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Tuesday, 13 March 2018

『コンサート』My Lai(ミライ)



2017825
My Lai(ミライ)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: アメリカ
製作: Kronos Performing Arts Association
作曲: Jonathan Berger
台本: Harriet Scott Chessman
演出: Mark DeChiazza, Rinde Eckert
歌手: Rinde Eckert
演奏: Kronos Quartet, Van-Anh Vo
見た場所: Drama Centre Theatre

 毎年SIFAの音楽プログラムを楽しみにしている。昨年は中国出身のピパ(中国琵琶)奏者Wu Manとウイグルのミュージシャン達によるコンサートだった。一昨年は、伝統的なアボリジナル音楽を現代的なスタイルと融合させたパフォーマンスを行うBlack Arm Bandや、トイ・ピアノ奏者Margaret Leng Tanの公演を見た。イギリスのSouthbank CentreLondon Sinfonietta による、20世紀のクラッシク音楽を聞くという一連のコンサートに、4日間行った年もある。

 今年は、サンフランシスコに拠点を置くKronos Quartet(クロノス・クァルテット)とベトナム伝統楽器の奏者であるVan-Anh Voによるモノドラマ「My Lai」だった。この場合のモノドラマとは、弦楽四重奏楽団とベトナム伝統楽器奏者の演奏による一人オペラである。実は内容をあまりきちんと確認しないでチケットを買ったので、行ってみてオペラだったことに驚いた(演奏だけだと思っていたのだ)。

会場であるDrama Centre入口

 上演内容を確認しない私が言うのもなんだが、「My Lai」は、ベトナム戦争中に起こったMy Lai Massacre(日本語ではソンミ村虐殺事件)、およそ500人にものぼる非武装のベトナム人住民が米軍によって虐殺された事件を題材としている。一人オペラであるこの作品の主人公は、当時、第23歩兵師団第123航空大隊の准士官であったHugh Thompson Jr.(ヒュー・トンプソン・ジュニア)である。1968316日朝、偵察ヘリコプターを操縦していたトンプソンは、ソンミ村のミライ集落上空で米軍による住民への攻撃を目撃する。トンプソンは、二人の部下とともに虐殺を止めようとし、また生存者を探して安全な場所に避難させようとした。そして、自分が目撃した殺戮行為を上官に報告した。

 作品は三部構成になっており、それぞれ「1st Landing」「2nd Landing」「3rd Landing」と題されている。時は200512月、癌を患って入院しているトンプソンが、あの虐殺の悪夢を思い起こすという回想形式で物語は進められる。ちなみに実際の彼は、2016年1月6日に62歳で亡くなった。つまり作品は、死の数週間前という設定なのである。

 舞台装置はシンプルで、舞台向かって左手にクロノス・クァルテット、右手にVan-Anh Voと様々なベトナム楽器、そして中央のもう一段高く設けられたステージに歌手のRinde Eckertが立つようになっている。そこには椅子2脚と毛布があるぐらい。背後は(病室を仕切るような)カーテンがかかっており、そこに映像が映し出される。上空から見たジャングルや煙だったりするが、カーテンには襞が入っているし、映像自体があまりはっきりとしたものではない。そのため、それらの映像は淡くぼんやりとしており、何が映っているのかよくわからない時もある。恐らくトンプソンの追憶であることを表現しているのだろう。

開演前の舞台

 クロノス・クァルテットは幅広い音楽活動を繰り広げているようだが、ざっくりとジャンル分けすると現代音楽に当たる。今回の作品では、クロノスの弦楽器演奏に、ベトナムの琴、木琴、銅鑼のような楽器からの音が組み合わされている。これを音楽に詳しくない私が聞いて思い起こしたのは、武満徹の音楽である。不協和音や鋭い響き、予想できない音の上がり下がり。乗ることもできなければ、一緒に歌うこともできない。就寝前に聞いてもあまり心が安らがない音楽である。

 物語は全編ほぼ歌によって語られている。歌詞は基本的にシンプルで、全ての状況説明や発言、思いが歌にされている(オペラは得てしてそういうものであろうが)。例えば、「これを見ろ〜」「あれは何だ〜」「死体が山積みだ〜」みたいな感じである。

 三部構成の第一部「1st Landing」では、2005年のトンプソンが虐殺の日を回想し始める。美しい朝にヘリコプターを操縦していた彼は、米軍が村人達を虐殺しているのを見つける。思い起こすに当たり、トンプソンは病室内をウロウロ歩き回ったり、毛布をたたんでみたり、逆に身にまとってみたりと、落ち着かなげである。一部の終わりには、病室のTV(が実際に置いてあるわけではないが)からと思われるクイズ番組の音声が流れて来る。司会は解答者の一人としてなぜかトンプソンを紹介している。クイズは、赤、白、青、三つのドアの一つを選べ、というもの。ドアは三つとも赤いと答えるトンプソン。このクイズ番組のシーンは、歌にはなっておらず、通常のセリフの形式である。

 第二部「2nd Landing」では、トンプソンと彼の二人の部下が殺戮を止めようとする。二部の終わりにも、やはりクイズ番組が流れて来る。先ほどと同じ司会が、トンプソンが部下に何を命じたかを質問している。トンプソンが説明している間に司会は時間切れだとし、「(米兵に対して)こいつらを撃て」、が正解だと告げる。(正しくは、逃げる住民達に対して米兵が銃を向けるようなら、米兵の方に向かって撃てと命令した。実際には撃たなかった。)トンプソンが、彼らの行っていたことは殺人であって、兵士のすることではないと言っても、聞き入れてはもらえない。

 第三部「3rd Landing」の始まりでは、2005年のトンプソンが、かつての部下の一人、ラリーの家に電話をしている。その後再び回想に戻り、一人の少年を救い、自分のヘリに乗せて飛び立ったことが歌われ、作品は終わる。

 この作品の内容からも察せられるように、己が正しいと思ったことをしたトンプソンだったが、その結果は、必ずしも彼に幸福をもたらしたとは言えなかったらしい。便利な時代なので、彼が亡くなった時のThe New York Timesの記事をインターネットで読むことができた。この虐殺事件について、トンプソンは軍法会議等で証言を行っているが、当時の世間は(虐殺を行った方ではなく)彼の方が有罪であるかのように見なした。脅迫電話がかかってきたり、自宅のポーチに動物の死体が投げ込まれたりしたらしい。功績を讃えられて勲章を授与されたのは、虐殺事件から30年後の1998年になってからだった。

 この作品では、時間を要したものの、結果的には勲章をもらって報われた、ということは描かれていない。曲調からしてあまり楽しげではないように(むしろ不穏な感じ。三部は若干哀切である)、ここで描かれているのは、当時24歳の青年だった主人公の、人生に大きな影響を与えたあの朝、虐殺のトラウマであり、その後の苦悩である。というわけで、作品の全体的な雰囲気は苦い。しかし、それでもラストで、自分は自分にできることをしたのだという救いは描かれている。行為の称賛を押し付けたり、無理に感動させたりせず、主人公の個人的な虐殺にまつわる記憶を辿る、という作り方に好感がもてる。

 それにしても、「いつも空を飛びたかった〜」と飛翔への希求が最初に歌われ、それに呼応する形で、少年を救ってヘリコプターで飛び去ったというラストで締めているのだと思うが、今ひとつこの空への憧れに共感できない。曲や舞台の雰囲気が醸し出す神経症的な重苦しさのためではなかろうかと思う。確かに明るい話題の作品ではないのだが、この憧れが共感できないと、主人公に対する共感も減じるので、そこに多少の物足りなさは感じたのだった。2017924日)

ピントが合っていないがカーテンコールの様子。カーキ色のジャンパーのおじさんが歌手のRinde Eckert

Monday, 16 October 2017

『コンサート』Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ)/Disco Hue(ディスコ・ヒュー)


2017923
Local Motion(ローカル・モーション)」: Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ), Disco Hue(ディスコ・ヒュー)
見た場所: Fort Canning Park

 ここ何年かですっかり人気となったフライドチキンのファースト・フード店、4 Fingersが主催するローカル・ミュージシャンのフェスティバルである。なぜ4 Fingersが?しかも無料で?どうやって利益を?などという疑問が湧きつつも、久しぶりにFort Canning Parkに行ってみたのだった。

 主催者は4 Fingersとは言え、実際に運営を担当しているのはEatmepoptartというローカルのDJグループである。Eatmepoptart自身を含め、8組ほどのミュージシャンが出演し、夕方5時からの開場だったが、私はJasmine Sokkoが出演する7時半頃に行った。

 久しぶりに行ったFort Canning Parkは遠かった。遠いというか、かつては砦(fort)が築かれていただけに、小高い丘の上の公園なのである。最寄り駅から徒歩で上がって行ったら、それだけでちょっと疲れた。

 行ってみたら、メイン・ステージとは別に、EMONIGHTSGがサイレントディスコを開催していた。サイレントディスコは、参加者が専用のワイヤレス・ヘッドホンを着けて、そこから聞こえる音楽を楽しむというもの。EMONIGHTSGはこれまたローカルのDJグループだが、EMO NIGHTというだけあって、流す音楽はEmo(エモ)である。というわけで、ヘッドホンを着けた40人くらいの男女が、イエローカードの「Only One」を大合唱していた。サイレントディスコを初めて見たのだが、音楽は全く聞こえないのに、ピカピカ光るヘッドホンを着けた人達が声を合わせて歌い、無心に踊っている。傍から見ると、ちょっと恐い。

 メイン・ステージの方に行ってみると、舞台正面の上部には、燦然と輝く4 Fingersのロゴ。この四本指のロゴが、映画にもなった某人気漫画に登場するカルト宗教団体のマークを思い出させ、ますます恐い。4 Fingers Crispy Chickenが、音楽を使って若者を洗脳しようと企んでいるかのようである。私は若者ではないのだが。

ちなみにこれが、4 Fingersのロゴである。4本指というところが・・・

 それはともかく、Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ)は30分ほど遅れて始まった。ジャスミン・ソッコは2016年にデビューしたエレクトロニックのソロ・ミュージシャンである。可愛かった。顔もなかなか可愛いのだが、所作(という言い方が古くさい)が可愛い。「うふふっ」という感じが可愛い。そんなわけで、「可愛い」という単語を噛み締めながら彼女の歌を聞いていたのだが、パフォーマンス自体もとても良かった。(曲自体が似ているというわけではなく)全体的なイメージとしては、FKAツイッグスからセクシーさを取った感じ、グライムスからアーティスト然としたところをなくした感じ。より可愛くより庶民的。曲に一緒に歌えるようなキャッチーさがあまりなく、加工された歌声の効果もあって、夢見るよう。そのためずっと聞いていると、良く言えばトリップ感があり、悪く言えばダラダラ続いている感じがある。この点もFKAツイッグス のライヴを思い出させた。ちなみに、キーボードはこの後に登場したDisco HueZieが務めていた。

ジャスミン・ソッコ(写真技術の不備で、可愛さが撮れていない。)


ジャスミン・ソッコの「Porcupine」。残念ながらマスクのせいで本人の顔はよく見えない。

 Disco Hue(ディスコ・ヒュー)は2012年に結成された4人組バンドである。と書いていて、この日舞台には5人いたことを思い出した。キーボード、ボーカル、ギター、ドラムの4人なので、恐らくベースの人はメンバーではなかったのかと。生で聞くまではエレクトロニック色の強いバンドだと思っていたが、実際は、思っていたよりもずっとロック・バンドだった。シンセサイザーの音が強いリリース版と異なり、各パートのバランスが取れた派手な音だった(そのために5人になっていたのかもしれない)。観客の多さに感激しつつ、白熱のパフォーマンスを見せた彼らの曲には、どことなくレトロな、80年代っぽい感じがある。それを意識しているためか、ボーカルのSherlynとともに(と言うかそれ以上に)観客を盛り上げていくキーボード、Zieの衣装は80年代風だった。30分前にジャスミン・ソッコのライヴで演奏していた時とは完全に違う服装。その時はジャスミンに合わせて黒い衣装だったが、自分達のライヴでは、白と赤のボーダーTシャツに水色・赤・白の入ったジャケット。目立ち過ぎだろ、お前。

ディスコ・ヒュー(向かって左のキーボード担当が目立つ。)


ディスコ・ヒューの「Plastic Hearts」 featuring Akeem Jahat(アキム・ジャハット)。
 アキム・ジャハットはシンガポールのラッパー。この曲をやった時、もしかして登場するのでは、とちょっと期待したけど、それはなかった。ちなみにビデオに登場する三組のカップルの、男3人はディスコ・ヒューの面々だが、女性3人はバンド・メンバーではない。ボーカルのSherlynの顔はこのビデオではよく見えない。ビデオの中で女の子がガッツリあぐらをかいているのを見て、「あぁ、シンガポール女子だなぁ」と思った。

 ディスコ・ヒューをトリに、全てのライヴ・スケジュールが終了し、その後はDJ達へと引き継がれて行ったが、私は見ないで帰った。でも十分満喫した。楽しかった。ただ、会場が丘の上で、周囲にお店があるわけでもないのに、会場でもあまり食べ物・飲み物を売っていないことが残念だった。しかも、持ち込みができない。というわけでもし5時から行っていたら、お腹が空いて腹が立ったかもしれない。行く前は、4 Fingersが主催なのだから、なんかもう山のようにフライドチキンを売っていて、誰しもがフライドチキンを食べているのだとばかり思っていた。そうではなかった。むしろ4 Fingersは全く売っていなかった。考えてみると、マクドナルドの屋台などというものを見たことがないので、そういうものなのだろう。食べられないとなると、無性に4 Fingersが食べたくなった。4 Fingersのプロモーションとしては、このイベント、間違ってなかったんだなーと思ったのだった。2017928日)

会場を飾るパネル。ここにも4 Fingersのロゴが・・・。

ちなみにこれが4 Fingers Crispy Chicken。
フライドチキンを特製のタレに絡めたもの。酒のツマミに良さそうな味の濃さ。

Saturday, 26 August 2017

『映画』/『コンサート』Setan Jawa(セタン・ジャワ)


2017721
Setan Jawa(セタン・ジャワ)」・・・Pesta Raya-Malay Festival of Arts
公開年: 2017
製作国: Indonesia, Australia
監督:  Garin Nugroho(ガリン・ヌグロホ)
音楽:  Rahayu Supanggah, Iain Grandage
出演:  Asmara Abigail, Heru Purwanto, Dorothea Queen, Luluk Ari Prastyo
見た場所: Esplanade Concert Hall

 “Pesta Raya”Arts CentreであるEsplanadeが毎年開催しているマレー芸術祭で、毎年、イスラム教のラマダン月の後、シンガポールの祝日でもあるHari Raya Puasa(ハリ・ラヤ・プアサ、ラマダン月終了の祭日)を過ぎた頃に開催されている。シンガポールのマレー系の人々はたいていイスラム教徒であるため、ラマダン開けのお祝いも一段落して、一息ついた所で開催するようになっているのだと思う。今年は720日から23日までの日程だった。

 “Pesta Raya”の期間中、Esplanadeでは有料無料の様々な催しが実施されるが、今年の目玉の一つがこの、「Setan Jawa」の上映・上演だった。上映・上演というのは、モノクロのサイレント映画を、歌唱隊つきのガムラン・オーケストラと、西洋楽器のオーケストラとともに上映するからである。サイレント映画を生演奏と一緒に上映するという催しはたまに見られるが、この「Setan Jawa」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホが撮った最新作で、演奏される音楽もこの映画のために作曲されている(インドネシアのRahayu SupanggahとオーストラリアのIain Grandageが作曲)。オーストラリアのThe Asia-Pacific Triennial of Performing Artsで初公開され、オーケストラつきという上映・上演形態で各国を巡演しているらしい。


上はプログラムの表紙から。こちらはフライヤーからの写真。

 ガリン・ヌグロホの作品では、過去に一度「Opera Jawa」を見て、非常に感銘を受けた覚えがあった。「Opera Jawa」はカラー作品であるが、ジャワの伝統音楽と踊りで構成された作品で、やはりセリフがない。「ラーマーヤナ」にインスパイアされたという物語はシンプルで、村の貧しい若夫婦と、その妻に恋をした村一番の金持ちとの、三角関係の顛末を語っている。「Opera Jawa」を見て私が思い出したのは、寺山修司の遺作「さらば箱舟」だった。「さらば箱舟」が沖縄を舞台としており、「Opera Jawa」の世界観にどこか似通ったものがある(単なる南国つながりだが・・・)のも確かなのだが、それだけでなく、「この監督、寺山修司みたいだな」と思ったのだった。一つには、時代設定がいつともしれない感じなところ。1920年代のようなレトロ感はあるのだが、かといって歴史物では決してない。また、音楽が作品の重要な要素となっているところ。この「Opera Jawa」の音楽もRahayu Supanggahによる作曲である。そして最後に、これが寺山修司を思わせる最大の要因なのだが、美術が作品と切っても切れないところ。しかもその美術がきわめて独特で、伝統美を生かしたものでもSFやファンタジー小説的な空想世界に類するものでもない。一番近いと思うのは、伝統(あるいは伝統とまではいかない過去)をモチーフとしたコンテンポラリー・アートで、なんとなくどこかのビエンナーレで歓迎されそうな佇まい。そこが寺山修司っぽい。

 例えば、「Opera Jawa」の一場面で、金持ちの誘惑に負けた妻が、彼の邸宅に赴くシーン。村の道に赤い絨毯が金持ちの家までずっと敷かれており、そこを自転車に乗った妻が進んでゆく。途中に大きなドアがドアだけ立っていて、それをくぐり抜けてゆく。もちろん、インドネシアの片田舎に赤い絨毯が敷いてあるのでも、建物がなくドアだけ放置されているのでもなく、映画の演出であろう。では、このシーンは(作品の中の)現実世界ではなく、幻想シーンとして描かれているのかと言うとそうでもない。登場人物の目の迷いでもなんでもなく、文字通りに赤い絨毯とドアであるとともに、金持ちに誘われて好待遇を得ることになる妻の状況を表現したメタファーでもある。一般的な劇映画は、映画の中の世界を「現実」として扱いたがる(幻想シーンについては、登場人物か誰かの幻想であることを明示したがる)。しかし、この作品は「現実」と「幻想」(あるいはあからさまな表象表現)との切り分けを持たない。そういう意味で、作品がミュージカルである云々以前に、「Opera Jawa」は舞台劇に肌合いが近く、そしてそれを成し得ているのが、その独特の美術であると思う。舞台美術のようでもあるし、また、コンテンポラリー・アートのようでもある。実際に赤い絨毯と自転車が置かれていて、背後のスクリーンにその絨毯の続きが田園風景の映像とともに映し出される・・・こんな感じのインスタレーションは、いかにもありそう。

 「Setan Jawa」は、Esplanadeの四階席まであるConcert Hallで上映・上演された。舞台の前面にガムラン・オーケストラ、その後ろに指揮者の率いる西洋楽器のオーケストラ、そして背後に映画スクリーンという配置。サイレント映画ではあるが、スクリーンは横長で、両端がオーケストラを囲うように少しカーブしている。映像の端が歪曲するので、たとえ写実的なシーンであっても、それだけにとどまらない独特の面白さがある。

開演前。スクリーンの絵は、財産を得るかわりに家の人柱になるという悪魔との契約を描いている。

 今回の作品も物語はシンプルである。20世紀初頭、オランダの植民地下にあるジャワ島。窃盗で捕まった貧しい少年が牢獄に入れられ、彼の不幸な魂は悪魔(Setan)となる。このプロローグの後、物語は、高貴な家の娘(Asih)に恋をした貧しい村の青年(Setio)へと移る。彼女にふさわしい結婚相手となるために、SetioSetanと契約を結んで金持ちになるが、その代わり、自らが自分の家の人柱となる運命にあった・・・というもの。映画はいくつかの章に分かれていて、各章の始まりに章題が字幕で挿入されるが、セリフを字幕で入れることはない。ガムラン・オーケストラとともに時々歌が入るのだが、その意味を字幕等で教えてくれるわけでもないので、ほぼほぼ音楽と映像で物語を進めている。

 とは言いつつ、やはりこの「Setan Jawa」も寺山修司っぽいので、物語を把握することはそれほど重要ではない。上記の筋を理解できれば、それで十分ではないかと。後は、繰り出されるイメージとライヴ演奏の競演を堪能すれば良いと思う。「Opera Jawa」もそうだったが、独特の美術とともにある映像の美しさは卓越している。例えば、青年Setioが森の奥にある怪しげなマーケットを訪れ、Setanと契約を交わすというシークェンス。そこに集う人々は、伝統文化からくる神秘的な装いをしているようでもあるが、6070年代の舞踏ダンサー的でもある。正しくは、舞踏ダンサー的な前衛感が、2017年にアップデートされてより洗練された感じ。最終的にSetioは、このマーケットで大野一雄氏のような呪い師に出会い、Setanとの契約の儀式を行う。

 このシークェンスのようにあきらかに日常ではない、怪しさ満載の場では件の美術が大活躍なのだが、そうではない場面においても、終始見る者の目を楽しませる美しい作品である。例を上げると、SetioAsihを見初めるシーン。Setioが商売をしている小さな市場に、馬車を乗り付けてやって来るAsih。白塗りの男女二人の道化をお供に、買い物をするAsihの姿が優雅にとらえられている。それにしても良家の乙女のお供は、白塗りの道化(道化の召使い)。この取り合わせは、単に上品な美しい娘が登場する以上のインパクトがある。一種の異様の美しさである。その一方で、Setioが他の村人達と箒作りをして働いているシーンはきわめて写実的。しかし作品全体として、写実的な部分と、伝統と前衛の境界に花咲かせたような美術による部分とは、バランスがとれて統一感がある。結果、「現実」と「幻想(表象)」との切り分けを持たない、独特の世界観を持った作品となっている。

お金持ちになったSetio(御者の後ろに立っている若者)の元に、二人の道化をお供に嫁ぐAsih(中央)

 美術ばかりを強調したが、演技もまた作品の世界観に寄与すべく、特徴的。サイレント映画的、あるいは舞台劇的に大仰(というか勿体を付けている)と言えなくもないが、むしろダンスのようである。前述した道化達もそうだが、Asihの動きなども一度一度ポーズを取っているように見える。また実際に、ダンスのシーンもいくつかある。Asihの家の豪奢な居間を、敷居越しに正面からとらえると、長椅子などの家具を背景とした額縁舞台のように見える。そこで彼女の母が踊る。また、Setanのために祭祀的なダンスがなされ、Setanの手下達はSetioの新居に窓から飛び込んで来る。

新婚夫婦の新居に飛び込んで来る悪魔

 Asihに恋をしたSetioは、彼女が落としていった簪を、自宅でこっそり自分の髪にさして踊る。一方、落とした簪をSetioが拾ったことを知っていながら、あえて返せとは言わなかったAsihは、やはり自宅で召使いに足を洗わせている。この二人のシーンがクロスカッティングで交互に見せられるのだが、恋をしている人達の非常に美しく官能的なシーンである。Setioが簪をさして女性のように踊る姿を、カメラは彼の体に迫り、舐めるようにとらえる。外見上は男らしい男性であるSetioが、愛する女性と一体となるかのように、かくもセクシーに踊ることができるとは。一方Asihは、立ったまま足を洗わせているのだが、官能に強ばらせているかのような足の上を、召使い(女性)の手が太ももの方まで上って行く。これがまたとてつもなく官能的。もちろんただ単に足を洗っているだけなので、何かあるわけではない。しかし久しぶりに見た、何が起こるわけでもないのに非常にエロいというシーン。「アート」映画と構える必要は全くなく、このクロスカッティングのシーンを見るだけでも、結構エンジョイできると思う。

 演技がダンス的なので、感情表現も身体全体を大きく使ってなされている。Setioの命乞いに来たAsihに、Setanは恋をしてしまう。Setanに体を要求されたAsihは、どうしたらよいのか苦悩する。覚悟を決めつつ、バスタブで行水をするAsihの苦しみを表現するのに、単なる表情や日常的な動きは用いられない。Asihは、足を持ち上げてそれをバスタブの縁に出し、ポーズを取る。このイメージのインパクトと官能的な美しさ。また、結婚を申し込みに行って、貧しいゆえにAsihの母に追い返されたSetioが、やるせなく箒を作っている。悲しさ悔しさにたまらないSetioは、箒の穂を頭にかぶる。穂先を下に穂をかぶったSetioの顔は見えず、人であって人でないような異形の何かに見える。そしてこの後、SetioSetanに会いに行くのである。

 最後に音楽について。全般的にガムランの方が大きく聞こえるので、最初のうちは、二種類の音楽が合っているのかどうか、西洋楽器が必要なのかどうかよくわからない。実際Setioが訪れる怪しげなマーケットのシーンなど、ガムラン・オーケストラしか聞こえていないようなパートもある。しかし、聞いているうちに、やはり両者が揃っていなければできないこともあるな、と思ったのだった。例えば、AsihSetioの命乞いをしに、Setanに会いに行くシーンでは、西洋の弦楽器の音がはっきりと聞こえている。バイオリンの哀切な響きが、Asihの優しい(勇猛さのない)自己犠牲的な思いにふさわしく、観客の感動を誘う。そして見ているうちに、二種類の音楽が、それぞれの特徴を生かしつつ調和しているように感じられてくる。

悪魔に会いに山奥に分け入ったAsih

 この作品をライヴ演奏なしで(音楽は録音で)上映することは可能だと思う。ただ、生演奏を聞いている時のような興奮や熱気は得られない。では逆に、映画ではなく、オーケストラ付きの舞踏劇だったらどうだろうか。これまた可能でないこともないが、全く違う作品になり、もはや「Setan Jawa」とは違うものになってしまうだろう。この作品の演技も美術も舞台劇っぽいのだが、観客を巻き込むような舞台の熱気を刈り取って、映画のスクリーンに封じ込めた結果、同じ内容であっても恐らく舞台劇では感じられないような洗練が、そこにはある。怪奇なものも野蛮なものも、フィルターを通して見ているかのような。しかも、モノクロのサイレント映画のため、一応20世紀初頭という設定ではあるが、いつとも知れない時代、どこか夢のような遠さがある。舞台が与える高揚感と泥臭さ(俳優が生で演じることによる)がないかわりに、知的に怪異のドラマと美を楽しむことができるようになっている。そういう意味で、映画らしい映画なのではないか、と思ったのだった。2017730日)

カーテンコール。監督、作曲家、主演女優さん達とともに。

Esplanadeの野外劇場では無料のコンサートが行われていた。Pesta Rayaの賑わい。