Sunday 16 September 2018

『演劇』Ingatan(インガタン) --- ジョージタウン・フェスティバル


2018812
Ingatan(インガタン)」---George Town Festival(ジョージタウン・フェスティバル)
国: マレーシア
カンパニー: Main Theatre(マイン・シアター)
演出: Fasyali Fadzly(ファシャリ・ファズリ)
見た場所: The Star Pitt St., George Town, Penang, Malaysia

 ジョージタウン・フェスティバルのプログラムの一つ。元々は、201710月、東京は杉並区の芸術会館、座・高円寺で開催されたイベント「ひとつの机とふたつの椅子と越境者たち」という、アジア各国の舞台芸術家によるワークショップや作品上演のイベントで上演されたらしい。情報が少ないのでよくわからないのだが、この時の作品は上演時間も短く(20分くらい?)、出演者も二人だったようだ。今回の上演では上演時間はおよそ一時間で、登場人物も三人いた。


 作品が始まると、舞台では一組の若夫婦が引っ越しの用意をしている。夫の実家を今日引き払うのだ。夫の妹も手伝いに来ている。荷物を片付けながら、夫婦の話題は、亡くなった夫の両親に及ぶ。先に逝った母、その後認知症を発症した父。母が亡くなったことも忘れてしまった父との最期の日々。

 父母と過ごした思い出深い家を去る時の感傷を、現代の老いの問題と絡めて描いた、ストーリーとしてはシンプルな作品である。しかし、この作品は「iPuppad theatre」と銘打っている。いわく、「iPadと人形劇のハイブリッド」。夫、妻、妹の三人の他に、作品の主要部分を占める回想パートでは、夫の両親が登場する。登場するが、この両親は、等身大の段ボール製の人形によって演じられる。人形はデッサン用のモデル人形のようで、(マレーのおじさん・おばさんが通常着ている)伝統的なマレー服を着ている。デッサン人形なので顔に目鼻はない。その代わり、顔にはタブレット(iPuppadと言うからにはiPadなのだろう)が装着されており、その画面全体に顔写真が表示されている。写真データが人形の顔なのだ。三人の出演者達は、人形の腕に付けられた棒を操作して人形を操るとともに、顔のタブレットに録音されたセリフを流すことで、人形と会話のやり取りもする。だから、「iPuppad tehatre」なのだ。

終演後に撮影したお父さん人形

 等身大の人形を操作するのも大変なら、タイミングを合わせて人形と対話をするのも大変だと思う。そういう進行の大変さの上に(と言うよりもだからこそ)上演時間が一時間で短いということもあり、内容的には老いや家族の問題を突き詰めるようなものではない。認知症となった父との葛藤が描かれているわけではなく、シンプルで優しい筋運びである。両親に対する息子の惜別の情が伝わってくる反面、物語としては今一つ物足りない感じがする。

 しかし、この作品が問題としているのは、実のところ老いや家族ではないのではないか、と思う。もちろん、それもテーマの一つではあるだろうが、タイトルの「Ingatan」がマレー語で記憶という意味であるように、ここで扱われているのは、記憶そのものについてである。作品の冒頭、夫と妻はそれぞれのタブレットに保存されている写真を見て、思い出を語る。夫よりも早くに両親を亡くしている妻は、写真を見ながら言う。「私、写真を消さないわ。(消さなければ)いつでも彼らが私と一緒にいるような気持ちになれるから。」そう彼女が言う通り、人形に顔写真の表示されたタブレットが取り付けられた時、亡くなった夫の両親は蘇る。写真技術が変貌を遂げても、人が何かを記憶に留めておきたいと思って写真を撮るのは変わらない。本棚のフォト・アルバムだろうがクラウドサービスだろうが、自分の脳の記憶だけに頼らず、写真を撮ってはせっせと溜め込んでいる。一方で夫の父は、自分の妻の死という忘れたいことも、自分の息子の顔という忘れたくないことも、本人の思いに関わらず全て忘れていってしまう。しかし、息子は、自分の父を決して忘れたくはない。

 ここで、もし通常の芝居のように、回想シーンが両親役の俳優によって演じられたのなら、なんていうこともない良い話で終わってしまっただろう。しかし、両親を演じるのはタブレットの顔をつけた人形である。それは、彼らの不在を強烈に感じさせ、もはや彼らが写真の中、息子が留めておきたいと願った記憶の中にしか存在しないことを意味する。しかも、タブレットの写真の顔は、父の方が息子である夫の顔で、母の方は妻なのだ。それは、過去の両親の姿であると同時に、未来の彼ら夫婦を暗示しているようでもある。また、思い出す両親が自分達自身であることに、一見客観的な素材である写真を介してさえも、記憶とはつまるところ当人自身の内にのみ存在する問題なのだと、示しているようでもある。記憶、思い出で問題となるのは、それが過去実際に起こったということ自体ではなく、それによって自分がどう感じたか、あるいは感じているか、ということだと思う。タブレット人形のギミックは、息子の記憶を通した生前の両親を描き出す。それは記憶、思い出に過ぎない。しかしだからこそ、彼の亡き両親への愛情が、見ている者に切なく伝わる作品となった。

会場のThe Star Pitt St.

 タブレット人形のアイデアがどうやって生み出されたのかは知らないが、マレーシアはタブレット・ユーザーが多いと思う。あくまでも私見だし、今はスマートフォン全盛なのでそうではないのだけど。今より6、7年前、マレーシアで集合写真を撮る場面に出くわすと、たいていグループの中のおじさんかおばさんの誰かがタブレットを持っていた。大きい分だけ、デジタルカメラや携帯電話よりも扱いにくいのでは、と当時の私は思っていたのだが、タブレットを構えて記念撮影をする姿をよく見かけたものである。ちなみにシンガポールでは、この「おじさん、おばさんがタブレットを持ち歩いている」という現象のないまま、スマートフォン時代になったと思う。

 ところで、今回急にペナン島に行くことを決めたので、あまり事前に下調べをしなかった。そういうわけで、食が有名なペナン島だけど、あまり名物は食べられなかった。と言いつつ、海沿いのEsplanade Park Food Courtのミーゴレン(マレーシア、インドネシア、シンガポール一帯の焼きそば料理)は食べた。行列ができる有名なお店である。確かに、今まで食べたことのあるミーゴレンとは全く違った。通常のミーゴレンの上にイカ(カトルフィッシュと思われる)のソースがかかっていて美味しかった。しかし、とても濃いお味だった。なんと言うか、例えるなら、十二分にたっぷりソースのかかったお好み焼きの上に、さらにこれでもかと言うくらいにマヨネーズをかけた、みたいな感じ。値段は一人前で5マレーシアリンギットだったと思う。安い。201898日)

Esplanade Parkのミーゴレン。これはちょっと多めのラージサイズ(7リンギット)。

Sunday 9 September 2018

『VR(バーチャル・リアリティ)』WHIST --- ジョージタウン・フェスティバル


2018812
WHIST---George Town Festival(ジョージタウン・フェスティバル)
国: イギリス
芸術監督: Esteban Fourmi and Aoi Nakamura (AΦE)
見た場所: Wisma Yeap Chor Ee, George Town, Penang, Malaysia

参加者が見ることのできる映像の一つ

 マレーシアはペナン島で毎年開催されている、ジョージタウン・フェスティバルのプログラムの一つ。フェスティバルのパンフレットによると、「76種類の様々な視点の一つを通して家族の物語を探る、フィジカル・シアター、インタラクティブVR(バーチャル・リアリティ)とAR(オーグメンテッド・リアリティ)を融合した一時間の体験」とある。さらに、「「WHIST」はジークムント・フロイトの著作にインスパイアされており、架空の家族の夢や恐怖、欲望を通して、参加者を無意識の精神の旅路へと招待する。」などともある。なんかすごそうだ。すごそうなのだが、簡単に言うと、参加者はVRヘッドマウントディスプレイを装着し、会場のそこここに設置されたオブジェを視線に捉え、それをきっかけとして始まる映像を見る、というものである。そしてその映像が、フロイトのエディプスコンプレックス的な内容だよ、と。

参加者の様子。誰しもこういう感じになる。

 「WHIST」は無料で参加できたが、ただし一回毎の参加人数が限られるので、事前に登録が必要。会場に行くと、ランダムに78人のグループに分けられ、まずスタッフによるオリエンテーションを受けることになる。ヘッドマウントディスプレイの操作の仕方や、どうやってVR体験を進めていくか、その他注意事項など。その後、スタッフが一人一人にディスプレイを装着させてくれるので、ボリュームやフォーカスを自分で調整。ディスプレイに表示される取扱説明書を見た後、本編が始まる。最初の地点では、グループ全員が同じオブジェを見て(ヘッドマウントディスプレイでスキャンして)、それをきっかけとして起動される映像を見る。それが終わると、各自のディスプレイに次のオブジェが表示されるので、その場所に行ってオブジェをスキャンしてまた映像を見る。これを繰り返すのだ。映像は各56分くらいの長さではないかと思う。最初の地点は全員同じでも、その後はばらけて行くため、結果的に皆が思い思いにオブジェを求めてウロウロ歩くことになる。柱や人にぶつかると危険なので、映像を見ている間は座るように、最初のオリエンテーションで言われた。なかなか上手くスキャンが行かず、映像が始まらない時もあれば、そのオブジェをスキャンするつもりがなくても、通りがかっただけでうっかり映像が起動してしまうこともある。そうやってウロウロと座り込みを繰り返していると、やがて終了映像が現れ、ある数字がディスプレイに表示される。この数字を覚えておいて、後で教えてもらったウェブサイトに行くと、各番号の元にある精神(?)分析結果を見ることができる。

会場内に置かれているオブジェの数々。


 私の見た映像はどれも、廃墟のような洋館の一室を思わせる場所で、二人の白人男性と一人のアジア人女性を主な登場人物としていた。例えば、若い白人男性が「お母さん」と言いながらソファの上で身悶えするとか。男性二人と女性一人が、ホールに取り付けられたいくつかのドアを、それぞれ出たり入ったりするとか。VRという言葉に期待するほど臨場感があるわけではないが、映像の中心にいてぐるっと360度見回すような視線を得ることができる。一つの映像では、自分がスーツ姿で椅子に腰掛けているような視線となっており、その目の前で若い女性が寝転がってセクシーに踊る。しかし、自分が登場人物の一人になっていると言っても、座っている(はずの)自分の顔の一部を見ることは決してないのだから、やはりまやかしなのだ。また別の映像では、自分が円卓の中央の上にいるような視線になっており、見回すと件の三人が腰掛けていて、食事をしようとしている(しかし、決して食物を口に入れることはできない)。三人のうち一人の動作を見ていて、はっと振り返ると他の人がさっきと違うことをしていたりする。見ているものが映像に過ぎないことはあきらかではあるのだが、通常映画などを見る時にはない視線を得られるので、確かに面白い。

 しかし、私にとってより印象的だったのは、その映像がなんかこう寺山修司の短編実験映画みたいだったことだ。青っぽいセピア色っぽい廃墟じみた洋室だったり、ストレートのロングヘアーのアジア人女性が意味ありげに怪しく現れたり、私には見覚えのあるレトロ感だった。一見大時代的だが、見世物的気持ち悪さがある。フロイトの精神分析を意識した映像だと思うと、なんだかつまらなくなるので、寺山修司みたいなアングラ芸術だと思った方が良いと思う。かえって楽しく見られる。

 この作品を制作したAΦEは、 フランス人ダンサーEsteban Fourmiと日本人ダンサーAoi Nakamuraの二人組からなるダンス・カンパニーで、拠点はイギリスのアッシュフォードにあるらしい。制作者がダンサーと知って、なんとなく合点のいった所もある。登場人物がまさに踊るシーンもあるが、それよりも三人の登場人物が入れ違いに複数のドアを出たり入ったりする場面など、ダンスっぽい動きだと思うのだ。

 参加したのは一時間弱なのに、見終わった後は頭がクラクラして、座って休まずにはいられなかった。使用しているヘッドマウントディスプレイが重いこともあって、立ったり座ったり、見回したりすることが、思いの他疲れる。でも、試みとしては面白かった。一つの場所に皆で集まっているのに、全員が違うものを見ていて没交渉、にも関わらず同じことをしており、皆で一緒にいる感じがする。この点が、VRで体験する深層心理的な世界云々よりも、まさにスマートフォン時代の新体験という気がして興味深かった。

 終了後、映像の終わりに表示された番号をメモするカードがもらえる。後日、指定されたウェブサイトに行って、その番号の分析結果を確認した。この番号を得た人の意識下にはこういう欲望が云々といったことが書かれているわけではなく、フロイトの理論の一部を説明したようなものだった。ちなみに他の番号のものも見てみたが、どれも同じような感じだった。まぁ、予期せぬ所で指定外のオブジェをスキャンしてしまうようなこともあるとはいえ、基本的にはたまたまそのようにプログラミングされたヘッドマウントディスプレイを身につけた、というだけに過ぎないので、この部分は一種の遊びというか、映像の解説だと思う。

終了後にもらえるメモ用カードの一つ

会場となったWisma Yeap Chor Ee

 さて、「WHIST」に参加した後、頭の疲れを少し休めてから、会場近くで開催されていたエキシビションを見に行った。フェスティバルの期間中、ジョージタウンの町のあちこちで、様々な展示を見ることができる。だから町歩きが楽しい。と、言いたい所だが、いや確かに楽しいのだが、暑い。とても暑い。暑かったよ、昼間のジョージタウン。でも、今年はもしかしたら日本の方が暑かったのかも、とちょっと想像したのだった。201893日)

別の会場、Bangunan U.A.B.で見たエキシビション「Forbidden Fruits」

Sunday 2 September 2018

『パフォーマンス』2062 --- ジョージタウン・フェスティバル


2018811
2062---George Town Festival
国: スペイン
製作: Karla Kracht, Andres Beladiez
アイデア/構想: Karla Kracht, Andres Beladiez
作劇/サウンド: Andres Beladiez
セットデザイン/カメラ/アニメーション: Karla Kracht
見た場所: Loft 29 (George Town, Penang, Malaysia)


 マレーシアはペナン島のジョージタウンで開催されている、George Town Festival(ジョージタウン・フェスティバル)に行ってきた。ジョージタウン・フェスティバルは、ジョージタウンの町並みがユネスコの世界遺産に登録されたことを記念して、2010年から毎年開催されている文化芸術のフェスティバルである。一ヶ月の会期中、町のあちこちでエキシビションや舞台芸術、コンサート、パフォーマンス、芸術関係のワークショップ等々、様々なイベントが行われている。今年は84日から92日まで開催。私が最後にジョージタウンを訪れたのは、2009年の2月だった。その後十年が経ち、今やジョージタウンはアートの町となっていたのだった。

ペナン国際空港にて

「2062」の会場、Loft 29

 「2062」は、Karla KrachtAndres Beladiezという二人のアーティストによるプロジェクト、ZOOM WOOZの作品である。アニメーション等をビデオ・アーティストでイラストレーターのKarlaが、作劇等を演出家であるAndresが担当している。アニメーションや映像を積極的に取り入れた独自の方法による舞台作品を志向しているという。

 ところで最近、アーティストの活動域がますますクロスボーダー化しており、作品がどこの国のものだと言ったらいいのか困ることが多い。身軽に世界中で活動する個人のアーティストの場合は特に、国名を記載してもあまり意味のない場合もある気がしている。国名を記載すると、その作品がその国の文化芸術の一部をなしているように誤解したくなるが、作品とその国との間にさしたる関係のない場合もありうるからだ。この「2062」について言えば、Karlaはドイツ人でAndresはスペイン人だと思うが、ZOOM WOOZの拠点はスペインの都市、バルセロナとグアダラハラである。二人がプロデューサーも兼ねているが、初演は韓国のSeoul Art Space Geumcheonで、このソウルの芸術センターがスポンサーの一人でもあるらしい。とりあえずここではZOOM WOOZの拠点があるということで、ざっくりと「スペイン」にしておいた。

 さて、この「2062」がどのような作品かと言うと、フェスティバルのプログラムには、「映画的なパフォーマンスを生み出すために影絵芝居や小道具を用いつつ、イラストレーションとアニメーションの形式を通して描き出したデストピアな世界についての実験的なショウ」とある。もっと簡単に言うと、用意された小道具や装置をその場で撮影してアニメーションと合成し、やはりその場で音響効果をつけてスクリーンに映写するという作品。リアルタイムで制作されるビデオ・インスタレーションという感じである。

 基本的には映画を見るのと同じなので、客席の正面に大きなスクリーンがあり、その手前に様々な小道具や装置が用意されているが、その多くは、骸骨みたいな顔をした白い小さな人形達である。上演中Karlaの方がここをひっそりと行き来して、時に装置を動かしつつ、必要な場面を撮影する。客席向かって左手には、ノートパソコン等の装置とともにAndresが立っている。やはり暗がりの中でひっそりと、映像を合成して音響効果をつけてスクリーンに映写している。

開演前のスクリーン

 作品が始まると、「ジャジャーン」という音楽とともに、小さな人形達が演ずる一場面が映し出される。各シーンにキャプションがついているが、それは「ベルリン—1989年」、「ニューヨーク—2001年」、「福島—2011年」といった、世界的に有名な事件の数々である。そしてこのパートの最後は、今もどこかで行われている、とされる殺戮の場面。その後、何年何月にどこの企業(IBMMicrosoftYahooのようなIT系のグルーバル・カンパニーである)がどこの企業をいくらで買収したという一文が、字幕で次々と表示されていく。以降、時にはこの世の終わりのようなオレンジ色や、あるいはピンクと青色の世界を背景として、小さな白い人々が、現代の様々なデストピア的イメージを体現していく。ラストは、やはり「ジャジャーン」という音楽とともに、キャプション付きの事件場面が映し出される。しかし、冒頭と同じシーンであっても、キャプションは同じではない。それは、ずっと未来の年の、全く違う場所で起こった事件になっている。未来は素晴らしいものではなく、過去を繰り返しているのだ。

これらの人形達を撮影して、それをスクリーンに映写しているのである。
(以下、人形達や小道具の写真は終演後に撮ったもの。)

「福島ー2011年」



 決して終わることのない終末のデストピア、といった世界を描いているのだが、それを演じる白い人達が、人形にしろイラストレーションにしろ、かわいい。骸骨のような顔とも言えるし、エイリアンのようだとも言えるのだが、なんかかわいい。それもあって、全体的に終末感を漂わせているにも関わらず、現実を鋭く提示するというよりは、どこか夢見るような彼岸の雰囲気がある。この、暗い内容をちょっとドリーミーに見せるというのが、ZOOM WOOZの二人の持ち味なのだろう。



 見ながら思ったことは、これをライブで上演する必要があるのか、ということだった。観客はスクリーンを見ているのだから、全てを録画してビデオ・インスタレーションとして上映しても同じことなのでは、という気が・・・。しかし、例えば影絵芝居でも、基本的に操作している人ではなく、影絵の方を見ているのだから、それと同じことか・・・などと思ったりした。この作品、ライブ映像をKarlaAndresの二人で作り出しているという所に、手作り感がある。二人でこなせるということ自体は現代技術の賜物なわけだが、各場面に必要な小道具を、時には装置を動かしつつ撮影し、その撮影した映像にタイミングを合わせてサウンドをつけるという作業に、マニュアルの大変さを感じさせる。そういうわけで、暗い内容の作品にも関わらず夢幻的でもあることとあいまって、どこか「ヨーロッパから興行師来た!」みたいな気持ちにちょっとさせられた。

 終演後は、作品で使った人形達や小道具の見学、写真撮影ができる。また、KarlaAndresの二人も居残っているので、お話することも可能。この作品は、この終演後までを含めた総合的な体験なのだと思う。ライブ・パフォーマンスであり、ビデオ・インスタレーションであり、制作物の展示会でもあった。お客さんの入りは56割というところだったので、せっかくなのにちょっと勿体ないなーと思ったのだった。

終演後。人形達や小道具を見るために集う観客達。

 ところで、10年ぶりのジョージタウンは、ホテルやおしゃれカフェが増えたけど、雰囲気そのものはあまり変わっていなかった。同じくマレーシアで世界遺産の町並みを持つマラッカと比べると、車がゆっくりと走るのが印象に残っていたのだが、相変わらずリラックスした感じで走っていた。これがシンガポールだと、街中であってもうっかり飛び出してはねられたら、間違いなく死ぬような速度で走る車が多いのだけど。2018826日)

ジョージタウンの朝