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Sunday, 26 April 2020

『映画』Approved for Adoption(Couleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)


20181028
Approved for AdoptionCouleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)」・・・Painting with Light (Festival of International Films on Art)
公開年: 2012
製作国: フランス、ベルギー、韓国、スイス
監督: Jung(ユン), Laurent Boileau(ローラン・ボアロー)
見た場所: National Gallery Singapore

National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術についての映画を集めた映画祭「Painting with Light」で上映。この「Approved for Adoption(原題Couleur de peau: Miel)」は、ベルギーのバンド・デシネ作家Jung(ユン)が、自らの半生をアニメーションとドキュメンタリー映像で描いた作品で、ドキュメンタリーの作り手であるLaurent Boileau(ローラン・ボアロー)との共同監督作。日本でも「はちみつ色のユン」というタイトルで公開された。

映画祭のプログラムから

冒頭、雪の積もる山間の施設から、先生のような人と一緒に歌いながら歩いてくるアジア系の子供達。一転して食堂のシーンになり、子供達がお椀に注がれたお粥を食べている。自分に与えられたお椀を食べ終わると、隣の子が食べ残していったお椀を当然のように取り上げて、ひたすら食べ続けている男の子が一人いる。この子が、この作品の主人公、ユンである。彼の境遇とどんなキャラクターの子であるのかをこの最初の数分で描き切った、非常に印象的な出だしだった。

ユンは、朝鮮戦争後、海外に養子縁組に出された20万人の孤児の一人である。彼らは米兵と韓国人の母親との間に生まれた子などで、母親が韓国社会の中で子供を育てることができずに捨てられ、海外に養子としてもらわれて行ったのである。ユンも5歳の頃、1人でソウルの通りをさ迷い歩いているところを警察に保護され、孤児院に収容された。そして、ベルギーの夫婦に引き取られて海を渡った。

映画は、アニメーションによるユンの子供時代の回想を中心に、養父母達が撮影した当時の8mm(?)映像、朝鮮戦争後の韓国の状況を説明する記録映像、そして現在、四十代のユンが、養父母に引き取られて以来初めて韓国に「帰った」時の様子を撮影した映像からなっている。

 養父母にはすでに男女合わせて四人の実子がいた。冒頭のシーンからわかるようになかなかタフな性格のユンは、しっかりした養父母の元、四人の子供達とともに、かなりやんちゃな子供としてのびのびと育っていった。しかし、その一方で時おり開かれる密かな記憶の扉があった。


人種が違うゆえにどうしても養子であることを意識せざるを得ない瞬間。街をさ迷っていた孤児の頃。そして(自分を捨てた)顔も思い出せない幻のような母。自分は愛されていたのか、そして愛されているのか。腕白坊主として振舞っているだけにいっそう、言い知れぬその悩みは深い。

 ティーンエイジャーになると、その不安はアイデンティティの揺らぎとともに、ユンの生活態度に現れるようになる。(同じアジアのせいか)日本人に憧れてみるのはまだしも、家出して教会に転がり込み、そこで韓国人たらんとして、ご飯にタバスコ(!)をかけて食べ続ける。(韓国人なら辛い物が食べられるという認識なのだ。)

 タバスコご飯で体を壊したユンを家に連れ帰り、彼の苦悩を優しく受け止めたのは、ベルギーの養母だった。その時、ユンが夢想してきた幻の母はようやく実体を持つ。最後のユンのナレーションの一部、
「人が自分にどこから来たのかと問うのなら、自分はここからで、同時に、別のどこかからなのだ。自分はアジアであり、そしてヨーロッパである。」
 どちらでもない、のではなく、どちらでもある。ユンがそこに行き着くラストは、とても感動的だった。

 ところで、ユンの養父母はさらにもう一人韓国人の女の子を養子にするのだが、養父母が体の弱いその子を特に気遣うことにやきもちを妬いたユンは、こっそり彼女をいじめる。人が悪いことだが、私はこのシーンが何となく好き。2020325日)

Sunday, 5 August 2018

『映画』LÖSS(八里沟/八里溝)、Stories About Him(关于他的故事/彼についての物語)、The Giant(巨人)他


2018429
Animation Shorts(短編アニメーション特集)」・・・Singapore Chinese Film Festival
 Singapore Chinese Film Festival(シンガポール・チャイニーズ・フィルム・フェスティバル)の短編映画プログラムの一つで、短編アニメーションを特集している。Lasalle College of the Arts(ラサール・カレッジ・オブ・アーツ)が映画祭のパートナーで(上映会場もラサールのスクリーニング・ルームだった)、ラサールの学生による作品も2作上映された。上映終了後には、それぞれの作品の監督たるElliot Chong Jia EnSarah Cheok、そして「The Giant」を作ったZhuang兄弟とのトークが行われた。上映されたのは、以下の8作品

LÖSS(八里/八里溝)
公開年: 2016
製作国: 中国/ベルギー/オランダ
監督:  Zhao Yi易)
見た場所: Lasalle College of the Arts


 八里溝(八里沟、中国河南省新郷市の八里溝か)の農夫の元に、「妻」として売られた女性の半生を描く。時に夫から虐待を受けつつも、暗赤色の泥で小さな人形を作ることを慰めとしながら、彼女は貧しくて過酷な生活を生きる。アニメーションだが貧農のセックスが赤裸裸に描かれており、何となく今村昌平作品を思い出させる。彼女の作る人形(ちょっと「さるぼぼ」っぽい)は赤ん坊を模しているように見える。夫は、セックスを強要する恐ろしい存在であると同時に、人並みの幸せを与えてくれる存在かもしれない。そのアンビバレンスを、主人公の現実生活の中に(アニメーションなだけに)無理なく幻想を織り交ぜることで表現する。最初からハッピーエンドで終わる気の全くしない作品なので、来るべき破綻がいつ来るかいつ来るかと、見ている方は緊張しながら待つことになる。ちょっとじりじりさせられる(長い)。その間、四季が移り過ぎてゆき、ついには予期していたような出来事が起こる。でも、そこで映画が終わるのではなく、もう少し続きがあるのだった。

 暗くみじめな話なのだが、その一方で実に美しいアニメーション作品でもある。セリフのない作品だが、雪道を踏みしめて歩く足音や、生の薩摩芋をかじる音など、音響効果が印象的だった。201855日)

Fundamental(基石/ファンダメンタル)
公開年: 2017
製作国: 台湾
監督:  Chiu Shih Chieh邱士杰)
見た場所: Lasalle College of the Arts


 この短編アニメーション特集にはゲイをテーマとしたものが2作品あり、シンガポールの映画レイティングではR2121歳以上のみが鑑賞できる)になっている。しかし、その2作品よりもさらに問題だったのがこの「Fundamental」で、IMDAInfo-communications Media Development Authority、情報通信開発庁、レイティングを付与している政府機関)に三度申請を却下され、映画祭側が(たぶん)拝み倒してようやくR21で上映許可を得たのだった。見ると、政府が良しとしなかった理由がわかる。冒頭、「個人的な物語である」とことわっているものの、いわゆる「キリスト教原理主義」と言われるような、極めて保守的なキリスト教徒の家庭に育った少年の宗教体験が風刺的に描かれているのだ。多民族の調和と治安の維持に厳しいシンガポール政府的には、宗教がらみの作品には特に神経質である。しかしこの作品は、確かに保守派を揶揄していると言えるが、と同時に、(宗教に限らず)大人の押しつけに対して疑問や反抗心を抱く一方、そうした異議を持つことに罪悪感も感じるという思春期の子供の矛盾した感情を、被害妄想的な幻想という形で上手く描き出している。だからこそ可笑しい作品になったと思う。201856日)

Losing Sight of a Longed Place(暗房夜空)
公開年: 2017
製作国: 香港
監督:  Shek Ka Chun(石家俊)、Wong Chun Long俊朗)、Wong Tsz Ying黃梓瑩)
見た場所: Lasalle College of the Arts


 香港に生きるゲイの若者が、家族(特に父)や、権利を求めて活動するLGBTのコミュニティといった、自分自身と自身の周囲を振り返るという、社会的かつ内省的な作品。基本的に、線画に水彩絵の具やクレヨンで色を付けたようなアニメーション。その中でなぜか、蛇口から流れ出た水がバスタブに溜まって行くシーンが印象的だった。夜の暗さと孤独とやり切れなさと、若干のエロスが感じられるからだろう。201857日)

Between Us Two(当然)
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Tan Wei Keong
見た場所: Lasalle College of the Arts


 アメリカで同性と結婚したシンガポールの男性が、亡くなった母に語りかける。実写を利用したアニメーションで、同性婚のシーンもある。「Losing Sight of a Longed Place」と同じく、ゲイをテーマとしているわけだが、この作品もやはり内省的。母へのもの思いを、アニメーションだからこその自由な心象風景に重ね合わせ、5分間で描き切っている。201857日)

Stories About Him于他的故事/彼についての物語)
公開年: 2017
製作国: 台湾
監督:  Yang Yung-Shen咏亘
見た場所: Lasalle College of the Arts


 ナレーターである「私(監督)」はある日、肖像画でしか知らない祖父について、 数多いおばさん達に質問してみた。すると、彼らの話はバラバラで、祖父の瞳の色や彼がどこからやって来たのかさえもはっきりしない・・・。そんな親族達の曖昧な話から組み上げられる、亡き祖父の一代記。おばさん達の説明が逐一アニメーションで表現されるのだが、様々な技法が使われている。そのイマジネーションの広がりが、とても豊かで楽しい。一家族の私的な話なのだが、それと同時に台湾の歴史を語るものであり、また記憶の不確かさについての作品でもある。201857日)

Loop(回路)
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Elliot Chong Jia En佳恩
見た場所: Lasalle College of the Arts


 会場であるラサール・カレッジ・オブ・アーツの学生の作品。孤独な若者が、(たぶん離れて暮らしている)両親への思いを振り払えないで、さらに孤独を感じるという堂々巡りを描いている。のだが、私の察しがよくないせいか、ちょっとわかりづらかった。201858日)

Tiger Baby虎儿/タイガー・ベビー)
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Sarah Cheok石凌菲
見た場所: Lasalle College of the Arts


 こちらもラサールの学生の作品。ストレスだらけの日々の暮らしから、虎になって抜け出すことを夢見る女性。彼女が虎を夢想する時のきっかけとして、かの有名なタイガーバーム(シンガポールのハウ・パー・コーポレーションが作っている軟膏)が使われている。タイガーバームの匂いをかいだり腕に塗ったりすると、すっきりして虎になれるような気が・・・。(別にこの作品がハウ・パー・コーポレーションと提携しているわけではない。)冒頭で、彼女が近所の野良猫達にもタイガーバームの匂いをかがせていて、それが可笑しかった。201858日)

The Giant(巨人)
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Harry & Henry Zhuang
見た場所: Lasalle College of the Arts


 シンガポールの芸術家Tan Swie Hian瑞献)の詩から着想を得た作品。地球を動かす巨人、そして不毛の島に打ち上げられた魚達。そのうちの一匹は海に戻らず、島の地下を探検する。やがて、不毛の島に緑が生まれる。・・・ストップモーション・アニメーションの力作で、島、海、魚などのあらゆるものが細かく切った新聞紙から作られている。張り子の魚等、質感としても味わいがあるが、作品中に時おり文字が読めたり、有名人の写真が見えたりし、新聞紙を材料としていることそれ自体が、人類の歴史のメタファーとしても機能している。上映終了後のトークで監督のZhuang兄弟が、ディズニーのアニメなどだけを見ているとよくわからないが、短編アニメーションを見ると、アニメーションには様々な技法があることに気づかされると言っていた。それがアニメーションの良さであろうと。そこでは作り手の個性が強烈に発揮されるのであり、そしてそれがアニメーションの魅力であると、私も思ったのだった。2018513日)

上映後のトークで撮影に使われた魚の模型を見せる庄兄弟。
双子なのだがどちらがハリーでどちらがヘンリーだったか・・・すまない

会場のラサール・カレッジ・オブ・アーツ

Sunday, 24 June 2018

『映画』Have a Nice Day(好极了/ハヴ・ア・ナイス・デイ)


2018223
Have a Nice Day)」・・・SCUFF(Singapore Cult & Underground Film Festival)
公開年: 2017
製作国:  中国
監督:  Liu Jian(劉健/リウ・ジエン)
見た場所: *Scape

 Scum CinemaによるSCUFFSingapore Cult & Underground Film Festival)の時期がやって来てしまった。一年の経つのが早すぎて早すぎて。今年のプログラムは、このアニメーション「Have a Nice Day」、梶芽衣子主演の「銀蝶渡り鳥」、少年達が主人公のスリラー「Super Dark Times(ぼくらと、ぼくらの闇)」、バイオレンス・ホラーの「Killing Ground(キリング・グラウンド)」の四本だった。子供達が恐ろしい秘密を持ち合うことにも、キャンプに行ってひどい目にあうことにも、あまり興味がわかなかった(というよりも、私には恐すぎる)ので、「Have a Nice Day」と「銀蝶渡り鳥」を見に行った。ちなみに「銀蝶」は旧作のためか、無料だった。


 Xiao Zhangは、ギャングのボスの100万元を運ぶ途中、その金を奪って逃走。目的は、美容整形に失敗したガールフレンドを韓国に連れて行き、整形手術のやり直しをさせてあげるためだった・・・。ここから、100万元を取り戻そうとするボスを始めとして、大金を巡る様々な人々の姿が描かれる。自分の女を寝取った幼なじみの絵描きを締め上げるボス、ボスにXiao Zhangの追跡を依頼された表の職業は肉屋の殺し屋、アホなのか天才なのかよくわからない発明狂の麺屋のおやじ、なぜかシャングリラを夢見るXiao Zhangのガールフレンドの従姉妹等々、おかしな人達満載。しかし、なんとなく、地球のどこかにこういう人達がいるのではないかという、妙なリアル感がある。


 映像についても同様で、設定では中国南部の都市ということになっており、いかにもこういう町がありそうと思わせるほど巧みに描かれている一方、どこか違う惑星の都市のような雰囲気がある。全体的な色調が緑色っぽいせいかもしれない。そして、この独特の雰囲気があるからこそ、ラスト近くの怒濤の展開にも、なんとなく納得がいってしまった。

 大金が手に入ったらシャングリラに行くと言う従姉妹の言葉を受けて、突然始まるカラオケ映像風のシーン。監督自らが作詞した歌「I Love Shangri-La」に合わせてイメージ映像が展開していくわけだが、往年の共産主義ポスターのような絵柄になっている。従姉妹とその彼氏が二人並んで斜め上を向いている構図で、健康的に農作業をしたり家畜を育てたりしているのだが、二人とも青く染めた髪と長髪のままである。いや、なんだこの唐突なミュージカル・シーンは。可笑しい。

 ガールフレンドに整形手術を受けさせるのも、発明家として事業を興すのも、子供を海外に留学させるのも、全てに先立つものはお金である。それは確かにそうなのだが、第五世代の登場から30年を経て、まずは金、という作品を見ようとは。劇中、建設現場のセキュリティ・ガードの会話の中で、「三段階の自由」というものが語られている。第一段階は、「市場で買い物する自由」。商品は限られているが、交渉によって値引きを得ることも可能。第二段階は、「スーパーマーケットで買い物する自由」、そして最後の段階が、「オンライン・ショッピングの自由」。この最終段階では、人は世界中の商品を自分の好きなだけ買うことができる。友人からこの説を唱えられて、相手のセキュリティ・ガードは言う。「俺はまだ、第一段階の自由も十分に得ていない」。金を使えることが自由なのか、それとも、自由とは金で買うものなのか。ユニークな映像とともに面白いブラック・コメディだった。
 (なお、今回上映されたのは、2017年のベルリン映画祭出品時のバージョンだった。)

 翌日、「銀蝶渡り鳥」を見た。このタイトル、生物の名前が二つ入っていて、蝶なんだか鳥なんだかよくわからないなーと思った。それはともかく、梶芽衣子って美人だなーと思いながら見始めたのだが、予想外に、見ていくうちに渡瀬恒彦のことがどんどん好きになっていった。渡瀬恒彦、素晴らしいよ。これも面白い映画だった。201834日)

SCFFオリジナルデザイン、「銀蝶渡り鳥」のポスター

Tuesday, 12 June 2018

『映画』Momotaro, Sacred Sailors(桃太郎 海の神兵)


2018126
Momotaro, Sacred Sailors(桃太郎 海の神兵)」・・・シンガポール陥落のあの時
公開年: 1945
製作国:  日本
監督:  Seo Mitsuyo(瀬尾光世)
見た場所: National Museum of Singapore

 National Museum of Singapore(シンガポール国立博物館)で20179月から「Witness to War: Remembering 1942」という展示が始まった。太平洋戦争について、1942年の日本軍によるシンガポール陥落を中心に、その歴史的資料や市井の人々による戦争体験の証言を集めた展示である。その関連企画が、「Witness to War, Memories and Screens」と題する映画プログラム。第二次世界大戦に関する各国の映画作品を集めており、この「桃太郎 海の神兵」もその一本。他の日本映画としては、「一番美しく」「戦場のメリークリスマス」「火垂るの墓」など。いまいち選択基準がよくわからないのだが、とりあえずこの「桃太郎 海の神兵」だけ見に行った。

 上映が無料で、かつアニメーションのためか、観客は親子連れ(子供に見せてどうなんだ、という気はちょっとするのだが)から戦争体験のありそうなお年のご夫婦まで、様々だった。しかし、プログラムのテーマがテーマなだけに、平均年齢は高め。まぁヒップスターな若者は、こういう歴史的な映画をわざわざ見に行ったりしないのだろう。

 「桃太郎 海の神兵」は、当時の海軍省支援の元に製作された日本初の長編アニメーションで、今回、デジタル修復版での上映だった。映画が始まる前に、戦時下の国策映画ではあるが、日本のアニメーション映画史において非常に重要な作品である点を理解してほしいという字幕が出る。

 映画は、海軍の兵隊さんであるサル吉達が、休暇で故郷の村(富士山の裾野にあるっぽい)に帰って来るところから始まる。この前半の帰省パートが結構に長い。山や田畑、家々はいかにも日本の田舎らしいが、小鳥は歌い、泉はきらめくその風景は、往年のディズニー映画っぽくもある。山を渡る爽やかな風に空を仰ぐサル吉達。叙情的でかつ流れるような動きの映像が美しい。

帰省したサル吉と弟のサンタ

 ちなみにこの作品、後で登場する桃太郎隊長以外は全員動物(例: サル吉→猿)。一応「桃太郎」が下敷きになっているので、東南アジアに駐留している欧米の兵士達が、もちろん鬼である。時おり歌が挿入され、ミュージカル仕立てになっている。

 そして後半は、東南アジアと思しき島での作戦行動が描かれる。そもそもこの映画は、メナド(またはマナド。インドネシア、スラウェシ島の都市)の降下作戦に参加した落下傘部隊の話から、という字幕がオープニングで出る。蘭印作戦の実話を元にしていることをことわっているわけだ。それでこの後半パートだが、ある南の島に海軍本部を設営する所から描かれている。本部設営は、象やサイなど現地の動物達を労働力としてなされる。動物の種類で日本兵と現地住民とを区別しているのだが、その中で、ボルネオ島名物、天狗ザルのおじさんがSongkok(ソンコ、背の高いつば無しの帽子で、一般的にムスリムの男性がかぶる)をかぶっていることに驚く。この細かーい部分でのリアリティ・・・。

 それはともかく、本部が建てられ、桃太郎隊長以下、海軍の兵隊達を載せた輸送機が到着し、訓練が開始される。(ちなみに、私が桃太郎隊長、桃太郎隊長と呼んでいるのは、劇中、桃太郎が胸に付けている名札に「隊長」とだけ書いてあるから。)家族からの郵便を楽しみにする兵士達の姿や、現地の住民に日本語の授業を行う模様などを挟みつつ、作戦の準備は進められる。偵察隊が出て敵地の写真地図が作成され、パラシュートが準備され、いよいよ輸送機に乗って出発。目標地点に辿り着いて、降下———速やかに戦闘態勢を整えると、電光石火の攻撃で敵地を制圧。そして、会談の席でイギリス軍(とおぼしき)角をはやした鬼の司令官に降伏を迫る桃太郎隊長———日本の勝利である。

 作戦の準備から実行までの、段取りのリアリティと描写の詳細さに驚かされる。例えば、兵達が各自パラシュートを巻いて紐で結んで準備した後、それをきちんと装着できるかどうかを上官がチェックする。敵地に向かう途中で雨に振られるのだが、輸送機の天井から雨漏りがするので、兵達はパラシュートが濡れないように抱えこむ。かわいい猿や犬、熊に見えるが、皆プロの兵隊なのである。

 メナドの降下作戦とことわってはいるものの、恐らくシンガポール国民なら誰でも気づくのだが、桃太郎隊長と鬼の司令官との会談は、1942215日、フォード社の工場で行われた日本の山下奉文中将とイギリスのアーサー・パーシバル中将との降伏交渉から取られている。戦争末期の19454月に公開されたこの映画を何人の人が見ることができたのかは不明だが、当時の日本の観客もすぐ気づいたと思う。戦闘シーンがリアルなために、むしろうっかり日本軍がパラシュートを使ってシンガポールに上陸したかのような錯覚を起こしそうだが、実際はそうではない。蘭印作戦にシンガポール陥落、そして劇中で挿入されるゴアの王様の挿話(ゴアの王様が西洋人に国をだまし取られるが、やがて救い主が現れるであろうというお話。ゴアはインドのゴアなのだろうか)———具体的に東南アジアのどこということは明確にせず、戦争の正当性を暗示しつつ、大日本帝国軍の「栄光」の部分を組み合わせて見せている。具体性を欠くことが逆にイメージ戦略としては効果的。しかも、作戦遂行の描写そのものは非常にリアリティがあるため、おとぎ話のように全く違う世界の話をしているようには見えない。動物達は私達の戦争を戦っている。でもその戦争は、実体のない理論的なものなのだ。それは、パラシュートによる上陸後、流れ作業のように訓練された動きで戦闘を開始するにも関わらず、敵側においてさえ決してその血や死が描かれないことにも起因している。兵隊達が家族からの郵便を楽しみにしている一方、偵察に出て戦死した兵の死は悼まれない。いくら「名誉の戦死」と言っても、死はまるで存在しないもののようである。

 国策映画でかつ子供向けであると言ってしまえばそれまでなのだが、かわいい動物達のプロフェッショナルぶりと、しかし血は流れないという不自然さで、ある意味シュールな作品である。見終わった後に不思議な気持ちにさせられる。内容に含まれるプロパガンダを加味せず、アニメーションの技術的及び審美的側面に目を向けると、非常に良く出来た作品だと思う。輸送機等をリアリスティックに描いたタッチと、動物達を可愛く描いたタッチとは異なっており、かつ挿入されるゴアの王様のエピソードは影絵アニメーション風である。感心するシーンがいくつもあるのだが、とりわけモブシーンの動物達の動きの素晴らしさには目を見張る。

 前半の帰省パートで、たくさんのタンポポの冠毛が風にとばされていく様を見て、サル吉は落下傘部隊が降下する光景を夢想する。実際に後の戦闘では、落下傘部隊がパラシュートを広げて降下していく様が俯瞰でとらえられており、そのシーンは叙情的で非常に美しい。戦争を美化していると言えるが、その一方で、ここに否応なしの戦争の美というべきものがあるのかもしれないと思った。映画のラストでは、サル吉の故郷の子供達が落下傘部隊のマネをして遊んでいる。木の上から地面に描かれた地図に向かって飛び降りているのだが、その地図はシンガポールのように、あるいは中国のように見える。プロパガンダとしての意味を考えると個人的には不愉快だが、この作品のラスト・シーンとしてはやはり印象的だった。2018215日)

ちなみにメインである展示「Witness to War」のパンフレット

中味はこんな感じ

展示の一部

Tuesday, 22 August 2017

[Film] The Girl Without Hands (La Jeune Fille Sans Mains)


21 May 2017
“The Girl Without Hands (La Jeune Fille Sans Mains)”---French Animation Film Festival
Release Year: 2016
Country: France
Director: Sebastien Laudenbach
Cast: Anais Dumoustier, Jeremie Elkaim
Location I watched: Alliance Francaise

This year, Alliance Francaise organised the 6th French Animation Film Festival. 6 films were screened, but I only managed to watch this film. “The Girl Without Hands” is adapted from the Brothers Grimm’s famous fairy tale. It was a very good film, but unfortunately the audience was quite small. Perhaps it was because of its M18 rating even though it was a fairy tale adaptation.


The touch of “The Girl Without Hands” is like a watercolor sketch. The images are simple drawings, without details. The drawing is constantly flowing and new images appear, one after another. Even a fixed shot is like a beautiful sketch. Furthermore when the shot starts moving, we realize that is why animation is called animation. Images in this film are literary animated. For example, after the protagonist, the girl, lost her hands, she wanders in the mountains and finally finds a garden the prince owns. The garden at night, illuminated with twinkling lights is an incredible enchanting scene.

The story basically follows the original Grimm’s fairy tale. God (in this film, the God of the river) sometimes helps the girl and some miracles also happen. However, the film takes more time showing the girl’s hardship and endeavors. The touch of the images is gentle and has less details, but the girl’s struggle to live---without her hands, how she changes her baby’s diaper or how she sows vegetable seeds and so on---is elaborately described. As the result, the film became a story about a pure girl, while receiving divine favour, carves out her life for herself and finally gets happiness in her own “hands”. The content, not just the visual images, is beautiful. It is an elegantly powerful film. (28 June 28, 2017)

The ending song, "Wild Girl" is also beautiful.

Sunday, 19 March 2017

[Film] In This Corner of the World (この世界の片隅に)


20 January 2017
In This Corner Of The World(この世界の片隅に)"---“Suzu-san, please be your ordinary self always.”
Release Year: 2016
Country: Japan
Director: KATABUCHI Sunao(片渕須直)
Cast: NONEN Rena (a.k.a. Non)(能年玲奈 a.k.a. のん), HOSOYA Yoshimasa(細谷佳正), OMI Minori(尾身美詞), ONO Daisuke(小野大輔)
Location I watched: Theatre Shinjuku(テアトル新宿)

Story:
In 1944, Suzu, an eighteen-year-old girl in Hiroshima City gets married and starts a new life with her husband and his family in a naval port city, Kure City. Despite short rations and lack of supplies, she manages to do housework for her new family and tries to maintain an ordinary daily life. But air raids on Kure City are growing in intensity day by day, and finally “that day” comes.

The director, KATABUCHI Sunao took six difficult years to complete this film. Meticulous research in Hiroshima was conducted. Crowdfunding was needed to cover a budget shortfall. Before the release, the mass media paid little attention to the film. There was no big promotion since it was not supported by mega distributors. The voice actor of Suzu, the lead protagonist, NONEN Rena a.k.a. Non has been kicked out in show business. The TV industry was reluctant to showcase her work. This film started its theatre run in November 2016 with 63 smaller cinemas. Now, the film is still showing in February 2017 with around 200 cinemas and increasing. While critics gave good reviews, this exceptional hit was accomplished by audience word of mouth, through SNS(social networking services) or real person communication. “In This Corner of the World” is an extraordinary film on that point, too.

Lobby decoration in Theatre Shinjuku, one of the cinema venues run by the film distributor, Tokyo Theatre.
They are enjoying the long and successful run of the film.

In any typical anti-war film, the story would usually climax on the day of the Hiroshima atomic bomb, or the end of the war or the death of someone closest to the protagonist or even the protagonist own death. In “In This Corner Of The World”, those incidents happen. However, those incidents do not offer catharsis to the audience in this film. Although they may be emotional scenes, the most important point of this film is a sense of life continuing. Unexpectedly, this film starts from Suzu’s childhood in 1933, when the sound of military boots was still far for ordinary citizens. War sneaked up on them, changing their life slowly and destroying everything. But the film itself does not end with the end of the war. Surviving citizens still continue to live, struggling with their daily life. Even after the war, life has to continue. This film keeps to the perspective of the ordinary citizen. It makes us, the audience feel close to them. We feel that the past they lived connects to the present we live. War cannot be a special event for them. It becomes a part of their daily life, even as it grows. We cannot make it sure that what happened to them will not happen to us. War is not a far away story, but something real and concrete. Suzu’s small wish in the film “if all my family could always live laughing…” sincerely sinks into our mind.

The sense by which we feel the closeness to the world of the film comes from the amazing details of their daily life. For example, the scenes of Suzu cooking wild grass to overcome food shortage, or how she recycles her old Kimono cloth to make a Monpe (traditional female working pants). This film also shows elaborated details of the landscape in Hiroshima City or Kure City. Although it is an animation film, reality is thoroughly pursued.

In This Corner of the World” is a quite realistic film, but it also shows Suzu’s personal world with great imagination. The film begins with Suzu’s narration in 1933. We feel as if her voice continues throughout either through dialogue or her inner monologue. Suzu is a gentle and calm girl. Even in her monologue, she never imposes her thought or opinion on us. Listening to her slow tempo voice is comfortable for the audience. She is so humble that it is a little bit difficult to read her mind, but we do not hesitate to feel familiar with her. Suzu is also an artist; her talent is in drawing pictures. In the film, her drawings sometimes get up from the paper and fly off to the real world. It is the moment where Suzu’s real world and her imagined world blend into each other. It is a dreamy moment not only for her, but also for us. However, in the most crucial scene of the film, the moment turns to a shocking and heartbreaking one. Although the moment is the most horrible, the film expression to capture the scene is remarkable and impactful. The seamless expression between real and image is the magic of animation. When we see the world she lives from her viewpoint, her world also becomes our world.

In interviews, KATABUCHI Sunao, the director said that he wanted the audience to experience the days with Suzu there as if they took a time machine. His wish seems to have reached the audience. So a lot of people were enchanted by this film. The audience age ranged was wide, from elderlies who had experienced firsthand the World War 2 to youths who are the same age as Suzu. Perhaps for the elderlies, the details of ordinary life reminds of their own experience. Perhaps for the youths whose grandparents also have not experienced the war, it is easier to accept than other war films because they can identify with a protagonist who laughs, sorrows, loves and cries even on the home front.

One reader of a film magazine commented that “The more times you watch it, the more you will cry for it. It is a horrible film.” Although the word “horrible” was used as a joke, this film actually has enjoyed a lot of repeat audience. Even when I went to the cinema, there was a person talking about how many times he watched. One of the reasons for the repeat viewing was the elaborate description in each scene. The audience does not get easily tired from watching it.

Secondly, this film has a high density of information. Along with Suzu’s mild personality and voice, the story is expected to move forward slowly. However, the film is actually compressing a lot of information while going along quite smoothly. Explaining everything is avoided. For example, while Suzu is sewing her Monpe pants, she saw Harumi, her husband’s niece sitting next to her. Then the next shot is extra pieces from her cloth and a red string. Afterwards in later scenes, the audience notices Harumi is always carrying a cute pouch made from the same cloth as Suzu’s Monpe. Suzu made a pouch for Harumi and gave it to her, but we did not have to see such dull scenes. On the first viewing, we might not notice subtle episodes or deeper meanings hinted in each scene, like Harumi’s pouch. I think this is the second reason for repeat viewing.

However, I assume, the most important reason is that the audience feels like going to meet Suzu again. This film has a power to make the audience love what Suzu loves and seduce the audience to share joy or sadness with Suzu. Perhaps this is the point of being a “horrible” film. It is a drastic difference from a film like TAKAHATA Isao’s “Grave Of The Fireflies”. I watched “Grave Of The Fireflies” in the cinema. While I willingly admit the film is a masterpiece, I never want to watch it again. (Empire Magazine awarded “Grave Of The Fireflies” one of the top 10 all time depressing movies). But I do not mind at all watching “In This Corner Of The World” again. Are we feeling pity for Suzu or do we want to cry for Suzu? I do not think so. We, rather, want to be touched by her gentle hand, and maybe be encouraged to live.

Cover of the original sound track CD
Suzu and her in-laws

By the way, being a hard aunty, I found myself sympathizing more with Keiko than with Suzu. Keiko is Suzu’s severe sister-in-law and also Harumi’s mother. In adapting a feature-length film from the manga comic book, KATABUCHI needed to choose from the many episodes of the original story. He decided to focus on the relationship between Keiko and Suzu. I think that was the right decision. Keiko is nice… (9 February 2017)