Tuesday 19 December 2017

『映画』The Song of Plastic(Le Chant du Styrene/プラスチックの歌)


The Song of PlasticLe Chant du Styrene/プラスチックの歌)」
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1958
製作国: フランス
監督:  Alain Resnais(アラン・レネ)
見た場所: National Gallery Singapore

 フランスのSociete Pechiney(ペシネー社)が、自社工場で製造されているポリスチレン製品を称揚するために製作を依頼した作品。プラスチックの花園から始まるこの映画は、完成品から原料へと製造工程を逆に辿っていく点がミソである。オーケストラの音楽に合わせて展開する映像は、いかにも往年の短編芸術映画っぽい。素材そのものが持つ意味を伝えるという目的以上に、カメラワークや編集や色や音楽やナレーション、そうしたものの集合による一つの体験として、作品が作られている。あのカラフルで身近なプラスチック製品が、その製造工程を巻き戻して行くと、どんどん大がかりな重化学工業へと変貌していく。あぁ、プラスチックって、石油から作られるんだよなぁ、物からではないんだよなぁ、としみじみ思い出した。その点、教育映画的でもあった。20171111日)

映画の最初、咲き誇るプラスチック
 

『映画』The Diamond Finger(Niew Petch/ダイヤモンド・フィンガー)


The Diamond FingerNiew Petch/ダイヤモンド・フィンガー)」
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1958
製作国: タイ
監督:  R. D. Pestonji
見た場所: National Gallery Singapore

 こちらはタイ政府の芸術局によって作られた作品。タイの伝統的な仮面舞踊劇Khon(コーン)のパフォーマンスを撮っている。お話は、「ラーマキエン」という「ラーマーヤナ」を元としたタイの叙事詩からのエピソードによる。巨人の国に生まれた小人のNontukは、それゆえにアプサラス(天界のニンフ)達にからかわれ、ハゲるまで髪の毛を抜かれていじめられる。そんなNontukを不憫に思ったシヴァ神が、彼に“ダイヤモンド・フィンガー”、指し示すだけで相手を殺すことのできる魔法の指を与える。この指を得て、アプサラス達を指差ししまくるNontuk。しかし、過ぎた殺戮に対し、ついに美しい女性に化身したヴィシュヌ神が現れる。ヴィシュヌ神は、Nontukがダイヤモンド・フィンガーで彼自身を指し示すように仕向けるのだった。

井戸に映った自分の姿を見つめるNontuk

 舞踊劇をフィルムにおさめているのだが、単に舞台上演を撮影したという類のものではない。映画のために行われたパフォーマンスで、舞台上演的な表現をベースに、映画的な表現も用いられている。きらびやかな衣装にダンサー達の優雅な踊り。例えば、Nontukのダイヤモンド・フィンガーに2030人からのアプサラス達が打ち倒されて行くシーン。彼女達が次々と画面からはけていくのだが、全員一様ではなく、様々な動きで倒れ去って行く。その極めて流麗で美しい有様が俯瞰撮影で捉えられていて、とても印象的だった。

 この作品、タイ製作だが、英語作品である。物語を説明するナレーションが入っているのだが、それが英語。今回ゲストとして来星したタイ国立フィルム・アーカイブのPutthapong Cheamrattonyuさんによると、それはこの作品が、そもそもタイの文化芸術を海外に宣伝するために作られたからである。1950年代、映画「王様と私」のヒット等によって欧米諸国の関心がタイに向けられるようになった。しかし、そうした海外の作品では、タイの文化が必ずしも正しく描かれているわけではない。そうした状況を受けて作られた作品らしい。こうした努力によって、タイは観光大国になっていったんだなーと思った。

 ところで、この舞踊劇のストーリーだが、破壊の神による破壊の後、その混沌から世界を復する維持の神が現れ、それで世界のバランスが保たれる、ということなのだろう。でも、主人公Nontukのことを考えると、憐れまれてダイヤモンド・フィンガーをもらったのに、使ったら懲らしめられて殺されたという、神様達の都合に踊らされているようで、なんかちょっと釈然としない。20171111日)

『映画』Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)


Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1966
製作国: イギリス
監督:  Adrian Cowell
見た場所: National Gallery Singapore


  この作品は、当時あったイギリスのTV会社ATVAssociated Television)の企画により製作された。チベット動乱そして1959年のダライ・ラマ14世亡命後の1964年、中国軍と戦うチベット人ゲリラを取材している。監督のAdrian Cowell、カメラマンのChris Menges(クリス・メンゲス)、ジャーナリストのGeorge Patterson(ジョージ・パターソン)は、ネパール中部、ヒマラヤの山々に囲まれたTsum Valley(ツム谷)へ向かう。隔絶されたこの土地には、チベット人ゲリラの分遣隊の拠点がある。彼らの許可を得た監督達は、行を共にしてヒマラヤの峠を巡る。ゲリラ達は、チベットからネパールへ抜ける街道を建設中の中国軍に対し、奇襲作戦を行っているのだ。チベット仏教の祈りに支えられながらチベット独立のために戦うゲリラ達を取材したこの作品は、資料的な価値の高いものだと思う。
 
 しかしそれだけではなく、壮大なヒマラヤ山脈を背景に、人の通わぬ道を歩んで行くゲリラ達を捉えた映像は、驚くほど美しい。モノクロの16mmプリントからレストアされているのだが、この美しさは単にレストア・バージョンだから、と言うにとどまらない。そういう意味でも心に残る作品だった。20171111日)

 

『映画』The Crown Jewels of Iran(Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)


The Crown Jewels of Iran (Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)
 The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1965
製作国: イラン
監督:  Ebrahim Golestan
見た場所: National Gallery Singapore

 産業界や政府の依頼によって作られた短編4作品を集めている。どれも過去作品なのだが、全てレストアされたバージョンでの上映。事情によりチケットの一般販売が途中からできなくなったため、私はこの映画祭の運営に関わっている知人から直接チケットを買った。そのような事情があったため、ゲストも来ていたのだが、観客が少なくて残念だった。  

写真ではキラキラさ加減は伝わりませんが・・・

 イラン中央銀行の依頼によって作られたこの作品は、過去300年にわたるイラン王朝の宝物を紹介している。これらの宝石は非常に高価なため、イラン通貨の保証として銀行が保管しているのである。レストア・バージョンのこともあり、ビロードのような真っ黒な背景に次々と登場する宝石は、まさに目が眩むような輝きである。非常に手の込んだ美しい品ばかりで、各王朝の勢威が偲ばれる。

 しかし、ただそれだけなら、国の宝をスタイリッシュに紹介した作品に過ぎないのだが、この作品には微妙に批判的な視点が入っている。映画の最初に映されるのは、広大な大地で働く農民達の姿である。国の歴史がこのような名も無き人々によって築かれてきたことを前提とし、この宝石コレクションはその対極として位置づけられているかのようである。(あるいは、本当の宝は彼らなのだと言いたいのかもしれない。)ナレーションでは、コレクションを王達の退廃の歴史としている。微妙に批判的なゆえに、(中央銀行なので)国がスポンサーにも関わらず、この作品は当時の検閲に引っかかった。その際にカットされたナレーションが復活しているのだが、それは、現在の王が最後の王になる、という意味合いことを言っている部分である。皮肉なことに、1979年のイラン革命により、この映画製作当時のシャー(王)、モハンマド・レザー・シャーが最後の王となった。

 映画上映後のQ&Aコーナーに、この作品の監督Ebrahim Golestanについての映画を製作中である、イランの映画監督Mitra Farahaniさんが登場。フレンドリーかつ、ゴージャスな女性だった。2017119日)

Sunday 17 December 2017

『映画』Manifesto(マニフェスト)


20171021
Manifesto(マニフェスト)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2017
製作国: ドイツ
監督:  Julian Rosefeldt
主演:  Cate Blanchett(ケイト・ブランシェット)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Manifesto(マニフェスト)」は、元々ビデオ・インスタレーションとして作られた作品を、95分間にまとめたものである。20世紀の様々な思想家や芸術家によるマニフェストから13のモノローグを作り、それをケイト・ブランシェットに語らせる、という趣向である。各モノローグは、それぞれ全く異なる場面で語られ、それに応じてケイト・ブランシェットも全く異なる役柄を演じている。プロローグはボイスオーバーによっているが、他の12の場面では、ケイト・ブランシェットの十三変化(うち一つのシーンで彼女が二役を演じているため)を見ることができる。各場面の概要とケイト・ブランシェットの役柄は以下の通り。

1.  共産党宣言他(プロローグ)
2.  シチュアシオニズム: 廃墟になったビルの屋上に住むホームレスの老人
3.  未来派: 証券取引所の株式仲買人
4.  建築に関するマニフェスト: ゴミ処理場で働くシングル・マザー
5.   シュプレマティスム/ロシア構成主義: 巨大な研究施設で働く科学者
6.  ダダイスム: 夫(?)の葬式で弔辞を述べる妻(?)
7.   ポップアート: 家族とともに食前の祈りを捧げる裕福な家庭の主婦
8.  Stridentism(ストライデンティズム)/Creationism(クリエイショニズム): たまり場で管を巻くパンク
9.  ヴォーティシズム/青騎士/抽象表現主義: 別荘での内輪のパーティでスピーチする会社社長
10. フルクサス/メルツ/パフォーマンスアートに関するマニフェスト: 通し稽古でダメ出しするコリオグラファー
11. シュルレアリスム/空間主義: 自分の作業場で操り人形を準備する人形遣い
12. コンセプチュアル・アート/ミニマリズム: ニュース番組のアナウンサーとリポーター(二役)
13. 映画に関するマニフェスト(及びエピローグ): 授業をする小学校教師

これはコリオグラファーのケイトとダンサー達。
またなんだかよくわからないダンスを振り付けている。

 各シーンが何のマニフェストについてなのかは、エンドクレジットにも出るが、ここでは英語版のウィキペディアを参照した。学者でもなければ、どこから引用しているかなど、いちいちわかるものじゃない。ケイト・ブランシェットの役柄の方は、私が見た限り、こういう設定なのではないかという推測も入っている。2のホームレスの老人が歩く廃墟にしろ、3の証券取引所や5の研究施設にしろ、俯瞰撮影を多用した映像は、こんな場所があるのかという美しさ。その一方で、4のシングル・マザーのアパート内や8のいかがわしい人々が集う一室などは、小道具まで気を配った空間作りがされており、これまた感心させられる。ケイト・ブランシェットが語る内容と場とが、合っているような皮肉なようなで、そこがおもしろいところなのだと思う。例えば、小学校教師が子供達に向かって、「オリジナルのものは何もない、盗め」などと言っているのは可笑しい。

 各場面でケイト・ブランシェットは、その職業や身分における典型的な人物を演じており、そのため彼女の芝居は誇張されている感がある。あきらかにパロディのような役柄もあり、12のアナウンサーなどはいかにもCNNとかで見そうな感じだし、10のコリオグラファーなどは(映画祭のプログラムには「ロシア人コリオグラファー」とあるが)ちょっとピナ・バウシュのパチモンみたいである。いずれにせよ、彼女が語るのを聞くのは心地よく、例えば6のダダイスムの弔辞など、圧巻だった。

 この作品、まさにケイト・ブランシェットづくしである。12では、アナウンサーのケイトが、中継先で荒天をリポートするケイトに質問をすると、リポーターのケイトがそれに答える。11では、人形遣いのケイトが、自分をモデルにした人形に自分とおそろいのような服装をさせる。見終わった後、ケイト・ブランシェットでお腹いっぱい、という気持ちになった。また、漫画「名探偵コナン」の主人公の母親のように、「変装が趣味の女優」というのは、この世に本当にいるんだなぁと思った。

 美しい映像とともにケイト・ブランシェットの十三変化が楽しめるわけだが、一方で見続けるのが辛いというのも確かである。元はマルチ・チャンネルのインスタレーションであったから、好きなだけ見て、自分が満足した時点で立ち去る、ということができただろう。しかし、一本の映画になると、90分間座って見続けるのが前提である。芸術のマニフェストなどというものは、概して抽象的で、血湧き肉踊る物語というわけではない。それを救うためか、場面の並びに工夫を凝らしてはいる。例えば7の食前の祈り(クレス・オルデンバーグの「I am for an art」を唱える)は分割され、別のシーンの合間に何回か登場する。それによって、いつまでも主婦のケイトが「I am for…」とやっているもんだから、家族もなかなか食事ができない、というユーモアが強調されている。でも、それでもね・・・。私の場合、知識はなくとも、20世紀初期の美術史に興味があるのでがんばって見ていられたが、観客の中に眠くなる人がいても仕方ないと思う。映画の最後、画面が12分割されて、12の場面それぞれに登場するケイト・ブランシェットが勢揃いする。一緒に見た知り合いは、その12分割の画面の中に、自分が見た覚えのないケイトがいたと言っていた。・・・それもありだな、と思ったのだった。2017117日)

人形遣いのケイトと本人そっくりな人形。ちょっと恐い。

Wednesday 13 December 2017

『映画』China's Van Goghs(中国梵高/中国のファン・ゴッホ)


20171013
China’s Van Goghs(中国梵高)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2016
製作国: 中国/オランダ
監督:  Yu Haibo(余海波)/Yu Tianqi Kiki(余天琦)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Painting with Light」は、National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術をテーマとした映画祭である。「芸術的な」(美術が凝っている?)映画を集めた、というわけではなく、文字通り芸術———美術館、絵画、舞台芸術、映画、パフォーマンスアート等々———を題材とした作品達で、ほとんどがドキュメンタリーである。映画そのものを楽しむというよりも、映画を通して様々な芸術の世界を覗く、という感じの映画祭なのではないかと思う。

ナショナル・ギャラリーのロビー

上映会場入口。写真はケイト・ブランシェット主演の「Manifesto」


 さて、この「China’s Van Goghs(中国のファン・ゴッホ)」というドキュメンタリー映画である。中国広東省深圳市にある大芬村は、「大芬油画村」と呼ばれる油絵の町である。1980年代の終わりに香港のビジネスマンによって油絵の生産が開始されて以来、現在では数千人の画工が集まり、年間10万枚以上の油絵が制作されているという。西洋絵画の傑作を模写した彼らの作品は世界中に輸出され、ウォルマートのような大手スーパーマーケットから小さな土産物店まで、様々な場所で販売されている。

 このドキュメンタリーの主人公であるZhao Xiaoyong小勇)は、1990年代に大芬村にやって来た。以来20年、ここで油絵、特にファン・ゴッホの模写を描き続けている。現在では何人かのスタッフを擁し、納期と戦いながら、アパートの一室の狭いスタジオで制作に勤しむ毎日である。貧しい農家の子として生まれ、中学も満足に通えなかった小勇だが、模写の筆一本で身を立て、お金のやりくりに苦労しつつも仕事を維持し、立派に家庭も築いている。ちなみに彼の最初の絵の「生徒」は、彼の妻だそうで、夫婦で、さらに妻の兄弟とも一緒にこの仕事をしている。なお、彼のスタジオのシーンでは、狭い空間にずらりと並んで立った画工達が各々の作品を仕上げて行く様子が映される。その光景は壮観で、(部屋の広さきれいさとか、立っているか座っているかとかの違いはあれど)なんとなくアニメーターの仕事場を思い出させた。大勢の人が黙々と絵を描いているというその雰囲気のせいだと思う。

 多年ファン・ゴッホの作品を描き続けてきた小勇だが、オランダに取引先ができて以来、ゴッホのオリジナルを見るためにオランダに行くという夢を持つようになった。このドキュメンタリーでは、彼が(お金がかかるので)オランダ行きを渋る妻を説き伏せ、初めてパスポートを取得し、仲間とともにファン・ゴッホの足取りを追ってヨーロッパを旅する姿が描かれる。そして、その旅の後に何が起こったのかを。

 アムステルダムでの小勇は、取引先の言っていた「ギャラリー」が小さな土産物店に過ぎなかったことにショックを受け、にもかかわらず、自分達の卸値からすると結構いい値段で販売していることにさらにショックを受ける。模写販売もファストファッションその他諸々のビジネスと同じく、経済格差を利用した商売なのだ。そしてついにファン・ゴッホ美術館でオリジナルの作品と対面し、完全に落ち込む。自分のことを「芸術家」だと思ってきたわけではないが、それでも、ここに飾られるような価値が自分の絵には全くない、ということを痛感してがっくりするのだ。

 しかし、その後ファン・ゴッホの足取りを辿ってパリ、アルルを旅し、ファン・ゴッホが訪れた場所を訪れ、見たであろうものを見るうちに、彼は元気を取り戻していく。アルルでは「夜のカフェテラス」のモデルとなったカフェを訪れ、ファン・ゴッホが描いたのはこの宵闇、まだ完全に夜になりきっていない空の青さだったのだ、と感動してはしゃぐ。夜中、酔っぱらって、「俺はここに残るぞ!」とアルルの裏通りで叫ぶ。そして、旅の最後にオーヴェル=シュル=オワーズのファン・ゴッホの墓を訪れると、親しみと尊敬を込めて、中国から持って来た煙草を墓石に供える(小勇は大変なヘビースモーカーである)。

 帰国後、小勇は大芬の画家仲間と話し合う。自分達もそろそろ自分達のオリジナル作品を描いてもいい頃だ、と。彼が最初に描いた作品群は、湖南省の一寒村である故郷の裏通り、そこに住む自分の祖母の肖像、そして大芬の自分のスタジオである。(ちなみに小勇の実家では、いまだ土間のかまどで料理をしている。国の発展から取り残されたようだが、皮肉なことに、それだけに深圳のような都会と違ってフォトジェニックな風景が広がる。)

 非常に明確なプロットの元、ストーリーがわかりやすく流れて行くので、見やすく、かつ楽しめる作品である。社会情勢を滲ませつつ、模写で生計を立てることと、確立された芸術との間の葛藤が、大芬の何千という絵描きの中の一人を通して描かれている。しかしそれと同時に、過去の一人の画家が、国も人種も異なる後世の画家をいかにインスパイアしてその仕事に向かわせていくかという、画家の系譜の不思議を描いた作品ともいえる。

 パリのカフェに集う画家というと、何の根拠もなくロマンチックでおしゃれな感じがするが、大芬の小勇達は上半身裸で、通りに出された食堂の椅子に座ってくつろぐ。たぶん蒸し暑く、かつ洗濯をするのが面倒くさいからだと思うのだが、仕事場でもよく彼らは上半身裸である(男性の場合)。シンガポールでも団地の下のコーヒーショップで、下着のようなランニングにショートパンツのおじさんがくつろいでいたりするが、まぁそういう感じ。「オープンエア」というとなんだか格好いいが、格好よさとは無縁の世界である。そこは「おしゃれな」パリではなく、中国の都会の裏通り。でも、酔って作品と自分達の進むべき方向性について熱く語っている小勇達を見ると、あぁ芸術家だなぁ、と思うのだった。「いつか、後50年、100年したら、俺たちの仕事が認められる日が来るだろう」そう管を巻く小勇の———これまでそうやって人生を切り開いてきたであろう———その楽天主義、明るさが胸を打つ。2017114日)

小勇とファン・ゴッホ。スタジオ内はゴッホの絵でいっぱい。