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Sunday, 26 April 2020

『映画』Zombiepura(ゾンビプーラ)


20181025
Zombiepura(ゾンビプーラ)」・・・国旗掲揚!
公開年: 2018
製作国: シンガポール
監督: Jacen Tan(ジェイセン・タン)
出演: Alaric(アラリック), Benjamin Heng(ベンジャミン・ヘン), Joey Pink Lai
見た場所: Golden Village Paya Lebar

監督のJacen Tan(ジェイセン・タン)が、7年の歳月をかけ、予算90万シンガポールドルで作ったシンガポール初のゾンビ映画!公開初日のSingapore Film Society(シンガポール・フィルム・ソサエティ)の上映会に行った。監督のジェイセン・タン、プロデューサーであり出演俳優でもあるAlaric(アラリック)とBenjamin Heng(ベンジャミン・ヘン)の三人がゲストとして来場。

某小国(と言っても、あきらかにシンガポールだが。タイトルのZombiepuraZombieSingapuraの合成語で、Singapuraはシンガポールの古名)の予備兵の陸軍キャンプ。ダラダラと任務についていた予備兵達だが、そこにゾンビが!というホラーコメディである。


孤立した陸軍キャンプ内で仲間達はどんどんゾンビになっていく。これに立ち向かうのが、へなちょこ予備兵のTan Kayu(カユ)伍長(アラリック)とカユの天敵である職業軍人(と思われる)のLee Siao On(リー)軍曹(ベンジャミン・ヘン)。そして、キャンプ内の食堂の看板娘(Joey Pink Lai)。運悪く彼女は、食堂を切り盛りする元ミス・チャイナタウンだった(というこのスケールの小ささがいい)のが自慢の母親に、「お前がいると食堂の売上が上がる」と言われ、手伝いに来させられていたのだった。

ヒロインの看板娘に「怠け者で臆病な」伍長と「傲慢で自分勝手な」軍曹と、身も蓋もないがきわめて的確に表現されたカユとリー軍曹が、ゾンビだらけのキャンプからなんとか脱出しようとしているうちに、次第にバディになっていくという物語である。そして最後には二人とも、人々を守る本物の「兵士」として成長する。

陸軍キャンプ内で事件が発生しているにも関わらず、誰もゾンビを殺すことをしない。物語の中ではゾンビという表現は使われず、カユ達は、人々が何か恐ろしい伝染病にかかって発狂してしまったとみなす。しかし、観客からすればどう見てもゾンビにしか見えないので、「いっそのこと殺してしまえばどうか?殺さないと殺される(ゾンビにされる)のだが?」と歯がゆくなってくる。カユ達はただゾンビから逃げまどうばかりだが、この作品のユニークさとコメディとしての面白さはここにある。舞台となっている陸軍キャンプは、ハリウッド映画でよく見るようなキャンプではない。シンガポールの予備兵を集めたキャンプなのだ。

シンガポールにはNational Serviceという一種の徴兵制度があり、男子は二年間、軍隊等で訓練を受けなくてはならない。この勤めを終えて社会に出た後も、40歳くらいになって除隊とされるまでは、予備兵として定期的に招集される。カユはとりわけ怠け者だが、カユに限らずキャンプにいる他の仲間達も、何日間かかったるいおつとめをしなくてはならない、という気持ちは同じである。映画の最初の方でカユはぼやく。「この国は安全じゃないか。それに小さな国なんだから、爆弾を落とされたら全て破壊されて終わりなのに、なんで予備役があるんだよ。」 だから、リー軍曹のような「軍人」風をふかす輩は、ただウザいだけである(しかし、上官なので逆らえない。そこは軍隊)。しかし、そのリー軍曹だって、どれだけ非常事態に対応できるかと言うと、結局のところカユとそう変わらない。このキャンプには十分に武器がある。また、皆が少なくとも二年の(二年も)訓練は受けているので、その知識もあれば使い方も心得ている。でも、誰もそれを使う度胸が全くない。そこがとても可笑しい。

そしてカユは、そんな根性なしの見本みたいな存在だが、途中ついに一度だけ銃を使うことになる。これまでがこれまでだけに、このシーンはグッとくる。こうしてだんだんと勇気をもって困難に立ち向かうようになるカユと、威張るだけでなく協力しあうようになっていくリー軍曹。

カユとリー軍曹はゾンビ達に襲われて、国旗を掲揚しているポールによじ登る。ポールからそばの建物の二階に移ろうとする二人。建物に移ったカユは、リー軍曹の手を掴んで引き上げようとする。がっちりと握りあったカユとリー軍曹の手のクローズアップ、その背景にはためく国旗…典型的な軍隊の宣伝ポスターの構図で、大爆笑のシーンだった。

二人がバディになる瞬間の感動シーンのはずなのだが、そこでシンガポールの軍隊を茶化す余裕がいい。そもそもこの映画では、冒頭から兵役あるあるギャグがそこここに仕掛けられていて、シンガポールで兵役を経験した人にとってはかなり面白いらしい。私は兵役に行っていないが、このシーンは笑った。

このポールのシーンの後から、脱出するためにヘリポートへと向かうクライマックスまでの間が、若干同じことの繰り返しになってしまっている、という難点はある。でも、全般的に楽しい作品だった。

 上映終了後は、監督達とのQ&Aセッションがあった。脚本を書いたのはジェイセン・タン監督自身だが、この映画のアイデアは、(もちろんと言うべきか)監督が自身の兵役中に思いついたものである。インディペンデントの小さな映画で、政府の協力を得ているわけでもないので、舞台となる予備役キャンプには、古い発電所の跡地が利用されている。それだけではない。この映画、誰がどう見てもシンガポールが舞台となっているのだが、実は映画内で「シンガポール」とは一言も言っていない(と思う)。国旗はシンガポール国旗のように見えるが、六つ星になっており(本物は五つ星があしらわれている)、軍服もいかにもそれっぽいのだが違う。

そして一番すごいと思ったのが、ゾンビ達がそれを聞いている間は動きを止めている、その「国歌」。Zubir Said(ズビル・サイード)作曲のシンガポール国歌「Majulah Singapura(マジュラ・シンガプラ)」の歌詞なしバージョンっぽいのだが、でもなんか違う…それっぽいのに全く別物なのである。政府の協力がないことを逆手に取って、映画全体がシンガポールの軍隊のパロディとなっている。ちなみにゾンビ達が国歌に反応するのは、国歌が流れて国旗掲揚するときには直立不動、という彼らが兵隊だった時の習慣を、体が覚えこんでいるためである。一種自虐ともとれることを笑いに転換していく。この手際を、やるなぁと思ったのだった。2020222日)

Sunday, 21 July 2019

『映画』Shirkers(消えた16mmフィルム)


20181020
Shirkers(消えた16mmフィルム)」・・・戦慄のノスフェラトゥ
公開年: 2018
製作国: アメリカ
監督: Sandi Tan(サンディ・タン)
出演: Sandi Tan(サンディ・タン), Jasmine Kin Kia Ng, Sophia Siddique Harvey, Ben Harrison
見た場所: Capitol Theatre


 Singapore Film Society(シンガポール・フィルム・ソサエティ)創立60周年記念の上映作品は、アメリカ在住のシンガポール人作家サンディ・タンによるドキュメンタリー「Shirkers(消えた16mmフィルム)」だった。シンガポール・プレミアとなった上映は、1929年建設のかつての映画館、今や美しく復元されたCapitol Theatreで賑々しく行われた。


会場のCapitol Theatre

 SFS60周年記念ということで、ロビーにはSFS60年の歩みがパネル展示され、特別ゲストとして財務大臣Heng Swee Keatが来場。SFSの会長Kenneth Tanの紹介で、上映前に大臣のスピーチが行われた。なぜ財務大臣が?というと、Mr. Heng Swee KeatはかつてSFSの会員で、若い頃SFSの上映会でリトアニア(だったと思う)映画を見たら、最初9人くらいしかいなかった観客が、終わった時には自分と(未来の)妻を入れてさらに4人に減っていた、という思い出話ができるほどの映画好きなのだ。

SFS60年の歩みと「Shirkers」のパネル展示

「Zombie Dogs」を監督した故Toh Hai Leong(右上)もSFSのメンバーだった

「Shirkers」の展示(右はロケ地の当時と現在を比較したもの)

 「Shirkers(消えた16mmフィルム)」は、サンディ・タンが19歳の頃に仲間達と製作しようとし、完成されることのなかった映画「Shirkers」を巡るドキュメンタリーである。今回のプレミアでは、監督のサンディや出演者だけでなく、オリジナルの「Shirkers」の出演者達もゲストとして来場した。オープニングでは「Shirkers(消えた16mmフィルム)」(ドキュメンタリー「Shirkers」)の主題歌を担当したweishのライヴ・パフォーマンス、そして上映終了後は、オリジナル「Shirkers」でサウンドトラックを担当するはずであったBen Harrisonのバンドによるライヴが行われた。最後は、来場した20人ほどのゲスト全員での記念撮影が行われ、オリジナル版でプロデュースを担当し、現在はアメリカ在住のSophia Siddique Harveyもビデオ通話で参加。約900席のCapitol Theatreがほぼ満席となる大きなイベントだったが、「Shirkers同窓会」のようなアットホームな雰囲気をたたえつつ、上映会は賑やかに終了したのだった。

weishのライヴ(ソロミュージシャンで伴奏も自分でしている)

Ben Harrison(中央)とバンドのライヴ


 1990年代の始め。サブカルチャーにどっぷり浸かってとんがった女の子に成長したサンディ(Sandi Tan)は、友達のジャスミン(Jasmine Kin Kia Ng)とソフィア(Sophia Siddique Harvey)とともに、自主映画製作を試みる。脚本は、サンディが書いた「Shirkers(逃避者)」。J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に影響を受けたこの作品は、殺人者である少女が「友人」となった子供達を連れてシンガポール中を旅するという、30分も車で走ればマレーシアとの国境に行き着く、小さな国のロードムービーだった。脚本だけでなく、主人公の少女もサンディ自身が演じることとなった。そして肝心の監督を担当するのは、彼らが以前受講していた映画製作講座の先生、ジョージ・カルドナ(Georges Cardona)である。そもそもジョージが、サンディの脚本に感銘を受けて、彼女に映画化を勧めたのだった。サンディら三人娘は、それぞれ海外の留学先から夏期休暇でシンガポールに一時帰国すると、他の仲間達とともに精力的に活動を開始した。16mmフィルムを無料で使わせてもらえるよう写真店と交渉し、ロケハンをし、オーディションをして俳優を募る。監督のジョージ以外は皆、10代の少年少女だった。

 ゲリラ撮影を敢行し、数々のトラブルはあれど、なんとか撮影を終えたサンディ達は、学期の始まりとともにシンガポールを発った。後に編集を請け合ったジョージを残して。しかし、待ち焦がれているジョージからの連絡は一向に来なかった。そして、ジョージは消えた。彼とともにフィルムの行方もわからなくなった・・・。

 それから約20年後の2011年、ジョージの未亡人から突然サンディに連絡が入る。「フィルムを返しましょうか?」。なんとジョージは、「Shirkers」の16mmフィルム70缶を持ったまま各国を転々とし、最後にアメリカで亡くなったのだ。失われた映画と20年ぶりに対面するサンディ。それは自分の過去との対面でもあった。

 映画は、サンディの生い立ちから始まり、親友ジャスミンとの出会い、「Shirkers」撮影の顛末、そしてフィルムの出て来た20年後、サンディが調べた亡きジョージの足取りまでを、オリジナル「Shirkers」の映像や関係者達へのインタビューを交えながら描いている。

 サンディ達は認めたくなかっただろうが、簡単に言うと、彼女達は大人に騙されてしまったのである。言うなれば、「映画作る作る詐欺」。彼女達全員の努力の結晶となるはずだった映画は、「監督」一人に横取りされ、しかも映画は決して完成しなかった。無形の努力だけではなく、撮影の最後の方で資金が尽きて来ると、ジョージはサンディ達を自分の車に乗せてATMを回り、学生である彼女達の口座からあるだけの預金を引き出させている。

 そもそも撮影中からジョージにはうろんな所が多かった。特にジャスミンはそう感じていたようだ。彼女に限らず、プロデューサーとして資金の話をつけてミーティングを設定したにも関わらず、ジョージに当のミーティングから追い払われたソフィアもしかり。当初サントラを担当していたベン(Ben Harrison)は、ジョージに「サントラはプロに頼むから外れろ」と脅されるように言われ、一本しか持っていなかったマスターテープも取り上げられてしまった(「プロ」に頼むなら、ベンのマスターテープは必要なくないか?)。ジョージと二人でアメリカ旅行をしたこともあり、恐らく最もジョージに心酔していたサンディは、その点で他の皆よりも鈍かったのだろうが、そのサンディでさえ、実のところ撮影の最後の方で脚本に全くないシーンを取るジョージをおかしいと感じていた。

 撮影終了後、いつまでも連絡の来ないことに業を煮やしたジャスミンは、「私達の映画はどうなったの」とジョージに電話をかけている。それを受けてジョージは、サンディ宛に送ったカセットテープ(ジョージはいつも、手紙のかわりにカセットテープに自分の声を録音して送って来るのだ)で、「彼女(ジャスミン)は「私達」などとアメリカ人みたいな物の言い方をする。もう二度とこんな連絡をしてこないよう言ってほしい」と言っている。いや、じゃあお前はなんでフィルムを預かっておいて何もしないんだ、という話なんだが。

 ジョージが亡くなり、二十年ぶりにフィルムが戻って来た後、サンディは彼の足取りを追ってみる。やはり彼女のように、若い頃ジョージの年下の友人であった人に話を聞いて、彼がアメリカでも同じようなことをしていたことを知る。豊富な映画の知識で映画好きの若者の心を引きつけ、彼らの映画作りへの熱意や努力、才能を利用しようとするのだ(しかし、それでジョージ自身が大きな成功を得ることはない)。ジョージの過去がこの作品の主眼でもないし、サンディも探偵ではないので、ジョージが何者だったかを追い切っているわけではないのだが、このジョージ・カルドナという人物は、自分の生い立ち等についてナチュラルに作り話をする一方、自分で脚本を書いて自分の努力で映画製作にこぎつけようとする人物でもなかった。サンディは彼を「若者の夢を食うノスフェラトゥ」であったと結論づける。

 若者達は騙された。しかし若者達は、こんな駄目な大人に騙されたからと言って、駄目になるわけではない。二十年以上の月日が流れ、今それぞれが元気で頑張っているわけで、この作品もそのような雰囲気を携えながらラストへと向かって行く。しかし、このドキュメンタリー「Shirkers」に味があるのは、単にそれだけで終わっていない点だ。誕生することのなかったオリジナル「Shirkers」を通して、サンディとジャスミンとの間の生じてしまったある種のわだかまりを暗示しつつ作品は終わる。この日、上映前の挨拶でサンディは今にも泣きそうだった。彼女が感無量になったのは、単に自分の映画が母国でプレミア上映されたためだけではなく、それ以上の思いがこの二つの作品———ドキュメンタリー「Shirkers」とオリジナル「Shirkers」———にあったからだと思う。

 もしオリジナル「Shirkers」が完成されたとして、この作品は自主映画の雄となっただろうか。残されている映像を見ると正直微妙である。シンガポール映画史における最初期の長編自主映画作品として、その名を残すかもしれないが、そうでなかったらどうだろう、という感じだ。ちなみにサンディは、ジョージの演出になる一シーンが、明らかにヴィム・ヴェンダースの作品からの借用(オマージュなどと言えば聞こえは良いが)であることに、後年気づいている。

 しかし、1990年代初頭のシンガポールを撮影した映像自体は、現在のように観光産業に力を入れ、やたらとheritage(ヘリテージ)を強調する前のシンガポールの姿を見ることができ、貴重である。家並みや自然が今ほど整備されきっておらず、それが生き生きとした素朴さを見る者に感じさせる。私は外国人だが、シンガポール人なら郷愁をそそられる風景だと思う。

 オリジナル「Shirkers」の映像に今や資料的な価値しかないのだとしたら、そんな未完成作品の製作の顛末を語るドキュメンタリー「Shirkers」とは何であろうか。「Shirkers」は決して完成されなかった。にもかかわらず、この「作品」は、そこでしかない出会いを生み、関係した人達の記憶の中にその時の思いを残した。「Shirkers」は、彼らそれぞれの胸の内で再生され、今やその人なりの「Shirkers」となっているだろう。それは、当時の思いだけではなく、後に彼ら自身に与えた影響までを含めた「Shirkers」となっているだろう。そして今、久しぶりに「Shirkers」を見た彼らは、こんな「作品」だったのかと新鮮な驚きを感じたことだろう。「Shirkers」が存在しない映画であると同時に、それを知っている人々のうちにのみ存在する映画であるということ。それはいかにも個人の映画体験のようだと、私は思ったのだった。結局映画というものは、メディアの側面を考えなければ、各人の記憶や思い入れの中にしか存在しないもののようだからだ(そう言ってしまえば、あらゆる芸術的作品がそうなのかもしれないが)。ドキュメンタリー「Shirkers」は、過ぎ去った青春の日々の話であり、エニグマ的な人物を解明しようとする話である。しかし、そこに止まらずに、さらに未完成の映画を通して映画の何たるかに踏み込んできている点が、このドキュメンタリーを抜きん出たものにしたと思う。

 前述したように、上映会自体は終始温かい雰囲気だったため、その日は「良かったな〜」と思いながら帰ったのだが、翌日ふとジョージのことを考えたら気持ち悪くなった。なぜ彼は、「Shirkers」のフィルムとともに移動をしながら、決して編集さえしなかったのか。「ノスフェラトゥ」なのだから、舌先三寸で映画好きの若者をたぶらかして手伝わせることぐらいできたはずである。ソフィアは、ジョージのこの奇行について、彼は「Shirkers」を愛していたのだと、優しい見解を述べている。でも、私は違うと思う。たぶんジョージは「Shirkers」を完成させることによって、自分に監督の才能がないことを知るのが嫌だったのでないかと。彼の好きだったジャン=リュック・ゴダール、映画批評家から出発して初の長編映画で世界の映画史にその名を残したゴダールのように、自分はとうていなり得ない。その事実を知ることを恐れたのではないか。そう考えたら、私が自分で勝手に推測したことなのに、ジョージの心の闇の深さに戦慄した。ちなみに「Shirkers」とは、責任等を回避する人という意味だが、いや、お前がshirkerかい!と一人で突っ込んだのだった。

上映終了後。左から五人目の赤いドレスの女性がサンディ、右から二人目の女性がジャスミン

こう言ってはなんだけど、ポスターのイラストと比べて、19歳当時のサンディはぽっちゃりしていた

 なお、サンディの親友ジャスミンは、1999年にKelvin Tong(ケルヴィン・トン)と共同で「Eating Air」という作品を監督している。学校をドロップアウトした不良少年と孤独な少女との初恋を描いたこの映画は、私の最も好きなシンガポール映画の一つである。この作品を見たのはもう10年以上前のことだが、その時、この作品は、バイクで国境を超えてシンガポールからマレーシアへ向かう、そういう逃避行を夢見ながら、その夢が決して果たされなかった映画、ロードムービーを夢見た映画だと思ったのだった。ロードムービーにならなかった所に、シンガポールの閉塞感があり、青春の挫折があった。オリジナル「Shirkers」が志向していたものもやはりロードムービーであったことを知り、またしみじみと「Eating Air」のことを思い出したのだった。201955日)

ジャスミンとケルヴィン・トンの「Easting Air」

Saturday, 3 November 2018

『映画』Marlina the Murderer in Four Acts (Marlina si Pembunuh dalam Empat Babak/殺人者マルリナ)


2018729
Marlina the Murderer in Four ActsMarlina si Pembunuh dalam Empat Babak/殺人者マルリナ)」・・・「最もみじめな女」になるはずだった人殺しの四幕
公開年: 2017
製作国: インドネシア
監督: Mouly Surya(モーリー・スリヤ)
出演: Marsha Timothy, Dea Panendra, Egy Fedly, Yoga Pratama
見た場所: The Projector

 乾いた大地を一人行く、馬に乗った女。「Satay Western(サテー・ウエスタン)」と呼ばれ、イギリスのThe Guardian紙の映画評で「Leone meets Tarantino in Indonesia(レオーネとタランティーノのインドネシアでの出会い)」と書かれた作品である。インドネシアはスンバ島の僻地で、強盗団に襲われた寡婦の、復讐の顛末が描かれる。(ちなみにサテーはインドネシアやマレーシア等で食されている串焼き料理である。日本の焼き鳥に似ているが、鶏肉だけでなく、牛肉を使ったものもおいしい。)


 「Four Acts」とタイトルにあるように、映画は四部構成になっている(注意:以下四段落にあらすじが最後まで書いてあります)

 第一幕「Robbery(強盗)」: 見渡す限り、隆起した乾いた大地が続く土地の一軒家。若い寡婦マルリナの住むその家へ、一人の男が突然やってくる。Markus(マルカス)と名乗る男はマルリナに、後から仲間がやって来て、皆でマルリナの蓄え(主に豚や鶏などの家畜)を奪って彼女を犯すと告げる。実際、都合七人の男達は家に居座ると、マルリナに食事を供させる。マルリナは毒を盛って彼らのうち四人を殺害。残った首領格のマルカスにはレイプされてしまうが、隙を見て彼の刀でその首を切り落とす。

 第二幕「Journey(旅路)」: 翌日。マルカスの首を持ったマルリナは、村の警察署に行くために乗合バス(と言っても軽トラのようなもので、バス停も特にない)に乗る。そこで、臨月の妊婦である友人のNovi(ノビ)と一緒になる。強盗団のうち、生き残った二人(奪った家畜を運搬していて、マルリナの反撃の際に不在だった)がマルリナを追跡、彼女達のバスを乗っ取る。マルリナは、乗客の夫婦が結婚式のお祝いに運んでいた馬と一緒に逃げ延びる。

 第三幕「Confession(告白)」: 馬で警察署に辿りついたマルリナは、警察官達のやる気のなさといい加減さを前に、強盗にあってレイプされたことは供述したが、彼女が一味を殺したことは告白しない。一方、警察署の傍にある食堂の幼い娘(マルリナの早くに亡くなった一人息子と偶然同じ名前を持つ)と仲良くなり、しばし心の安らぐひと時を過ごす。

 第四幕「Berth(誕生)」: 一方ノビは、お腹の子は不義の子だとあらぬ疑いをかける夫に殴られ、田舎道(どこもかしこも田舎道なのだが)に置き去りにされたところを、強盗団の生き残りの若者Franz(フランツ)に捕まる。マルリナが帰宅すると、ノビを人質にしたフランツが待ち構えており、マルリナの持っているマルカスの首を要求する。首を渡し、これでおしまいにしようとするマルリナだが、フランツは彼女をレイプする。そこで今度はノビが、刀でフランツの首を切り落とす。産気づいてしまったノビは、マルリナの助けで無事出産する。翌朝、二人の女と赤ん坊は、静かに家から立ち去って行った。

 「サテー・ウエスタン」と言われると楽しそうだが、実のところ辛い話である。バスで馬を運ぶ中年夫婦の夫のような例外はあれど、まー出て来る男出て来る男、皆不愉快。この不愉快な男達が幅を利かす世界と対峙することになってしまうのが、若き寡婦マルリナなわけだが、見終わった後、痛快、爽快な気分になるかと聞かれれば、それほど清々しい気持ちにはならない。数々の苦難が乗り越えられるのを見てほっと一安心するものの、どこか苦さが残るような気持ちにさせられる。人生は続いて行くが、生きて行くのって、大変よ。

 あらすじをそのまま映画にしたら、女性の権利が守られていない開発途上の地域における、寄辺のない未亡人の止むに止まれぬ凶行と逃避行、みたいな辛気くさい作品ができてしまったかもしれない。しかし、この「殺人者マルリナ」は、明るい爽快感とは一味違った味わいをラストに残しつつも、面白い映画なのだ。起承転結を明確にした四部構成の客観的な語り口、西部劇を想起させるイメジャリー、バス道中等でのユーモアや思い切ったバイオレンス。それらが孤立無援の地で強盗団に居座られた寡婦の復讐の話から、最終的には女同士の友情の話となる展開と相まって、「殺人者マルリナ」は、女性を主人公としたドラマ映画以上の独特な作品となった。

 個人的に非常に印象的だったのは、第一幕「強盗」で、一味に居座られ、料理を作らされているマルリナのシーン。強盗団は、彼女の持っている生活の糧を全て奪った挙げ句、マルリナの手料理で酒盛りした後、彼女を輪姦する予定でいる。このシーンでマルリナは無言だが、その表情に何かの力が集中していく感じ、そしてその集中力によって何かが起こるような感じがさせられる。この非常な緊張感の元、平凡な一女性は自分を守るために人殺しとなる。

 見に行ったのはSingapore Film Societyの上映会で、上映終了後に、来場したモーリー・スリヤ監督のトーク・セッションがあった。元々この「殺人者マルリナ」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホの原案で、女性監督を望んでいたヌグロホからスリヤ監督に話が持ちかけられたという。インドネシアの都市生活をテーマとした映画を作って来たスリヤ監督としては、初めての地方を舞台とした作品だった。同じインドネシア国内とはいえ、スンバ島について何も知らず、まずグーグルで検索するところから始めたというのが笑える。そして、乾期になるとインドネシアのようには見えない島の風景を知り、そこからウエスタンという発想が生まれた。そういうわけで、監督自身に元々西部劇に対する特別な思い入れがあったわけではないのだ。島での撮影は、空港で飛行機の着陸に手旗信号を使っているくらいの僻地なのだが、それだけに新鮮だったと言っていた。ジャカルタで撮影していると、常に余計な人が映り込んでいないかをチェックしなくてはならないが、そんなことを気にしなくても、人は全然いない・・・。ちなみにこのスンバ島だが、劇中で見られる限り、独特の文化を持っている。イスラム教徒が80%以上を占めるインドネシアだが、所によって宗教や風習も変わるものだなーと思いながら映画を見ていた。

 ところで、フランツは死んだけど、強盗団の生き残りはもう一人いたと思う。その人がまだいると思うんだけど、大丈夫?と最後までそれが気になった。20181018日)

 以下は、イギリスのバンドThe XXが、YouTubeと共同して製作している「We See You」シリーズの一編、「We See You – Jakarta」。The XXのファンにフォーカスした短編映画で、ジャカルタ編は、モーリー・スリヤ監督による。主演の若者二人のちょっと野暮ったいところが、逆にかわいい。

Sunday, 15 July 2018

[Film] The Great Buddha+ (大佛普拉斯)


18 April 2018
“The Great Buddha+ (大佛普拉斯)”---‘What is your background?’
Release Year: 2017
Country: Taiwan
Director: Huang Hsin-yao(黃信堯)
Cast: Cres Chuang(莊益增), Bamboo Chen Chu-sheng(陳竹昇), Leon Dai(戴立忍)
Location I watched: Golden Village Paya Lebar

Story from SFS (Singapore Film Society) website:
Pickle is a night security guard at a bronze statue factory, who also plays in a band at funerals when time permits. Earning a meager income, Pickle lives with his elderly mother. His best friend Belly Button works as a recycling collector during the day, and Pickle’s biggest pleasure in life is flicking through Belly Button’s collection of porn magazines. One day, their television is damaged, changing their lives forever. At first, they watch the footages recorded on their boss’s dash cam for fun, and soon they get addicted to peeping into the boss’s colorful private life and accidentally discover the boss’s unspeakable secret...


This film was shown as part of the regular screening of Singapore Film Society (SFS).

Recently, I am always worried about income and money. So I did not feel that the 2 middle-aged protagonists of this film are living in a different world from me. In a way, we are the same.

When the opening credits begin, we hear the voice of a narrator speaking to the audience. He thanks the producer, following the credits on the screen. It is really funny. Throughout the film, the narrator sometimes inserts comments about the characters or situations. He mentions even when the film reached the halfway point, or what will happen on a character from now. His plain narration with the black-and-white images makes this film like a documentary, while at the same time, like an old allegory. This mixture of realism and poetry strikes the audience.

The 2 protagonists, Pickle and Belly Button have a tough and miserable life. The world is ugly. Rich are rich and poor are poor. “The Great Buddha+” is a gloomy film, but for some reason, at the same time, it is funny.

For example, in a scene where Belly Button is talking to Pickle in his security guard room.
Belly Button, “To become rich, 30% comes from cheating and 70% comes from your background. What is your background?”
Pickle, “...”
Belly Button, “What is your background? Huh?”
Pickle, ”Orange, pineapple, banana...”
(Belly Button notices a calendar with a fruit design on the wall behind Pickle.)
Belly Button, “...You forgot one more thing.”
Pickle, “Water Apple?”

Their lackluster daily life goes on between pathos and humour. Then its “peace” is broken when Pickle and Belly Button accidentally find a horrible crime committed by the boss who runs the factory making a big bronze Buddha statue. However, what impressed me more is not about the boss’s secret, but about Pickle’s thought for Belly Button. After Belly Button’s death (which unfortunately happens in the middle of the film), Pickle visits his house for the first time. Pickle realizes that he did not actually know anything about what Belly Button was thinking despite having been always together. The narrator says that even in the era we can go to outer space using rockets, we still do not know about the inner space of a person. Mystery about humans is deeper than mysteries on crime.

“The Great Buddha+” has not only a chilling climax. The final scene during the ending credits also should not be missed. The conclusion is a big stroke maybe by the bronze Buddha or something above us seeing the human realm: the world of ugly, miserable, weak, silly, sad and mysterious human beings. (28 April 2018)

Sunday, 8 July 2018

『映画』Ramen Teh(ラーメンテー)


201844
Ramen Teh(ラーメンテー)」・・・ようこそ、シンガポール!
公開年: 2018
製作国:  シンガポール/日本/フランス
監督:  Eric Khoo(エリック・クー)
出演: 斎藤工、Mark Lee(マーク・リー)、Jeanette Aw(ジャネット・アウ)、伊原剛志、松田聖子
見た場所: Golden Village Paya Lebar

 Eric Khoo(エリック・クー)の最新作は、食、シンガポールと日本の文化交流、地域振興という三大題目の人情ドラマである。Singapore Film Society(シンガポール・フィルム・ソサエティ)の上映会だったので、ゲストでEric Khooとプロデューサーで脚本も担当したFong Cheng Tang、劇中で主人公の祖母を演じたBeatrice Chienが来場。上映後にQ&Aコーナーがあったのだが、まーエリック・クーがしゃべるわしゃべる。

 ストーリーはいうと、群馬県高崎市で父(伊原剛志)、叔父(別所哲也)とともに人気ラーメン店を営んでいる真人(斎藤工)が主人公。父の死をきっかけに、子供の頃に亡くなった母(ジャネット・アウ)の家族を探すため、シンガポールに渡った真人。そこで、フード・ブログを通じて知り合った日本人女性(松田聖子)の助けを借りて、音信不通になっていた母の弟(マーク・リー)を探し当てる。母の実家は代々バクテーの食堂を営んでおり、店を継いでいた叔父は、真人との再会を喜んでくれたが、日本人嫌いの祖母(Beatrice Chien)の心は頑なだった・・・。


 バクテー(Bak kut teh、肉骨茶)は、シンガポール、マレーシア一帯で食されている、骨付きの豚肉をハーブやスパイスで煮込んだ中華系のスープ料理である。劇中では松田聖子演じる美樹が、その発祥から詳しく説明してくれている。実は私は、結構シンガポールに長く住んでいるのだが、一度もバクテーを食べたことがない。なので、若き日の真人の父が、「バクテーはラーメンに似ている」と言うのを、「そうなのかー」と思って見ていた次第である。

 上映時間89分。シンガポールの美味しそうな料理とその蘊蓄とともに、家族の心暖まるストーリーが展開する小品。良い言い方をすればそうなのだが、悪い言い方をすればなんとなく物足りない作品である。

 理由の一つは、この作品にはカットされている部分があるためではないかと。父の死後、結構サクッと真人はシンガポールに来てしまうのだが、実はその前に、真人とガールフレンドとのシーンがあったそうなのだ。しかし、ガールフレンドが半分裸だったため、そのシーンを入れると、シンガポールではレイティングPGparental guidance、日本のGPG12の間的なレイティング)にはならない。PGでないと興行主が嫌がり、配給が難しくなるので、カットしてしまったと。

 主人公真人は、母の死後、すっかり寡黙になった父を理解する機会のないまま、父に先立たれてしまったことを後悔している。また、早くに亡くなった母への思慕と、シンガポールに住んでいた子供時代、家族三人で食べたバクテーへの思い入れがあり、自宅では中華スープの研究に余念がない。そうした様々な思いが高じて、思い切ってシンガポールに行くことにしたはずなのだが、この高崎パートは前置き的な感じになっていて、なんだか物足りない。カットした分、短くなっているためではないかと思う。


 その割に、「ようこそシンガポール」的な、シンガポールの料理紹介には十分な時間を使っている感じがする。美樹に案内されて、チキンライスやらフィッシュヘッドカレーやらに真人が舌鼓を打つのだが、それは・・・必要なの?観客に対するシンガポール観光案内以外の意図としては、真人にシンガポールの食の深さを見せるとか、美樹と真人が親密になっていく様を表現するとか考えられる。でも、この食紹介のシーンで印象に残るのは、料理であって登場人物達ではない。そしてこれらの料理は、映画の本筋とは全く関係がないのだ。

 この作品の肝は、真人が祖母のためにRamen Teh(ラーメンテー)、つまりバクテーのレシピを元にしたスープを使ったラーメンを作る所にある。この料理が表現しているのは、中華系シンガポール人の母と日本人の父との間にあった深い愛、ひいてはその証でもある真人自身である。この真人のメッセージに答える形で、祖母は真人に料理を教える。真人の持っていた母の日記にあるレシピを、実際に彼と一緒に作るのだが、母のレシピはとりもなおさず、この祖母のレシピでもある。そしてここに、祖母、母、息子、三代に渡る和解と新しい門出が祝福される。この感動に落とし込むためには、これまでのエピソードが全て有機的につながっているべきなのだが、どうも部分的に観光案内を見せられたような、ちょっとバラバラな印象を受ける。

 あまり他の作品と比べてどうこう言いたくないのだが、この一週間前に、シンガポール人シェフが沖縄で郷土料理を学ぶ映画「Jimami Tofu(ジーマーミ豆腐)」を見た。日本の料理人がシンガポールに渡る「ラーメンテー」のちょうど反対になっている作品なのだが、その主人公ライアンが、沖縄に住んでいる感の非常にあった映画だった。ライアンがどういう種類のビザで沖縄滞在しているのか、むしろ心配になるくらいだった。一方この「ラーメンテー」を見ると、真人がシンガポールにやって来て一ヶ月くらいの間に、バクテーを習い、ラーメンテーを作り、祖母と和解して、自分の店を開いた、みたいに見える。特にラスト、真人がシンガポールにラーメンテーの店を開いていて、かつそれが人気店で、「こんな上手くいくんだ・・・」と驚く。このラストシーンに時間の経過がはっきりわかるものがあったら良かったのに、と思う。また、祖母との和解に至るまでに、もっと真人のシンガポールでの日常が描かれても良かったのではないかと思う。

 というわけで、面白いか面白くないかと聞かれると、面白い映画なのだが、どうも物足りないというか、もっと良くなったのでは、というちょっと残念な感じが残った。

 なお、私は個人的に高崎市に思い入れがあるので、劇中で松田聖子が「高崎市」という名前を出してくれていて、嬉しかった。しかし、高崎市といえば、ダルマと高崎観音になってしまうのね。201847日)

上映会当日。シネコンのロビーに設けられたシンガポール・フィルム・ソサエティのカウンター。

上映後のトーク。左からエリック・クー、
祖母役のBeatrice Chien、プロデューサーのFong Cheng Tang。