Tuesday 19 December 2017

『映画』The Song of Plastic(Le Chant du Styrene/プラスチックの歌)


The Song of PlasticLe Chant du Styrene/プラスチックの歌)」
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1958
製作国: フランス
監督:  Alain Resnais(アラン・レネ)
見た場所: National Gallery Singapore

 フランスのSociete Pechiney(ペシネー社)が、自社工場で製造されているポリスチレン製品を称揚するために製作を依頼した作品。プラスチックの花園から始まるこの映画は、完成品から原料へと製造工程を逆に辿っていく点がミソである。オーケストラの音楽に合わせて展開する映像は、いかにも往年の短編芸術映画っぽい。素材そのものが持つ意味を伝えるという目的以上に、カメラワークや編集や色や音楽やナレーション、そうしたものの集合による一つの体験として、作品が作られている。あのカラフルで身近なプラスチック製品が、その製造工程を巻き戻して行くと、どんどん大がかりな重化学工業へと変貌していく。あぁ、プラスチックって、石油から作られるんだよなぁ、物からではないんだよなぁ、としみじみ思い出した。その点、教育映画的でもあった。20171111日)

映画の最初、咲き誇るプラスチック
 

『映画』The Diamond Finger(Niew Petch/ダイヤモンド・フィンガー)


The Diamond FingerNiew Petch/ダイヤモンド・フィンガー)」
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1958
製作国: タイ
監督:  R. D. Pestonji
見た場所: National Gallery Singapore

 こちらはタイ政府の芸術局によって作られた作品。タイの伝統的な仮面舞踊劇Khon(コーン)のパフォーマンスを撮っている。お話は、「ラーマキエン」という「ラーマーヤナ」を元としたタイの叙事詩からのエピソードによる。巨人の国に生まれた小人のNontukは、それゆえにアプサラス(天界のニンフ)達にからかわれ、ハゲるまで髪の毛を抜かれていじめられる。そんなNontukを不憫に思ったシヴァ神が、彼に“ダイヤモンド・フィンガー”、指し示すだけで相手を殺すことのできる魔法の指を与える。この指を得て、アプサラス達を指差ししまくるNontuk。しかし、過ぎた殺戮に対し、ついに美しい女性に化身したヴィシュヌ神が現れる。ヴィシュヌ神は、Nontukがダイヤモンド・フィンガーで彼自身を指し示すように仕向けるのだった。

井戸に映った自分の姿を見つめるNontuk

 舞踊劇をフィルムにおさめているのだが、単に舞台上演を撮影したという類のものではない。映画のために行われたパフォーマンスで、舞台上演的な表現をベースに、映画的な表現も用いられている。きらびやかな衣装にダンサー達の優雅な踊り。例えば、Nontukのダイヤモンド・フィンガーに2030人からのアプサラス達が打ち倒されて行くシーン。彼女達が次々と画面からはけていくのだが、全員一様ではなく、様々な動きで倒れ去って行く。その極めて流麗で美しい有様が俯瞰撮影で捉えられていて、とても印象的だった。

 この作品、タイ製作だが、英語作品である。物語を説明するナレーションが入っているのだが、それが英語。今回ゲストとして来星したタイ国立フィルム・アーカイブのPutthapong Cheamrattonyuさんによると、それはこの作品が、そもそもタイの文化芸術を海外に宣伝するために作られたからである。1950年代、映画「王様と私」のヒット等によって欧米諸国の関心がタイに向けられるようになった。しかし、そうした海外の作品では、タイの文化が必ずしも正しく描かれているわけではない。そうした状況を受けて作られた作品らしい。こうした努力によって、タイは観光大国になっていったんだなーと思った。

 ところで、この舞踊劇のストーリーだが、破壊の神による破壊の後、その混沌から世界を復する維持の神が現れ、それで世界のバランスが保たれる、ということなのだろう。でも、主人公Nontukのことを考えると、憐れまれてダイヤモンド・フィンガーをもらったのに、使ったら懲らしめられて殺されたという、神様達の都合に踊らされているようで、なんかちょっと釈然としない。20171111日)

『映画』Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)


Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1966
製作国: イギリス
監督:  Adrian Cowell
見た場所: National Gallery Singapore


  この作品は、当時あったイギリスのTV会社ATVAssociated Television)の企画により製作された。チベット動乱そして1959年のダライ・ラマ14世亡命後の1964年、中国軍と戦うチベット人ゲリラを取材している。監督のAdrian Cowell、カメラマンのChris Menges(クリス・メンゲス)、ジャーナリストのGeorge Patterson(ジョージ・パターソン)は、ネパール中部、ヒマラヤの山々に囲まれたTsum Valley(ツム谷)へ向かう。隔絶されたこの土地には、チベット人ゲリラの分遣隊の拠点がある。彼らの許可を得た監督達は、行を共にしてヒマラヤの峠を巡る。ゲリラ達は、チベットからネパールへ抜ける街道を建設中の中国軍に対し、奇襲作戦を行っているのだ。チベット仏教の祈りに支えられながらチベット独立のために戦うゲリラ達を取材したこの作品は、資料的な価値の高いものだと思う。
 
 しかしそれだけではなく、壮大なヒマラヤ山脈を背景に、人の通わぬ道を歩んで行くゲリラ達を捉えた映像は、驚くほど美しい。モノクロの16mmプリントからレストアされているのだが、この美しさは単にレストア・バージョンだから、と言うにとどまらない。そういう意味でも心に残る作品だった。20171111日)

 

『映画』The Crown Jewels of Iran(Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)


The Crown Jewels of Iran (Ganjineha-ye Gohar/イランのクラウン・ジュエル)
 The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1965
製作国: イラン
監督:  Ebrahim Golestan
見た場所: National Gallery Singapore

 産業界や政府の依頼によって作られた短編4作品を集めている。どれも過去作品なのだが、全てレストアされたバージョンでの上映。事情によりチケットの一般販売が途中からできなくなったため、私はこの映画祭の運営に関わっている知人から直接チケットを買った。そのような事情があったため、ゲストも来ていたのだが、観客が少なくて残念だった。  

写真ではキラキラさ加減は伝わりませんが・・・

 イラン中央銀行の依頼によって作られたこの作品は、過去300年にわたるイラン王朝の宝物を紹介している。これらの宝石は非常に高価なため、イラン通貨の保証として銀行が保管しているのである。レストア・バージョンのこともあり、ビロードのような真っ黒な背景に次々と登場する宝石は、まさに目が眩むような輝きである。非常に手の込んだ美しい品ばかりで、各王朝の勢威が偲ばれる。

 しかし、ただそれだけなら、国の宝をスタイリッシュに紹介した作品に過ぎないのだが、この作品には微妙に批判的な視点が入っている。映画の最初に映されるのは、広大な大地で働く農民達の姿である。国の歴史がこのような名も無き人々によって築かれてきたことを前提とし、この宝石コレクションはその対極として位置づけられているかのようである。(あるいは、本当の宝は彼らなのだと言いたいのかもしれない。)ナレーションでは、コレクションを王達の退廃の歴史としている。微妙に批判的なゆえに、(中央銀行なので)国がスポンサーにも関わらず、この作品は当時の検閲に引っかかった。その際にカットされたナレーションが復活しているのだが、それは、現在の王が最後の王になる、という意味合いことを言っている部分である。皮肉なことに、1979年のイラン革命により、この映画製作当時のシャー(王)、モハンマド・レザー・シャーが最後の王となった。

 映画上映後のQ&Aコーナーに、この作品の監督Ebrahim Golestanについての映画を製作中である、イランの映画監督Mitra Farahaniさんが登場。フレンドリーかつ、ゴージャスな女性だった。2017119日)

Sunday 17 December 2017

『映画』Manifesto(マニフェスト)


20171021
Manifesto(マニフェスト)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2017
製作国: ドイツ
監督:  Julian Rosefeldt
主演:  Cate Blanchett(ケイト・ブランシェット)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Manifesto(マニフェスト)」は、元々ビデオ・インスタレーションとして作られた作品を、95分間にまとめたものである。20世紀の様々な思想家や芸術家によるマニフェストから13のモノローグを作り、それをケイト・ブランシェットに語らせる、という趣向である。各モノローグは、それぞれ全く異なる場面で語られ、それに応じてケイト・ブランシェットも全く異なる役柄を演じている。プロローグはボイスオーバーによっているが、他の12の場面では、ケイト・ブランシェットの十三変化(うち一つのシーンで彼女が二役を演じているため)を見ることができる。各場面の概要とケイト・ブランシェットの役柄は以下の通り。

1.  共産党宣言他(プロローグ)
2.  シチュアシオニズム: 廃墟になったビルの屋上に住むホームレスの老人
3.  未来派: 証券取引所の株式仲買人
4.  建築に関するマニフェスト: ゴミ処理場で働くシングル・マザー
5.   シュプレマティスム/ロシア構成主義: 巨大な研究施設で働く科学者
6.  ダダイスム: 夫(?)の葬式で弔辞を述べる妻(?)
7.   ポップアート: 家族とともに食前の祈りを捧げる裕福な家庭の主婦
8.  Stridentism(ストライデンティズム)/Creationism(クリエイショニズム): たまり場で管を巻くパンク
9.  ヴォーティシズム/青騎士/抽象表現主義: 別荘での内輪のパーティでスピーチする会社社長
10. フルクサス/メルツ/パフォーマンスアートに関するマニフェスト: 通し稽古でダメ出しするコリオグラファー
11. シュルレアリスム/空間主義: 自分の作業場で操り人形を準備する人形遣い
12. コンセプチュアル・アート/ミニマリズム: ニュース番組のアナウンサーとリポーター(二役)
13. 映画に関するマニフェスト(及びエピローグ): 授業をする小学校教師

これはコリオグラファーのケイトとダンサー達。
またなんだかよくわからないダンスを振り付けている。

 各シーンが何のマニフェストについてなのかは、エンドクレジットにも出るが、ここでは英語版のウィキペディアを参照した。学者でもなければ、どこから引用しているかなど、いちいちわかるものじゃない。ケイト・ブランシェットの役柄の方は、私が見た限り、こういう設定なのではないかという推測も入っている。2のホームレスの老人が歩く廃墟にしろ、3の証券取引所や5の研究施設にしろ、俯瞰撮影を多用した映像は、こんな場所があるのかという美しさ。その一方で、4のシングル・マザーのアパート内や8のいかがわしい人々が集う一室などは、小道具まで気を配った空間作りがされており、これまた感心させられる。ケイト・ブランシェットが語る内容と場とが、合っているような皮肉なようなで、そこがおもしろいところなのだと思う。例えば、小学校教師が子供達に向かって、「オリジナルのものは何もない、盗め」などと言っているのは可笑しい。

 各場面でケイト・ブランシェットは、その職業や身分における典型的な人物を演じており、そのため彼女の芝居は誇張されている感がある。あきらかにパロディのような役柄もあり、12のアナウンサーなどはいかにもCNNとかで見そうな感じだし、10のコリオグラファーなどは(映画祭のプログラムには「ロシア人コリオグラファー」とあるが)ちょっとピナ・バウシュのパチモンみたいである。いずれにせよ、彼女が語るのを聞くのは心地よく、例えば6のダダイスムの弔辞など、圧巻だった。

 この作品、まさにケイト・ブランシェットづくしである。12では、アナウンサーのケイトが、中継先で荒天をリポートするケイトに質問をすると、リポーターのケイトがそれに答える。11では、人形遣いのケイトが、自分をモデルにした人形に自分とおそろいのような服装をさせる。見終わった後、ケイト・ブランシェットでお腹いっぱい、という気持ちになった。また、漫画「名探偵コナン」の主人公の母親のように、「変装が趣味の女優」というのは、この世に本当にいるんだなぁと思った。

 美しい映像とともにケイト・ブランシェットの十三変化が楽しめるわけだが、一方で見続けるのが辛いというのも確かである。元はマルチ・チャンネルのインスタレーションであったから、好きなだけ見て、自分が満足した時点で立ち去る、ということができただろう。しかし、一本の映画になると、90分間座って見続けるのが前提である。芸術のマニフェストなどというものは、概して抽象的で、血湧き肉踊る物語というわけではない。それを救うためか、場面の並びに工夫を凝らしてはいる。例えば7の食前の祈り(クレス・オルデンバーグの「I am for an art」を唱える)は分割され、別のシーンの合間に何回か登場する。それによって、いつまでも主婦のケイトが「I am for…」とやっているもんだから、家族もなかなか食事ができない、というユーモアが強調されている。でも、それでもね・・・。私の場合、知識はなくとも、20世紀初期の美術史に興味があるのでがんばって見ていられたが、観客の中に眠くなる人がいても仕方ないと思う。映画の最後、画面が12分割されて、12の場面それぞれに登場するケイト・ブランシェットが勢揃いする。一緒に見た知り合いは、その12分割の画面の中に、自分が見た覚えのないケイトがいたと言っていた。・・・それもありだな、と思ったのだった。2017117日)

人形遣いのケイトと本人そっくりな人形。ちょっと恐い。

Wednesday 13 December 2017

『映画』China's Van Goghs(中国梵高/中国のファン・ゴッホ)


20171013
China’s Van Goghs(中国梵高)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2016
製作国: 中国/オランダ
監督:  Yu Haibo(余海波)/Yu Tianqi Kiki(余天琦)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Painting with Light」は、National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術をテーマとした映画祭である。「芸術的な」(美術が凝っている?)映画を集めた、というわけではなく、文字通り芸術———美術館、絵画、舞台芸術、映画、パフォーマンスアート等々———を題材とした作品達で、ほとんどがドキュメンタリーである。映画そのものを楽しむというよりも、映画を通して様々な芸術の世界を覗く、という感じの映画祭なのではないかと思う。

ナショナル・ギャラリーのロビー

上映会場入口。写真はケイト・ブランシェット主演の「Manifesto」


 さて、この「China’s Van Goghs(中国のファン・ゴッホ)」というドキュメンタリー映画である。中国広東省深圳市にある大芬村は、「大芬油画村」と呼ばれる油絵の町である。1980年代の終わりに香港のビジネスマンによって油絵の生産が開始されて以来、現在では数千人の画工が集まり、年間10万枚以上の油絵が制作されているという。西洋絵画の傑作を模写した彼らの作品は世界中に輸出され、ウォルマートのような大手スーパーマーケットから小さな土産物店まで、様々な場所で販売されている。

 このドキュメンタリーの主人公であるZhao Xiaoyong小勇)は、1990年代に大芬村にやって来た。以来20年、ここで油絵、特にファン・ゴッホの模写を描き続けている。現在では何人かのスタッフを擁し、納期と戦いながら、アパートの一室の狭いスタジオで制作に勤しむ毎日である。貧しい農家の子として生まれ、中学も満足に通えなかった小勇だが、模写の筆一本で身を立て、お金のやりくりに苦労しつつも仕事を維持し、立派に家庭も築いている。ちなみに彼の最初の絵の「生徒」は、彼の妻だそうで、夫婦で、さらに妻の兄弟とも一緒にこの仕事をしている。なお、彼のスタジオのシーンでは、狭い空間にずらりと並んで立った画工達が各々の作品を仕上げて行く様子が映される。その光景は壮観で、(部屋の広さきれいさとか、立っているか座っているかとかの違いはあれど)なんとなくアニメーターの仕事場を思い出させた。大勢の人が黙々と絵を描いているというその雰囲気のせいだと思う。

 多年ファン・ゴッホの作品を描き続けてきた小勇だが、オランダに取引先ができて以来、ゴッホのオリジナルを見るためにオランダに行くという夢を持つようになった。このドキュメンタリーでは、彼が(お金がかかるので)オランダ行きを渋る妻を説き伏せ、初めてパスポートを取得し、仲間とともにファン・ゴッホの足取りを追ってヨーロッパを旅する姿が描かれる。そして、その旅の後に何が起こったのかを。

 アムステルダムでの小勇は、取引先の言っていた「ギャラリー」が小さな土産物店に過ぎなかったことにショックを受け、にもかかわらず、自分達の卸値からすると結構いい値段で販売していることにさらにショックを受ける。模写販売もファストファッションその他諸々のビジネスと同じく、経済格差を利用した商売なのだ。そしてついにファン・ゴッホ美術館でオリジナルの作品と対面し、完全に落ち込む。自分のことを「芸術家」だと思ってきたわけではないが、それでも、ここに飾られるような価値が自分の絵には全くない、ということを痛感してがっくりするのだ。

 しかし、その後ファン・ゴッホの足取りを辿ってパリ、アルルを旅し、ファン・ゴッホが訪れた場所を訪れ、見たであろうものを見るうちに、彼は元気を取り戻していく。アルルでは「夜のカフェテラス」のモデルとなったカフェを訪れ、ファン・ゴッホが描いたのはこの宵闇、まだ完全に夜になりきっていない空の青さだったのだ、と感動してはしゃぐ。夜中、酔っぱらって、「俺はここに残るぞ!」とアルルの裏通りで叫ぶ。そして、旅の最後にオーヴェル=シュル=オワーズのファン・ゴッホの墓を訪れると、親しみと尊敬を込めて、中国から持って来た煙草を墓石に供える(小勇は大変なヘビースモーカーである)。

 帰国後、小勇は大芬の画家仲間と話し合う。自分達もそろそろ自分達のオリジナル作品を描いてもいい頃だ、と。彼が最初に描いた作品群は、湖南省の一寒村である故郷の裏通り、そこに住む自分の祖母の肖像、そして大芬の自分のスタジオである。(ちなみに小勇の実家では、いまだ土間のかまどで料理をしている。国の発展から取り残されたようだが、皮肉なことに、それだけに深圳のような都会と違ってフォトジェニックな風景が広がる。)

 非常に明確なプロットの元、ストーリーがわかりやすく流れて行くので、見やすく、かつ楽しめる作品である。社会情勢を滲ませつつ、模写で生計を立てることと、確立された芸術との間の葛藤が、大芬の何千という絵描きの中の一人を通して描かれている。しかしそれと同時に、過去の一人の画家が、国も人種も異なる後世の画家をいかにインスパイアしてその仕事に向かわせていくかという、画家の系譜の不思議を描いた作品ともいえる。

 パリのカフェに集う画家というと、何の根拠もなくロマンチックでおしゃれな感じがするが、大芬の小勇達は上半身裸で、通りに出された食堂の椅子に座ってくつろぐ。たぶん蒸し暑く、かつ洗濯をするのが面倒くさいからだと思うのだが、仕事場でもよく彼らは上半身裸である(男性の場合)。シンガポールでも団地の下のコーヒーショップで、下着のようなランニングにショートパンツのおじさんがくつろいでいたりするが、まぁそういう感じ。「オープンエア」というとなんだか格好いいが、格好よさとは無縁の世界である。そこは「おしゃれな」パリではなく、中国の都会の裏通り。でも、酔って作品と自分達の進むべき方向性について熱く語っている小勇達を見ると、あぁ芸術家だなぁ、と思うのだった。「いつか、後50年、100年したら、俺たちの仕事が認められる日が来るだろう」そう管を巻く小勇の———これまでそうやって人生を切り開いてきたであろう———その楽天主義、明るさが胸を打つ。2017114日)

小勇とファン・ゴッホ。スタジオ内はゴッホの絵でいっぱい。

Tuesday 7 November 2017

『映画』In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)


2017108
In Time to Come(イン・タイム・トゥ・カム)」・・・いつか、でも必ず来る時
公開年: 2017
製作国: シンガポール
監督:  Tan Pin Pin(タン・ピンピン)
見た場所: Filmgarde Cineplex

 シンガポールのドキュメンタリー映画監督、Tan Pin Pin(タン・ピンピン)の最新作。タイトルが示すように、テーマは“時間”である。映画は、新旧二つのタイムカプセル、Singapore Institute of Managementのロビーに新しく設置されるTime Cube(タイム・キューブ)の製作過程———立方体のオブジェで、中に思い出の品がつめられ、学校のロビーを飾る———と、アジア文明博物館前に埋められたタイムカプセルの取り出し作業———1990年にシンガポール建国25周年を記念して埋められた———を軸としているが、ストーリーらしいストーリーはない。現在のシンガポールの各所各所が撮られており、自然に聞こえてくる音声———ショッピング・センターの館内放送や学校の校内放送など———以外は、ナレーションもインタビューも会話もない。

映画館前のポスター。新しく開通したハイウェイで撮られている。SFっぽい。

 こういう作品を「映像詩」などと言うのかもしれないが、撮影されているものは、風光明媚な風景でもなければ先端のデザイン性を備えているわけでもない。例えば、

       自然公園でカヌーに興じる若者達
       新しく建設されたNational Stadium(国立競技場)を見に訪れている人々
       作業現場から戻って来て、ホースで洗浄されるトラック
       オーチャード・ロードにある紀伊國屋書店の朝の開店風景
       中学校の朝礼
       団地で害虫駆除剤が散布される様子
       ハイウェイMCEMarina Coastal Expressway)のオープン
       オフィス街の昼休み、ビルの外で煙草を吸って休む人々
       地下鉄Downtown Lineのオープン
       芸術センターThe Substation裏に生えるbanyan(ガジュマル)の古木の伐採作業
       SG50(シンガポール建国50周年)記念イベントの会場
       シンガポール動物園にいる1990年生まれのホッキョクグマInukaがプールで泳ぐ姿
       ショッピング・センターTanglin Mall前で行われる人工雪を降らせるクリスマス・イベント
       庭師が植物園で栽培している植木に水をやる姿
 (なお、上に挙げた順番で、各場面が作品に登場するわけではない。)

 それらは、観光用の映像では決して見ないシンガポール。豪華でもなければ垢抜けてもいない。しかし、なぜか美しい。

 一見すると、現在のシンガポールの様々な風景を、できるだけ美しく切り取って集めただけのような映画に見える。そのような作品ならどんな映画監督でも作ることができるだろうが、この「In Time to Come」は、誰しもが作れるようなものではない。ここでは、言葉にすると明確すぎて逆にあまり的確でなくなるような、しかし映像にすると情動に訴えかけるためにより体感として信じられるようなことが、少しく微妙に表現されている。

 変化を美徳とし、変わり続けるのがシンガポールという都市国家だと私は思っている。それは、過去を忘れる都市。建国50周年も経て、自国の歴史を打ち立てるために、近年は過去を振り返り、見直す傾向にあるが、それでも変化し続けることを止めたわけではない。作品には、朝礼の場面が撮影されたのと同じ学校での、避難訓練のシーンもあった。校庭に集まって来た生徒達に向けて、校長先生か誰かのアナウンスが聞こえて来る。先生は、「以前(避難に)20分かかっていたのが、今回は12分間だった。進歩があってよろしい」というようなことを言っている。このアナウンスは極めて象徴的だと思った。

 変化すれば、得るものもあれば失うものもある。The Substation裏のガジュマルの古木は芸術コミュニティでは有名らしいが、この都心の一等地に大学の法律図書館を建設するために、バッサリ伐られたのだった。しかし、この作品では、変化や進歩の是非を問うているわけではないと思う。

 新しい競技場、ハイウェイや地下鉄の開通、この作品には、新しく何かが始められる様子が何度か登場する。しかしこれらの場面は、通常表現されるような開始の熱気を全く感じさせない。淡々としており、そう楽しげでもない。ハイウェイのオープン・セレモニーなど、むしろ侘しさを感じさせなくもない。全く特別感のないオープン。それは、毎朝繰り返される紀伊國屋書店の開店の「儀式」−——日本のデパート式に、スタッフ全員が並んで、シャッターが開くと同時に入って来る購買客をお辞儀して出迎える———や、中学校の朝礼−——毎朝生徒達が校庭に集まって並んで座り、国旗掲揚を待つ—−–と同じように扱われている。この作品は、新しくなること、変化すること、それ自体が日常であるということを描き出した。都市の森羅万象、その変化が淡々と眺められていく。

 (言葉にするとつまらなくなるのだが)害虫駆除の白い霧が死や荒廃であるのなら、白い人工雪の中で遊ぶ子供達は未来と喜びであるのか。夜の街、陽光あふれる自然公園。アジア文明博物館前のタイムカプセルと同じ1990年生まれのホッキョクグマは、まるで25年どころか永遠にそれを続けるかのように、動物園のプールの水中で回転し続けている。永遠に続ける−——永遠のように見えることが逆説的に、永遠などないことを示しているかのようである。ガジュマルの古木は切り倒され、その切り株は植物園に運ばれ、そこからまた新しい芽が出る。シンガポールは変わり続けている。変わり過ぎているかもしれない。しかし、時の流れとともに、変わらないでいられるものなど何一つない。変わる“その時”はいつか必ず来る。

 しかし、止めようもない変化の時の中でも、人は何かを残すことによって、その時間を止めようとする。忘れる都市にあっても、自分達やそれらのものが存在した痕跡を残そうとする。ガジュマルの木が伐採される様をひっそりと写真に撮る人がいる。タイムカプセルを作るという試みは繰り返される。時の流れの中で何かを留めておきたいと思う、人々の小さな願いの点。

 都市国家シンガポールの考察という枠に止まらず、いつか来る(変わる)時を繰り返し続ける我々の営みというものが見つめられている。静謐な映像とともにあるその眼差しが、その場よりもむしろ後になって、胸にじわじわときた。

 なお、この作品はシンガポールに住んでいると、どこで撮影されたかわかる場所が結構ある。だから私などは、「あーここ、ここ」と思って喜んで見ていられる。しかし、そういう思いのできない国外の人が、出て来る映像の意味だけを考えて一生懸命見ていたら、ちょっと疲れるのではなかろうか(眠くなるとも言う)。でも、そんなことをあまり気にしないで作っていそうで(シンガポールを宣伝する気がなさそう)、いいと思う。

 ところで、作品の本筋とは全然関係ないのだが、中学校の避難訓練のシーンで、先生のアナウンスに「実際に火事や、戦争などの時にはこのように速やかに避難を云々」とあって、ちょっとびっくりした。火事はわかるよ、火事は。「戦争」って。確かにシンガポールは治安が良いだけに、危機管理を怠らない国ではあると思う。先生はたぶん、火事の後に続ける他の災害を思いつかなかったのだろう。なぜなら、シンガポールには地震などの自然災害がまずないので。むしろ戦争の方が想定しやすかったのだろうが、まぁね・・・。20171023日)

Monday 16 October 2017

『コンサート』Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ)/Disco Hue(ディスコ・ヒュー)


2017923
Local Motion(ローカル・モーション)」: Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ), Disco Hue(ディスコ・ヒュー)
見た場所: Fort Canning Park

 ここ何年かですっかり人気となったフライドチキンのファースト・フード店、4 Fingersが主催するローカル・ミュージシャンのフェスティバルである。なぜ4 Fingersが?しかも無料で?どうやって利益を?などという疑問が湧きつつも、久しぶりにFort Canning Parkに行ってみたのだった。

 主催者は4 Fingersとは言え、実際に運営を担当しているのはEatmepoptartというローカルのDJグループである。Eatmepoptart自身を含め、8組ほどのミュージシャンが出演し、夕方5時からの開場だったが、私はJasmine Sokkoが出演する7時半頃に行った。

 久しぶりに行ったFort Canning Parkは遠かった。遠いというか、かつては砦(fort)が築かれていただけに、小高い丘の上の公園なのである。最寄り駅から徒歩で上がって行ったら、それだけでちょっと疲れた。

 行ってみたら、メイン・ステージとは別に、EMONIGHTSGがサイレントディスコを開催していた。サイレントディスコは、参加者が専用のワイヤレス・ヘッドホンを着けて、そこから聞こえる音楽を楽しむというもの。EMONIGHTSGはこれまたローカルのDJグループだが、EMO NIGHTというだけあって、流す音楽はEmo(エモ)である。というわけで、ヘッドホンを着けた40人くらいの男女が、イエローカードの「Only One」を大合唱していた。サイレントディスコを初めて見たのだが、音楽は全く聞こえないのに、ピカピカ光るヘッドホンを着けた人達が声を合わせて歌い、無心に踊っている。傍から見ると、ちょっと恐い。

 メイン・ステージの方に行ってみると、舞台正面の上部には、燦然と輝く4 Fingersのロゴ。この四本指のロゴが、映画にもなった某人気漫画に登場するカルト宗教団体のマークを思い出させ、ますます恐い。4 Fingers Crispy Chickenが、音楽を使って若者を洗脳しようと企んでいるかのようである。私は若者ではないのだが。

ちなみにこれが、4 Fingersのロゴである。4本指というところが・・・

 それはともかく、Jasmine Sokko(ジャスミン・ソッコ)は30分ほど遅れて始まった。ジャスミン・ソッコは2016年にデビューしたエレクトロニックのソロ・ミュージシャンである。可愛かった。顔もなかなか可愛いのだが、所作(という言い方が古くさい)が可愛い。「うふふっ」という感じが可愛い。そんなわけで、「可愛い」という単語を噛み締めながら彼女の歌を聞いていたのだが、パフォーマンス自体もとても良かった。(曲自体が似ているというわけではなく)全体的なイメージとしては、FKAツイッグスからセクシーさを取った感じ、グライムスからアーティスト然としたところをなくした感じ。より可愛くより庶民的。曲に一緒に歌えるようなキャッチーさがあまりなく、加工された歌声の効果もあって、夢見るよう。そのためずっと聞いていると、良く言えばトリップ感があり、悪く言えばダラダラ続いている感じがある。この点もFKAツイッグス のライヴを思い出させた。ちなみに、キーボードはこの後に登場したDisco HueZieが務めていた。

ジャスミン・ソッコ(写真技術の不備で、可愛さが撮れていない。)


ジャスミン・ソッコの「Porcupine」。残念ながらマスクのせいで本人の顔はよく見えない。

 Disco Hue(ディスコ・ヒュー)は2012年に結成された4人組バンドである。と書いていて、この日舞台には5人いたことを思い出した。キーボード、ボーカル、ギター、ドラムの4人なので、恐らくベースの人はメンバーではなかったのかと。生で聞くまではエレクトロニック色の強いバンドだと思っていたが、実際は、思っていたよりもずっとロック・バンドだった。シンセサイザーの音が強いリリース版と異なり、各パートのバランスが取れた派手な音だった(そのために5人になっていたのかもしれない)。観客の多さに感激しつつ、白熱のパフォーマンスを見せた彼らの曲には、どことなくレトロな、80年代っぽい感じがある。それを意識しているためか、ボーカルのSherlynとともに(と言うかそれ以上に)観客を盛り上げていくキーボード、Zieの衣装は80年代風だった。30分前にジャスミン・ソッコのライヴで演奏していた時とは完全に違う服装。その時はジャスミンに合わせて黒い衣装だったが、自分達のライヴでは、白と赤のボーダーTシャツに水色・赤・白の入ったジャケット。目立ち過ぎだろ、お前。

ディスコ・ヒュー(向かって左のキーボード担当が目立つ。)


ディスコ・ヒューの「Plastic Hearts」 featuring Akeem Jahat(アキム・ジャハット)。
 アキム・ジャハットはシンガポールのラッパー。この曲をやった時、もしかして登場するのでは、とちょっと期待したけど、それはなかった。ちなみにビデオに登場する三組のカップルの、男3人はディスコ・ヒューの面々だが、女性3人はバンド・メンバーではない。ボーカルのSherlynの顔はこのビデオではよく見えない。ビデオの中で女の子がガッツリあぐらをかいているのを見て、「あぁ、シンガポール女子だなぁ」と思った。

 ディスコ・ヒューをトリに、全てのライヴ・スケジュールが終了し、その後はDJ達へと引き継がれて行ったが、私は見ないで帰った。でも十分満喫した。楽しかった。ただ、会場が丘の上で、周囲にお店があるわけでもないのに、会場でもあまり食べ物・飲み物を売っていないことが残念だった。しかも、持ち込みができない。というわけでもし5時から行っていたら、お腹が空いて腹が立ったかもしれない。行く前は、4 Fingersが主催なのだから、なんかもう山のようにフライドチキンを売っていて、誰しもがフライドチキンを食べているのだとばかり思っていた。そうではなかった。むしろ4 Fingersは全く売っていなかった。考えてみると、マクドナルドの屋台などというものを見たことがないので、そういうものなのだろう。食べられないとなると、無性に4 Fingersが食べたくなった。4 Fingersのプロモーションとしては、このイベント、間違ってなかったんだなーと思ったのだった。2017928日)

会場を飾るパネル。ここにも4 Fingersのロゴが・・・。

ちなみにこれが4 Fingers Crispy Chicken。
フライドチキンを特製のタレに絡めたもの。酒のツマミに良さそうな味の濃さ。

Saturday 26 August 2017

『映画』/『コンサート』Setan Jawa(セタン・ジャワ)


2017721
Setan Jawa(セタン・ジャワ)」・・・Pesta Raya-Malay Festival of Arts
公開年: 2017
製作国: Indonesia, Australia
監督:  Garin Nugroho(ガリン・ヌグロホ)
音楽:  Rahayu Supanggah, Iain Grandage
出演:  Asmara Abigail, Heru Purwanto, Dorothea Queen, Luluk Ari Prastyo
見た場所: Esplanade Concert Hall

 “Pesta Raya”Arts CentreであるEsplanadeが毎年開催しているマレー芸術祭で、毎年、イスラム教のラマダン月の後、シンガポールの祝日でもあるHari Raya Puasa(ハリ・ラヤ・プアサ、ラマダン月終了の祭日)を過ぎた頃に開催されている。シンガポールのマレー系の人々はたいていイスラム教徒であるため、ラマダン開けのお祝いも一段落して、一息ついた所で開催するようになっているのだと思う。今年は720日から23日までの日程だった。

 “Pesta Raya”の期間中、Esplanadeでは有料無料の様々な催しが実施されるが、今年の目玉の一つがこの、「Setan Jawa」の上映・上演だった。上映・上演というのは、モノクロのサイレント映画を、歌唱隊つきのガムラン・オーケストラと、西洋楽器のオーケストラとともに上映するからである。サイレント映画を生演奏と一緒に上映するという催しはたまに見られるが、この「Setan Jawa」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホが撮った最新作で、演奏される音楽もこの映画のために作曲されている(インドネシアのRahayu SupanggahとオーストラリアのIain Grandageが作曲)。オーストラリアのThe Asia-Pacific Triennial of Performing Artsで初公開され、オーケストラつきという上映・上演形態で各国を巡演しているらしい。


上はプログラムの表紙から。こちらはフライヤーからの写真。

 ガリン・ヌグロホの作品では、過去に一度「Opera Jawa」を見て、非常に感銘を受けた覚えがあった。「Opera Jawa」はカラー作品であるが、ジャワの伝統音楽と踊りで構成された作品で、やはりセリフがない。「ラーマーヤナ」にインスパイアされたという物語はシンプルで、村の貧しい若夫婦と、その妻に恋をした村一番の金持ちとの、三角関係の顛末を語っている。「Opera Jawa」を見て私が思い出したのは、寺山修司の遺作「さらば箱舟」だった。「さらば箱舟」が沖縄を舞台としており、「Opera Jawa」の世界観にどこか似通ったものがある(単なる南国つながりだが・・・)のも確かなのだが、それだけでなく、「この監督、寺山修司みたいだな」と思ったのだった。一つには、時代設定がいつともしれない感じなところ。1920年代のようなレトロ感はあるのだが、かといって歴史物では決してない。また、音楽が作品の重要な要素となっているところ。この「Opera Jawa」の音楽もRahayu Supanggahによる作曲である。そして最後に、これが寺山修司を思わせる最大の要因なのだが、美術が作品と切っても切れないところ。しかもその美術がきわめて独特で、伝統美を生かしたものでもSFやファンタジー小説的な空想世界に類するものでもない。一番近いと思うのは、伝統(あるいは伝統とまではいかない過去)をモチーフとしたコンテンポラリー・アートで、なんとなくどこかのビエンナーレで歓迎されそうな佇まい。そこが寺山修司っぽい。

 例えば、「Opera Jawa」の一場面で、金持ちの誘惑に負けた妻が、彼の邸宅に赴くシーン。村の道に赤い絨毯が金持ちの家までずっと敷かれており、そこを自転車に乗った妻が進んでゆく。途中に大きなドアがドアだけ立っていて、それをくぐり抜けてゆく。もちろん、インドネシアの片田舎に赤い絨毯が敷いてあるのでも、建物がなくドアだけ放置されているのでもなく、映画の演出であろう。では、このシーンは(作品の中の)現実世界ではなく、幻想シーンとして描かれているのかと言うとそうでもない。登場人物の目の迷いでもなんでもなく、文字通りに赤い絨毯とドアであるとともに、金持ちに誘われて好待遇を得ることになる妻の状況を表現したメタファーでもある。一般的な劇映画は、映画の中の世界を「現実」として扱いたがる(幻想シーンについては、登場人物か誰かの幻想であることを明示したがる)。しかし、この作品は「現実」と「幻想」(あるいはあからさまな表象表現)との切り分けを持たない。そういう意味で、作品がミュージカルである云々以前に、「Opera Jawa」は舞台劇に肌合いが近く、そしてそれを成し得ているのが、その独特の美術であると思う。舞台美術のようでもあるし、また、コンテンポラリー・アートのようでもある。実際に赤い絨毯と自転車が置かれていて、背後のスクリーンにその絨毯の続きが田園風景の映像とともに映し出される・・・こんな感じのインスタレーションは、いかにもありそう。

 「Setan Jawa」は、Esplanadeの四階席まであるConcert Hallで上映・上演された。舞台の前面にガムラン・オーケストラ、その後ろに指揮者の率いる西洋楽器のオーケストラ、そして背後に映画スクリーンという配置。サイレント映画ではあるが、スクリーンは横長で、両端がオーケストラを囲うように少しカーブしている。映像の端が歪曲するので、たとえ写実的なシーンであっても、それだけにとどまらない独特の面白さがある。

開演前。スクリーンの絵は、財産を得るかわりに家の人柱になるという悪魔との契約を描いている。

 今回の作品も物語はシンプルである。20世紀初頭、オランダの植民地下にあるジャワ島。窃盗で捕まった貧しい少年が牢獄に入れられ、彼の不幸な魂は悪魔(Setan)となる。このプロローグの後、物語は、高貴な家の娘(Asih)に恋をした貧しい村の青年(Setio)へと移る。彼女にふさわしい結婚相手となるために、SetioSetanと契約を結んで金持ちになるが、その代わり、自らが自分の家の人柱となる運命にあった・・・というもの。映画はいくつかの章に分かれていて、各章の始まりに章題が字幕で挿入されるが、セリフを字幕で入れることはない。ガムラン・オーケストラとともに時々歌が入るのだが、その意味を字幕等で教えてくれるわけでもないので、ほぼほぼ音楽と映像で物語を進めている。

 とは言いつつ、やはりこの「Setan Jawa」も寺山修司っぽいので、物語を把握することはそれほど重要ではない。上記の筋を理解できれば、それで十分ではないかと。後は、繰り出されるイメージとライヴ演奏の競演を堪能すれば良いと思う。「Opera Jawa」もそうだったが、独特の美術とともにある映像の美しさは卓越している。例えば、青年Setioが森の奥にある怪しげなマーケットを訪れ、Setanと契約を交わすというシークェンス。そこに集う人々は、伝統文化からくる神秘的な装いをしているようでもあるが、6070年代の舞踏ダンサー的でもある。正しくは、舞踏ダンサー的な前衛感が、2017年にアップデートされてより洗練された感じ。最終的にSetioは、このマーケットで大野一雄氏のような呪い師に出会い、Setanとの契約の儀式を行う。

 このシークェンスのようにあきらかに日常ではない、怪しさ満載の場では件の美術が大活躍なのだが、そうではない場面においても、終始見る者の目を楽しませる美しい作品である。例を上げると、SetioAsihを見初めるシーン。Setioが商売をしている小さな市場に、馬車を乗り付けてやって来るAsih。白塗りの男女二人の道化をお供に、買い物をするAsihの姿が優雅にとらえられている。それにしても良家の乙女のお供は、白塗りの道化(道化の召使い)。この取り合わせは、単に上品な美しい娘が登場する以上のインパクトがある。一種の異様の美しさである。その一方で、Setioが他の村人達と箒作りをして働いているシーンはきわめて写実的。しかし作品全体として、写実的な部分と、伝統と前衛の境界に花咲かせたような美術による部分とは、バランスがとれて統一感がある。結果、「現実」と「幻想(表象)」との切り分けを持たない、独特の世界観を持った作品となっている。

お金持ちになったSetio(御者の後ろに立っている若者)の元に、二人の道化をお供に嫁ぐAsih(中央)

 美術ばかりを強調したが、演技もまた作品の世界観に寄与すべく、特徴的。サイレント映画的、あるいは舞台劇的に大仰(というか勿体を付けている)と言えなくもないが、むしろダンスのようである。前述した道化達もそうだが、Asihの動きなども一度一度ポーズを取っているように見える。また実際に、ダンスのシーンもいくつかある。Asihの家の豪奢な居間を、敷居越しに正面からとらえると、長椅子などの家具を背景とした額縁舞台のように見える。そこで彼女の母が踊る。また、Setanのために祭祀的なダンスがなされ、Setanの手下達はSetioの新居に窓から飛び込んで来る。

新婚夫婦の新居に飛び込んで来る悪魔

 Asihに恋をしたSetioは、彼女が落としていった簪を、自宅でこっそり自分の髪にさして踊る。一方、落とした簪をSetioが拾ったことを知っていながら、あえて返せとは言わなかったAsihは、やはり自宅で召使いに足を洗わせている。この二人のシーンがクロスカッティングで交互に見せられるのだが、恋をしている人達の非常に美しく官能的なシーンである。Setioが簪をさして女性のように踊る姿を、カメラは彼の体に迫り、舐めるようにとらえる。外見上は男らしい男性であるSetioが、愛する女性と一体となるかのように、かくもセクシーに踊ることができるとは。一方Asihは、立ったまま足を洗わせているのだが、官能に強ばらせているかのような足の上を、召使い(女性)の手が太ももの方まで上って行く。これがまたとてつもなく官能的。もちろんただ単に足を洗っているだけなので、何かあるわけではない。しかし久しぶりに見た、何が起こるわけでもないのに非常にエロいというシーン。「アート」映画と構える必要は全くなく、このクロスカッティングのシーンを見るだけでも、結構エンジョイできると思う。

 演技がダンス的なので、感情表現も身体全体を大きく使ってなされている。Setioの命乞いに来たAsihに、Setanは恋をしてしまう。Setanに体を要求されたAsihは、どうしたらよいのか苦悩する。覚悟を決めつつ、バスタブで行水をするAsihの苦しみを表現するのに、単なる表情や日常的な動きは用いられない。Asihは、足を持ち上げてそれをバスタブの縁に出し、ポーズを取る。このイメージのインパクトと官能的な美しさ。また、結婚を申し込みに行って、貧しいゆえにAsihの母に追い返されたSetioが、やるせなく箒を作っている。悲しさ悔しさにたまらないSetioは、箒の穂を頭にかぶる。穂先を下に穂をかぶったSetioの顔は見えず、人であって人でないような異形の何かに見える。そしてこの後、SetioSetanに会いに行くのである。

 最後に音楽について。全般的にガムランの方が大きく聞こえるので、最初のうちは、二種類の音楽が合っているのかどうか、西洋楽器が必要なのかどうかよくわからない。実際Setioが訪れる怪しげなマーケットのシーンなど、ガムラン・オーケストラしか聞こえていないようなパートもある。しかし、聞いているうちに、やはり両者が揃っていなければできないこともあるな、と思ったのだった。例えば、AsihSetioの命乞いをしに、Setanに会いに行くシーンでは、西洋の弦楽器の音がはっきりと聞こえている。バイオリンの哀切な響きが、Asihの優しい(勇猛さのない)自己犠牲的な思いにふさわしく、観客の感動を誘う。そして見ているうちに、二種類の音楽が、それぞれの特徴を生かしつつ調和しているように感じられてくる。

悪魔に会いに山奥に分け入ったAsih

 この作品をライヴ演奏なしで(音楽は録音で)上映することは可能だと思う。ただ、生演奏を聞いている時のような興奮や熱気は得られない。では逆に、映画ではなく、オーケストラ付きの舞踏劇だったらどうだろうか。これまた可能でないこともないが、全く違う作品になり、もはや「Setan Jawa」とは違うものになってしまうだろう。この作品の演技も美術も舞台劇っぽいのだが、観客を巻き込むような舞台の熱気を刈り取って、映画のスクリーンに封じ込めた結果、同じ内容であっても恐らく舞台劇では感じられないような洗練が、そこにはある。怪奇なものも野蛮なものも、フィルターを通して見ているかのような。しかも、モノクロのサイレント映画のため、一応20世紀初頭という設定ではあるが、いつとも知れない時代、どこか夢のような遠さがある。舞台が与える高揚感と泥臭さ(俳優が生で演じることによる)がないかわりに、知的に怪異のドラマと美を楽しむことができるようになっている。そういう意味で、映画らしい映画なのではないか、と思ったのだった。2017730日)

カーテンコール。監督、作曲家、主演女優さん達とともに。

Esplanadeの野外劇場では無料のコンサートが行われていた。Pesta Rayaの賑わい。

Tuesday 22 August 2017

[Film] The Girl Without Hands (La Jeune Fille Sans Mains)


21 May 2017
“The Girl Without Hands (La Jeune Fille Sans Mains)”---French Animation Film Festival
Release Year: 2016
Country: France
Director: Sebastien Laudenbach
Cast: Anais Dumoustier, Jeremie Elkaim
Location I watched: Alliance Francaise

This year, Alliance Francaise organised the 6th French Animation Film Festival. 6 films were screened, but I only managed to watch this film. “The Girl Without Hands” is adapted from the Brothers Grimm’s famous fairy tale. It was a very good film, but unfortunately the audience was quite small. Perhaps it was because of its M18 rating even though it was a fairy tale adaptation.


The touch of “The Girl Without Hands” is like a watercolor sketch. The images are simple drawings, without details. The drawing is constantly flowing and new images appear, one after another. Even a fixed shot is like a beautiful sketch. Furthermore when the shot starts moving, we realize that is why animation is called animation. Images in this film are literary animated. For example, after the protagonist, the girl, lost her hands, she wanders in the mountains and finally finds a garden the prince owns. The garden at night, illuminated with twinkling lights is an incredible enchanting scene.

The story basically follows the original Grimm’s fairy tale. God (in this film, the God of the river) sometimes helps the girl and some miracles also happen. However, the film takes more time showing the girl’s hardship and endeavors. The touch of the images is gentle and has less details, but the girl’s struggle to live---without her hands, how she changes her baby’s diaper or how she sows vegetable seeds and so on---is elaborately described. As the result, the film became a story about a pure girl, while receiving divine favour, carves out her life for herself and finally gets happiness in her own “hands”. The content, not just the visual images, is beautiful. It is an elegantly powerful film. (28 June 28, 2017)

The ending song, "Wild Girl" is also beautiful.