Sunday 21 July 2019

『映画』Shirkers(消えた16mmフィルム)


20181020
Shirkers(消えた16mmフィルム)」・・・戦慄のノスフェラトゥ
公開年: 2018
製作国: アメリカ
監督: Sandi Tan(サンディ・タン)
出演: Sandi Tan(サンディ・タン), Jasmine Kin Kia Ng, Sophia Siddique Harvey, Ben Harrison
見た場所: Capitol Theatre


 Singapore Film Society(シンガポール・フィルム・ソサエティ)創立60周年記念の上映作品は、アメリカ在住のシンガポール人作家サンディ・タンによるドキュメンタリー「Shirkers(消えた16mmフィルム)」だった。シンガポール・プレミアとなった上映は、1929年建設のかつての映画館、今や美しく復元されたCapitol Theatreで賑々しく行われた。


会場のCapitol Theatre

 SFS60周年記念ということで、ロビーにはSFS60年の歩みがパネル展示され、特別ゲストとして財務大臣Heng Swee Keatが来場。SFSの会長Kenneth Tanの紹介で、上映前に大臣のスピーチが行われた。なぜ財務大臣が?というと、Mr. Heng Swee KeatはかつてSFSの会員で、若い頃SFSの上映会でリトアニア(だったと思う)映画を見たら、最初9人くらいしかいなかった観客が、終わった時には自分と(未来の)妻を入れてさらに4人に減っていた、という思い出話ができるほどの映画好きなのだ。

SFS60年の歩みと「Shirkers」のパネル展示

「Zombie Dogs」を監督した故Toh Hai Leong(右上)もSFSのメンバーだった

「Shirkers」の展示(右はロケ地の当時と現在を比較したもの)

 「Shirkers(消えた16mmフィルム)」は、サンディ・タンが19歳の頃に仲間達と製作しようとし、完成されることのなかった映画「Shirkers」を巡るドキュメンタリーである。今回のプレミアでは、監督のサンディや出演者だけでなく、オリジナルの「Shirkers」の出演者達もゲストとして来場した。オープニングでは「Shirkers(消えた16mmフィルム)」(ドキュメンタリー「Shirkers」)の主題歌を担当したweishのライヴ・パフォーマンス、そして上映終了後は、オリジナル「Shirkers」でサウンドトラックを担当するはずであったBen Harrisonのバンドによるライヴが行われた。最後は、来場した20人ほどのゲスト全員での記念撮影が行われ、オリジナル版でプロデュースを担当し、現在はアメリカ在住のSophia Siddique Harveyもビデオ通話で参加。約900席のCapitol Theatreがほぼ満席となる大きなイベントだったが、「Shirkers同窓会」のようなアットホームな雰囲気をたたえつつ、上映会は賑やかに終了したのだった。

weishのライヴ(ソロミュージシャンで伴奏も自分でしている)

Ben Harrison(中央)とバンドのライヴ


 1990年代の始め。サブカルチャーにどっぷり浸かってとんがった女の子に成長したサンディ(Sandi Tan)は、友達のジャスミン(Jasmine Kin Kia Ng)とソフィア(Sophia Siddique Harvey)とともに、自主映画製作を試みる。脚本は、サンディが書いた「Shirkers(逃避者)」。J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に影響を受けたこの作品は、殺人者である少女が「友人」となった子供達を連れてシンガポール中を旅するという、30分も車で走ればマレーシアとの国境に行き着く、小さな国のロードムービーだった。脚本だけでなく、主人公の少女もサンディ自身が演じることとなった。そして肝心の監督を担当するのは、彼らが以前受講していた映画製作講座の先生、ジョージ・カルドナ(Georges Cardona)である。そもそもジョージが、サンディの脚本に感銘を受けて、彼女に映画化を勧めたのだった。サンディら三人娘は、それぞれ海外の留学先から夏期休暇でシンガポールに一時帰国すると、他の仲間達とともに精力的に活動を開始した。16mmフィルムを無料で使わせてもらえるよう写真店と交渉し、ロケハンをし、オーディションをして俳優を募る。監督のジョージ以外は皆、10代の少年少女だった。

 ゲリラ撮影を敢行し、数々のトラブルはあれど、なんとか撮影を終えたサンディ達は、学期の始まりとともにシンガポールを発った。後に編集を請け合ったジョージを残して。しかし、待ち焦がれているジョージからの連絡は一向に来なかった。そして、ジョージは消えた。彼とともにフィルムの行方もわからなくなった・・・。

 それから約20年後の2011年、ジョージの未亡人から突然サンディに連絡が入る。「フィルムを返しましょうか?」。なんとジョージは、「Shirkers」の16mmフィルム70缶を持ったまま各国を転々とし、最後にアメリカで亡くなったのだ。失われた映画と20年ぶりに対面するサンディ。それは自分の過去との対面でもあった。

 映画は、サンディの生い立ちから始まり、親友ジャスミンとの出会い、「Shirkers」撮影の顛末、そしてフィルムの出て来た20年後、サンディが調べた亡きジョージの足取りまでを、オリジナル「Shirkers」の映像や関係者達へのインタビューを交えながら描いている。

 サンディ達は認めたくなかっただろうが、簡単に言うと、彼女達は大人に騙されてしまったのである。言うなれば、「映画作る作る詐欺」。彼女達全員の努力の結晶となるはずだった映画は、「監督」一人に横取りされ、しかも映画は決して完成しなかった。無形の努力だけではなく、撮影の最後の方で資金が尽きて来ると、ジョージはサンディ達を自分の車に乗せてATMを回り、学生である彼女達の口座からあるだけの預金を引き出させている。

 そもそも撮影中からジョージにはうろんな所が多かった。特にジャスミンはそう感じていたようだ。彼女に限らず、プロデューサーとして資金の話をつけてミーティングを設定したにも関わらず、ジョージに当のミーティングから追い払われたソフィアもしかり。当初サントラを担当していたベン(Ben Harrison)は、ジョージに「サントラはプロに頼むから外れろ」と脅されるように言われ、一本しか持っていなかったマスターテープも取り上げられてしまった(「プロ」に頼むなら、ベンのマスターテープは必要なくないか?)。ジョージと二人でアメリカ旅行をしたこともあり、恐らく最もジョージに心酔していたサンディは、その点で他の皆よりも鈍かったのだろうが、そのサンディでさえ、実のところ撮影の最後の方で脚本に全くないシーンを取るジョージをおかしいと感じていた。

 撮影終了後、いつまでも連絡の来ないことに業を煮やしたジャスミンは、「私達の映画はどうなったの」とジョージに電話をかけている。それを受けてジョージは、サンディ宛に送ったカセットテープ(ジョージはいつも、手紙のかわりにカセットテープに自分の声を録音して送って来るのだ)で、「彼女(ジャスミン)は「私達」などとアメリカ人みたいな物の言い方をする。もう二度とこんな連絡をしてこないよう言ってほしい」と言っている。いや、じゃあお前はなんでフィルムを預かっておいて何もしないんだ、という話なんだが。

 ジョージが亡くなり、二十年ぶりにフィルムが戻って来た後、サンディは彼の足取りを追ってみる。やはり彼女のように、若い頃ジョージの年下の友人であった人に話を聞いて、彼がアメリカでも同じようなことをしていたことを知る。豊富な映画の知識で映画好きの若者の心を引きつけ、彼らの映画作りへの熱意や努力、才能を利用しようとするのだ(しかし、それでジョージ自身が大きな成功を得ることはない)。ジョージの過去がこの作品の主眼でもないし、サンディも探偵ではないので、ジョージが何者だったかを追い切っているわけではないのだが、このジョージ・カルドナという人物は、自分の生い立ち等についてナチュラルに作り話をする一方、自分で脚本を書いて自分の努力で映画製作にこぎつけようとする人物でもなかった。サンディは彼を「若者の夢を食うノスフェラトゥ」であったと結論づける。

 若者達は騙された。しかし若者達は、こんな駄目な大人に騙されたからと言って、駄目になるわけではない。二十年以上の月日が流れ、今それぞれが元気で頑張っているわけで、この作品もそのような雰囲気を携えながらラストへと向かって行く。しかし、このドキュメンタリー「Shirkers」に味があるのは、単にそれだけで終わっていない点だ。誕生することのなかったオリジナル「Shirkers」を通して、サンディとジャスミンとの間の生じてしまったある種のわだかまりを暗示しつつ作品は終わる。この日、上映前の挨拶でサンディは今にも泣きそうだった。彼女が感無量になったのは、単に自分の映画が母国でプレミア上映されたためだけではなく、それ以上の思いがこの二つの作品———ドキュメンタリー「Shirkers」とオリジナル「Shirkers」———にあったからだと思う。

 もしオリジナル「Shirkers」が完成されたとして、この作品は自主映画の雄となっただろうか。残されている映像を見ると正直微妙である。シンガポール映画史における最初期の長編自主映画作品として、その名を残すかもしれないが、そうでなかったらどうだろう、という感じだ。ちなみにサンディは、ジョージの演出になる一シーンが、明らかにヴィム・ヴェンダースの作品からの借用(オマージュなどと言えば聞こえは良いが)であることに、後年気づいている。

 しかし、1990年代初頭のシンガポールを撮影した映像自体は、現在のように観光産業に力を入れ、やたらとheritage(ヘリテージ)を強調する前のシンガポールの姿を見ることができ、貴重である。家並みや自然が今ほど整備されきっておらず、それが生き生きとした素朴さを見る者に感じさせる。私は外国人だが、シンガポール人なら郷愁をそそられる風景だと思う。

 オリジナル「Shirkers」の映像に今や資料的な価値しかないのだとしたら、そんな未完成作品の製作の顛末を語るドキュメンタリー「Shirkers」とは何であろうか。「Shirkers」は決して完成されなかった。にもかかわらず、この「作品」は、そこでしかない出会いを生み、関係した人達の記憶の中にその時の思いを残した。「Shirkers」は、彼らそれぞれの胸の内で再生され、今やその人なりの「Shirkers」となっているだろう。それは、当時の思いだけではなく、後に彼ら自身に与えた影響までを含めた「Shirkers」となっているだろう。そして今、久しぶりに「Shirkers」を見た彼らは、こんな「作品」だったのかと新鮮な驚きを感じたことだろう。「Shirkers」が存在しない映画であると同時に、それを知っている人々のうちにのみ存在する映画であるということ。それはいかにも個人の映画体験のようだと、私は思ったのだった。結局映画というものは、メディアの側面を考えなければ、各人の記憶や思い入れの中にしか存在しないもののようだからだ(そう言ってしまえば、あらゆる芸術的作品がそうなのかもしれないが)。ドキュメンタリー「Shirkers」は、過ぎ去った青春の日々の話であり、エニグマ的な人物を解明しようとする話である。しかし、そこに止まらずに、さらに未完成の映画を通して映画の何たるかに踏み込んできている点が、このドキュメンタリーを抜きん出たものにしたと思う。

 前述したように、上映会自体は終始温かい雰囲気だったため、その日は「良かったな〜」と思いながら帰ったのだが、翌日ふとジョージのことを考えたら気持ち悪くなった。なぜ彼は、「Shirkers」のフィルムとともに移動をしながら、決して編集さえしなかったのか。「ノスフェラトゥ」なのだから、舌先三寸で映画好きの若者をたぶらかして手伝わせることぐらいできたはずである。ソフィアは、ジョージのこの奇行について、彼は「Shirkers」を愛していたのだと、優しい見解を述べている。でも、私は違うと思う。たぶんジョージは「Shirkers」を完成させることによって、自分に監督の才能がないことを知るのが嫌だったのでないかと。彼の好きだったジャン=リュック・ゴダール、映画批評家から出発して初の長編映画で世界の映画史にその名を残したゴダールのように、自分はとうていなり得ない。その事実を知ることを恐れたのではないか。そう考えたら、私が自分で勝手に推測したことなのに、ジョージの心の闇の深さに戦慄した。ちなみに「Shirkers」とは、責任等を回避する人という意味だが、いや、お前がshirkerかい!と一人で突っ込んだのだった。

上映終了後。左から五人目の赤いドレスの女性がサンディ、右から二人目の女性がジャスミン

こう言ってはなんだけど、ポスターのイラストと比べて、19歳当時のサンディはぽっちゃりしていた

 なお、サンディの親友ジャスミンは、1999年にKelvin Tong(ケルヴィン・トン)と共同で「Eating Air」という作品を監督している。学校をドロップアウトした不良少年と孤独な少女との初恋を描いたこの映画は、私の最も好きなシンガポール映画の一つである。この作品を見たのはもう10年以上前のことだが、その時、この作品は、バイクで国境を超えてシンガポールからマレーシアへ向かう、そういう逃避行を夢見ながら、その夢が決して果たされなかった映画、ロードムービーを夢見た映画だと思ったのだった。ロードムービーにならなかった所に、シンガポールの閉塞感があり、青春の挫折があった。オリジナル「Shirkers」が志向していたものもやはりロードムービーであったことを知り、またしみじみと「Eating Air」のことを思い出したのだった。201955日)

ジャスミンとケルヴィン・トンの「Easting Air」

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