Tuesday 7 November 2017

『映画』In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)


2017108
In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)」・・・いつか、でも必ず来る時
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Tan Pin Pin(タン・ピンピン)
見た場所: Filmgarde Cineplex

 シンガポールのドキュメンタリー映画監督、Tan Pin Pin(タン・ピンピン)の最新作。タイトルが示すように、テーマは“時間”である。映画は、新旧二つのタイムカプセル、Singapore Institute of Managementのロビーに新しく設置されるTime Cube(タイム・キューブ)の製作過程———立方体のオブジェで、中に思い出の品がつめられ、学校のロビーを飾る———と、アジア文明博物館前に埋められたタイムカプセルの取り出し作業———1990年にシンガポール建国25周年を記念して埋められた———を軸としているが、ストーリーらしいストーリーはない。現在のシンガポールの各所各所が撮られており、自然に聞こえてくる音声———ショッピング・センターの館内放送や学校の校内放送など———以外は、ナレーションもインタビューも会話もない。

映画館前のポスター。新しく開通したハイウェイで撮られている。SFっぽい。

 こういう作品を「映像詩」などと言うのかもしれないが、撮影されているものは、風光明媚な風景でもなければ先端のデザイン性を備えているわけでもない。例えば、

       自然公園でカヌーに興じる若者達
       新しく建設されたNational Stadium(国立競技場)を見に訪れている人々
       作業現場から戻って来て、ホースで洗浄されるトラック
       オーチャード・ロードにある紀伊國屋書店の朝の開店風景
       中学校の朝礼
       団地で害虫駆除剤が散布される様子
       ハイウェイMCEMarina Coastal Expressway)のオープン
       オフィス街の昼休み、ビルの外で煙草を吸って休む人々
       地下鉄Downtown Lineのオープン
       芸術センターThe Substation裏に生えるbanyan(ガジュマル)の古木の伐採作業
       SG50(シンガポール建国50周年)記念イベントの会場
       シンガポール動物園にいる1990年生まれのホッキョクグマInukaがプールで泳ぐ姿
       ショッピング・センターTanglin Mall前で行われる人工雪を降らせるクリスマス・イベント
       庭師が植物園で栽培している植木に水をやる姿
 (なお、上に挙げた順番で、各場面が作品に登場するわけではない。)

 それらは、観光用の映像では決して見ないシンガポール。豪華でもなければ垢抜けてもいない。しかし、なぜか美しい。

 一見すると、現在のシンガポールの様々な風景を、できるだけ美しく切り取って集めただけのような映画に見える。そのような作品ならどんな映画監督でも作ることができるだろうが、この「In Time to Come」は、誰しもが作れるようなものではない。ここでは、言葉にすると明確すぎて逆にあまり的確でなくなるような、しかし映像にすると情動に訴えかけるためにより体感として信じられるようなことが、少しく微妙に表現されている。

 変化を美徳とし、変わり続けるのがシンガポールという都市国家だと私は思っている。それは、過去を忘れる都市。建国50周年も経て、自国の歴史を打ち立てるために、近年は過去を振り返り、見直す傾向にあるが、それでも変化し続けることを止めたわけではない。作品には、朝礼の場面が撮影されたのと同じ学校での、避難訓練のシーンもあった。校庭に集まって来た生徒達に向けて、校長先生か誰かのアナウンスが聞こえて来る。先生は、「以前(避難に)20分かかっていたのが、今回は12分間だった。進歩があってよろしい」というようなことを言っている。このアナウンスは極めて象徴的だと思った。

 変化すれば、得るものもあれば失うものもある。The Substation裏のガジュマルの古木は芸術コミュニティでは有名らしいが、この都心の一等地に大学の法律図書館を建設するために、バッサリ伐られたのだった。しかし、この作品では、変化や進歩の是非を問うているわけではないと思う。

 新しい競技場、ハイウェイや地下鉄の開通、この作品には、新しく何かが始められる様子が何度か登場する。しかしこれらの場面は、通常表現されるような開始の熱気を全く感じさせない。淡々としており、そう楽しげでもない。ハイウェイのオープン・セレモニーなど、むしろ侘しさを感じさせなくもない。全く特別感のないオープン。それは、毎朝繰り返される紀伊國屋書店の開店の「儀式」−——日本のデパート式に、スタッフ全員が並んで、シャッターが開くと同時に入って来る購買客をお辞儀して出迎える———や、中学校の朝礼−——毎朝生徒達が校庭に集まって並んで座り、国旗掲揚を待つ—−–と同じように扱われている。この作品は、新しくなること、変化すること、それ自体が日常であるということを描き出した。都市の森羅万象、その変化が淡々と眺められていく。

 (言葉にするとつまらなくなるのだが)害虫駆除の白い霧が死や荒廃であるのなら、白い人工雪の中で遊ぶ子供達は未来と喜びであるのか。夜の街、陽光あふれる自然公園。アジア文明博物館前のタイムカプセルと同じ1990年生まれのホッキョクグマは、まるで25年どころか永遠にそれを続けるかのように、動物園のプールの水中で回転し続けている。永遠に続ける−——永遠のように見えることが逆説的に、永遠などないことを示しているかのようである。ガジュマルの古木は切り倒され、その切り株は植物園に運ばれ、そこからまた新しい芽が出る。シンガポールは変わり続けている。変わり過ぎているかもしれない。しかし、時の流れとともに、変わらないでいられるものなど何一つない。変わる“その時”はいつか必ず来る。

 しかし、止めようもない変化の時の中でも、人は何かを残すことによって、その時間を止めようとする。忘れる都市にあっても、自分達やそれらのものが存在した痕跡を残そうとする。ガジュマルの木が伐採される様をひっそりと写真に撮る人がいる。タイムカプセルを作るという試みは繰り返される。時の流れの中で何かを留めておきたいと思う、人々の小さな願いの点。

 都市国家シンガポールの考察という枠に止まらず、いつか来る(変わる)時を繰り返し続ける我々の営みというものが見つめられている。静謐な映像とともにあるその眼差しが、その場よりもむしろ後になって、胸にじわじわときた。

 なお、この作品はシンガポールに住んでいると、どこで撮影されたかわかる場所が結構ある。だから私などは、「あーここ、ここ」と思って喜んで見ていられる。しかし、そういう思いのできない国外の人が、出て来る映像の意味だけを考えて一生懸命見ていたら、ちょっと疲れるのではなかろうか(眠くなるとも言う)。でも、そんなことをあまり気にしないで作っていそうで(シンガポールを宣伝する気がなさそう)、いいと思う。

 ところで、作品の本筋とは全然関係ないのだが、中学校の避難訓練のシーンで、先生のアナウンスに「実際に火事や、戦争などの時にはこのように速やかに避難を云々」とあって、ちょっとびっくりした。火事はわかるよ、火事は。「戦争」って。確かにシンガポールは治安が良いだけに、危機管理を怠らない国ではあると思う。先生はたぶん、火事の後に続ける他の災害を思いつかなかったのだろう。なぜなら、シンガポールには地震などの自然災害がまずないので。むしろ戦争の方が想定しやすかったのだろうが、まぁね・・・。20171023日)