた青色ペイントを入れたネックレスを使って、全身を青く塗り、美しく歌う。スクリーンの映像が揺らぎ、移動して、最後に彼の青い腹の上に映し出される。ぼんやりしたそれが次第にはっきりしてくると、小銃を持った子供の背に白い蝶の羽根が重なっている映像であるとわかる。そしてAlbert Ibokwe Kohzaは舞台から去る。

 プログラムの解説を大雑把にまとめると、この作品は、新時代を迎えて20年を経た現在の南アフリカの葛藤を念頭に置きつつ、七つの大罪をモチーフとして“人間性へのレクイエム”を表現したものらしい。七つの大罪と言われると、Albert Ibokwe Kohzaの一連のパフォーマンスは、それぞれが七つのどれかに当たっているように思われる。しかし、この作品を見て私が最初に思ったのは、太ったオネエキャラのピン芸人がテレビでできない芸を舞台で披露している、みたいなことだった。動物の鳴き声のような奇声を発したり、自分の腹の肉をつかんで顔を作ったり。切ったオレンジをナイフに刺し、それをナイフごと口に入れて食べるかと思えば、「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら踊る。大道芸を見ているようでもあれば、アホな小学生がふざけているのを見せられているようでもある。変な生き物をあっけにとられつつ見た感じ。

 しかし、ダンサーが自由奔放に振る舞っているように見せてはいるが、その実よくコントロールされた作品であると思う。椅子の正面に設置されたビデオ・カメラは、椅子に座ったAlbert Ibokwe Kohzaの顔を正面から捉え、それを背後のスクリーンに映している。オレンジを食べる時も、メーキャップをする時も、スクリーンの彼は正面を見据えている。それはつまり、自分の手元を見ることなくナイフ(と言っても小さな果物ナイフではなく、包丁である)でオレンジを切り、ナイフに刺したオレンジを口に持って行っているのだ。包丁を口の中に入れている時も正面を見ており、よくこんな恐ろしいことをするな、と思った。鏡に顔を写しながら化粧をする時もやはり正面を見ているので、これもまたよく上手いこと化粧をするな、と思ったのだった。

 また、クライマックスで青いペイントを全身に塗る際、全裸である。しかし、照明の絶妙な加減によって大きなお腹の影になるため、彼の下腹部は見えない。なんだか妙なところに感心しているようだが、そういうこともあって、パフォーマーたるAlbert Ibokwe Kohzaは、最後まで男か女かよくわからない。男のような女のような生き物、一個の裸の人間の身体であった。

 プラスチック・ラップに包まれた肉の塊が自由を得た。それは罪にまみれ、凶暴で醜く、グロテスクである。しかし同時に、目の離せない何か、その存在に対する言い知れない痛み、七色の蛾のような奇妙な美しさがある。それはまた、青い色が想起させる、悲しさだったかもしれない。20171130日)

上演終了後の舞台。オレンジや羽根、いろいろなものがある。

Tuesday, 20 March 2018

『ダンス』Mark(マーク)


201792
Mark(マーク)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: シンガポール
製作: Singapore International Festival of Arts
振付: Daniel Kok
台本: Claudia Bosse
出演: Lee Mun Wai, Melissa Quek, Patricia Toh, Jereh Leong, Yazid Jalil, Felicia Lim, Elizabeth Chan, Phitthaya Phaefuang “Sun”, Otniel Tasman
見た場所: Marina Bay Sands Event Plaza


 シンガポールのダンサー/コリオグラファー、Disco DannyことDaniel Kok振付によるダンス公演である。ただし公演場所は屋外の公共スペース。しかも公演日によって異なっており、National Library(国立図書館)の前、Scapeの広場ときて、私が行った最終日の会場は、Marina Bay Sands Event Plaza、マリーナベイ・サンズ・ホテルに併設している高級ショッピング・モール前の広場だった。(ちなみにScapeがどのような場所なのか説明するのが難しいのだが、簡単に言うと、今時な感じの青少年センターである。)開始時間は常に午後5時半から。夕日とともに行われ、シンガポールの日没時刻、午後7時頃に終了するよう設定されている。当たり前だが、公共スペースで行われる公演なので、無料である。通りがかったら何かやっているので立ち止まって見てみた、という感じでももちろん大丈夫。

 しかし、私はわざわざこのために、時間を合わせて見に行った。滅多に行かないマリーナベイ・サンズに。5時半前には着いていたが、マリーナ湾に面しているこの広場、湾から西日が直接当たって、暑かった。この公演を見るためにやって来た、私のようなごくろうな人々が結構いて、なんとなく中心を空けた感じで(実際に広場のどの辺りで行われるのかはっきりしないため)、海側の手すりの傍とか音響装置の近くとか、それぞれ思い思いの場所で待っていた。

公演前。暑い。

 プログラムでは5時半開始となっていたものの、実際に始まったのは6時近くになってからだった。間隔を置いて聞こえてくる、モワーン、モワーンという音とともに、9人のダンサー達がバラバラにポーズを取り、そして少しずつ動く。ダンサー達はお互いにかなり離れて立っており、しかも地味な色のトレーニングウェアを着ているので目立たない。だから最初は、いつ始まったのか気づかないくらいである。しかし、常でない場所での公演で、これから何が起こるかとわくわくした。

実のところ始まっている(右端)。左端で黄色の帽子をかぶって腕を組んで立っている人がDaniel Kok。
 
 ダンサー達の動きは滑らかではなく、カクカクとしたものである。そして時々、場所を変える。見ている方としては、自分の目の前でダンサーが動きをとっている時もあれば、全員が反対側の方にいるような時もある。別に同じ場所で見ている必要もないので、自分が見たいように時々移動をした。

 そのうち、ダンサー達は色とりどりの糸巻きを放り投げ、その糸に自らが絡めとられるかのように動く。そして近くの観客に糸の一方の端を持っているように頼む。もう一方の端にいるダンサー達はますます絡めとられるかのようになり、その動きは激しくなる。全身に絡み付いた糸から抜け出られずにあえいでいるようで、回転したり倒れたり。


 その後、ここで一旦仕切り直しがされるかのように、あらかじめ巻いて置いてある白いプラスチックシートの前でダンサー達が整列する。全員でそれを広げ、テープで端を止める。面白いことに、それまで(ダンサーがどれくらい動くかわからないため)遠巻きに見ていた観客達が、シートが敷かれた途端に、そのシートの端ぎりぎりまでスペースを詰め始めた。私も近寄って行った。今まで場というものがはっきりしていなかったのが、シートが敷かれた途端に、観客にも上演される場がわかってしまったゆえである。その場所全体が上演スペースに成り得た時は、観客の方に若干の緊張が無意識にあったのではないかと思う。

巻かれたプラスチックシートの前に並ぶダンサー達

 シートを設置した後、ダンサー達は黒いチョークを折ってバラバラにし、それを体で押しつぶして、白いシートの上に黒い後を残して行く。そのうち一人が袋から白い粉を出して、地面に叩きつけるようにしながら撒き始める。このシートの上でのパートになって初めて———一組だけではあるが———二人のダンサーが絡み合って踊る姿を見ることができる。今までは全員が、それぞれ思い思いの動きをしていたのだ。やがて他のダンサー達も、異なる色の粉をやはり叩きつけながらまき散らし出す。何人かの観客が任意で呼ばれ、ダンサー達とともにシートにチョークで線を描くことに参加させられる。ますます大量の粉が撒かれ、這いつくばった人達が落書き様の線を描き、一組はレスリングのように体を打ち付け合い、ダンサーも参加している観客も粉で汚れて見分けがつかなくなり———そんな何がなんだかよくわからないドロドロの状態になる。そして最後は、全員一丸となって盛大に色粉をまき散らして終了。湾の西日は落ちて、夕闇が近かった。

ダンサーが観客を引き込む。


 公演が行われた三カ所のうち、マリーナベイ・サンズは、新しく観光向けに整備されているがゆえに最も美しい場所だった。また、プログラム記載の紹介文や、先のNational Libraryでの公演写真を見る限り、なんとなく美しいパフォーマンスが見られるものと思っていた(時間も日没に合わせていることだし)。しかし実際には、このリッチできれいな場所には似合わないパフォーマンスが繰り広げられたのだった。
 
 この「Mark」の台本を担当したClaudia Bosseによると、作品を作っていく上でDaniel Kokが挙げたのは、以下の三つの要素だったという。一つは、インドのホーリー祭(色粉や色水を掛け合うヒンドゥー教のお祭り)、もう一つはPink Dot(ピンク・ドット)、そして最後の一つはより抽象的で、現在の世界的な政治秩序に関連してどんなアートが必要とされるか、という一般的な問いかけ。ちなみにピンク・ドットとは、シンガポールで年に一度行われている、LGBTのコミュニティを支援するイベントである。行われるのは毎年6月頃(今年は71日だった)なのだが、社会と愛の多様性を認め、LGBTの権利拡大を支援したいと思ったら、この日の定められた時間にピンク色の入った服を着てHong Lim Parkに行くと良い。そこに集まった皆で、ピンク色の点(ドット)を形づくって上から写真を撮る、というのが基本の活動だと思う。(私も、参加している知り合いはいるが、自分が行ったことがあるわけではないので、さらにどんなことが行われているのかはわからないのだが。)
 
 こう言ってはなんだけど、概してコリオグラファーのコンセプトに関する話というのは難しいことが多いので、この三つの要素が作品にどう反映されているか、と考えてもあまりよくわからない。色粉をまき散らすのは、ホーリー祭からなんだろうな、とは思うけど。また、ホーリー祭にしろピンク・ドットにしろ、公共の場において、多くの人を巻き込んで記憶されるべき特別なことを行うというコンセプトは共通している。ただ、先に書いたマリーナベイ・サンズに似合わない作品の過激さは、これらの要素がコンセプトとしてあるからではないかと思う。
 
 ダンサー達のぎこちない動きや、細い糸に絡めとられ、色粉の中でのたうち回る様は、なんとなく地獄絵図的だと、私は思ったのだった。しかも、地獄と言っても真っ黒でも真っ赤でもない。糸も粉も色とりどりで美しい。皮肉にも非常に魅力的である。自然の美が輝く夕日の時刻、しかしそんなことには構わないかのように、美しい色糸に取り巻かれて苦しむ。ネット社会の現代の縮図と取れなくもない。やがて色粉を叩き付けながら、荒ぶる感情を解き放っていく。全員が汚れて何がなんだかわからない状態になるにつれ、地獄絵図的なものが、祝祭的になっていく気がした。そしてラストの、参加している観客も一緒になって色粉をまき散らして終わるというパートでは、もはや祭りのフィナーレを見る楽しさがあった。観客をパフォーマンスに巻き込む意味は、このラストで見ている側との一体感を強めるためにあったのではないかと思う。彼らの祭りの終わりではなく、私達の祭りの終わり。そしてあくせくとした時間から解放される、今日一日の終わりであった。2017107日)

フィナーレ
 

Monday, 12 March 2018

『ダンス』Le Syndrome Ian(ル・シンドローム・イアン)


2017825
Le Syndrome Ian(ル・シンドローム・イアン)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: フランス
カンパニー: ICI (Institut Choregraphique International)-CCN Montpellier
振付: Christian Rizzo(クリスチャン・リゾ)
見た場所: SOTA Drama Theatre

 6、7月に開催されたプレ・フェスティバル「The O.P.E.N.」を経て、メインである「Singapore International Festival of Arts」(シンガポール国際芸術祭、SIFA)が始まった。今年はフェスティバル・ディレクターであるOng Keng Sen(オン・ケンセン)にとって最後の年であるが、本年もやはり知的でエッジの効いた作品や企画が揃ったと思う。観客として、演出家のオン・ケンセンには言いたいこともあるのだが、芸術祭のディレクター、キュレイターのオン・ケンセンの目は素晴らしいものだった。名残惜しく別れを告げる今年のSIFAである。

 「Le Syndrome Ian」は、コリオグラファー、クリスチャン・リゾによる三部作の三番目の作品にあたるのだそうだ。この三部作のテーマは、アーティストによるダンスと、無名の「発見されたダンス」との関係についてだと言う。他の二作品は見ていないので何とも言えないのだが、この「Le Syndrome Ian」について言えば、クラブ・ダンスをダンスする、ということだと思う。タイトルの「Ian」は、ポストパンクの代表的なバンド、ジョイ・ディヴィジョンのボーカリスト、イアン・カーティスの「Ian」である。


 そういうわけで、舞台ではループするビート——しかし速すぎず、音と音との間隔が広い——が流れている。このもぁっとした、全く明るくないビートが流れる中、10人ほどのダンサーが二つの塊を作っている。それぞれ体を寄せ合って丸くなったまま、ビートに合わせて心なし体を揺らしている。全員同じ、白い半袖ポロシャツに黒のパンツ、白いスニーカーという衣装。二つの塊はビートとともにゆっくりと解けていき、ダンサー達はそれぞれ踊り出す。彼らの動きは難しそうには見えない。横に揺れ、時おりその場でターンしたり、片手を上げてみたりする。また、ペアになってただ揺れていたりする。それを見ていて改めて思ったのが、人が曲に乗ってちょっと(決して激しくではない)体を揺らす時、たいてい横揺れだよな、ということだった。クラブやライブハウスで人が踊る姿を模している一方、その動きは次第にシャープになっていく。ついにはパフォーマンスとしてのダンスらしく、フォーメーションを作るのだが、すぐ崩れてしまう。そしてまた、クラブ・ダンスに戻って行く。時おりスモークが舞台を覆い、可動式の風車型の照明はダンサー達によって移動させられ、ライトを当てる場所を変えていく。ビートに乗ったユルい踊りは、「見せる」ダンスとして形をなし、そしてまたグダグダになっていく。その繰り返しに、見ていて若干気が遠くなった。あのビートにまた、催眠効果があると思う。

 皆が同じ日常的な衣装を着て踊る姿に、ふと、かつての勤め先で参加させられたチーム・ビルディングを思い出した。別にチーム・ビルディングで同じ服装をさせられるわけではないが、なぜかグループに分かれてダンスを踊らされたなぁ、と。そこでリーダーになったのはスポーツの得意な同僚だったが、たとえ有名体育学科を卒業した彼女のふさわしい指導を持ってしても、素人の大人が完全にシンクロナイズしてピシピシ踊るというのは(よほど練習しない限り)不可能なのである。身体的にも心理的にも。今回、フォーメーションを作って、てんでバラバラに片手を上げる動作をするダンサー達を見ていたら、我々のあのダラッダラッとした集合ダンスを、なんとなく思い出したのだった。しかし、彼らのバラバラ感はもちろんわざとなのであって、かつての我々のようにできないからではない。てんでバラバラと言っても、それぞれのダンサーがタイミングを見計らって手を上げているのであって、揃ってはいないが、しかし美しいと言える一定のまとまりと流れを持っている。素人が自分の楽しみのために踊りとも言えないダンスをしているように見せかけつつ、訓練を受けたダンサーが他人に見せるために踊っている。「Le Syndrome Ian」は、この境界を曖昧に行き来する。

 作品の後半に入ると、全身長い毛で覆われ、顔も見えない雪男のような怪物が舞台に現れる。彼(彼女?)は踊る人達を眺めて、また引っ込む。何かの表象かもしれないが、こういうわけのわからないものが登場すると、いかにも「コンテンポラリー」ダンスっぽくなる。とりあえず、反復ビートで気が遠くなりそうだったのが、ハッとなった。そのうち、二人の女性ダンサーを残して、他の人達は舞台から去る。ここで初めて、これまでと同様の見せるダンスを作りつつ同時に崩れていくということを、ペアで行う。そのうちに、先ほどの怪物が人数を増やして登場。舞台を占めると、これまでと同じダンス——横ゆれ、回転、片手を上げる——を始めるが、すぐに倒れてしまう。こうなるともはや、クラブ・ダンスの考察から生まれた、他人に見せるためのダンスというよりも、クラブ・ダンスのパロディのようである。

 最後は、怪物の一人がその着ぐるみを脱ぐ。中から登場するのはピンクのTシャツにレギンスの女性である。風車型の照明に向かい、大音量の音楽(この最後の曲だけ歌詞がある)に合わせて、体を後ろ方向に引きながら狂ったように踊り始める。ここでこの作品は幕となり、本当に幕が降りるのだった。(自分が)行うダンスと(他人に)見せるダンスのバランスは、怪物の登場から、見せるダンスへとぐっと傾き、「作品」になっていく。しかし最後にまた、無名の人(を装う人)によるダンス——踊り手自身の楽しみのためのダンス——へと戻って行ったのだろうと思う。

 ジョイ・ディヴィジョンを聞くことはあっても、いかんせんクラブ・ダンスに思い入れがないせいか、仕事帰りで疲れたのか、眠くなった部分も正直ある。あるが、知的という意味では刺激的で、かつユニークな作品だと思う。曖昧に往き交う、行うダンスと見せるダンスを見ていると、そもそも観客としてダンスを見るとはどういうことなのかと、改めて思い悩みたくなってくる。ところで、見ている間、この作品のループするビートは、どことなく「Blue Monday」っぽいと思っていたのだが、知人は「The Perfect Kiss」を思い出したと言っていた。どっちの曲もジョイ・ディヴィジョンではなくて、ニュー・オーダーだけど。2017918日)

終演後。風車型の照明と脱ぎ捨てられた着ぐるみ(左端)
  
 関係ないのだが、この日、Singapore Night FestivalがBras Basah Road界隈で開催されていた。数々のイベントが行われていたが、下記は、Singapore Art Museumの建物全体を利用したライトアップ。