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Sunday, 2 May 2021

『映画』Last and First Men(最後にして最初の人類)

2020126

Last and First Men(最後にして最初の人類)」・・・間違っていても気づかない

公開年: 2020

製作国: アイスランド

監督: Johann Johannsson(ヨハン・ヨハンソン)

原作: Olaf Stapledon(オラフ・ステープルドン)

ナレーション: Tilda Swinton(ティルダ・スウィントン)

見た場所: The Projector

 

 「Last and First Men(最後にして最初の人類)」は、オラフ・ステープルドンによる1930年の同名のSF小説を原作とした作品で、音楽家ヨハン・ヨハンソン初の監督作にして遺作となった。元は、ティルダ・スウィントンのナレーションが入った16ミリフィルムのモノクロ映像———主に旧ユーゴスラビアが建てた第二次世界大戦等にまつわる記念碑群———とともに、ヨハンソン作曲のスコアをオーケストラがライブ演奏するという作品で、ヨハンソンの死後、映画版として完成されたものである。原作小説から起こしたナレーションは、ヨハンソン自身とJose Enrique Macianによって作成された。

 

 

 COVID-19のパンデミックで、2020年は開催されなかったSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)だが、シンガポールのCircuit Breaker(セミ・ロックダウン)が段階的に緩められるのにともない、(当初の規模に比べれば)ごく一部ではあるが開催され、「Singular Screens」という映画上映プログラムも、観客数を限って行われたのだった。「最後にして最初の人類」はそのプログラムの一本で、私は103日に、会場のAsian Film ArchiveにあるOldham Theatreに見に行ったのだった。

 

 それはそれで済んでいたのだが、それから一ヶ月半ほどした後、チケット販売会社からメールが来た。いわく、今回の上映に使われたプリントには誤りがあった、と。特に顕著な誤りとして、同じナレーションを繰り返してしまっている。この問題はテスト上映の時にすでに認識されていたものの、そのまま上映してしまった。しかし、確認したところ、この映画のデジタル・プリントを作成した現像所が失敗コピーを渡したということがわかった。SIFAと配給会社(シンガポールのAnticipate Pictures)は、この見過ごしに対して深くお詫び申し上げる。そして、(いわゆるミニシアターである)The Projectorでの上映に無料でご招待するので、申し込んでほしい。もしこちらで指定した上映日に都合がつかないようであれば、配給会社がプライベート・スクリーニングのリンクをお送りする。また、今回のチケット代金を全額返金するので、チケット販売会社が後ほどその詳細をご連絡する。今後はこのようなことが起こらないよう、ベストを尽くしていく所存である、とのことだった。

 

 えっ......そうだったん?実は、Oldhamでこの作品を見た時、睡魔と戦うのが非常に大変だった。奇妙な建造物が映っているモノクロ映像に、(英語なので尚のこと)よくわからん奇天烈な未来の人類の世界が語られ、そこに「ワァ〜ワァ〜、ワァ〜ワァ〜」という壮麗な音楽。見ていてストーリーに引き込まれるとかスリルを感じてわくわくするとか、そういう映画では全くない。しかも、ティルダ・スウィントンのナレーションは、最後の人類がどのような形状か等について述べる辺りまで来ると、そこでまた最初に戻ってしまう。結局、都合三回、同じ話を聞いた。そして、そういうものだと思っていた。ティルダ・スウィントンのナレーションは未来の人類が現在の我々に語りかけているという体なので、針が飛んだレコードのように同じことを繰り返しているのを、「未来からの交信が上手くいかない」ということを意味しているのかと思ったのだ。それで実際に同じ話を繰り返すという、実験映画的な試みなのだと。そうじゃなくて、単なる間違いだったのね......

 

 というわけで、最初に見た時眠かったけど、せっかくなのでもう一回見に行ったのだった。前回は丸腰で見に行ったので、SF小説の映像化という作品紹介からは予想外の退屈さ(!)に参ってしまったのだが、今度はもうどんなものかが事前にわかっているので、大丈夫。眠くなるであろうことに心構えができていたので、かえってそれほど眠くはならなかった。前回のように同じ話を繰り返すわけではなく、ティルダ・スウィントンの語りは進んでいき、結末もちゃんとあった。

 

 

 さて、映像の中核をなす記念碑群は、コンクリート作りと思われ、様々な角度と様々な遠近で撮影されている。山々のような自然を背景に、奇妙でありながら無機質で静謐な雰囲気を醸し出しており、その映像は美しい。このモニュメントの映像はモノクロだが、暗黒空間に緑色のライトが点滅する映像も時おり挿入される。そうした映像と、神秘的なヨハンソンの音楽が、ティルダ・スウィントンが語る独特な未来世界に対するイメージを喚起している。ティルダは第18期の人類(最後の人類)として、現在の我々(第1期の人類)に語りかける。18期人類は我々の助けを求めており、海王星に住む彼らの形状(もはや我々とは似ても似つかぬ種になっている)、生態、社会等を説明する。この18期の人類の世界は、今から20億年後くらい......「法華経」の百千万億那由他みたいで、あまりにスケールが大きすぎて、なんかクラクラしてくる。

 

 

 原作を知っていればそうは思わないだろうが、そうでないと、「いったいこれは......」という驚きを抱かせられる。ナレーションだけで成り立っている作品という形式に対してではなく、その語っている内容に、想像力の飛翔に。しかしその一方で、様子や状況が淡々と語られているだけの作品でもある。映像は美しく、音楽は多様ではあるものの、筋運びに起伏があるわけではない。かしこまって見ていても(原作やヨハンソンの音楽に特別な興味があれば別だが)、眠くなってしまうのは仕方がないような気がする(自己を正当化するが)。いわゆる「映像詩」と呼べなくもないが、元々がオーケストラのライブ演奏とともに成り立っていた作品であることを考えると、この「Last and First Men」は、イベント的な映画であると思う。つまり、ビール片手に友達と一緒に、大音量で大スクリーンで見て、その音楽と映像に酔いしれる。そんなようなことが楽しい映画なのではないかと。そう考えると、映画館で見たものの、一人でひっそりと見た私の鑑賞方法は、ヨハンソンに対していささか地味であったかと。2021319日)

Monday, 28 October 2019

『パフォーマンス』0600 --- シンガポール・インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ


2018510
0600」———Singapore International Festival of ArtsSIFA
国: シンガポール
演出: Zelda Tatiana Ng(ゼルダ・タティアナ・ン)
カンパニー: GroundZ-0(原。空間)
見た場所: National Gallery Singapore

 2018年のSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)で、私が見た最後のプログラムだった。GroundZ-0は俳優で演出家のZelda Tatiana Ng(ゼルダ・タティアナ・ン)が立ち上げたカンパニー。文化やジャンルの枠を越え、多様な専門的分野に関わる作品を作り出すことを目標としているらしい。と書くと、どういうことなのかあまりよくわからないが、この作品に限って言えば、寸劇と観客体験型の展示で、シンガポールの死刑制度について皆に考えてもらう、という趣向である。


 会場はNational Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)内だった。ナショナル・ギャラリーは元々、City Hall(行政庁舎)とSupreme Court(最高裁判所)であった建物をギャラリーとして復活させたもので、ここの最高裁判所は、2005年まで実際に使用されていた。現在も法廷の一つやHolding Cells(公判中の被告を拘置する待機房)などが残されており、作品はそれらの場所を利用して「上演」された。観客体験型のため、参加者は各回20人くらいに限定されており、145分くらいの長さだった。

ナショナル・ギャラリーの模型。左の建物が旧最高裁判所。

 集合場所は、ナショナル・ギャラリーのSupreme Court Wing(最高裁判所翼)にある、Holding Cells(待機房)前。受付で手荷物を預けて待っていると、開始時間に看守っぽい案内人が現れる。そして看守っぽくいろいろな注意事項を告げる。携帯電話の電源は切れとか、速やかに行動しろとか、オープンマインドでアクティビティに参加しろとか。本物の看守を見たことはないが、とりあえずなんとなく怒られている感じでいろいろ言われる。

 そして最初は、スクリーンに投影されたプレゼンテーション資料を参加者全員で見る。いわく、10年間で173人(だったかな)。人口に比して世界で最も死刑率の高い国が、このシンガポールである。国民の80%が死刑制度を支持しているが、その是非は自分自身で判断しろ。この作品は全て調査に基づいて作られているのだ、という。最初看守に怒られて恐かったのに、さらにこのプレゼンの有様が恐い。それから各人に手紙が渡されるので、それを読む。それは、死刑執行の予定を死刑囚の家族に告げる内容の手紙で、なんだかますます恐くなってくる。

Prison Serviceからの手紙。
家族は死刑執行に立ち会えないが、最後の数日間に面会や
執行前の写真撮影用の衣服を送ることはできる、と書いている。
また、葬儀の手配をするようにとも。できない場合は、政府で火葬に付する。


 手紙の後、参加者はそれぞれ小さいロウソク型のライトを手にとり、看守みたいな案内人に連れられて、薄暗い待機房の並ぶ廊下を歩く。一つ目の待機房の中に、若い女性がいる。麻薬密輸の罪で死刑を宣告された18歳の女の子だ。彼女が絶望の中に語る所によれば、バンコク旅行中にある女性と知り合いになり、彼女に「プレゼント」されたスーツケースを持って入国したら、その中味が麻薬であったと。中国語で語られるが、事前に英語訳の紙を配ってくれたので、理解できた。その隣の待機房には三台のビデオモニターが設置されており、複数の人物の映像が切り替わりながら表示されている。そのうちのメインとなるのが、マレー系の女性の話。彼女は言う。息子を殺され、加害者は死刑となった。しかし、10年ほどの月日が流れた今、後悔している。なぜ自分は相手に寛恕の気持ちを持てなかったのか、なぜ謝罪する機会を与えなかったのかと。

かつての待機房


 この後、狭い階段を一列になって上がって行くのだが、その途中で、録音された検察官の談話が流れて来る。いわく、つまるところ死刑制度は必要なものである。なぜなら麻薬は多くの人々に害をなすからだ。また、死刑判決に至るまでには、多くの人が関わって様々なチェックがなされているのだ、云々。

 階段を上がると狭い廊下に出る。参加者は三人一組に分かれ、それぞれ番号の入ったシールを胸に貼られて「死刑囚」になる。そして死ぬ前にしたいこと、また最期の食事のリクエストを紙に書いて、設置されたボードに貼る。「死刑囚」の参加者達は、廊下を進みながら一人一人順番に体重を測り、写真を撮られる。そのように死刑執行を疑似体験しつつ、壁に展示されている様々な資料を見てゆく。それは実際の死刑執行の手順についてで、死刑囚は死刑執行人による説明を受けるとか、死刑囚の家族は別室で待ち、カウンセラーも待機しているとか、詳しい説明がなされている。また、死刑執行数の年次推移や、体重と死に至るまでの時間を対比した表などの資料も展示されている。ちなみに前年(2017年)の死刑執行数は3件で、全て麻薬がらみの犯罪だった。また、死に体重が関係することでわかるように、シンガポールの死刑は、日本と同じ絞首刑である。薄暗い廊下で「死刑囚」になって写真を撮られたり、死刑にまつわる資料を見たりしていると、気が滅入って恐くなるのと知的好奇心がかき立てられるのとがないまぜになる。それにしても、いろいろな資料を見た中で、死刑囚の家族に対する配慮のあることが印象的だった。ちなみに、死刑執行の日、死刑囚は午前3時に起こされる。シンガポールでは死刑の執行は金曜日の午前6時と決まっており、この作品のタイトル「0600」はそこから取られている。

 一通りの「手続き」を済ませ、いよいよ私達「死刑囚」は死刑執行室に連れていかれるのか・・・と思ってしまったのだが、あにはからんや。さらに階段を上がって行くと、広々とした絵画の展示室に出る(忘れていたが、会場はナショナル・ギャラリーだった)。現在は展示室として使用しているこの部屋は、かつて死刑宣告を行った最高裁判所の法廷であった。法廷の名残を今も留めるこの場所に、一人のインド系の青年がいて、参加者達を待っている。そしておもむろに語り始める。彼の兄は麻薬の過剰摂取で亡くなった。兄と麻薬を運んでいたという、兄の友人は死刑になった。兄は利用されただけだと、自分は信じている。だから、少なくとも彼が死刑になったことで、自分達家族はいくらか平穏を取り戻せた、と。この青年は、兄が友人に渡された麻薬で死んだと見れば被害者の家族であり、兄は麻薬の運び屋だったが、亡くなったために仲間だけが罰せられたと見れば加害者の家族である。その微妙さが興味深かった。

現在はギャラリーとして使用されているかつての法廷

この上げ蓋の下が階段になっており、かつての被告人がそうしたように私達はそこから上がって来た。

 さて、ここで「0600」は終了する。案内人はまだ案内人役を演じているのだが、「リラックスして」などと言って、急に優しくなる。いや、これまであんなに恐かったのに、今さら優しくされても。最後に、さらなる情報が得られるようにGroundZ-0FaceBook等が案内され、また、配られたアンケート用紙に回答をした。

 旧最高裁判所という場所が上手く使われた作品。「死刑囚」になって、死刑執行前の写真撮影をされたりするので、恐い。死刑について、事件の被害者、加害者、さらには検察といった様々な視点からの意見が取り上げられており、参加者に死刑制度の是非を考えることを促している。・・・のだが、こうして執行までの様々なプロセスを少しでも体験すると、考えるよりもまず、人の命を奪うことの重みと死の恐怖を感じる。おもしろいという言い方をするとあれなのだが、観客参加型の作品として、おもしろい体験ができた。それは、人が今まで観念的にしか考えたことのない問題を、もう少し実際的な側面を持ちつつ考える契機となるべきものだったと思う。作り手側の試みが成功した作品だった。

 それにしても、私はなぜ最期の食事のリクエストで、「クリームシチューとロールパン」と書いてしまったのか。クリームシチューが大好きというわけでもないのに。最期の食事にしては、お安いメニューである。たぶん、寒い冬の夜に温かい家でシチューというイメージがあって、それが人生と家庭の安らぎを連想させるからだろう。シンガポールに冬はないのだけど。2019831日)

今回私達が辿った待機房から裏の廊下を通って法廷へというルートは、通常公開されていない
(待機房は見学できる)が、定期的にナショナル・ギャラリーがガイド・ツアーを行っている。

旧最高裁判所と旧市庁舎の建物をつないでいるロビー。
正面の窓の向こうにマリーナ・ベイ・サンズが見えている。

Sunday, 29 September 2019

『演劇』Taha(タハ)--- シンガポール・インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ


201854
Taha(タハ)」———Singapore International Festival of ArtsSIFA
国: パレスチナ
演出: Amir Nizar Zuabi
作: Amer Hlehel(アメル・レヘル)
出演: Amer Hlehel(アメル・レヘル)
見た場所: KC Arts Centre

 Singapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)のプログラムの一つ。イスラエルのハイファを拠点とするパレスチナ人俳優、Amer Hlehel(アメル・レヘル)作、出演による一人芝居である。1931年にパレスチナのガリラヤ地方(現在はイスラエル領)に生まれ、2011年にイスラエルのナザレで亡くなったパレスチナの詩人、Taha Muhammad Ali(タハ・ムハンマド・アリ)の生涯を描く。


 舞台にはベンチが一つと書類カバン。装置と小道具はそれだけ。アメル・レヘル演じるタハが登場すると、次のように観客に語りかける。
 「容易なことは何一つない。」


 そして物語は、彼の生まれた頃の時代に遡る。赤ん坊の誕生を、彼の両親や親族は祝った。しかし、その子は間もなく死んでしまった。その後、また彼の母親は出産した。また彼の両親や親族は祝った。しかし、やはりその子も間もなく死んでしまった。タハが生まれた時、誰も祝わなかった。またこの子も死んでしまうに違いないと、あきらめたからである。しかし、この成長することを期待されないで生まれた子は、生き延びた。・・・と、書くとなんだか重々しいが、実際に演じられるのを見ると、このリピートされるエピソードが可笑しい。生と死の間にある皮肉とユーモア。

 貧しい家に生まれたタハは、子供の頃から商いでお金をかせいで家計を助けた。その一方で、詩が毎日の生活の喜びであった。しかし、第二次大戦後の1948年、第一次中東戦争が勃発。難民となり、家族とともにレバノンに逃れた。タハが17歳の時である。そして一年後、父の独断で家族は故郷に戻った。しかし、故郷の村、ガリラヤ地方のセフォリス(またはアラビア語でSaffuriya)は、すでにイスラエル領になっていた。もはや戻ることはできなかったため、結局ナザレで土産物店を営むこととなった・・・。彼と同じく難民となり、そのままレバノンに留まって結婚してしまった初恋の相手(彼の従姉妹だった)。折り合いの悪かった父の死。様々な困難の中、結局詩を書くということが、タハが生きるために必要なことであった。ラストでは、イギリスで開催されたアラブ詩人の集まりに招かれて、自作の詩を朗読した時のことが語られる。カバンを引きずったタハは、持って来たはずの詩の原稿が見つからず、パニックになる。そんな滑稽な状況で彼が読む詩は、「Revenge(復讐)」。余計可笑しい。この詩の大まかな内容は、父を殺し、家を破壊し、自分を迫害した人間に復讐をしたい。しかし、もしも彼に彼を失ったら悲しむ人がいるのなら、彼を殺さないだろう。もしも彼が人々から切り離された、孤立した人間だったら、彼に注意を払わず無視することが、自分の復讐だ。というものである。作品は、朗読後の聴衆の反応を語り、そこで終わる。ちなみに劇中、タハの詩がアラビア語のままいくつか織り込まれているが、この「Revenge」は英語で語られている。

 パレスチナの歴史をにじませつつ、苦労の多いタハの一生を語って、アメル・レヘルが熱演。タハは生きることに苦闘する中で、詩作に生を見いだした。戦争のために人並みはずれた苦労を背負い、失われた土地を嘆く一方、バイタリティを持って生きるタハの姿は、見る者に勇気を与える。この作品は宗教的でも政治的でもなく、一人の人間の人生の闘いを描いている。だからこそ戦争の不条理さが感じられるが、しかし、タハの苦闘は涙を誘うものではない。そこが良かった。「容易なことは何一つない」人生を語っているにも関わらず、どこかユーモラスで、不思議と明るい作品だった。

プログラムより。タハを演じたアメル・レヘル

 会場だったKC Arts Centreは、Singapore Repertory TheatreSRT、シンガポール・レパートリー・シアター)の本拠地。席の列と列との間隔は狭いのだが、座席から舞台の近い、良い劇場だった。芝居の内容が内容なので、一般的なマレー系のお客さんも結構いたけど、SRTの客層というのはSingapore Tatler族だなーと思ったのだった。(「Singapore Tatler」はイギリスの雑誌「Tatler(タトラー)」のシンガポール版。アッパーミドル以上の人々のための、ライフスタイルマガジン。)私の偏見なんだけども。2019727日)

KC Arts Centre

Sunday, 15 September 2019

『演劇』1984(1984年)--- シンガポール・インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ


2018428
1984(1984年)」———Singapore International Festival of ArtsSIFA
国:  イギリス、オーストラリア
原作: George Orwell(ジョージ・オーウェル)
演出: Robert Icke(ロバート・アイク), Duncan MacMillan(ダンカン・マクミラン)
出演: Tom Conroy, Terence Crawford, Rose Riley
見た場所: Esplanade Theatre(エスプラネード・シアター)

 2018年のSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)、メイン・プログラムの一本である。この2018年から、Theatre Works(シアター・ワークス)のOng Keng Sen(オン・ケンセン)に代わり、The Singapore Repertory Theatre(シンガポール・レパートリー・シアター)のGaurav Kripalani(ガウラ・クリパラ—二)がフェスティバル・ディレクターに就任した。新しいディレクターの元、まず日程が89月から45月に変わった。これは、毎年4月後半から5月にかけて開催されているChinese Film Festival(チャイニーズ・フィルム・フェスティバル)と完全にスケジュールがかぶっているので、正直迷惑だった。いや、映画を見に行く人は、普通演劇は見に行かないのかもしれない。しかし、SIFAには映画上映のプログラムもあるのだけど。それはともかく、プログラム自体は、オン・ケンセン時代の、演劇やダンス、コンサートといったジャンルの枠を越え、表現形式そのものから前衛を志向していたような作品群に比べ、よりオーソドックスなものだった。しかし、比較的オーソドックスな表現形式を持ちながらも、社会的でかつ重いテーマを取り扱った作品が多かった、という印象。メイン会場であるエスプラネード・シアターでのオープニングがこの「1984」なら、クロージングはドイツのSchaubuhne Berlin(ベルリン・シャウビューネ)による、ヘンリック・イプセンの「民衆の敵」。どれだけ観客を嫌な気持ちにさせれば気が済むんだよ、と思った。(もう「民衆の敵」は見に行かなかった。)


 この「1984」は、ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説「Nineteen Eighty-Four1984年)」の舞台翻案作品である。ちょっとややこしいのだが、今回上演された作品は、元々ロバート・アイクとダンカン・マクミランが台本、演出にあたったイギリスのHeadlong(ヘッドロング)、Nottingham Playhouse(ノッティンガム・プレイハウス)、Almeida Theatre(アルメイダ・シアター)のプロダクションだった。それをオーストラリアのState Theatre Company of South Australia(ステイツ・シアター・カンパニー・オブ・サウス・オーストラリア)がオーストラリア・キャストで上演したバージョンである。と思う。

 鑑賞に先立って、原作の日本語訳を読み始めたのだが、当日までに読み終わらなかった。そのため、主人公ウィンストン・スミスの運命を知らないで見に行ったのだが、まぁー予想通り嫌な話だった。

SIFAのプログラムから(上の写真も同様)

 作品は、現代の市民達が読書会(?)でウィストン・スミスの日記を読んで議論しているというシーンから始まる。この現代の枠の中に、原作通り、「ビック・ブラザー」率いる党による1984年の全体主義的社会と、党の真理省に勤務する一党員ウィストン・スミスの生活が描かれている。昔ながらの羽目板張りの部屋、コミュニティ・センターの図書室のような所で話し合っている男女が、1984年の世界の登場人物をそれぞれ演じている。現代から1984年に移っても、セットは同じで登場人物達の服装も基本的には同じ。部屋のセットの上半分にはスクリーンがあり、最初はそこにウィストンの日記が投影されている。1984年の物語の後、また現代に戻って作品は幕となる。この現代の枠組みは、原作にある附録「ニュースピークの諸原理」が過去形で描かれていることから想を得たものかもしれない(ニュースピークは、党が考案した新英語で、これまでの英語に変わるもの。党の奉ずるイングソック(イギリス社会主義)以外による思考様式を不可能にするよう、単純化された英語)。それはともかく、1949年にジョージ・オーウェルの描いた未来世界を現代の我々と結びつけて見てほしいという、作り手側の思いであろう。しかし、私個人的には、この現代シーンは若干蛇足だったのではないかと思っている。

 さて、装置や衣装が変わらないということは、どちらかと言えば居心地よく見える部屋や、シャツにズボン、スカートといった普通の服装で1984年のシーンが演じられるということである。それは、一見快適に見えても、水面下で全体主義のような事態が進行しているかもしれないという現代に呼応させているのかもしれない。しかしその一方で、ウィンストンがなぜ党の支配に疑問を持つに至ったかを、あまりよく説明することができなくなってしまった気がする。原作を引き合いに出すべきではないのかもしれないが、原作でウィンストンは次のように考えている。
 「暮らしの物質面に思いをめぐらせると腹を立てずにはいられない。昔からずっとこんなふうだっただろうか?食べ物はずっとこんな味だっただろうか?」(高橋和久訳「一九八四年」より)
 この、生活感覚から来る体制への疑問、だからこそ決してぬぐい去ることのできない疑問を、端的に視覚的に見せてほしかったと思う。

 また、ウィンストンが恋人のジュリアと、骨董品店の二階で逢い引きをするシーンで、ジュリアは派手に化粧をして赤いドレスを着てみせる。原作では、男も女も党員はオーバーオールを着ており、女性党員は決して化粧をしないとされているが、この舞台でのジュリアの衣装は、それまでブラウスとスカートだった(そして舞台なのでもちろん化粧もしている)。実際に赤いドレスを着るというのは、舞台の工夫なのだが、それでも、以前の衣装が特殊なものでもみじめなものでもないため、残念ながらそれほどのインパクトはなかった。現代と1984年とで同じセット、衣装を共有することによって、与えられる効果があった一方、失われたものもあったと思った。

 もう一つ、与えられたものと失われたものを感じたのが、ウィンストンが勤める真理省の食堂でのシーンである。食堂ではいつも同じニュースが流され、同僚達の間では同じ会話が繰り返されている。しかし、ある日忽然と同僚の一人の姿が消える。しかし、流れて来る同じニュース対し、同僚達はやはり同じリアクションを繰り返している。消えた同僚に気づかないかのように、というよりもむしろ、最初からそのような同僚は存在しなかったかのように。否定するどころか、存在そのものをなかったことにする粛清の恐ろしさが表現されているのだが、原作で私が一番恐ろしいと思ったのはそこではない。

 また原作の話で恐縮だが、党は何もかもが右肩上がりによくなっていると常に宣伝している。しかし、その一方で生活のみじめさは全く変わらない。ウィンストンは何かが間違っていると思うのだが、そこに確証はない。もしかしたら党の支配以前よりもましなのかもしれない。わからない。なぜなら、比べることのできるものが何もないからだ。歴史どころか昨日のニュースも間断なく書き換えられていく。個人が記憶していたことを、それが実際にあったことだと肯定する公的な記録は何もない。私的なものももちろん存在しない。自分以外に支持するもののない記憶は、当人の中でもやがて曖昧になっていく。そもそもタイトルになっている「1984」さえ、今が本当に1984年なのかどうか、ウィンストンには確かなことはわからないのだ。

 いつもの生活のなかで、人一人消えて気づかれない「ことになっている」恐怖、変化のない日常の水面下の恐怖が上手く描かれてはいる。しかし一方、歴史や情報が間断なく変更され、依るべきものが(今の体制以外に)何もないという恐怖は強調されない。後者の恐怖こそ、原作で私が一番恐ろしいと感じたことである。そしてウィンストンが、自分自身情報の書き換えを仕事としていながらも、党による支配前の(本当の)過去を知りたいと切に願った、また個人の記録として日記をつけるという許されない行為を始めた動機も、そこにあったのではないだろうか。

 この舞台作品の一番の見所であり、視覚的な表現が上手くいっているのは、ウィンストンとジュリアが骨董品店の二階の部屋で逮捕されるシーンである。ウィンストン達の密会部屋は、通常のセット(羽目板張りの部屋)の裏にあり、二人が会っている様子はスクリーンで映し出されるようになっている。観客は部屋にいる彼ら二人を直接見ることはない。しかし、ある時突然、二人以外の声が聞こえ、表のセットが二つに割れると、裏にある彼らの部屋———舞台裏に作られたセットにすぎない———が剥き出しにされる。そして部屋にいる二人の前に、現れる思考警察。結局、二人の密会は最初から監視されていたのである。観客がスクリーンで覗き見ていたように。

 このダイナミックな屋台崩しによって示される演劇的虚構は、ウィンストン達が党の介在しないところだと信じていた場所すら、党のお膳立てであったことを強調する。この痛烈な挫折の後、ウィンストンが政治犯として送り込まれるのは、むしろ「闇の存在しない」真っ白い空間であるという皮肉。そして、ウィンストンの運命は悲劇的な結末を迎える。

 ここで話は現代に戻る。ウィンストンの日記を検証し終わった人々は、次のように言う。「こんなことがあったはずがない。そもそも私達はニュースピークで話していないし。これはフェイクニュースだ」と。確かに、「1984」はフィクションなのだけど・・・ということではなく。要は、「1984」の世界を作り話だと思ってたかをくくっていると、今そこにある危機を見過ごしてしまいますよ、この作品を警鐘と思ってくださいよ、ということなのだと思う。しかし、観客というのは、そこまで親切にフェイクニュースという流行言葉まで用いて敷衍しないと、作品と現実とを結びつけることができないものだろうか。良識ある一般市民が全体主義社会の党員にもなりうる、「1984」の世界は他人事ではないという点で、この現代の枠組みはそれなりに効果のあるものだったかもしれない。しかし、この締めのセリフはやり過ぎのように感じた。

 そういうわけで、見に行った当初は、印象的ではあったが、同時に不満も残る作品だった。枠組みの是非はともかくとして、原作は結構な長編なので、そこから何を取って何を取らないかの問題もあると思う。それが、私が原作を読んで強調してほしいと思っている点とはちょっと違っていた。しかし、この芝居を見に行った後でようやく原作を読了し、それから改めて考え直して見ると、良くまとまった劇化ではあったと感心した。そうかと言って、内容が内容なので、何度も見たいとは思わないが・・・。2019714日)

劇場の入口

ボケた写真だが、カーテンコールの様子

Victoria Theatre前で行われたSIFAのイベントの様子

Wednesday, 11 April 2018

[Theatre] Trojan Women


9 September 2017
“Trojan Women”---Singapore International Festival of Arts (SIFA)
Country: Singapore, South Korea
Produced by: National Changgeuk Company of Korea, National Theater of Korea and SIFA
Directed by: Ong Keng Sen
Written for Changgeuk by: Bae Sam Sik
Pansori Composed by: Ahn Sook Sun
Composed by: Wen Hui
Cast: Kim Kum-mi, Yi So-yeon, Kim Ji-sook
Location I watched: Victoria Theatre


For SIFA Founding Festival Director, Ong Keng Sen, 2017 was his final year. “Trojan Women”, his new work based on Euripides’ play, was co-produced with the National Changgeuk Company of Korea belonging to the National Theater of Korea. This company performs changgeuk, traditional Korean opera in the Korean folk song style called pansori.

Trojan Women” is a simple story. It is set in the Kingdom of Troy just after 10 years’ Trojan War ended with Greece’s victory. Trojan women from the royal family were captured and now, they are waiting to be taken to Greece as slaves. The women realize their fate and grieve deeply.

Trojan Women” opens with Soul of Souls singing the prologue with an orchestra. After that, the queen of Troy, Hecuba, and the other Trojan women sing their lines like they are shouting almost for the next 2 hours. The performers have put on microphones, but I did not think that they needed it. Their voice was very loud. As already mentioned, the story is just that horrible fate is awaiting them. There is no solution or surprise at the end. The women erupt with their anger, grudge and grief.

The white stage set is simple. In the centre of the stage, there is a square arcade shaped like an entrance of a tent for captives. The roof of the arcade is connected to a platform with two staircases on either side of the stage. The back of the stage is cut into a semicircle shape. Various images---fire, stars and clouds---are sometimes projected in that arcade and the semicircle part. Trojan women wear white while Helen and the Greek solders wear gray. “Trojan Women” focuses on each woman one by one---Hecuba’s lament, Cassandra, her daughter’s grudge and madness, Andromache, the wife of Hecuba’s son’s grief and sorrow, and then the queen of Sparta who was the main cause of the Trojan War, Helen... In one scene, Andromache’s baby son was taken by the Greeks. When he was returned to his mother, the cloth that wrapped him turned from blue to red. Even this tragic incident is not the climax of this story. The play climaxes when Hecuba’s fury and grief explode. She says that even if they die, their brave figures will be talked about long into the future. She climbs up to the roof of the arcade and stands firm. Then she declares that she will never leave Troy. Finally Soul of Souls appears again and sings for the end of the play.

Before the show starts

For me, Ong Keng Sen’s work from last year, “Sandaime Richard” was not a successful one. “Sandaime Richard” is based on a Japanese theatre director/play writer, Noda Hideki’s play. “Sandaime Richard” was written for Noda’s former company, “Yume no Yumin-sha” in 1990. In this play, Shakespeare meets Shylock and the world of “Richard ” is replaced by a family feud in a school for Japanese flower arrangement. While the narrative is deconstructed using vast wordplay, actors “play” using up their bodies. Chaos on the stage suddenly drives the audience to a moving catastrophe. That is the unique feature of Noda’s play, I think. Ong Keng Sen’s concepts were ambitious --- mixing Southeast Asian culture with Japanese culture, making the characters’ gender vague and showing traditional arts with contemporary style. However, perhaps one of the most important things to make that play fascinating was where Ong Keng Sen as a theatre director is not his strongest. There is not enough “play” on Ong’s stage. This “play” does not mean performing arts and literary means “playing”. Maybe it is better to describe as being a “fool”. Ong’s “Sandaime Richard” was beautifully unified and the intellectual theme was clear. However, its beauty or intellect did not have enough enthusiasm to move the audience. Performing arts are done by the human body, and the audience directly experiences that. The human body is not always beautiful. Enthusiasm given by the human body is not so logical. On stage, vulgar passion or nonsensical energy is often important to give enjoyment to the audience, I think.

On the contrary, this year’s “Trojan Women” is Ong’s more successful work. Trojan women’s grudge or grief becomes passionate and powerful by Korean pansori. This simple concept worked well. The rough and strong impression of the performance prevented the stage from falling into unexciting beauty.

However, one scene was unacceptable for me. That was Helen’s scene. After the Trojan women brought out their grief, Helen appears on stage. Suddenly a grand piano with an accompanist appears as well. She starts singing along with the piano accompaniment. She is the root cause of the Trojan War. Nevertheless, Helen is singing for forgiveness to Menelaus, her former husband. Menelaus is moved by her song, entreaty and eventually forgives her. She never meets the tragic fate of the Trojan women. That unfair and injustice makes Hecuba furious. Helen is wearing grey, the colour used by the Greeks. More importantly, a male actor is playing this role. The male actor is disguised as “the most beautiful woman all over the world” and sings with the piano accompaniment. He is not just wearing a grey costume, but his song also does not sound like pansori, used by the Trojan women. This completely different and sudden scene should have created modulation on the stage because the Trojan women’s passionate grief by pansori constantly keeps high tension and it makes the audience tired. However, I do not think that this modulation worked well. It should have become a partly comical scene, but it is likely to have caused a snigger. Maybe the reason is that until reaching this moment, the serious scenes were too long and there was no space for a playful tone. This sudden comical or sarcastic scene feels like a not funny joke and it is lacking in balance. Besides I do not like the idea that the only one woman who never share the sorrows with the Trojan women is played by a male actor. Grey and white, Greece and Troy, men and women and a “traitor” among the women acted by a man...the contrast is beautiful as formation. However it is unexciting on stage because we see the concept too clearly.

The general impression of this “Trojan Women” is that everyone is constantly shouting for grief or grudge. It is like listening to sirens that never stops. This makes the audience a little bit exhausted. However, this unrefined passion and tension eventually makes that climax powerful. When Hecuba climbs up to the roof and declares that she will not leave Troy there, she raises the audience’s spirit, as well. In the tragedy of war, the Trojan women cannot do anything. They are violated and there is only despair and ruin in front of them. However, even though they know there will be no happiness in their future, they strongly show how they are surviving through this terror. Among the sorrow of women, war casualties, on the contrary, women’ vitality wells up.

However, the most moving moment is when the characters just speak in ordinary and calm tomes---no shouting and no singing. There are only a few scenes in this play, so they feel more impressive. For example, Cassandra --- she has the power to predict the future --- told Hecuba, “Mother, your suffering will end soon because you can live only for a few days.” Or, one of the Greek soldiers offered the Trojan women for Andromache’s killed baby, the heir to Troy, “I will help to bury him.” On the one hand, the intense passion from anger and sorrow show the audience the last glow of the Trojan women’s life. On the other hand, the words in natural and ordinary tones touches us with humanity to sympathize with others. And “The 10 years’ war ended, and the next 10 years’ war will begin.” When Hecuba quietly says, that sounds as if she talks about our era, our anxiety and tension in the contemporary world. There is no requiem. There is just a shout and fury. (3 January 2018)

Curtain call by the cast

Victoria Theatre

Sunday, 8 April 2018

『ダンス』And So You See (アンド・ソー・ユー・シー) ...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun... Can Only Be Consumed Slice By Slice...


201797
And So You See(アンド・ソー・ユー・シー)...Our Honourable Blue Sky And Ever Enduring Sun...Can Only Be Consumed Slice By Slice...」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: South Africa
製作: City Theater & Dance Group
: Robyn Orlin
パフォーマンス: Albert Silindokuhle Ibokwe Khoza
見た場所: SOTA Studio Theatre


 タイトルが長いが、短く言うと「And You See...」は、南アフリカのコリオグラファー/アーティストであるRobyn Orlinが、ダンサーAlbert Ibokwe Khozaとともに作った作品である。単純なダンス作品ではなく、パフォーマンスアート的である。

 舞台背後には大きなスクリーン、手前には観客に背を向けた安楽椅子。椅子には、カーテンのような布で包まれたものが置いてある。スクリーンにはそのカーテンが拡大して映されているが、その「もの」は呼吸をしているように見える。モーツアルトのレクイエム(らしい)が流れ始めると、舞台背後のベンチにいた男性が、椅子の上の「もの」のカーテンを取って行く。スクリーンの映像は以前より全体がわかるように映し出されており、椅子の向こうで布を取り払われたものが何なのか、私達観客にもよくわかる。それは、透明のプラスチック・ラップで包まれた肉塊であった。男性がナイフでラップを切ると、その肉の塊は動き出す。今やそれは、とても太った人間となり、身体に半分ラップを付けたまま、軽快に歩き回り、歌い踊る。男か女かは、よくわからない。

上演前。カーテンみたいな布に包まれた何か。

 ここから、この男か女かよくわからない(実は男性)太ったダンサー、Albert Ibokwe Kohzaのオンステージとなる。ビデオ・カメラが、椅子を正面から捉える位置と天井に設置されており、先ほどのプラスチック・ラップを切った男性が、ベンチのところで適宜切り替え操作を行っている。観客は、たとえAlbert Ibokwe Kohzaが椅子に座って背を向けていても、スクリーンに映し出されるカメラからの映像によって、彼の顔を正面から見ることができる。

 山羊か羊(と思うけど)と交わる動きをし、ナイフで切ったオレンジをむさぼり食べ、ここで今まで体についていたプラスチック・ラップを全て取ってパンツ一枚になる。そして客席から女性観客を二人選び出して、自分の体を拭かせる。「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら、「シュシュシュシュ」と言いながら踊る。自分の大きな腹を使って腹芸を見せる。そして豹柄のパンツをはくと、鏡を持ち出してメーキャップをし、宝石のついた指輪を着け始める。南アフリカでは庭の土を掘るとこれが出てくる、みたいなことを言いつつ。「皆が私をうらやましがる」と歌いながら踊る。さらに、背後のスクリーンでは、巨大なロシアのプーチン大統領が踊り始める。プーチンを責め、金を乞い、一緒に踊ろうとする。一緒に踊りたがらないのは自分が黒人だからか、などとスクリーンのプーチンに叫ぶ。大統領がスクリーンから消えた後、孔雀の羽根のような飾りを背中に着ける。それは、宝塚のレビューやブラジルのサンバの衣装のような装備だが、暗い派手さで七色の蛾のように見える。それで歩き回り、奇声を発する。最後は全裸になり、首にかけた青色ペイントを入れたネックレスを使って、全身を青く塗り、美しく歌う。スクリーンの映像が揺らぎ、移動して、最後に彼の青い腹の上に映し出される。ぼんやりしたそれが次第にはっきりしてくると、小銃を持った子供の背に白い蝶の羽根が重なっている映像であるとわかる。そしてAlbert Ibokwe Kohzaは舞台から去る。

 プログラムの解説を大雑把にまとめると、この作品は、新時代を迎えて20年を経た現在の南アフリカの葛藤を念頭に置きつつ、七つの大罪をモチーフとして“人間性へのレクイエム”を表現したものらしい。七つの大罪と言われると、Albert Ibokwe Kohzaの一連のパフォーマンスは、それぞれが七つのどれかに当たっているように思われる。しかし、この作品を見て私が最初に思ったのは、太ったオネエキャラのピン芸人がテレビでできない芸を舞台で披露している、みたいなことだった。動物の鳴き声のような奇声を発したり、自分の腹の肉をつかんで顔を作ったり。切ったオレンジをナイフに刺し、それをナイフごと口に入れて食べるかと思えば、「サンキュー、メルシー、オブリガード」などと歌いながら踊る。大道芸を見ているようでもあれば、アホな小学生がふざけているのを見せられているようでもある。変な生き物をあっけにとられつつ見た感じ。

 しかし、ダンサーが自由奔放に振る舞っているように見せてはいるが、その実よくコントロールされた作品であると思う。椅子の正面に設置されたビデオ・カメラは、椅子に座ったAlbert Ibokwe Kohzaの顔を正面から捉え、それを背後のスクリーンに映している。オレンジを食べる時も、メーキャップをする時も、スクリーンの彼は正面を見据えている。それはつまり、自分の手元を見ることなくナイフ(と言っても小さな果物ナイフではなく、包丁である)でオレンジを切り、ナイフに刺したオレンジを口に持って行っているのだ。包丁を口の中に入れている時も正面を見ており、よくこんな恐ろしいことをするな、と思った。鏡に顔を写しながら化粧をする時もやはり正面を見ているので、これもまたよく上手いこと化粧をするな、と思ったのだった。

 また、クライマックスで青いペイントを全身に塗る際、全裸である。しかし、照明の絶妙な加減によって大きなお腹の影になるため、彼の下腹部は見えない。なんだか妙なところに感心しているようだが、そういうこともあって、パフォーマーたるAlbert Ibokwe Kohzaは、最後まで男か女かよくわからない。男のような女のような生き物、一個の裸の人間の身体であった。

 プラスチック・ラップに包まれた肉の塊が自由を得た。それは罪にまみれ、凶暴で醜く、グロテスクである。しかし同時に、目の離せない何か、その存在に対する言い知れない痛み、七色の蛾のような奇妙な美しさがある。それはまた、青い色が想起させる、悲しさだったかもしれない。20171130日)

上演終了後の舞台。オレンジや羽根、いろいろなものがある。

Saturday, 7 April 2018

『パフォーマンス』/『アートエキシビション』The Nature Museum(ネイチャー・ミュージアム)


201797
The Nature Museum(ネイチャー・ミュージアム)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: シンガポール
製作: Singapore International Festival of Arts
: Institute of Critical Zoologists
パフォーマンス: Robert Zhao, Joel Tan
見た場所: 72-13


  Institute of Critical Zoologists(批判的動物学者協会)は、写真家・ビジュアルアーティストのRobert Zhaoによるプロジェクトである。今回の「The Nature Museum」では、19世紀から現在までのシンガポールの自然史を取り上げている。会場は、Ong Keng Sen(オン・ケンセン)のカンパニー、Theatre Worksの本拠地である72-13の二階。観客は、開演時間まで72-13の外で待ち、開演時間になるとスタッフに案内されて二階に行く。そこは、写真や標本、見本が展示され、ちょっとした博物館の一室のようになっている。Robert Zhaoと解説用の台本を書いたJoel Tanが観客を迎えてくれる。それからおよそ一時間、観客は彼ら二人が交替で解説するのを聞きながら、会場内の展示物やスクリーンに映された資料写真を自由に見てまわるのである。

開演まで72-13の外で待つ。

解説を聞きながら展示を見る。立っている白い服の男性が、解説者の一人Joel Tan。

 彼らの調査・研究の結果を要約すると、19世紀末から現在までのシンガポールの自然や生物が、環境の変化とともにどのように変容していったか、ということになると思う。展示は美しく、解説は説得力にあふれている。

 例えば、1970年代のシンガポール。東部海岸で大規模な干拓が開始され、干拓地は人もめったに訪れない、広大な砂丘となった。しかし、1979年にThe Coast Exploration Society(海岸探査協会)なる、砂丘の魅力に惹かれた人達による団体が結成された。彼らは砂丘を巡るツアーやピクニックなど、様々なアクティビティを実行運営し、砂丘の魅力を一般に広めた。また、砂丘を調査することによって、いくつかの発見をした。今回展示している彼らの発見の一つが、フルグライト(閃電岩)である。フルグライトは、落雷の電流によってできるガラス質の岩石。砂が熱せられ、雷が通った経路に沿った形でガラス管が作られるのである。年に186回落雷のあるシンガポールだけに、砂丘では小さなものがちょくちょく発見されたが、最も大きなフルグライトは、Tanah Merah(タナ・メラ)の砂丘から出たもの。もう一つの発見は、白いゴキブリである。砂丘に住む白いゴキブリは、昆虫学者達によって理論化されるまでは、脱皮中か白子のように考えられていた。しかし実は、70年代の干拓事業の結果として起こった現象であった。砂丘となった場所に住む上で、保護色としてふさわしい、より色の薄いゴキブリが生存、交配していくことによって、白いゴキブリへと進化をしていったのである。いわゆるadaptive melanism(適応暗化)、大気汚染の著しい工業地帯のガなどで暗化型の個体が増加することと同様である。展示されている白いゴキブリは、協会メンバーであったSong Pack Choon氏が捕獲した。

白いゴキブリ

 上記のように、現代シンガポールの歩みとともに変容していった自然環境を解説していく。うーん、勉強になるなぁ。

 ・・・・・・いや、待て待て待て待て、ちょっと待て。

 シンガポールは、19世紀初頭から干拓によって土地を造成してきた。1966年から東海岸の干拓事業が開始され、70年代を通して行われてきたことは本当。でも、The Coast Exploration Societyって何よ。フルグライトという物質はある。でも、シンガポールで取れるのか?工業地帯のガが黒っぽくなるという工業暗化(industrial melanism)は確かに議論されている。しかし白いゴキブリって?Institute of Critical Zoologistsの「調査」って何?彼らの解説は本当なの?展示は?そもそもInstitute of Critical Zoologists(批判的動物学者協会)って・・・名前からして怪しい。

 Institute of Critical Zoologistsは、史実の中にさももっともらしい空想を織り込んだ物語を作り出した。そして、やはりさももっともらしい展示物を見せながら、もっともらしく解説してみせる。参加者はここで、いわば架空のシンガポール自然史博物館のガイド・ツアーを体験することができるのだ。なんとなく思い出すのは、ピーター・シェーファーの戯曲「レティスとラベッジ」である。観光ガイドのレティスは、歴史ある貴族の屋敷を観光客に案内しながら、その屋敷にまつわるエピソードに尾ひれをつけて、面白可笑しく語る。屋敷という実物を前に、しかもホラ話は正しい時代考証に則っているため、もっともらしく、かつ楽しい。この「The Nature Museum」もしかり。知っていると思い込んでいたシンガポールの過去が、退屈だと感じていたその歴史が、新しい興味を持って開けて来る。楽しい。

 解説が終わった後も、Robert ZhaoJoel Tanの二人にいろいろ質問することができる。さて、彼らの解説の中に、ティラピアの話があった。ティラピアという食用魚は、第二次世界大戦中に日本軍がジャワ島からシンガポールに持ち込んだものである。戦時中の植民地におけるタンパク源確保のためであった。それから歳月が流れ、シンガポールのティラピアの外見が、当初日本軍が持ち込んだものから変化していることが確認された。シンガポールで養殖されている同科他種との自然交配によって、シンガポール独自のハイブリット種となっていたのである、云々。・・・このティラピアの挿話に関して、日本軍がなぜ特にティラピアを持ち込んだのかを質問した人がいた。Robert Zhaoいわく、食料増産が急務だったのだが、ティラピアのような魚は養殖がしやすいためであろう。他にも食用のために養鶏などが行われたのだ。・・・などとまぁ、まことしやかに答えているのを、私は聞いた。自分の知識だと、第二次世界大戦中、日本がシンガポールを占領していたこと以外、どこまでが史実なのかよくわからない。とりあえず、シンガポールのハイブリッド・ティラピア、というのはうさんくさい。

ティラピアの養殖場を見学する日本のお役人・・・だそうだ・・・
 
このジャワ島のティラピアが、

シンガポールでこうなった。

 しかし、この作品は単に、史実や自然科学の知識に基づいた作り話の披露、というに止まらない。Institute of Critical Zoologistsの意図するところは、現代都市としてのシンガポールの発展が、シンガポールの自然環境にいかに影響を与えて来たか、そこに参加者達を着目させることにあったと思う。それは、私達の生活、活動が、一見そうは見えなくとも、自然と密接に結びついていることを思い起こさせる。彼らの生き生きとした「調査・研究」結果は、常にそこに観点が置かれている。
 人と自然の結びつきをテーマとして事実に空想を織り込む、というその手並みの鮮やかさだけでなく、この作品を一種の演劇的パフォーマンスと考えても、その丸ごと信じてしまいたくなるような作り込んだ展示と解説は極めて印象的だった。舞台の上のことはみんな嘘、とかっこ良く言い捨てられない、この、虚実の間にあるパフォーマンスには、なんだかわくわくさせられるものがある。たぶん、自分の知っていると思っている世界を、違ったものに———刺激的で豊かなものに———見せてくれるからだろう。20171117日)

 下記はその展示の数々である。 




民間の博物学者Francis Leowの書斎


鳥の捕獲器

Sunday, 1 April 2018

『演劇』Germinal(ジェルミナル)


201792
Germinal(ジェルミナル)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: フランス
製作: L’Amicale de Production
コンセプト・演出: Halory Goerger, Antoine Defoort
出演: Jean-Baptiste Delannoy, Beatriz Setien, Denis Robert, Halory Goerger
見た場所: SOTA Drama Theatre

舞台の床下には何が・・・
 
 まず、舞台上の照明が上手くつかない。変な緑色のスポットライトになってしまう。それでもようやくまともにつくと、舞台上には4人の人々がいる。彼らはその場にある、昔のラジオコントロールの送信機みたいな機械を操ってみる。すると、自分達の考えていることが英語の字幕となって背後の壁に!そのうち、実は送信機は必要のないことがわかる。さらに、(4人いるので)誰の考えであるのかがわかるように、字幕の頭にそれぞれの名前をつけることが思いつかれる。
 
 やがて舞台の床からマイクを見つける。わざわざ英語で話さなくとも、マイクを通してフランス語を話せば英語の字幕が表示されることがわかる。そのうちマイクは必要なくなり、それぞれが普通にフランス語で会話をすれば、背後に英語字幕が現れるようになる。
 
 この4人———HaloryJean-BaptisteBeatrizDenis———は、舞台上の閉じられた世界にいる人々である。そして今彼らが体験し、観客の私達が目撃したものは、非常にひねくれた形の、または、舞台上の登場人物の視点からの、舞台作品における字幕の誕生である。
 
 さらに彼らの冒険は続く。舞台上に存在しているものについて、床、壁、マイク、ガラクタといった物質的なものから、一緒にいること、愛といった抽象的なものまでを挙げていく。彼らが思いついて言うごとに、それらの単語はプロジェクターによって背後の壁に映し出される。さらに、それらを実際にマイクで叩くと、「パクパク」という音がするかしないかという基準によって、分類化を図るようになる。いや何よ、「パクパク」って。ゆるーい感じの分類は、いくつかの派生的なカテゴリーを生み、意外に複雑になってゆく。
 
 エレキ・ギターが発見され、歌うことが思いつかれ、アンプが床から取り出される。創造主(?)のカスタマーサービスに電話をかけ、アドバイスを受けた結果、彼らは黒い箱を見つける。ウィンドウズ・ビスタ(だと思う)を搭載したノート・パソコンである。パソコン画面は壁に映写され、それによって舞台の背景を変えることも言語設定を変える(例えば言語設定を日本語に変えると、Halory達は日本語を話すことができる)ことも、今や自由自在となった。そして床の下に、細かい発砲スチロールで作られた「沼」(舞台装置)を発見し、電子ドラムで効果音を手に入れる。
 
 最後は、先に分類した単語を列挙した順に(ウィンドウズを使って)時系列に並べ直すと、その各単語とともに、これまで自分達がしてきたことを歌い上げる。この時とばかりに照明効果もばっちり使い、バカバカしくも楽しいフィナーレだった。
 
 こうやって説明すると何がなんだかよくわからないようだが、75分間のこの作品が明示したもの、それは、歴史的知識に依らないテクノロジーの歴史である。歴史的知識によらない歴史という言い方だと何だかよくわからないので、別の言い方をすると、舞台上の登場人物の視点から見た、テクノロジー発見の歴史である。そしてここでのテクノロジーは、特に舞台で使用されるものについてのように見える。発見されたテクノロジーは解体され、そしてまた別の技術へと引き継がれて行く。その過程がちょっとトボケた風味で面白く表現されており、私達観客を時々笑いへと誘う。舞台上の世界の住人から見た時、普段私達が当たり前に受け入れているテクノロジーは新鮮なものとして映り、私はその斜め上からの視点にハッとさせられもした。そんな知的な冒険を彼らと共にできる一方、子供向け芝居のような遊びもあって、楽しかった。
 
 ところで、わざとというわけではないのだろうが、なぜか今回、字幕がちょっと薄くて読みづらかった。それがちょっと困った。20171011日)