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Saturday, 3 November 2018

『映画』Marlina the Murderer in Four Acts (Marlina si Pembunuh dalam Empat Babak/殺人者マルリナ)


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Marlina the Murderer in Four ActsMarlina si Pembunuh dalam Empat Babak/殺人者マルリナ)」・・・「最もみじめな女」になるはずだった人殺しの四幕
公開年: 2017
製作国: インドネシア
監督: Mouly Surya(モーリー・スリヤ)
出演: Marsha Timothy, Dea Panendra, Egy Fedly, Yoga Pratama
見た場所: The Projector

 乾いた大地を一人行く、馬に乗った女。「Satay Western(サテー・ウエスタン)」と呼ばれ、イギリスのThe Guardian紙の映画評で「Leone meets Tarantino in Indonesia(レオーネとタランティーノのインドネシアでの出会い)」と書かれた作品である。インドネシアはスンバ島の僻地で、強盗団に襲われた寡婦の、復讐の顛末が描かれる。(ちなみにサテーはインドネシアやマレーシア等で食されている串焼き料理である。日本の焼き鳥に似ているが、鶏肉だけでなく、牛肉を使ったものもおいしい。)


 「Four Acts」とタイトルにあるように、映画は四部構成になっている(注意:以下四段落にあらすじが最後まで書いてあります)

 第一幕「Robbery(強盗)」: 見渡す限り、隆起した乾いた大地が続く土地の一軒家。若い寡婦マルリナの住むその家へ、一人の男が突然やってくる。Markus(マルカス)と名乗る男はマルリナに、後から仲間がやって来て、皆でマルリナの蓄え(主に豚や鶏などの家畜)を奪って彼女を犯すと告げる。実際、都合七人の男達は家に居座ると、マルリナに食事を供させる。マルリナは毒を盛って彼らのうち四人を殺害。残った首領格のマルカスにはレイプされてしまうが、隙を見て彼の刀でその首を切り落とす。

 第二幕「Journey(旅路)」: 翌日。マルカスの首を持ったマルリナは、村の警察署に行くために乗合バス(と言っても軽トラのようなもので、バス停も特にない)に乗る。そこで、臨月の妊婦である友人のNovi(ノビ)と一緒になる。強盗団のうち、生き残った二人(奪った家畜を運搬していて、マルリナの反撃の際に不在だった)がマルリナを追跡、彼女達のバスを乗っ取る。マルリナは、乗客の夫婦が結婚式のお祝いに運んでいた馬と一緒に逃げ延びる。

 第三幕「Confession(告白)」: 馬で警察署に辿りついたマルリナは、警察官達のやる気のなさといい加減さを前に、強盗にあってレイプされたことは供述したが、彼女が一味を殺したことは告白しない。一方、警察署の傍にある食堂の幼い娘(マルリナの早くに亡くなった一人息子と偶然同じ名前を持つ)と仲良くなり、しばし心の安らぐひと時を過ごす。

 第四幕「Berth(誕生)」: 一方ノビは、お腹の子は不義の子だとあらぬ疑いをかける夫に殴られ、田舎道(どこもかしこも田舎道なのだが)に置き去りにされたところを、強盗団の生き残りの若者Franz(フランツ)に捕まる。マルリナが帰宅すると、ノビを人質にしたフランツが待ち構えており、マルリナの持っているマルカスの首を要求する。首を渡し、これでおしまいにしようとするマルリナだが、フランツは彼女をレイプする。そこで今度はノビが、刀でフランツの首を切り落とす。産気づいてしまったノビは、マルリナの助けで無事出産する。翌朝、二人の女と赤ん坊は、静かに家から立ち去って行った。

 「サテー・ウエスタン」と言われると楽しそうだが、実のところ辛い話である。バスで馬を運ぶ中年夫婦の夫のような例外はあれど、まー出て来る男出て来る男、皆不愉快。この不愉快な男達が幅を利かす世界と対峙することになってしまうのが、若き寡婦マルリナなわけだが、見終わった後、痛快、爽快な気分になるかと聞かれれば、それほど清々しい気持ちにはならない。数々の苦難が乗り越えられるのを見てほっと一安心するものの、どこか苦さが残るような気持ちにさせられる。人生は続いて行くが、生きて行くのって、大変よ。

 あらすじをそのまま映画にしたら、女性の権利が守られていない開発途上の地域における、寄辺のない未亡人の止むに止まれぬ凶行と逃避行、みたいな辛気くさい作品ができてしまったかもしれない。しかし、この「殺人者マルリナ」は、明るい爽快感とは一味違った味わいをラストに残しつつも、面白い映画なのだ。起承転結を明確にした四部構成の客観的な語り口、西部劇を想起させるイメジャリー、バス道中等でのユーモアや思い切ったバイオレンス。それらが孤立無援の地で強盗団に居座られた寡婦の復讐の話から、最終的には女同士の友情の話となる展開と相まって、「殺人者マルリナ」は、女性を主人公としたドラマ映画以上の独特な作品となった。

 個人的に非常に印象的だったのは、第一幕「強盗」で、一味に居座られ、料理を作らされているマルリナのシーン。強盗団は、彼女の持っている生活の糧を全て奪った挙げ句、マルリナの手料理で酒盛りした後、彼女を輪姦する予定でいる。このシーンでマルリナは無言だが、その表情に何かの力が集中していく感じ、そしてその集中力によって何かが起こるような感じがさせられる。この非常な緊張感の元、平凡な一女性は自分を守るために人殺しとなる。

 見に行ったのはSingapore Film Societyの上映会で、上映終了後に、来場したモーリー・スリヤ監督のトーク・セッションがあった。元々この「殺人者マルリナ」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホの原案で、女性監督を望んでいたヌグロホからスリヤ監督に話が持ちかけられたという。インドネシアの都市生活をテーマとした映画を作って来たスリヤ監督としては、初めての地方を舞台とした作品だった。同じインドネシア国内とはいえ、スンバ島について何も知らず、まずグーグルで検索するところから始めたというのが笑える。そして、乾期になるとインドネシアのようには見えない島の風景を知り、そこからウエスタンという発想が生まれた。そういうわけで、監督自身に元々西部劇に対する特別な思い入れがあったわけではないのだ。島での撮影は、空港で飛行機の着陸に手旗信号を使っているくらいの僻地なのだが、それだけに新鮮だったと言っていた。ジャカルタで撮影していると、常に余計な人が映り込んでいないかをチェックしなくてはならないが、そんなことを気にしなくても、人は全然いない・・・。ちなみにこのスンバ島だが、劇中で見られる限り、独特の文化を持っている。イスラム教徒が80%以上を占めるインドネシアだが、所によって宗教や風習も変わるものだなーと思いながら映画を見ていた。

 ところで、フランツは死んだけど、強盗団の生き残りはもう一人いたと思う。その人がまだいると思うんだけど、大丈夫?と最後までそれが気になった。20181018日)

 以下は、イギリスのバンドThe XXが、YouTubeと共同して製作している「We See You」シリーズの一編、「We See You – Jakarta」。The XXのファンにフォーカスした短編映画で、ジャカルタ編は、モーリー・スリヤ監督による。主演の若者二人のちょっと野暮ったいところが、逆にかわいい。

Saturday, 26 August 2017

『映画』/『コンサート』Setan Jawa(セタン・ジャワ)


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Setan Jawa(セタン・ジャワ)」・・・Pesta Raya-Malay Festival of Arts
公開年: 2017
製作国: Indonesia, Australia
監督:  Garin Nugroho(ガリン・ヌグロホ)
音楽:  Rahayu Supanggah, Iain Grandage
出演:  Asmara Abigail, Heru Purwanto, Dorothea Queen, Luluk Ari Prastyo
見た場所: Esplanade Concert Hall

 “Pesta Raya”Arts CentreであるEsplanadeが毎年開催しているマレー芸術祭で、毎年、イスラム教のラマダン月の後、シンガポールの祝日でもあるHari Raya Puasa(ハリ・ラヤ・プアサ、ラマダン月終了の祭日)を過ぎた頃に開催されている。シンガポールのマレー系の人々はたいていイスラム教徒であるため、ラマダン開けのお祝いも一段落して、一息ついた所で開催するようになっているのだと思う。今年は720日から23日までの日程だった。

 “Pesta Raya”の期間中、Esplanadeでは有料無料の様々な催しが実施されるが、今年の目玉の一つがこの、「Setan Jawa」の上映・上演だった。上映・上演というのは、モノクロのサイレント映画を、歌唱隊つきのガムラン・オーケストラと、西洋楽器のオーケストラとともに上映するからである。サイレント映画を生演奏と一緒に上映するという催しはたまに見られるが、この「Setan Jawa」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホが撮った最新作で、演奏される音楽もこの映画のために作曲されている(インドネシアのRahayu SupanggahとオーストラリアのIain Grandageが作曲)。オーストラリアのThe Asia-Pacific Triennial of Performing Artsで初公開され、オーケストラつきという上映・上演形態で各国を巡演しているらしい。


上はプログラムの表紙から。こちらはフライヤーからの写真。

 ガリン・ヌグロホの作品では、過去に一度「Opera Jawa」を見て、非常に感銘を受けた覚えがあった。「Opera Jawa」はカラー作品であるが、ジャワの伝統音楽と踊りで構成された作品で、やはりセリフがない。「ラーマーヤナ」にインスパイアされたという物語はシンプルで、村の貧しい若夫婦と、その妻に恋をした村一番の金持ちとの、三角関係の顛末を語っている。「Opera Jawa」を見て私が思い出したのは、寺山修司の遺作「さらば箱舟」だった。「さらば箱舟」が沖縄を舞台としており、「Opera Jawa」の世界観にどこか似通ったものがある(単なる南国つながりだが・・・)のも確かなのだが、それだけでなく、「この監督、寺山修司みたいだな」と思ったのだった。一つには、時代設定がいつともしれない感じなところ。1920年代のようなレトロ感はあるのだが、かといって歴史物では決してない。また、音楽が作品の重要な要素となっているところ。この「Opera Jawa」の音楽もRahayu Supanggahによる作曲である。そして最後に、これが寺山修司を思わせる最大の要因なのだが、美術が作品と切っても切れないところ。しかもその美術がきわめて独特で、伝統美を生かしたものでもSFやファンタジー小説的な空想世界に類するものでもない。一番近いと思うのは、伝統(あるいは伝統とまではいかない過去)をモチーフとしたコンテンポラリー・アートで、なんとなくどこかのビエンナーレで歓迎されそうな佇まい。そこが寺山修司っぽい。

 例えば、「Opera Jawa」の一場面で、金持ちの誘惑に負けた妻が、彼の邸宅に赴くシーン。村の道に赤い絨毯が金持ちの家までずっと敷かれており、そこを自転車に乗った妻が進んでゆく。途中に大きなドアがドアだけ立っていて、それをくぐり抜けてゆく。もちろん、インドネシアの片田舎に赤い絨毯が敷いてあるのでも、建物がなくドアだけ放置されているのでもなく、映画の演出であろう。では、このシーンは(作品の中の)現実世界ではなく、幻想シーンとして描かれているのかと言うとそうでもない。登場人物の目の迷いでもなんでもなく、文字通りに赤い絨毯とドアであるとともに、金持ちに誘われて好待遇を得ることになる妻の状況を表現したメタファーでもある。一般的な劇映画は、映画の中の世界を「現実」として扱いたがる(幻想シーンについては、登場人物か誰かの幻想であることを明示したがる)。しかし、この作品は「現実」と「幻想」(あるいはあからさまな表象表現)との切り分けを持たない。そういう意味で、作品がミュージカルである云々以前に、「Opera Jawa」は舞台劇に肌合いが近く、そしてそれを成し得ているのが、その独特の美術であると思う。舞台美術のようでもあるし、また、コンテンポラリー・アートのようでもある。実際に赤い絨毯と自転車が置かれていて、背後のスクリーンにその絨毯の続きが田園風景の映像とともに映し出される・・・こんな感じのインスタレーションは、いかにもありそう。

 「Setan Jawa」は、Esplanadeの四階席まであるConcert Hallで上映・上演された。舞台の前面にガムラン・オーケストラ、その後ろに指揮者の率いる西洋楽器のオーケストラ、そして背後に映画スクリーンという配置。サイレント映画ではあるが、スクリーンは横長で、両端がオーケストラを囲うように少しカーブしている。映像の端が歪曲するので、たとえ写実的なシーンであっても、それだけにとどまらない独特の面白さがある。

開演前。スクリーンの絵は、財産を得るかわりに家の人柱になるという悪魔との契約を描いている。

 今回の作品も物語はシンプルである。20世紀初頭、オランダの植民地下にあるジャワ島。窃盗で捕まった貧しい少年が牢獄に入れられ、彼の不幸な魂は悪魔(Setan)となる。このプロローグの後、物語は、高貴な家の娘(Asih)に恋をした貧しい村の青年(Setio)へと移る。彼女にふさわしい結婚相手となるために、SetioSetanと契約を結んで金持ちになるが、その代わり、自らが自分の家の人柱となる運命にあった・・・というもの。映画はいくつかの章に分かれていて、各章の始まりに章題が字幕で挿入されるが、セリフを字幕で入れることはない。ガムラン・オーケストラとともに時々歌が入るのだが、その意味を字幕等で教えてくれるわけでもないので、ほぼほぼ音楽と映像で物語を進めている。

 とは言いつつ、やはりこの「Setan Jawa」も寺山修司っぽいので、物語を把握することはそれほど重要ではない。上記の筋を理解できれば、それで十分ではないかと。後は、繰り出されるイメージとライヴ演奏の競演を堪能すれば良いと思う。「Opera Jawa」もそうだったが、独特の美術とともにある映像の美しさは卓越している。例えば、青年Setioが森の奥にある怪しげなマーケットを訪れ、Setanと契約を交わすというシークェンス。そこに集う人々は、伝統文化からくる神秘的な装いをしているようでもあるが、6070年代の舞踏ダンサー的でもある。正しくは、舞踏ダンサー的な前衛感が、2017年にアップデートされてより洗練された感じ。最終的にSetioは、このマーケットで大野一雄氏のような呪い師に出会い、Setanとの契約の儀式を行う。

 このシークェンスのようにあきらかに日常ではない、怪しさ満載の場では件の美術が大活躍なのだが、そうではない場面においても、終始見る者の目を楽しませる美しい作品である。例を上げると、SetioAsihを見初めるシーン。Setioが商売をしている小さな市場に、馬車を乗り付けてやって来るAsih。白塗りの男女二人の道化をお供に、買い物をするAsihの姿が優雅にとらえられている。それにしても良家の乙女のお供は、白塗りの道化(道化の召使い)。この取り合わせは、単に上品な美しい娘が登場する以上のインパクトがある。一種の異様の美しさである。その一方で、Setioが他の村人達と箒作りをして働いているシーンはきわめて写実的。しかし作品全体として、写実的な部分と、伝統と前衛の境界に花咲かせたような美術による部分とは、バランスがとれて統一感がある。結果、「現実」と「幻想(表象)」との切り分けを持たない、独特の世界観を持った作品となっている。

お金持ちになったSetio(御者の後ろに立っている若者)の元に、二人の道化をお供に嫁ぐAsih(中央)

 美術ばかりを強調したが、演技もまた作品の世界観に寄与すべく、特徴的。サイレント映画的、あるいは舞台劇的に大仰(というか勿体を付けている)と言えなくもないが、むしろダンスのようである。前述した道化達もそうだが、Asihの動きなども一度一度ポーズを取っているように見える。また実際に、ダンスのシーンもいくつかある。Asihの家の豪奢な居間を、敷居越しに正面からとらえると、長椅子などの家具を背景とした額縁舞台のように見える。そこで彼女の母が踊る。また、Setanのために祭祀的なダンスがなされ、Setanの手下達はSetioの新居に窓から飛び込んで来る。

新婚夫婦の新居に飛び込んで来る悪魔

 Asihに恋をしたSetioは、彼女が落としていった簪を、自宅でこっそり自分の髪にさして踊る。一方、落とした簪をSetioが拾ったことを知っていながら、あえて返せとは言わなかったAsihは、やはり自宅で召使いに足を洗わせている。この二人のシーンがクロスカッティングで交互に見せられるのだが、恋をしている人達の非常に美しく官能的なシーンである。Setioが簪をさして女性のように踊る姿を、カメラは彼の体に迫り、舐めるようにとらえる。外見上は男らしい男性であるSetioが、愛する女性と一体となるかのように、かくもセクシーに踊ることができるとは。一方Asihは、立ったまま足を洗わせているのだが、官能に強ばらせているかのような足の上を、召使い(女性)の手が太ももの方まで上って行く。これがまたとてつもなく官能的。もちろんただ単に足を洗っているだけなので、何かあるわけではない。しかし久しぶりに見た、何が起こるわけでもないのに非常にエロいというシーン。「アート」映画と構える必要は全くなく、このクロスカッティングのシーンを見るだけでも、結構エンジョイできると思う。

 演技がダンス的なので、感情表現も身体全体を大きく使ってなされている。Setioの命乞いに来たAsihに、Setanは恋をしてしまう。Setanに体を要求されたAsihは、どうしたらよいのか苦悩する。覚悟を決めつつ、バスタブで行水をするAsihの苦しみを表現するのに、単なる表情や日常的な動きは用いられない。Asihは、足を持ち上げてそれをバスタブの縁に出し、ポーズを取る。このイメージのインパクトと官能的な美しさ。また、結婚を申し込みに行って、貧しいゆえにAsihの母に追い返されたSetioが、やるせなく箒を作っている。悲しさ悔しさにたまらないSetioは、箒の穂を頭にかぶる。穂先を下に穂をかぶったSetioの顔は見えず、人であって人でないような異形の何かに見える。そしてこの後、SetioSetanに会いに行くのである。

 最後に音楽について。全般的にガムランの方が大きく聞こえるので、最初のうちは、二種類の音楽が合っているのかどうか、西洋楽器が必要なのかどうかよくわからない。実際Setioが訪れる怪しげなマーケットのシーンなど、ガムラン・オーケストラしか聞こえていないようなパートもある。しかし、聞いているうちに、やはり両者が揃っていなければできないこともあるな、と思ったのだった。例えば、AsihSetioの命乞いをしに、Setanに会いに行くシーンでは、西洋の弦楽器の音がはっきりと聞こえている。バイオリンの哀切な響きが、Asihの優しい(勇猛さのない)自己犠牲的な思いにふさわしく、観客の感動を誘う。そして見ているうちに、二種類の音楽が、それぞれの特徴を生かしつつ調和しているように感じられてくる。

悪魔に会いに山奥に分け入ったAsih

 この作品をライヴ演奏なしで(音楽は録音で)上映することは可能だと思う。ただ、生演奏を聞いている時のような興奮や熱気は得られない。では逆に、映画ではなく、オーケストラ付きの舞踏劇だったらどうだろうか。これまた可能でないこともないが、全く違う作品になり、もはや「Setan Jawa」とは違うものになってしまうだろう。この作品の演技も美術も舞台劇っぽいのだが、観客を巻き込むような舞台の熱気を刈り取って、映画のスクリーンに封じ込めた結果、同じ内容であっても恐らく舞台劇では感じられないような洗練が、そこにはある。怪奇なものも野蛮なものも、フィルターを通して見ているかのような。しかも、モノクロのサイレント映画のため、一応20世紀初頭という設定ではあるが、いつとも知れない時代、どこか夢のような遠さがある。舞台が与える高揚感と泥臭さ(俳優が生で演じることによる)がないかわりに、知的に怪異のドラマと美を楽しむことができるようになっている。そういう意味で、映画らしい映画なのではないか、と思ったのだった。2017730日)

カーテンコール。監督、作曲家、主演女優さん達とともに。

Esplanadeの野外劇場では無料のコンサートが行われていた。Pesta Rayaの賑わい。