Thursday 3 December 2020

『映画』Bamboo Theatre (戏棚/劇棚)

 

20201010

Bamboo Theatre (/劇棚)」・・・Singapore Chinese Film Festival

公開年: 2020

製作国: 中国(香港)

監督: Cheuk Cheung(卓翔)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

 毎年45月頃に行われる中国語映画の映画祭、Chinese Film Festivalが、今年はCOVID-19の影響により、10月開催となった。と言っても、シンガポールではまだ映画館は、300席以上の映画館で150席まで、300席より小さい館では座席数の50%までを最大数としている。そのため今年の映画祭は、劇場で上映する作品とオンデマンド配信を行う作品の二種のプログラムを持ち、さらに、開会の挨拶、監督とのQ&Aセッション、パネルディスカッションは、オンラインで行われた。

 

 

 この「Bamboo Theatre」は、映画館で上映された。香港の各地で、祭事の時に寺の門前で行われるチャイニーズ・オペラ(曲)の上演。その会場となるのが、釘を使わずに竹で組み立てられた仮設劇場、「Bamboo Theatre」である。この映画は、出現しては消えていく仮設の劇場と、そこで働く人々を活写したドキュメンタリーである。

 

 映画は、竹の束が船で島へ運ばれて行くシーンから始まる。竹の束は陸に上げられ、作業員達によって劇場となるべく組み上げられて行く。アルミニウムらしき薄い金属を筒状に丸めたものが、竹の骨組みの一番上に上げられ、そこで広げられ、建物を覆う屋根となる。こうして劇場が形作られていった後は、劇団が荷物の搬入を行い、公演初日の準備が進み、初日の幕が開き、人々が集まって賑わう。そして映画の最後に、竹の劇場は解体されていく。

 


 

 大枠としては、劇場の設営から解体まで、その過程を描いているが、どこか一つの劇場や劇団にフォーカスしているわけではない。また、インタビューは一切なく、ただ建設作業員や劇団の面々の仕事ぶり、舞台での上演の模様、舞台裏の様子、劇場が設置された寺の門前の賑わい、そうしたものが淡々と映し出されていく。字幕で説明が入るが、それは最小限に抑えられており、後は前述したような映像とその編集によって、作り手の言わんとすることが表現されている。どのくらい説明がないかと言うと、この映画には複数の一座が登場するが、エンドクレジットで5つくらいの劇団名が出てきて、驚いたくらい。複数の劇団が出て来たとは思っていたが、こんなにあったとは。作品の中では、公演が行われる地名や演目名の字幕表示はあったが、何という劇団かという説明は(映像から分かる場合もあるが)全くなかったのである。役者達の名前も紹介しなかった。

 

 巡業する伝統的なチャイニーズ・オペラの俳優やスタッフと言えば、ちょっと変わった人生を送ってきた人もいるだろうし、面白いエピソードもいろいろ持っているのではないかと思われる。にも関わらず、特に誰かに、またはある集団に焦点を当てるということのないまま、作品は進んで行く。この点が、見る人によっては退屈と感じる部分かと思う。しかし私はむしろ、この場所—-伝統的なチャイニーズ・オペラを上演する仮設の劇場——とは何なのか、という問いかけに振り切った作品として評価をしたい。

 

 説明のための字幕は最小限に抑えられているが、一方、この仮設劇場という場を定義するための字幕は何度か挿入される。例えば、

 「この空間は、神と人を楽しませるための場である。」

 「この空間は、人が己の役割を捜し求め、そして家を見つける場である。」

 その後にそれぞれの定義を敷衍するような映像が続いていく。映画は一貫して、竹で作られた劇場の意義を求めて行く。

 

 香港というと高層ビルの立ち並ぶ風景をイメージしがちだが、約700万人という人口を抱える香港は、実は広かった(シンガポールよりも人口が多い)。多くの離島があり、そこにお寺があり、そして祭事には劇場が立つ。最先端都市の街並とは全く別の風景がそこにはある。芝居を見ている観客はやはり高齢者が多いのだが、しかし、お年寄りばかりでもない。線香が煙る祭壇にも、屋台が並ぶ境内にも、老若男女の賑わいがある。

 


 

 そして劇場内では、スタッフが着々とそれぞれの仕事を進め、俳優達が台本を手に打ち合わせをし、舞台監督が上演の進行を仕切っていく(舞台裏でコーラスにも参加していたりする)。白塗りの舞台化粧のスター俳優が、楽屋で老眼鏡をかけて台本を確認している。しかし、いよいよ本番ともなれば、衣装係の手を借りつつ、あの厚くて重そうな衣装をビシッと着こなす。スターの意気が大いに感じられる。一方、若い俳優は、大部屋で見本の写真を見ながら舞台化粧をする。彼女が舞台袖で出番を待っている時には、その緊張が見ているこちらにも伝わって来る。どちらも終始無言のシーンなのだが、その雰囲気までもが見事に捉えられている。

 


 

 しかし、このドキュメンタリーは、劇場の人々を活写することで、個々の人々を際立たせるというよりも、劇場という世界の森羅万象を描き出そうとしているように見える。劇場が作られ始めてから解体されるまでおよそ2ヶ月、そして劇場として使用されるのはわずか37日というかりそめの場。しかし、それは己の役割を知る人々が、黙々と働くことによって作り上げられる祝祭空間である。神々に感謝を捧げ、そして人々を楽しませるために、幻のように立ち現れる場。劇場とは建造物のことではない。このような特殊な場のことを言うのだと、改めて感じさせられた。作中、劇団の守り神の像を映したシーンが何度か挿入される。人々がそれぞれの仕事を果たし、その祝祭空間がつつがなく運営されている限り、守り神は優しく微笑んでいるかのようである。

 

 ところで、楽屋にいるスター俳優に対して、劇団員達が「おはようございます」と声をかけていくのだが、この、楽屋にいる先輩に「おはようございます」と挨拶をするという、日本の芸能界で行われていそうな習慣が、香港のチャイニーズ・オペラの劇団でも行われていることに感心した。芸能の世界では万国共通なのだろうか。20201025日)

 

Sunday 22 November 2020

『ライヴ動画配信』Murder at Mandai Camp-A Supernatural Murder Mystery-(マンダイキャンプの殺人〜超自然的殺人ミステリー)

2020627

Murder at Mandai Camp-A Supernatural Murder Mystery-(マンダイキャンプの殺人〜超自然的殺人ミステリー)」・・・シンガポールの軍隊怪談「三つ目のドア」とともに

国: シンガポール

カンパニー: Sight Lines Entertainment

作・演出: Chong Tze Chien

出演: Erwin Shah Ismail, Bright Ong, Irsyad Dawood

見た場所: 自宅(有料動画配信)

 

 「Murder at Mandai Camp」は、COVID-19の世界的大流行で大打撃を被っているエンターテイメント業界にあって、Sight Lines Entertainmentが新たな試みとして行ったライブ動画配信である。自宅勤務・自宅学習の一般化とともに今やその名が広く知られるようになった感のあるWeb会議サービス、Zoomを利用したインタラクティブ・オンライン・シアターと、簡単には説明できる。配信日は626日、27日、28日のそれぞれ午後10時から。もちろんこの為に書かれた新作で、有料。チケット代(というのだろうか)は、15シンガポールドルから203050シンガポールドルまでで、購入者が好きな価格を選べるようになっている。価格が違うからと言って見られるものが違うわけではなく、観客(というのだろうか)がプラスアルファで払って自分達を助けてくれたら嬉しい、という気持ちからの複数価格設定である。また、プラス38ドルで、スペシャル・カクテルの250mlボトルをつけることもできる。カクテルはもちろん自宅に届けてくれる(なお、作品自体のレイティングはNC1616歳以上のみが視聴可だが、カクテルが買えるのは、シンガポールの法律で飲酒ができる18歳以上から)。チケットを購入すると、視聴日の午後8時、つまり開始2時間前に、自分のメールアドレスにZoomのリンクが送られてくる。パソコンからでもスマートフォンからでも、開始時刻にこのリンクに入れば参加できるわけだが、実はもう一つ、Zoomとは別にインスタント・メッセンジャーのTelegramを使えるようにしておく必要がある。そういうわけで、やり様は人それぞれだろうが、私の場合は、パソコンをTVにつなげてそちらにZoomの画面を映し、スマートフォンでTelegram上の情報を見るようにした。

 


カクテルもオンラインで販売
 

 さて、こちらが10時前から準備をして待ち構えていると、予定の時間より少し遅れて、まずはプロデューサーであるDerrick Chew(デリック・チュウ)の挨拶から始まった。この時、デリックは観客(参加者)の中からボランティアを募り(引き受けると、カクテルが無料でもらえる)、Telegram上で名乗りを上げた希望者の中から、任意に一人を選んだ。選ばれた人が、Zoomの画面上で挨拶をしたが、自分の部屋らしき場所にいる若い女性だった。デリックいわく、彼女の仕事は、本編終了後に参加者を対象として行う投票の結果を読み上げることで、原稿は後で送信されるので、それをただ読み上げればよいという。こうしてボランティアも選出され、いよいよ本編スタートとなった。

 

 この作品は、軍隊キャンプ内で起こった殺人事件について、参加者がProvost Unit(いわゆるミリタリー・ポリス)の捜査官とともに事件の謎を解く、という体裁を取っている。Telegramには二つのチャンネルが設定されており、一つは捜査官が各種資料を送って来る一方通行のチャンネル、もう一つは参加者同士が本編を見ながら自由に感想を言い合えるチャンネルとなっている。Zoom画面を見ながら、Telegramで受け取る文書やビデオ映像を確認し、さらにTelegramにコメントを上げるとなると、ちょっと忙しい。ちなみにTelegramのチャットできる方のチャンネルは、参加者が200名あまりいた。つまり、それだけの人数の人達がチケットを買って見ているということになる。

 

 なお、この作品の前提には、シンガポールのNational Serviceという徴兵制度の存在がある。男子は二年間、軍隊等で訓練を受けなくてはならず、この作品に出て来る新兵二人も、軍人を職業として選んだわけではなく、学校を出たばかりの189の若者である。また、タイトルになっているMandai Campだが、Mandai(マンダイ)は地名。現在マンダイエリアにはMandai Hill Campがあり、このMandai Hill Campはナイトサファリの近く。都会を気取るシンガポールにこんな所が?という自然にあふれたエリアである。

 

 さて、Provost Unitの事件番号567。マンダイキャンプで、新兵の一人Ilhan(イルハン)が夜間演出中に殺害された。そしてその夜、もう一人の新兵Tan(タン)が許可なくキャンプを去った。犯人はタンなのか?それとも、タンと個人的なつながりのあったHaziq(ハジック)中尉なのか?それとも、それは軍隊内で語り継がれる人間以外の何物かの仕業なのか?

 

開始前の画面
 

 登場人物は4人。参加者に対して案内役を務める事件担当の捜査官、殺されたイルハン、行方不明になったタン、そして事件の関与を疑われているハジック中尉である。さて、参加者はまず、Telegramでイルハン、タン、中尉の簡単な履歴書を受け取る。この履歴書で注目すべきは、イルハンがACS卒だと言うことである。ACSAnglo-Chinese Schoolは、お金持ちの子弟の通う名門学校。対してタンと中尉の卒業校や住所は、彼らが典型的なシンガポールの庶民であることを思わせる。

 

 それから捜査官の案内で、参加者は様々な映像を見る。事件後に中尉が尋問に答える様子、ビデオ通話でガールフレンドに話しかけるタン、最期の夜にイルハンが録画したタンとの諍い、等々。それぞれの映像は、Zoomのバーチャル背景設定を使用して撮影したらしい。シンプルな背景が多いが、タン達の宿舎や夜のジャングルなど、それっぽく見えるようにはなっている。捜査官はさらに、時おりTelegramの方に別途資料を送信してくる。それは、中尉のSNSへの書き込みだったり、イルハンのスマートフォンで撮影された映像だったりする。資料が送信されると、参加者がそれを確認するための時間が一分間ほど設けられる。

 

尋問を受けるハジック中尉
 

 各シーンは必ずしも時系列に見せられているわけではなく、巧みに構成された中から次第に裏の人間関係が浮かび上がって来るようになっている。“White Horse”であったイルハン、そのイルハンをからかおうと企んだタン、過去にタンの姉に失恋した中尉・・・。ちなみにWhite Horseというのは、かつてシンガポールの軍隊で使われていた有力者の息子を指す用語。政府はNational Serviceにおいて特別扱いはないとしているが、この用語は今も軍隊内の噂に上るものらしい。例えば、”White Horse”のいる部隊では朝食前の演習が行われない、土曜の居残りがないといったことが、まことしやかに囁かれるわけである。事件は、こうした人間関係から発生したものだったのか?それとも、タンがガールフレンドに面白がって話していた軍隊キャンプの怪談、「三つ目のドア」に出て来る吸血幽霊Pontianak(ポンティアナック)の仕業なのか?(「三つ目のドア」の怪談について、詳しくはこの感想の最後をご参照ください。)

 

 ポンティアナックは、マレー半島やインドネシアで言い伝えられてきた女の幽霊。鋭い爪で犠牲者の身体を裂き、内蔵を食い荒らすなどとされている。「三つ目のドア」は、このポンティアナックに襲われた兵士にまつわる怪談話である。実のところタンは、ポンティアナックに化けて、イルハンを怖がらせてからかっていた。しかしそのタン自身も、失踪の直前、何かを非常に恐れていた・・・参加者は、ポンティアナックが映っているという映像をTelegramで受け取る。それは後に、タンのいたずらであるらしいことがわかる。しかし、それとは別に、参加者は見てしまうのだ。取り調べから解放された中尉が、昔の彼女(タンの姉)宛にスマートフォンで自身の心境を録画している時、中尉の背後、廊下のずっと向こうから近づいて来る何かを・・・・・・長い黒髪、白い服の痩せた人影・・・・・・「貞子、貞子がいる!」・・・いや、「リング」の貞子みたいだけど、そうではなく、これがポンティアナック(ということになる)。ポンティアナックは美しい女性に化けることができると言われているが、基本的には長い黒髪に白い服という、貞子と似たフォーマットの幽霊なのだ。それはともかく、その姿を見つけた時は、ちょっと「うわっ!」となった。(ちなみに中尉は全く気づいていなかった。)

 

 さて、参加者に全ての映像と資料が提示されて本編が終了したところで、Zoomを通した投票が行われる。質問は一つだけ。ハジック中尉はこの殺人事件について有罪であるか?無罪であるか?投票の結果、無罪の方が上回ったことが、横棒グラフでZoom画面に表示された。ここで、ボランティアの女性の登場である。本編の前に見た時と同じく、部屋にいる彼女がハジック中尉に対する投票結果を述べていると・・・・・・その時!彼女の背後にある、開いたままのドアの奥の暗がりに、突然何かが現れた!「あっ、また貞子!(だから違う)」と思っている間もなく、それは彼女に襲いかかり、そのままビデオ通話は切れた・・・・・・

 

 こうして「Murder at Mandai Camp」は本当に終了し、最後は俳優達のカーテンコールがあった。録画かもしれないし、あるいは、俳優達も参加者達と一緒にこのZoom通話に入っていたのかもしれない。そして、感想を求めるアンケートがメールで送信されてくる。一方Telegramでは、終了後も引き続き参加者達と感想を言い合うことが可能。しかし、資料を受信するチャンネルも参加者のチャット用のチャンネルも、翌日にはどちらも消去されるようになっていた。

 

カーテンコールの様子。左上がプロデューサーのデリック・チュウ
 

 さて、投票結果を読み上げている途中でポンティアナックに襲われたボランティアの女性。彼女は一般の参加者ではなく、サクラだったと見るのが当然だろう。カーテンコールの映像の中には、彼女はいなかったけれども。私は他の日の配信を見ていないので、この「ボランティア」役が毎回違う人なのかどうか、よくわからない。違うのであれば、少なくとも三種類の映像を用意しなくてはならない。そもそもあの投票結果でさえ、本当に参加者の選んだ結果が反映されているのかどうか、疑わしくなってくる。実は全てが虚構だったのではないか、と。

 

 私は最初、この作品を「インタラクティブ・オンライン・シアター」と書いたが、実際にはこの作品は演劇ではない。それは、彼らが前もって撮影しているからということではなく、パソコンにしろTVにしろ、観客が演技者の代わりにスクリーンを見なくてはならないからである。では、冒頭に登場するプロデューサー、デリックのような、リアルタイムで観客に語りかける案内役のいる映像作品かというと、そうとも言い切れない。

 

 ところで、全く話は違うが、ロンドンのウエスト・エンドでロングラン公演中の(今はCOVID-19のせいでお休みだけど)「The Woman in Black(ウーマン・イン・ブラック)」というホラー劇がある。日本でも何回か翻訳上演されている人気作だ。初めて見るとこの作品のラストにはとても吃驚させられるのだが、その衝撃の理由は、自明のものとされている観客と舞台との境界が、一瞬曖昧になるからだと思う。

 

 「ウーマン・イン・ブラック」は、ある中年弁護士が自身の恐怖体験を綴った物語を、彼の雇った俳優に演じてもらうという形式を取っている。俳優が若き日の弁護士を演じる一方で、中年弁護士の方もナレーションや脇役を務めるという、基本的には二人芝居である。さて、上演が始まると、観客はいつものように、各々の想像力の助けを借りて、再現されている弁護士の回想を真に迫ったものとして受け入れようとする。弁護士の話通り、途中で何回か黒衣の女の姿が舞台上に現れるが、観客はこの出現を、舞台上の効果、演出と見なす。舞台には男優二人だけなので、観客の想像力を助けるための女優を使った演出なのだと。しかしラスト、俳優が弁護士に、途中で登場した黒衣の女について尋ねると、弁護士はそんな女は見ていないと答える。観客は、あの黒衣の女を「ウーマン・イン・ブラック」という演劇作品の演出———話に上る黒衣の女のイメージを観客に伝えるための———であると思っている。あるいは、彼らが演じている回想録のために弁護士が用意した演出———この場合は、俳優と同じ認識と言える———と思うかもしれない。いずれにせよ、俳優があの黒衣の女を見ているという時点で、観客に対する単なる舞台演出ではなくなり、弁護士がその女を全く見ていないという返答で、彼らの世界の中で仕組まれた演出でもなくなる。では、あの黒衣の女は何だったのか?いやもちろん、「ウーマン・イン・ブラック」の観客を驚かす役目を担っている女優なわけだが、観客の気持ちは、一瞬間、黒衣の女を見てしまった俳優に強烈に寄り添う。

 

 そして「Murder at Mandai Camp」でも、同じように虚構が参加者達の領域に突然入り込んで来る瞬間がある。その瞬間とはもちろん、ボランティアの女性の背後にポンティアナックが現れるシーンである。Zoomというウェブ会議システムを使用しているのが曲者で、参加者はそのために主催者側(プロデューサーのデリック)とリアルタイムでつながっていると思い、デリックとのやり取りは自分達の領域の出来事だと見なす。最初にデリックの挨拶があり、そして選ばれてボランティアの女性が彼と会話しているのを見ると、彼女が参加者の一人であると思ってしまう。確かにリアルタイムでつながっていたのかもしれないが、それはデリックが演技をしていないという意味にはならない。しかし、本物のプロデューサー(デリックは事実、Sight Line Entertainmentのプロデューサーなのだ)が登場し、さぁこれから始まりますよ、と言われると、参加者の方はこれからの部分を「Murder at Mandai Camp」だと思い、実は作品がすでに始まっていることに気づかない。こうして参加者達は、自分達の領域(現実)の部分と虚構の部分とを線引きするように誘導されてしまう。線引きをするということは、逆説的に現実と虚構が共存していることを意味している。「Murder at Mandai Camp」はつまるところ映像作品なのだが、参加者は単に作品を外側から見つめるだけ、とはならない。演じられている世界と地続きの地点にいるとともに、切り分けられた舞台の内と外のうち、その外側の方にいることを意識しながら作品を見つめている。だからこそ、内の方に在ったもの、つまり虚構の部分の存在がこの境界を逸脱して来ると、参加者はショックを感じる。ボランティアの背後に出現したポンティアナックは、一瞬間、参加者達に「彼女」が(作品の中の)マンダイキャンプを離れてやって来たと思わせる。いやもちろん、ボランティアが仕掛人の一人であるとすぐ悟るわけだが、しかし、その現実と虚構とが入り混じる一瞬間は、とても演劇っぽい。

 

 映像作品だが、インタラクティヴであるために演劇作品のようになった、というのが、この「Murder at Mandai Camp」の特徴だと思う。面白い試みで、楽しい一時間だった。でも一方で、このビックリの方法は、そう何度も使えるものではないな、とも思ったのだった。私達観客は、どんどん疑り深くなっていくであろうから。2020714日)

 

付録

Pulau Tekong(テコン島)の三つのドアを持つ兵舎」

 作品中でタンがガールフレンドに語る「三つ目のドア」の話は、シンガポールの軍隊で有名な怪談である。どこの国でも、若い者達が歴史ある(古いとも言う)建物で寝食を共にしていると、こういう怪談話はどうしても生まれるものらしい。作品ではマンダイキャンプ内での出来事という設定になっていたが、実際はシンガポールの周囲にある島の一つ、テコン島の軍隊キャンプにまつわる怪談である。参考までに、その内容を以下に記しておく。なお、私が聞いたのは、1980年代後半に新兵としてテコン島で訓練を受けた人が聞いた話。テコン島のキャンプは、新兵のトレーニング・センターなのである。代々語り継がれていくものなので、恐らく世代によって、また話す人によって、内容が少しずつ違ってくるかとは思う。

 

 テコン島には新兵のトレーニング・センターを担うキャンプが二つある。第一キャンプと第三キャンプと呼ばれ、第三キャンプは古いながらも鉄筋コンクリートのビルディングだが、第一キャンプはさらに古く、低層の細長い兵舎(バラック)の集まりで構成されている。さて、第一キャンプにはどんなに新兵があふれていても、決して使用しない無人の兵舎が一棟ある。そしてこの兵舎には、なぜかドアが三つある。というのは、通常の兵舎はドアが二つ———入室のための入口と、退室のための出口———しかないのだ。この兵舎に三つ目のドアがあるのは、次のような過去の事情による。

 

 テコン島での新兵達の訓練の一つに夜間歩行というものがある。銃まで持ったフル装備で、小隊ごとに長い一列を作って夜のジャングルを歩き回るのだ。先頭は隊長であるルテナントlieutenantで、新兵達を挟み、最後尾はサージェント(sergeant)が務める。8キロにはなる装備が重い上に、都会育ちのシンガポールの若者は自然の暗闇に全く慣れていないため、辛い訓練である。地図を確認するような時だけ、肩に取り付けた赤いライトの懐中電灯を点すことが許されている。その時以外は、時々点呼をしながら、ジャングルの闇の中を影のように歩いて行く。ただ見えるのは、自分の2メートルは前を歩く、仲間のヘルメットの後頭部に光っている、点のような小さな緑のライトだけである。

 

 「Number off, 1」、「2」、「3」・・・「9」、「10」、「Strength 11, all present, Sir!,

 この夜も、ある小隊11名の夜間歩行訓練が行われていた。真っ暗闇のジャングルの中、草をかき分け、小川を乗り越え、どんどんと歩んで行く。やがて、一時休憩となった。休憩となれば、誰しもトイレに行きたくなる。しかし、もちろん公衆トイレなどというものはないので、ジャングルのどこかの草むらで用を足さねばならない。この時、携行しているライフル銃などの装備を自分の身体から離してはいけない、という軍隊のルールがある。そしてまた、こうしたオフィシャルなルールの他に、兵士達の間で語り継がれる決まり事もある。それは、祠や大きな木の根元で用を足してはならない、というものだ。祠はもちろんのこと、大木にも精霊が住んでいると言われ、彼らを邪魔してはならないというわけだ。それはさておき、短い休憩も終わり、兵士達は再び出発した。

 「Number off, 1」、「2」、「3」・・・「9」、「10」、「Strength 11, all present, Sir!

 時おり点呼をしながら歩みを進め、そして隊は無事にキャンプまで戻ってきた。苦しかった夜間訓練は終わった。

 

 しかし、これで今日は解散と皆がほっとした時、誰かが言った。

 「チェンがいません!」

 確かに新兵の一人、チェンがいなかった。奇妙なことだった。今の今まで、11人であることを確認しながら戻って来たのに。夜間の歩行訓練というものは、誰も道に迷ったり脱落したりせず、全員で戻って来ることが肝要である。とりあえず、人員総出でチェンを捜索することになった。捜索はジャングルで一晩中行われたが、チェンは見つからなかった。やがて空が白んで朝が来た時、ようやくチェンが、というよりもチェンの死体が、大きなフランジパニの木の根元で見つかった。フランジパニは、香りの良い白い花をつけるインドソケイ、通称プルメリアのことである。この木は女の吸血幽霊、ポンティアナックを想起させる。ポンティアナックが現れる時、フランジパニの花の香りがし、ついで血の悪臭がすると言われる。

 

 木の根元の死体がチェンだと分かったのは、死体のそばにあった軍服からだった。なべて軍服の胸元には各々の氏名のプレートが取り付けられているからである。そうでなければ、その死体はもう誰なのか判別ができなかった。死体は裸で、顎からペニスの先までまっすぐに切り開かれていた。切り開かれた所から内蔵がえぐり出されていた。そして死体のそばに、軍隊の装備、軍靴、軍服、腸、胃、心臓と、順にきちんと並べて置かれていた。身体の内側にあるものが全て、外側に出されて並べられていたのである。

 

 この衝撃の事件が発覚したその夜から、第一キャンプのタンがいた兵舎の者達は、深夜に泣き声が聞こえると訴えるようになった。新兵達が皆怖がって、キャンプ内の士気も下がる。上層部としても放ってはおけなくなり、キリスト教の牧師、仏教の僧侶、イスラム教のイマーム(Imam)等々、様々な宗教の師にお祈りをしてもらうが、泣き声の怪現象は一向におさまらなかった。最後にマレーの呪師ボモ(bomoh)に相談したところ、いわく、

 「若者の霊が兵舎から出られなくなっている。ドアを取り付けなさい。」

 認可の問題があり、兵舎に穴を開けて入口を作るわけにはいかないので、二枚のドアが外側と内側の同じ位置に取り付けられることになった。そしてこの「三つ目のドア」ができてから、泣き声は聞こえなくなったのである。しかし、このドアの三つある兵舎は以後、使われることはなくなった。また現在、テコン島のキャンプでは、決して木曜に夜間訓練を行わない。例えば射撃訓練などで、日中から夜間まで続けて訓練を行った方が効率良いと思われる時でさえ、その日が木曜日であれば、隊長は日中だけで訓練を終えて皆を引き上げさせる。チェンが死んだ夜間訓練の行われたのが、木曜日だったからである。

 

 怪現象を相談するのに、様々な宗教から人を呼ぶというくだりが、多民族・多宗教の調和を標榜するシンガポールっぽい。立ち小便も命がけ、みたいなテコン島の話だが、「Murder at Mandai Camp」の中で語られるバージョンには、フランジパニ云々は登場しない。それが2020年現在、キャンプ内で流布しているバージョンなのか、作者のChong Tze Chienの改変なのかはわからないが、若者が殺された原因の部分が異なっている。作中のタンの話では、金曜日にはキャンプ内で豚肉を食べることが避けられていた、と言うのである。それにも関わらず、一人の兵士がどうしても食べたくなって、金曜日にチャーシューを食べてしまった。それでその兵士は殺された、と・・・。食べるのはもう一日待てなかったのか?という話になっている。それにしても、豚肉を食べて怒るところを見ると、ポンティアナックってムスリムだったんだな・・・。いや、立ち小便も卑近な設定なのだが、さらにこれはどういう設定よ?と思ってしまう。でもそこが、若い男達であふれた軍隊キャンプ内の怪談っぽいとは言える。2020719日)

 

Monday 26 October 2020

『映画』Dantza(ダンツァ)

 

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Dantza(ダンツァ)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2018

製作国: スペイン

監督: Telmo Esnal(テルモ・エスナル)

振付: Juan Antonio Urbeltz

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 We Are One: A Global Film Festival」で配信された作品の一つ。サン・セバスティアン国際映画祭選。スペインはバスク州の映画祭が選んだのは、バスク州出身の監督が作るバスクダンスのダンス映画。ちょっと調べてみたら、この映画を製作した映画会社Txintxua Filmsもバスク州の会社だった。

 

 

 この映画はストーリーがあるわけではない。セリフもない。大自然や古い町並み、建造物の中で、人々が踊る、時に歌や楽隊の演奏に合わせて踊る、というだけの作品である。上映時間98分の間、場所を変え、衣装を変え、音楽を変え、編成を変えて、ひたすらダンス・シーンが続いていく。そのようなわけで、印象としては、大きなダンス・カンパニーの本公演で、一貫したストーリーはなく、いくつかの短い演目で構成されているものが映画になっている、という感じである。では、舞台作品を単純に映画化したような作品かというと、そうではない。見応えがあって、とても面白かったのだった。

 

 冒頭、草木の見えない広大な乾いた大地に、鍬を持った人々がやって来る。彼らが大地に鍬を入れ始めると、その耕す音はどんどんリズミカルになっていき、その動きは踊るようになっていく。こうしてダンスが始まる。それから、だいたい以下のようなダンスが繰り広げられていく。なお、セリフやナレーションがあるわけではないので、各シーンの説明には私の解釈が入っている。

       大地に雨が降り、洞窟で大地の神がソロで踊り、虹がかかる。

       固い大地から植物が生え、それがポールに変わる。ポールには布切れが巻かれているように見えるが、布切れと見えたものは、実はポールにくっついている精霊達だった。ポールから降りた彼女達は、メイポールダンスをする。

       メイポールダンスの途中、どこかから投げられたナイフによって、精霊の握っている綱の一本が切られ、その精霊は死ぬ。霧の立ちこめる浅瀬から、死神達が踊りながらやって来る。

       城塞から男達が死神達の元に向かう。夜、松明をともしながら死神達と戦い(踊り)、彼らに勝つ。

       まだ夜。男達は死神のリーダー(?)を城塞に運んで来る。一方、女達は手をつないで輪になり、歌いながら踊る。

       緑豊かな大地にポールが立っている。ポールを取り巻く美しい布は、今度もポールにくっついている精霊達だった。ポールを離れた彼女達は林檎を手にして収穫を祝う(踊る)。

       林檎酒の醸造所で働く男達が、ダンスの腕前を競い合って踊る

       (人々が大地を棒でついて掘り、鍛冶の炎が映し出される。幕間的映像。)

       ずっと時代が下ったように見える石畳の町。村長を先頭に、村人達が一列になって踊りながら広場に向かう。

       広場でお祭りが催される。林檎酒が運び込まれ、バーベキューを楽しみ、皆で踊る。

       ダンスの腕前を披露していた女性が、一人の男性とお祭りを抜け出し、森の中の小屋で二人だけで踊る。

       石柱に支えられた古い展望台で前述の男女の結婚式が行われる。楽団の奏でる音楽とともに、新郎新婦、出席者達が踊る。

       夜になるが、まだ皆踊り続けている。雪がちらつき始める。

       雪の降る中、新郎新婦を先頭に、皆二列に並んでステップを踏みながら帰って行く。

 

林檎を手にして踊る。
 

 バスクダンスは足さばきが重要なダンスのようで、右に左にステップを踏み、足を蹴り上げ、ジャンプして足をパタパタさせる、といった動きが特徴的。ジャンプした後、床の上に置いたコップの端に着地するというすごい技もある。手をつないで数珠つなぎになって、あるいは輪になって踊る姿は、いかにもフォークダンスっぽくて楽しそうだが、踊っている人達の足元を見ると複雑。もし、あまりリズム感があるとは言えない私が混じったら、一人だけ違う方向に踏み出し続けると思う。

 

 この映画は、様々な場所でのロケーション撮影によって構成されている。そのためか、カメラに入って来る自然光がまぶし過ぎるショットもたまにあるが、そういう所がドキュメンタリー作品っぽくもある。他にも広場でのお祭りで、人々が普通に食べて楽しんでいるようなシーンがあったりもする。とにかく、人々がいろいろな場所で踊り、彼らの衣装もまた場所によって様々で、時に美しく、時にユニークで、凝ったものである。

 

 しかし、それだけではダンス上演を映画にする醍醐味としては十分ではない。というわけで、カメラはもちろん、様々な視点や動きでバスクダンスの魅力を捉えようとする。輪になって踊る女達を上から眺めたり、二人きりで踊る男女に回転しながら近づいて行ったり。

 

 私が好きなのは、醸造所でのダンスである。醸造所で仕事中という設定なので、比較的狭い空間で、地味な色合いの衣装の男達が踊り比べを行う。人々が見守る中、各人が中央に進み出て自分のダンスを披露する。そのため、手前の端に見物する人を入れて横長の画面を狭くし、観客(と言っても映画館ではないが・・・)の目を中央で踊るダンサーに向けさせるようにしている。さらに、その後方で別のダンサーを踊らせることで、奥行きと動きを出してもいる。他にも、カメラが醸造所の外に出ると、そのフレームに飛び込んで来るダンサーがいたりして、色彩的には地味なシークエンスだが、楽しい。

 

 この醸造所での演出は、当たり前と言えば当たり前のものなのだろうが、その当たり前のことが、一連のダンスの動きに合うように、きちんと設計された上で行われているように見える。だから、無駄なものを見させられることがなく、楽しいのだと思う。また、メイポールダンスをしている精霊達の所に死神集団がやって来るシークエンスも、特に変わったカメラワークをしているわけではないが、とても面白い。面白いというより、恐い。霧の中、ガスマスクみたいな覆面をした者達が、浅瀬の水を蹴り上げて、足につけた鈴をシャンシャン鳴らしながらやって来る。この映像からしてすでに恐いのだが、彼らがどこかから次第次第に近づいて来る、という感じがよく表れるように撮られており、さらに恐い。

 

 原初から現代まで。乾いた大地から収穫の夏、そして冬へ。自然と文明、生命と死、祭りと婚礼。時代の変遷と、生命のライフサイクルとを一つにし、そのスケールと美、踊ることの喜びを十分に感じることのできる作品だった。

 

 今回のWe Are One: A Global Film Festival」で、様々な国の様々な表現の映画を見ることができ、楽しかった。国という意味においても表現という意味においても、自分の知らない景色を見ることのできる、映画とは世界に開かれた窓なのだと、月並みな感想だけど、そう思ったのだった。2020624日)

 


 

Saturday 17 October 2020

『映画』Crazy World(クレイジー・ワールド)

 

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Crazy World(クレイジー・ワールド)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2019

製作国: ウガンダ

監督: Nabwana IGG

出演: Kirabo Beatrice, Bruce U

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 529日から67日まで、We Are One: A Global Film Festival」というオンライン・フィルム・フェスティバルが開催された。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行のため中止を余儀なくされる映画祭が多い中、トライベッカ映画祭のTribeca Enterprisesによって組織された映画祭である。世界中の名だたる映画祭が各々選んだ作品を集めており、プログラムは映画作品に限らず、トーク、パネル・ディスカッション、360VRVirtual Reality)作品など様々。一定期間の間、YouTubeでどの作品も無料で視聴できるようになっているが、COVID-19救済基金のための寄付も呼びかけている。

 

 この「Crazy World(クレイジー・ワールド)」はトロント国際映画祭発。ウガンダはWakaliwood製作のアクション映画である。Wakaliwood(ワカリウッド)とは、ウガンダのNabwana IGGが設立した映画製作会社Ramon Film Productionsのこと。ウガンダの首都カンパラのスラム地域ワカリガ(Wakaliga)で映画製作を行っているため、「Wakaliwood」と称しているらしい。超低予算というよりも、予算などないも同然の予算でアクション映画を製作し続けている。

 

 

ワカリウッドの創設者で監督のNabwana IGG
 

 ところで、まだボリウッド映画が日本で一般的に知られていなかった頃、学校の先輩に「サタジット・レイを見てこれがインド映画だと思うのは、熊井啓を見てこれが日本映画と思うようなものだ。」と言われたことがある。今からすると確かにその通りだと思う。さらに、そのサタジット・レイでさえ、かつて私がシンガポールで見た「The Elephant God」のような作品を撮っていることを知った。「The Elephant God」は、サタジット・レイ自身が書いた探偵小説の映画化作品で、探偵Feluda(フェルダー)が活躍する冒険活劇映画。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズみたいで面白かった覚えがある。それはともかく、私が言いたかったのは、ワカリウッドの映画を見て、ウガンダ映画はこういうものだと思ってしまったら、ウガンダの人達は困るのではないか?ということだ(まぁそんなふうに思う人はいないと思うけど)。

 

 要はそのくらい安っぽく、かつ、手作り感が満載。そしてもちろん、その点をけなすことはできる。また一方、予算のないことを察して、それでもよく頑張ったとほめることもできる。あるいは、珍作、カルト作という別の観点からほめることも。とにかく見終わった後、どうしていいかわからずちょっと呆然とする。が、一つ言えるのは、この映画は最後までそれなりに楽しく見られる作品であり、見終わった後に「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と自分に腹を立てる必要もなく、後5年くらいしてタイトルを見た時、自分が見たかどうか全く思い出せないという始末にはならない、ということだ(一つではなく、三つ言ってしまった)。ちなみに二番目、「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と思う人はいると思う。しかし、上映時間65分の作品なので、許していいと思う(上映時間90分くらいまでで収めてくれる長編映画は、個人的に好感度が高い)。また三番目、自分が見たかどうか思い出せないという始末にはならない、という点だが、(これしか見ていない私と違って)ワカリウッドの作品をいくつか見た人は、どれがどれだかわからなくなるかもなぁと思った。ある意味そのくらい、ワカリウッドという「ジャンル」として個性的。

 

 そして個性という観点から言えば、安っぽいということ、それ自体がもはやこの作品の個性となっている。緊張感に欠けた雰囲気、まるわかり過ぎるCG、地元そのままのロケーション(映画が始まる前に監督のNabwana IGGがワカリガの撮影所を紹介してくれる映像がついているのだが、その風景が映画のシーンと地続き的に同じ様子なので、どこから本編が始まったのか、一瞬わからなくなった)、ドキュメンタリー・タッチというのを通り越して、単に素でセリフをしゃべっているように見える俳優達。しかし、この作品はこうした欠点とも言えるべき要素を隠そうとはしない。むしろこうした要素を前面に出して、映画内の世界が映画として作られたものであることを表明している。作り物なのだから、安いCGのようなその作り物感も楽しんでくれと、見る者を誘うのだ。

 

 さらに、作品のメタ的な構造を決定的にすべく、「video joker」による変なナレーションが入っている。このナレーション、映画の最初から最後までずーっと入っている。時にサイレント映画の字幕のように登場人物の名前や役柄、状況を説明し、時にアクション・シーンの実況中継を変な合の手を入れながら行い、時に登場人物に突っ込み、時にワカリウッド映画を褒めちぎりもする。例えば、「(確かに私は俳優の顔を覚えるのが苦手だが)そんなに折に触れて何度も「Isaac Newton」言わんくても、この子がIssac Newton(役名ではない、彼自身の名前)なことはもうわかったよ、うるさいよ」、と思ってしまうほど、懇切丁寧な(または耳障りとも言う)ナレーションなのだ。その上、「海賊版を作るのはもちろんのこと、見るのもいけませんよ」という、本編とは関係のないエピソードが挿入され、出演俳優の旧作の紹介があり、もはや何でもありになっている。

 

 もしこの映画が、メタ的構造を利用したこうした遊びの部分だけのものだったら、単に仕上がりが安っぽいことの言い訳をしているようにしか見えなかっただろう。しかし、この映画の見所はそこではない。あくまでも銃撃戦やマーシャルアーツによるアクションが見せ場なのだ。分かりやすすぎるCGによるヘリコプターのシーンや建物崩落のシーンとは裏腹に、ここで登場する銃火器はそれっぽく作られている。しかも、撃たれた時に飛び散る血(血のり)は基本的にCGではない。この点もリアルさが追求された演出になっている。格闘シーンもしっかりしていて、大人の俳優だけではなく、出演している子供達も「カンフーマスター」なのだが、見ていて楽しい。「皆、足が長いなー」と子供達に感心した。だから彼らがキックを繰り出すと、とても決まって、カッコいいのだ。

 

 ちなみに、今さらながらストーリーを説明すると、このような感じである。

 ギャングの一味、Tiger Mafiaの極悪ボスMr. Big(でも小人である)は、子供を犠牲とすることによって建物を完成させる(日本の人柱的な?)ことを思いつき、部下達に子供達をさらって来るように命じる。兵士である主人公の娘も誘拐され、その時の銃撃戦で妻も殺されてしまった。月日は流れ、今や狂人としてゴミ捨て場で暮らす主人公のそばで、また一人の少年が誘拐される。少年の父親に助けを求められた主人公は、ついに復讐のため我が子を取り戻すため、立ち上がる。一方、誘拐された子供達も、大人顔負けの格闘能力を頼りに、脱出の機会を伺っていた。(なお、Mr. Bigが小人であるということが、ラストで効いてくる。)

 

 ところで、「狂人」になって以降の主人公は、派手なズタボロの出で立ちになるのだが、屈んで丸くなって背中を向けていると、そこら辺にある瓦礫の山と一体化することができる。この、ゴミ捨て場ファッションを利用した擬態シーンは一瞬だけなのだが、私には妙に面白かった。そんなことあんなこといろいろあり、チャーミングな映画だったなぁと思ったのだった。2020611日)

 

Tuesday 29 September 2020

『映画』Alpha, The Right to Kill(アルファ 殺しの権利)

 

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Alpha, The Right to Kill(アルファ 殺しの権利)」・・・Singapore International Film Festival

公開年: 2018

製作国: フィリピン

監督: Brillante Mendoza(ブリランテ・メンドーサ)

出演: Allen Dizon(アレン・ディゾン), Elijah Filamor(エライジャ・フィラモー)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

映画祭プログラムからのあらすじ

フィリピン政府が進める麻薬撲滅戦争の中、マニラ警察は街の大物ドラッグディーラーの一人、アベルを逮捕するためのおとり作戦を準備する。作戦の鍵となるのは、貪欲な警察官エスピノと彼の情報屋(訳者注:警察の隠語でアルファという)であるエライジャ。エライジャは末端の麻薬密売人であり、アベルの信用を得ていた。SWATチームがスラム街を急襲すると、状況はたちまち警察とアベル達ギャングの一味との激しい衝突へとエスカレートしていく。(原文は英語)

 

  

 Singapore International Film Festival(シンガポール国際映画祭)で上映された作品。「Midnight Mayhem(深夜騒乱)」という枠のプログラムで、深夜1155分からの上映だった。

 

さて、フィリピンはマニラの警察署。古ぼけた警察署ビル内はいつも逮捕された被疑者で溢れかえっている。そのため窮屈で、しかも仕事が永遠に終わらなさそう。ここで働いているとノイローゼになるかも、という環境である。そして今、警察ではアルファであるエライジャをおとりに使った大物ドラッグディーラー逮捕のオペレーションを、実行に移さんとしていた。急襲作戦を前に緊迫感あふれる警察署内。マッチョな男達による気骨あるミーティング。それから舞台は大物ディーラー、アベルのアジトがあるスラム街へ。SWATチームが配置につき、おとりがアベルに接触、・・・そして急襲!銃撃!手に汗握るアクションが展開されていく。リアリティあるオペレーションの模様が描かれる一方、夜の大都会、屋根の上を逃げていく麻薬密売人達を空から撮ったシーンは、非常に美しい。今回の作戦の一員である警察官エスピノは、アベルが持ち出そうとした金と麻薬の詰まったデイパックを確保!警察の勝利!かと思いきや・・・えっ、それ持ってくの?エライジャに渡して?盗むの?

 

ここまでは、いかにも雑誌「映画秘宝」が好きそうな映画だなぁと思いながら、わくわくして見ていたのだった。そしてここから、悪徳警官を主人公としたノワール&アクション映画として展開していくのかなぁと思っていた。思っていたのだが・・・違った。この急襲作戦以降で描かれるのは、中流階級である警察官エスピノの生活であり、貧困にあえぐ麻薬密売人エライジャの生活である。特に、ゴミ集積場で妻と赤ん坊と暮らすエライジャの生活には悲しくさせられる。巨額の価値のあるデイパックを盗む手助けをしたにも関わらず、エスピノから渡されるのはほんの小遣い銭である。エライジャが近所の商店でおむつをバラ買いする(一パック買うお金はないので、「紙おむつ3個」みたいな感じで買う)その日暮らしぶりを見ると、こちらが落ち込む。そういうわけで、家庭人であっても、裏の顔ではエライジャのような下の者に高圧的なエスピノに、どうしても好感が持てない。しかし、そのエスピノも、表と同様、裏の世界でも中間管理職に過ぎないのだった・・・。

 

 エスピノもまた、麻薬で稼いだ金を「上納」しなくてはならない身分であり、その相手はもちろんギャングなどではなく、警察署にいる人物である。麻薬撲滅戦争の裏側、結局それは、「悪い奴ほどよく眠る」というピラミッド構造にすぎない。貧困層が浮かび上がれないのは、表の社会と変わらない。食うや食わずの末端の人間だけが取り締まられ、そして最も命の危険にさらされている。この映画で描かれる三人の人物、エライジャ、エスピノ、そしてこのピラミッドの頂点にいる人物は、「仕事」を離れれば三人ともが良き夫、良き父として描かれている。そこが恐いと言えば恐いところで、犯罪者だからと言って、特別な人々というわけではないのだ。

 

 映画は警察パレードで始まり、そして警察パレードで終わる。エライジャ達の物語を見て来た者にとっては、このラストシーンがなんと皮肉に見えることか。血湧き肉踊る警察のオペレーションの模様から一転、社会矛盾を比較的地味に描き込んだこの映画、見終わっても清々しい気持ちには全くなれない。しかし、警察好きな人は、前半部分をかなり堪能できるのではないかと思う。

 

 ところで、映画の中で伝書鳩に麻薬をつけて買い手に届けるというシーンがある。売り手と買い手が接触するのを避けるためなのだろうが、この古いような新しいような方法で、意外に買い手はきちんと支払っている様子である。やはり未払いにすると消されるせいだろうか。それにしても信用商売なんだなぁと思った。2020521日)

 

麻薬密売人としてまじめに働くエライジャ

 

Thursday 17 September 2020

[Film] House of My Fathers (Mouna Kaandam/Nomiyana Mathakaya)

07 December 2018 
“House of My Fathers (Mouna Kaandam/Nomiyana Mathakaya)” ---Singapore International Film Festival

Release Year: 2018

Country: Sri Lanka

Director: Suba Sivakumaran

Cast: Bimal Jayakodi, Pradeepa

Location I watched: The Cathay


Story from the programme booklet:

In this political parable set in the primeval forests of Sri Lanka, the civil war has left a terrible mark on two villages---one Tamil, one Sinhala. A ‘death strip’ separates the two due to their constant fighting. And no child has been on either side of the barbed wire for some time.

The villages receive messages from their respective gods that they are each to send a representative to an isolated place, where they will find the secret to renewing life. However, only one will return. As the Tamil woman and the Singhalese man chosen to heal the villages enter into the Forest of the Dead, they are forced to confront both provincial secrets and their own personal pasts.

 
Two villages confronting each other have been hit by the curse of infertility. To solve this crisis, a representative from each village, one man and one woman are sent to “the Forest of the Death” (I just call it a magic forest). The man, Asoka is a former soldier and now an outcast. The woman, Ahalya is a widow who also lost her son. The film is a kind of fantasy and also an allegory. However, for some audience, its presentation as a film may look boring.


For example, in this magic forest of night, four soldiers are suddenly coming toward Asoka and Ahalya with the crunch of walking footsteps. It is an impressive scene. Nevertheless, this forest --- where the dead are wandering --- itself looks like an ordinary and loose forest. It does not look too mysterious.


Both characters entering the magic forest are wearing casual clothes. Asoka’s fashion --- wearing a shirt and carrying a travelling bag --- is like an Indian uncle whom I see everywhere here in Singapore. Their clothes are not for camping in the forest at all, but since this film is like an allegory beyond realism, it should be OK.

The actress played Ahalya is not a stunning beauty, but her breasts are huge (it is obscene comment, but I could not help noticing that). She was beautifully shot, and it is an outstanding point of this film. Her existence is the key in the story. Only one can return from the magic forest. That one is, of course (I have to say), the man. After the woman gave birth to a magic baby in the forest, she had to die (since this baby boy was born immediately after conception, I just call him a magic baby). The man brought back the baby to his village. On the other hand, the woman, the baby’s mother was not mentioned afterwards.


Although the mysterious power of the magic forest manifests, eventually I read the story of this film as a tacit conspiracy of the two villages hating each other. Faced with the fatal crisis of infertility, the two villages cooperate each other to save their own clan. Instead of cutting the barbed wire separating the two villages, they use their own villager regarded as an “unnecessary” person---“a traitor” and a widow without children.


In the last scene, the audience realizes that the narration is done by the grown-up magic child. He laments the death of his mother and uterine brother whom he has never seen. Then, I was a little startled and felt an ache in my heart. “House of My Fathers” was a requiem for a mother who had been never mentioned, thus never had a requiem. (16 May 2020)

Going to the magic forest in casual wear

Sunday 2 August 2020

[Film] Transit (Transit)

04 December 2018

“Transit” ---Singapore International Film Festival

Release Year: 2018

Country: Germany, France

Director: Christian Petzold

Cast: Franz Rogowski, Paula Beer

Location I watched: Filmgarde Bugis+

 

Story from the programme booklet:

As German forces close in on modern-day France. Jewish refugee Georg is desperate to evacuate the war-torn continent. His golden ticket comes in the form of transit papers to Mexico, belonging to a recently deceased author. Georg assumes this identity and flees to the port city of Marseille---then finds that the transit visa was not the only thing the writer left behind.


 

Although the story from the programme booklet is a little bit vague, the storyline is not so complicated. Georg, a Jewish man, tries to evacuate to Mexico using a transit visa by pretending to be a deceased author. However, the invitation from the government of Mexico includes the author’s wife, Marie, too. She had left the author, but wishes to reunite with him, not knowing that her husband had already died. Georg accidentally meets Marie and falls in love with her.

 

The original novel, “Trandit” written by Anna Seghers was a story set during World War 2. In this film, France is similarly occupied by German forces. This is, however, not a period drama; it is set in the present times. Replacing a past era with the present is common when presenting Shakespeare’s plays. “Transit” took the same approach and became a film beyond a story about the persecutions of Jews by Nazi Germany. As the result, the film succeeded to suggest a universal and contemporary problem, intolerance in the world.

 

There are people who choose to kill themselves, who are broken up with their family or who are arrested by the forces. Tragedies in the past look like our current happenings, but since they are not directly belonging to our era, there is no uncomfortable feeling to be pushed too much. After watching the film, I was quietly impressed.

 

As Georg is disguising his identity, the audience feels suspense when his real identity is revealed to the authorities and when he tells the truth to Marie. It is an entertainment element in this film. I was watching in suspense and thinking what on earth he will do at the end.

 

The end of the film---an illusion he saw and the truth he knew---that bitterness is a fear of war. (10 May 2020)