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Sunday, 15 September 2019

『演劇』1984(1984年)--- シンガポール・インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ


2018428
1984(1984年)」———Singapore International Festival of ArtsSIFA
国:  イギリス、オーストラリア
原作: George Orwell(ジョージ・オーウェル)
演出: Robert Icke(ロバート・アイク), Duncan MacMillan(ダンカン・マクミラン)
出演: Tom Conroy, Terence Crawford, Rose Riley
見た場所: Esplanade Theatre(エスプラネード・シアター)

 2018年のSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)、メイン・プログラムの一本である。この2018年から、Theatre Works(シアター・ワークス)のOng Keng Sen(オン・ケンセン)に代わり、The Singapore Repertory Theatre(シンガポール・レパートリー・シアター)のGaurav Kripalani(ガウラ・クリパラ—二)がフェスティバル・ディレクターに就任した。新しいディレクターの元、まず日程が89月から45月に変わった。これは、毎年4月後半から5月にかけて開催されているChinese Film Festival(チャイニーズ・フィルム・フェスティバル)と完全にスケジュールがかぶっているので、正直迷惑だった。いや、映画を見に行く人は、普通演劇は見に行かないのかもしれない。しかし、SIFAには映画上映のプログラムもあるのだけど。それはともかく、プログラム自体は、オン・ケンセン時代の、演劇やダンス、コンサートといったジャンルの枠を越え、表現形式そのものから前衛を志向していたような作品群に比べ、よりオーソドックスなものだった。しかし、比較的オーソドックスな表現形式を持ちながらも、社会的でかつ重いテーマを取り扱った作品が多かった、という印象。メイン会場であるエスプラネード・シアターでのオープニングがこの「1984」なら、クロージングはドイツのSchaubuhne Berlin(ベルリン・シャウビューネ)による、ヘンリック・イプセンの「民衆の敵」。どれだけ観客を嫌な気持ちにさせれば気が済むんだよ、と思った。(もう「民衆の敵」は見に行かなかった。)


 この「1984」は、ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説「Nineteen Eighty-Four1984年)」の舞台翻案作品である。ちょっとややこしいのだが、今回上演された作品は、元々ロバート・アイクとダンカン・マクミランが台本、演出にあたったイギリスのHeadlong(ヘッドロング)、Nottingham Playhouse(ノッティンガム・プレイハウス)、Almeida Theatre(アルメイダ・シアター)のプロダクションだった。それをオーストラリアのState Theatre Company of South Australia(ステイツ・シアター・カンパニー・オブ・サウス・オーストラリア)がオーストラリア・キャストで上演したバージョンである。と思う。

 鑑賞に先立って、原作の日本語訳を読み始めたのだが、当日までに読み終わらなかった。そのため、主人公ウィンストン・スミスの運命を知らないで見に行ったのだが、まぁー予想通り嫌な話だった。

SIFAのプログラムから(上の写真も同様)

 作品は、現代の市民達が読書会(?)でウィストン・スミスの日記を読んで議論しているというシーンから始まる。この現代の枠の中に、原作通り、「ビック・ブラザー」率いる党による1984年の全体主義的社会と、党の真理省に勤務する一党員ウィストン・スミスの生活が描かれている。昔ながらの羽目板張りの部屋、コミュニティ・センターの図書室のような所で話し合っている男女が、1984年の世界の登場人物をそれぞれ演じている。現代から1984年に移っても、セットは同じで登場人物達の服装も基本的には同じ。部屋のセットの上半分にはスクリーンがあり、最初はそこにウィストンの日記が投影されている。1984年の物語の後、また現代に戻って作品は幕となる。この現代の枠組みは、原作にある附録「ニュースピークの諸原理」が過去形で描かれていることから想を得たものかもしれない(ニュースピークは、党が考案した新英語で、これまでの英語に変わるもの。党の奉ずるイングソック(イギリス社会主義)以外による思考様式を不可能にするよう、単純化された英語)。それはともかく、1949年にジョージ・オーウェルの描いた未来世界を現代の我々と結びつけて見てほしいという、作り手側の思いであろう。しかし、私個人的には、この現代シーンは若干蛇足だったのではないかと思っている。

 さて、装置や衣装が変わらないということは、どちらかと言えば居心地よく見える部屋や、シャツにズボン、スカートといった普通の服装で1984年のシーンが演じられるということである。それは、一見快適に見えても、水面下で全体主義のような事態が進行しているかもしれないという現代に呼応させているのかもしれない。しかしその一方で、ウィンストンがなぜ党の支配に疑問を持つに至ったかを、あまりよく説明することができなくなってしまった気がする。原作を引き合いに出すべきではないのかもしれないが、原作でウィンストンは次のように考えている。
 「暮らしの物質面に思いをめぐらせると腹を立てずにはいられない。昔からずっとこんなふうだっただろうか?食べ物はずっとこんな味だっただろうか?」(高橋和久訳「一九八四年」より)
 この、生活感覚から来る体制への疑問、だからこそ決してぬぐい去ることのできない疑問を、端的に視覚的に見せてほしかったと思う。

 また、ウィンストンが恋人のジュリアと、骨董品店の二階で逢い引きをするシーンで、ジュリアは派手に化粧をして赤いドレスを着てみせる。原作では、男も女も党員はオーバーオールを着ており、女性党員は決して化粧をしないとされているが、この舞台でのジュリアの衣装は、それまでブラウスとスカートだった(そして舞台なのでもちろん化粧もしている)。実際に赤いドレスを着るというのは、舞台の工夫なのだが、それでも、以前の衣装が特殊なものでもみじめなものでもないため、残念ながらそれほどのインパクトはなかった。現代と1984年とで同じセット、衣装を共有することによって、与えられる効果があった一方、失われたものもあったと思った。

 もう一つ、与えられたものと失われたものを感じたのが、ウィンストンが勤める真理省の食堂でのシーンである。食堂ではいつも同じニュースが流され、同僚達の間では同じ会話が繰り返されている。しかし、ある日忽然と同僚の一人の姿が消える。しかし、流れて来る同じニュース対し、同僚達はやはり同じリアクションを繰り返している。消えた同僚に気づかないかのように、というよりもむしろ、最初からそのような同僚は存在しなかったかのように。否定するどころか、存在そのものをなかったことにする粛清の恐ろしさが表現されているのだが、原作で私が一番恐ろしいと思ったのはそこではない。

 また原作の話で恐縮だが、党は何もかもが右肩上がりによくなっていると常に宣伝している。しかし、その一方で生活のみじめさは全く変わらない。ウィンストンは何かが間違っていると思うのだが、そこに確証はない。もしかしたら党の支配以前よりもましなのかもしれない。わからない。なぜなら、比べることのできるものが何もないからだ。歴史どころか昨日のニュースも間断なく書き換えられていく。個人が記憶していたことを、それが実際にあったことだと肯定する公的な記録は何もない。私的なものももちろん存在しない。自分以外に支持するもののない記憶は、当人の中でもやがて曖昧になっていく。そもそもタイトルになっている「1984」さえ、今が本当に1984年なのかどうか、ウィンストンには確かなことはわからないのだ。

 いつもの生活のなかで、人一人消えて気づかれない「ことになっている」恐怖、変化のない日常の水面下の恐怖が上手く描かれてはいる。しかし一方、歴史や情報が間断なく変更され、依るべきものが(今の体制以外に)何もないという恐怖は強調されない。後者の恐怖こそ、原作で私が一番恐ろしいと感じたことである。そしてウィンストンが、自分自身情報の書き換えを仕事としていながらも、党による支配前の(本当の)過去を知りたいと切に願った、また個人の記録として日記をつけるという許されない行為を始めた動機も、そこにあったのではないだろうか。

 この舞台作品の一番の見所であり、視覚的な表現が上手くいっているのは、ウィンストンとジュリアが骨董品店の二階の部屋で逮捕されるシーンである。ウィンストン達の密会部屋は、通常のセット(羽目板張りの部屋)の裏にあり、二人が会っている様子はスクリーンで映し出されるようになっている。観客は部屋にいる彼ら二人を直接見ることはない。しかし、ある時突然、二人以外の声が聞こえ、表のセットが二つに割れると、裏にある彼らの部屋———舞台裏に作られたセットにすぎない———が剥き出しにされる。そして部屋にいる二人の前に、現れる思考警察。結局、二人の密会は最初から監視されていたのである。観客がスクリーンで覗き見ていたように。

 このダイナミックな屋台崩しによって示される演劇的虚構は、ウィンストン達が党の介在しないところだと信じていた場所すら、党のお膳立てであったことを強調する。この痛烈な挫折の後、ウィンストンが政治犯として送り込まれるのは、むしろ「闇の存在しない」真っ白い空間であるという皮肉。そして、ウィンストンの運命は悲劇的な結末を迎える。

 ここで話は現代に戻る。ウィンストンの日記を検証し終わった人々は、次のように言う。「こんなことがあったはずがない。そもそも私達はニュースピークで話していないし。これはフェイクニュースだ」と。確かに、「1984」はフィクションなのだけど・・・ということではなく。要は、「1984」の世界を作り話だと思ってたかをくくっていると、今そこにある危機を見過ごしてしまいますよ、この作品を警鐘と思ってくださいよ、ということなのだと思う。しかし、観客というのは、そこまで親切にフェイクニュースという流行言葉まで用いて敷衍しないと、作品と現実とを結びつけることができないものだろうか。良識ある一般市民が全体主義社会の党員にもなりうる、「1984」の世界は他人事ではないという点で、この現代の枠組みはそれなりに効果のあるものだったかもしれない。しかし、この締めのセリフはやり過ぎのように感じた。

 そういうわけで、見に行った当初は、印象的ではあったが、同時に不満も残る作品だった。枠組みの是非はともかくとして、原作は結構な長編なので、そこから何を取って何を取らないかの問題もあると思う。それが、私が原作を読んで強調してほしいと思っている点とはちょっと違っていた。しかし、この芝居を見に行った後でようやく原作を読了し、それから改めて考え直して見ると、良くまとまった劇化ではあったと感心した。そうかと言って、内容が内容なので、何度も見たいとは思わないが・・・。2019714日)

劇場の入口

ボケた写真だが、カーテンコールの様子

Victoria Theatre前で行われたSIFAのイベントの様子

Sunday, 9 September 2018

『VR(バーチャル・リアリティ)』WHIST --- ジョージタウン・フェスティバル


2018812
WHIST---George Town Festival(ジョージタウン・フェスティバル)
国: イギリス
芸術監督: Esteban Fourmi and Aoi Nakamura (AΦE)
見た場所: Wisma Yeap Chor Ee, George Town, Penang, Malaysia

参加者が見ることのできる映像の一つ

 マレーシアはペナン島で毎年開催されている、ジョージタウン・フェスティバルのプログラムの一つ。フェスティバルのパンフレットによると、「76種類の様々な視点の一つを通して家族の物語を探る、フィジカル・シアター、インタラクティブVR(バーチャル・リアリティ)とAR(オーグメンテッド・リアリティ)を融合した一時間の体験」とある。さらに、「「WHIST」はジークムント・フロイトの著作にインスパイアされており、架空の家族の夢や恐怖、欲望を通して、参加者を無意識の精神の旅路へと招待する。」などともある。なんかすごそうだ。すごそうなのだが、簡単に言うと、参加者はVRヘッドマウントディスプレイを装着し、会場のそこここに設置されたオブジェを視線に捉え、それをきっかけとして始まる映像を見る、というものである。そしてその映像が、フロイトのエディプスコンプレックス的な内容だよ、と。

参加者の様子。誰しもこういう感じになる。

 「WHIST」は無料で参加できたが、ただし一回毎の参加人数が限られるので、事前に登録が必要。会場に行くと、ランダムに78人のグループに分けられ、まずスタッフによるオリエンテーションを受けることになる。ヘッドマウントディスプレイの操作の仕方や、どうやってVR体験を進めていくか、その他注意事項など。その後、スタッフが一人一人にディスプレイを装着させてくれるので、ボリュームやフォーカスを自分で調整。ディスプレイに表示される取扱説明書を見た後、本編が始まる。最初の地点では、グループ全員が同じオブジェを見て(ヘッドマウントディスプレイでスキャンして)、それをきっかけとして起動される映像を見る。それが終わると、各自のディスプレイに次のオブジェが表示されるので、その場所に行ってオブジェをスキャンしてまた映像を見る。これを繰り返すのだ。映像は各56分くらいの長さではないかと思う。最初の地点は全員同じでも、その後はばらけて行くため、結果的に皆が思い思いにオブジェを求めてウロウロ歩くことになる。柱や人にぶつかると危険なので、映像を見ている間は座るように、最初のオリエンテーションで言われた。なかなか上手くスキャンが行かず、映像が始まらない時もあれば、そのオブジェをスキャンするつもりがなくても、通りがかっただけでうっかり映像が起動してしまうこともある。そうやってウロウロと座り込みを繰り返していると、やがて終了映像が現れ、ある数字がディスプレイに表示される。この数字を覚えておいて、後で教えてもらったウェブサイトに行くと、各番号の元にある精神(?)分析結果を見ることができる。

会場内に置かれているオブジェの数々。


 私の見た映像はどれも、廃墟のような洋館の一室を思わせる場所で、二人の白人男性と一人のアジア人女性を主な登場人物としていた。例えば、若い白人男性が「お母さん」と言いながらソファの上で身悶えするとか。男性二人と女性一人が、ホールに取り付けられたいくつかのドアを、それぞれ出たり入ったりするとか。VRという言葉に期待するほど臨場感があるわけではないが、映像の中心にいてぐるっと360度見回すような視線を得ることができる。一つの映像では、自分がスーツ姿で椅子に腰掛けているような視線となっており、その目の前で若い女性が寝転がってセクシーに踊る。しかし、自分が登場人物の一人になっていると言っても、座っている(はずの)自分の顔の一部を見ることは決してないのだから、やはりまやかしなのだ。また別の映像では、自分が円卓の中央の上にいるような視線になっており、見回すと件の三人が腰掛けていて、食事をしようとしている(しかし、決して食物を口に入れることはできない)。三人のうち一人の動作を見ていて、はっと振り返ると他の人がさっきと違うことをしていたりする。見ているものが映像に過ぎないことはあきらかではあるのだが、通常映画などを見る時にはない視線を得られるので、確かに面白い。

 しかし、私にとってより印象的だったのは、その映像がなんかこう寺山修司の短編実験映画みたいだったことだ。青っぽいセピア色っぽい廃墟じみた洋室だったり、ストレートのロングヘアーのアジア人女性が意味ありげに怪しく現れたり、私には見覚えのあるレトロ感だった。一見大時代的だが、見世物的気持ち悪さがある。フロイトの精神分析を意識した映像だと思うと、なんだかつまらなくなるので、寺山修司みたいなアングラ芸術だと思った方が良いと思う。かえって楽しく見られる。

 この作品を制作したAΦEは、 フランス人ダンサーEsteban Fourmiと日本人ダンサーAoi Nakamuraの二人組からなるダンス・カンパニーで、拠点はイギリスのアッシュフォードにあるらしい。制作者がダンサーと知って、なんとなく合点のいった所もある。登場人物がまさに踊るシーンもあるが、それよりも三人の登場人物が入れ違いに複数のドアを出たり入ったりする場面など、ダンスっぽい動きだと思うのだ。

 参加したのは一時間弱なのに、見終わった後は頭がクラクラして、座って休まずにはいられなかった。使用しているヘッドマウントディスプレイが重いこともあって、立ったり座ったり、見回したりすることが、思いの他疲れる。でも、試みとしては面白かった。一つの場所に皆で集まっているのに、全員が違うものを見ていて没交渉、にも関わらず同じことをしており、皆で一緒にいる感じがする。この点が、VRで体験する深層心理的な世界云々よりも、まさにスマートフォン時代の新体験という気がして興味深かった。

 終了後、映像の終わりに表示された番号をメモするカードがもらえる。後日、指定されたウェブサイトに行って、その番号の分析結果を確認した。この番号を得た人の意識下にはこういう欲望が云々といったことが書かれているわけではなく、フロイトの理論の一部を説明したようなものだった。ちなみに他の番号のものも見てみたが、どれも同じような感じだった。まぁ、予期せぬ所で指定外のオブジェをスキャンしてしまうようなこともあるとはいえ、基本的にはたまたまそのようにプログラミングされたヘッドマウントディスプレイを身につけた、というだけに過ぎないので、この部分は一種の遊びというか、映像の解説だと思う。

終了後にもらえるメモ用カードの一つ

会場となったWisma Yeap Chor Ee

 さて、「WHIST」に参加した後、頭の疲れを少し休めてから、会場近くで開催されていたエキシビションを見に行った。フェスティバルの期間中、ジョージタウンの町のあちこちで、様々な展示を見ることができる。だから町歩きが楽しい。と、言いたい所だが、いや確かに楽しいのだが、暑い。とても暑い。暑かったよ、昼間のジョージタウン。でも、今年はもしかしたら日本の方が暑かったのかも、とちょっと想像したのだった。201893日)

別の会場、Bangunan U.A.B.で見たエキシビション「Forbidden Fruits」

Tuesday, 19 December 2017

『映画』Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)


Raid into Tibet(レイド・イントゥ・チベット)
  The Art Commission(短編映画特集)より・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 1966
製作国: イギリス
監督:  Adrian Cowell
見た場所: National Gallery Singapore


  この作品は、当時あったイギリスのTV会社ATVAssociated Television)の企画により製作された。チベット動乱そして1959年のダライ・ラマ14世亡命後の1964年、中国軍と戦うチベット人ゲリラを取材している。監督のAdrian Cowell、カメラマンのChris Menges(クリス・メンゲス)、ジャーナリストのGeorge Patterson(ジョージ・パターソン)は、ネパール中部、ヒマラヤの山々に囲まれたTsum Valley(ツム谷)へ向かう。隔絶されたこの土地には、チベット人ゲリラの分遣隊の拠点がある。彼らの許可を得た監督達は、行を共にしてヒマラヤの峠を巡る。ゲリラ達は、チベットからネパールへ抜ける街道を建設中の中国軍に対し、奇襲作戦を行っているのだ。チベット仏教の祈りに支えられながらチベット独立のために戦うゲリラ達を取材したこの作品は、資料的な価値の高いものだと思う。
 
 しかしそれだけではなく、壮大なヒマラヤ山脈を背景に、人の通わぬ道を歩んで行くゲリラ達を捉えた映像は、驚くほど美しい。モノクロの16mmプリントからレストアされているのだが、この美しさは単にレストア・バージョンだから、と言うにとどまらない。そういう意味でも心に残る作品だった。20171111日)

 

Sunday, 17 August 2014

[Theatre] Shun-kin /『演劇』春琴


31 August 2013
“Shun-kin”---Martyrdom for a woman’s beauty in the dimness
Country: UK/Japan
Company: Complicite/Setagaya Public Theatre
Director: Simon Mcburney
Cast: Yoshi Oida, Eri Fukatsu, Keitoku Takata
Location I watched: Esplanade Theatre
It has been a long while since I last went to watch a play. After checking my diary just now, I realized that the last play I watched was “Sho-shun O’kabuki (January Kabuki)” at Osaka Shochiku-za Theatre back in January 2013. I was surprised; for 7 months, I had not watched any plays.

Anyway, this play, “Shun-kin” was co-produced by Setagaya Public Theatre (Japan) and Complicite (UK). Two famous works by Jun’ichiro Tanizaki, “Shun-kin Sho (A Portrait of Shun-kin)” and “In’ei Raisan (In Praise of Shadows)” was reconstructed as a new work on stage.

Here in Singapore as part of their world tour, the performance at Esplanade Theatre was well received. On the day that I went to watch, many people in the audience gave it a standing ovation. I also thought that it was quite a good play which gave the audience a very rich experience on theatrical arts.

The play opens with one of the actors, Yoshi Oida greeting the audience in English and sharing the memories of ‘his’ father’s death anniversary. As the day came every year, his relatives attending it became less and less, till finally he was the only person standing in front of Sotoba (a wooden grave tablet). On the gloomy stage behind him, the other actors were standing in a row. Light slowly glowed from their back and flowed over there gradually.

In this opening scene, there was the pleasure to watch theatrical arts or the expectation to the pleasure to watch theatrical arts. The pleasure is with reality belonging to the stage and the physicality of the actors, but from watching something different which transcended reality of our daily life. I was excited about this scene.

Shun-kin” works on three interconnected layers. On the surface, it is a present day story about a middle-aged actress, played by Ryoko Tateishi, who is doing a narration for a radio play, “A Portrait of Shun-kin” by Jun’ichiro Tanizaki in an old studio in Kyoto. It is also about Tanizaki himself, the protagonist of “A Portrait of Shun-kin”, visiting “Shun-kin’s grave” and writing his story in about the year 1933. Lastly, it is the story of Shun-kin, a shamisen (a Japanese three stringed instrument) master, and her faithful servant, Sasuke from the end of Edo to the Meiji era (around the second half of the 19th century). We see that the bizarre love affair between Shun-kin and Sasuke is developing into ultimately aesthetic love on stage. On the other hand, Tanizaki---a writer was living during Showa Modern (the period of modernism around 1930s in Japan)---gives their love story some criticism and comments by words from the modernism. In addition, we also see the voice actress and her (somewhat) immoral love affair with a younger man, while narrating Shun-kin’s story for the radio play. Although the voice actress’s love story may be immoral, it seems to be ordinary. For that reason, it is a secular shadowgraph against the love affair between Shun-kin and Sasuke. This present part is also a kind of interlude and the middle-aged voice actress also has a role as comedy relief.

We, however, have another story layer with the older Sasuke, played by Yoshi Oida, who is passing his remaining years after Shun-kin’s death. He sometimes appears on the stage and repeatedly talks how beautiful Shun-kin’s body (feet, most of all) was. The story of Shun-kin and Sasuke repeats itself again and again into a world of itself, a fake biography by “me”, a literary work by Jun’ichiro Tanizaki and Sasuke’s memory.

In response to this complex dramatic composition, the play uses various theatrical techniques. On the dim stage, we could hear a live shamisen performance or an announcement on the platform of a train station. And we could see quotes from Tanizaki’s original text and a photograph of Shun-kin---it is introduced as only one copy of her portrait---projected on the back of the stage. The role of Sasuke was played by three actors in relay from youth to old age. On the other hand, the role of Shun-kin in her girlhood and as a young Shamisen master was acted by a puppet. Then in a scene when Shun-kin was physically beating Sasuke out of jealousy for a geisha girl, one of her pupils, the role of Shun-kin was taken over naturally by Eri Fukatsu, who had been speaking her lines and working the puppet.

Although various theatrical techniques were introduced, the stage set and properties were limited. Rather than it, the play concentrated on the actors’ physical expression and made good use of their bodies with high standards. For instance, a line shaped by actors’ arms became the branch of a pine tree stretching from Shun-kin’s grave to Sasuke’s one. And, the scene when Sasuke is beaten by Shun-kin day after day is the most impressive in all of the physical expressions. Sasuke was beaten by Shun-kin and he fell down. From the same position as he was, another Sasuke got up, and knocked down again, and…that movement was repeated endlessly. While the meaning of that movement was quite cruel in common sense, the repeated cycle of movement became like a dance; smooth and beautiful. The “abnormal” relation between Shun-kin and Sasuke, its connection with pain and pleasure both physically and mentally was expressed in a quite sophisticated way.

When the voice actress tried to explain the story of Shun-kin to her lover on the phone, she said it was a story about a sadistic lady. Her explanation might have one from a female’s point of view. But since this play was narrated more from the perspective of Sasuke, it is more accurate to say that this was a story about a masochistic man. Although Sasuke was played by three actors, Songha, Keitoku Takada and Yoshi Oida, Shun-kin was acted by a puppet until Eri Fukatsu took over. This may mean that Sasuke’s vision of Shun-kin’s face was that of Fukatsu, which he saw last before he became blind and the image was fixed indelibly in his mind. Or rather than it, this may mean that Shun-kin was the girl of Sasuke’s dreams eternally. His dream was completed by Shun-kin with the face of Fukatsu.

Sasuke hoped that he was dominated by Shun-kin’s beauty. He became her servant throughout his entire life (even after she had his children). When Sun-kin was burned and disfigured, Sasuke pierced his eyes with a needle to blind himself. That was the result of his consideration for her mind in which she would never want him to see her face. In another weird and beautiful scene, the now blind Sasuke, who was always waiting apart slightly from her, sits down next to the bandaged Shun-kin for the first time, like a married couple. Even if they could not, or would not like to become a couple, for that moment, Shun-kin accepted Sasuke, an ardent devotee for the tyrant of beauty, as an equal, perhaps out of consideration of his passion. Now they could both live forever as the beautiful Shun-kin and the faithful Sasuke. It is a kind of a dream world. And such a dream world must be different from this bright present world under the sun or electric lights. It might be like phantasm floating in the darkness.

If the staging of the play had been performed straight without the crisscrossing time periods or with the elaborate stage set and properties, the play would still have been interesting. But it could have been just an interest for a story about sadomasochism relationship, abnormal intercourse or romantic sacrifice of love. This performance, however, was more than that. That pathetic and weird atmosphere contrasting sharply with the common and comical scenes of the present, combined with the actors’ stylish movement in the simple and rather abstract stage set increased the universality of the theme. In short, the complex narrative style, the various theatrical techniques and the acting with high physicality pushed this Edo-Meiji era story up to a different dimension.

It is a story about passion to make ordinary people great. Sasuke was an unknown servant. He passed away as an ordinary shamisen master with nobody’s attention. He, however, had been getting masochistic pleasure by serving beautiful Shun-kin, and finally obtained passion to dedicate all of his life to her beauty. He was able to keep the sublime passion throughout the entire of his life. It can be called a religious passion. And, the passion changed him and the object of his admiration, Shun-kin, from common townspeople in the 19th century. That turned them into something great. I think the audience was moved not only by Sasuke’s devoted love, but also their greatness itself.

Back in Japan a long time ago, I have watched “The Street of Crocodiles” by Complicite. I remember that I felt a headache and was exhausted by the hysterical atmosphere; that might have been one of their intentions, I think. Probably my physical condition was not well at that time. Now looking back, I have forgotten everything else about the play except that headache and exhaustion. This time, I think I could watch their “Shun-kin” relaxed. By the way, as the show ended, after the curtain call, I spotted a young Caucasian lady who was still crying for being so moved---:) (11 Sep. 2013)

2013年8月31日
「春琴」---仄暗い女性美への殉教 
国:イギリス、日本 
カンパニー:コンプリシテ、世田谷パブリックシアター 
演出:サイモン・マクバーニー 
出演:笈田ヨシ、深津絵里、高田恵篤 
見た場所:Esplanade Theatre 

 久しぶりに芝居を見た。確認したら、2013年一月に大阪松竹座に見に行った初春大歌舞伎以来だった。こんなに長いこと(7ヶ月間)芝居を見に行っていなかったことに、自分で驚いた。 

 それはともかく、この「春琴」は、日本の世田谷パブリックシアターとイギリスのシアター・カンパニー、コンプリシテの共同制作になる作品で、谷崎潤一郎の「春琴抄」と「陰翳禮讚」をもとに、舞台作品として再構築したもの。 

 海外ツアーの一環としてシンガポールに来たわけだが、Esplanade Theatreでの上演は非常に好意的に迎えられ、私が見に行った日も、カーテン・コールでスタンディング・オベーションをする多くの観客がいた。一言で言ってしまうのなら、非常に豊かな演劇体験をさせてくれる作品で、とてもよかったと思う。 

 作品の冒頭、笈田ヨシが英語で観客に挨拶をした後、父の法事の思い出を語る。法事も回を重ね、自分以外の親類縁者はいなくなり、ついに彼だけが卒塔婆の前に立つ。彼の後ろの薄暗い舞台に、横並びに立つ他の出演者達。しだいに彼らの背後が明るくなり、舞台の奥から光が溢れ出て来る。 

 この最初の場面からしてすでに、演劇的快楽---舞台も俳優も現実に存在するものであるのに、日常の世ならぬものを見ているという快楽---あるいは、今からそういうものが見られるという期待で胸が踊らされた。 

 この作品には三つの階層がある。一つが、古い京都のスタジオで、谷崎潤一郎作「春琴抄」のラジオ朗読でナレーションを務める、現代の中年女優(立石凉子)の層。もう一つが、春琴の「墓」を訪ねる「私」こと、この作品を書いた1933年頃の谷崎の層。そして最後が、江戸末期から明治にかけての三味線の師匠春琴とその忠実な奉公人佐助の層である。19世紀の文化の中における、一種異様な、あるいは究極的に純化された耽美的な愛を、春琴と佐助が演じる一方で、昭和モダンの谷崎が、近代以降の用語を用いながらそれを批評するとともに感慨を表す。そしてさらに、現代の中年女優の、道ならぬ(らしい)がありきたりな、自分よりずっと若い男性との恋模様が、ナレーションの仕事の合間に差し挟まれる。この中年女優の恋は、春琴と佐助の恋愛関係の世俗的な影絵となっている。また、この現代パートは、一種の幕間狂言でもあり、中年女優はナレーターとしてだけではなく、コメディ・リリーフとしての役割も担っている。 

 しかしさらに、これら三層とは別の層がもう一つある。それは、春琴の死後、余生を送る老いた佐助(笈田ヨシ)によるもので、度々登場する彼は、春琴の身体(特に足)の美しかったことを繰り返し述べる。春琴と佐助の物語は、それ自体が独自の物語世界を持つとともに、谷崎による偽伝記でもあり、谷崎潤一郎作の文学作品でもあり、佐助の思い出でもあるのだ。 

 この作劇上の複雑さに呼応するように、その表現手段も多彩である。薄闇を主体とした舞台では、三味線の生演奏と駅のプラットホームのアナウンス、背後のスクリーンには、春琴の唯一枚の写真が映され、また時に日本語で原作の一部が表示される。佐助の役は、青年、壮年、老年と三人の俳優が演じ継いで行くが、春琴の少女時代と娘時代は人形によって演じられる。そこから、弟子の芸者に嫉妬して佐助を折檻する過程で、春琴役は、それまで声を当てて人形を操作していた深津絵里自身へとごく自然に交替して行く。 

 様々な表現手段が取り入れられる一方で、舞台装置や小道具は限られている。そういうものよりも身体表現を優先させる、非常に身体性の高い作品でもあり、例えば、春琴と佐助の墓をつなぐ松の枝は、俳優達の腕の組み合わせであったりする。そして、そうした身体表現の中でも最も印象的なシーンが、来る日も来る日も春琴に折檻される佐助を表現するくだりである。春琴に殴り倒されて転がる佐助、その同じ位置からもう一人の佐助役が起き直り、また殴り倒されて転がり、という運動を無限に繰り返していく。それが意味しているものは、通常からすると極めて残酷なのだけれども、それと同時に、その動きはダンスのようで、滑らかで美しい。ここに、通常の苦痛が快楽になっている、一般的には異常といえる二人の関係が、かくも洗練された形で表現されている。 

 ナレーターを務める女優は、電話の向こうの恋人に「春琴抄」を説明して、サディスティックな女性の物語だと言っている。彼女は女性の視点からこのように説明したのだろうが、しかし実際は、この作品はどちらかと言えば佐助寄りに物語が進められており、マゾヒスティックな男性の物語だと言った方が正しいのかもしれない。佐助は三人の男優(成河、高田恵篤、笈田ヨシ)によって演じられるが、春琴は深津絵里が引き継ぐまでは、人形によって演じられる。これは、自分が眼を潰す直前に見た春琴(深津絵里)の姿が、佐助の心には焼き付いているであろうという解釈による気もするし、またはそれ以上に、佐助にとって春琴が、永遠の夢の女だったことによる気もする。彼の夢は、最後に見た春琴の顔、深津の顔によって完成されたのだ。 

 春琴の美に支配されることを望んだ佐助は、(彼女との間に子供をもうけてもなお)終生彼女の召使いであったわけだが、火傷した顔を見られることを恐れた春琴の心を思いはかって、自らの眼をつぶす。それまで常に春琴から一歩退いた所に控えていた佐助は、その時初めて、顔を包帯でまかれた春琴の隣に、夫婦のようにそば近く座る。このシーンもまた、異様であるとともに美しい。もちろん彼らは、夫婦になれるわけでも、なりたいわけでもないのであろうが、この瞬間、美の暴君の熱烈な信者である佐助を、春琴がその情熱に免じて受け入れたのだと思われる。今や春琴は、佐助の心の中で永遠に美しく生きることができ、佐助もまた、永遠に美しい春琴の下で生きることができる。その夢のような世界は、太陽や電灯の下の明るい現在とは異なっているだろう。暗闇の中にぼうっと幻のように浮かんだ世界であるに違いない。 

 「春琴抄」の物語を、このような複数の時代を交錯させた中で語らなかったら、または、当時を再現するような凝った装置や小道具とともに上演したら、それは興味深いストーリーを持つ作品にはなったであろうが、しかし、ただのロマンチックな愛の犠牲の話になってしまっただろう。あるいは、単なるサド・マゾ的な人間関係、異常性愛について描かれている、という評価を下されるかもしれない。しかし、この作品はそれ以上のものとなった。悲愴で一種異様な雰囲気は、現代のシーンの俗っぽさやコミカルさと対照的に際立ち、比較的シンプルで抽象的な舞台装置での俳優の様式的な動きは、物語の時代性を減じて普遍性を増さしめる。要は、この作品の語り方の複雑さ、表現方法の多様さ、と同時にシンプルに身体に頼るという手法が、江戸末期に舞台設定された物語を、違う次元に押し上げたと思う。 

 それは、ごく平凡な人間を偉大に変える情熱についての物語である。美しい春琴に仕えて一種マゾヒスティックな快楽を得ていた佐助は、遂にはその美に全てを捧げるような情熱を得るに至る。名もなき奉公人であった佐助は、世俗的には三味線の師匠としてなんということもなく世を去るのであるが、一方では人として、宗教的ともよべるような崇高な情熱を、生涯持ち得た人物となった。そしてそのことが、彼の崇拝の対象であった春琴とともに、彼らを江戸末期の一町民ではなく、偉大さを備えた人物にした。見ている者は、単に佐助の献身的な愛にだけではなく、この偉大さそのものにも心を打たれるのだと思う。 

 私ははるか以前に日本で、コンプリシテの「The Street of Crocodiles」を見たのだが、その時はそのヒステリックな雰囲気(それは作り手の意図したところと思われるが)に、頭がキーンとして、正直ぐったりした覚えがある。体調があまりよくなかったのだろう。昔のことなので、それ以外のことは忘れてしまった。今回は、その時よりもくつろいだ気持ちで見ていたと思う。カーテン・コール後も、感動して泣いている白人のお姉さんとかいたなー:)2013911日)