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Sunday, 1 April 2018

『演劇』Germinal(ジェルミナル)


201792
Germinal(ジェルミナル)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: フランス
製作: L’Amicale de Production
コンセプト・演出: Halory Goerger, Antoine Defoort
出演: Jean-Baptiste Delannoy, Beatriz Setien, Denis Robert, Halory Goerger
見た場所: SOTA Drama Theatre

舞台の床下には何が・・・
 
 まず、舞台上の照明が上手くつかない。変な緑色のスポットライトになってしまう。それでもようやくまともにつくと、舞台上には4人の人々がいる。彼らはその場にある、昔のラジオコントロールの送信機みたいな機械を操ってみる。すると、自分達の考えていることが英語の字幕となって背後の壁に!そのうち、実は送信機は必要のないことがわかる。さらに、(4人いるので)誰の考えであるのかがわかるように、字幕の頭にそれぞれの名前をつけることが思いつかれる。
 
 やがて舞台の床からマイクを見つける。わざわざ英語で話さなくとも、マイクを通してフランス語を話せば英語の字幕が表示されることがわかる。そのうちマイクは必要なくなり、それぞれが普通にフランス語で会話をすれば、背後に英語字幕が現れるようになる。
 
 この4人———HaloryJean-BaptisteBeatrizDenis———は、舞台上の閉じられた世界にいる人々である。そして今彼らが体験し、観客の私達が目撃したものは、非常にひねくれた形の、または、舞台上の登場人物の視点からの、舞台作品における字幕の誕生である。
 
 さらに彼らの冒険は続く。舞台上に存在しているものについて、床、壁、マイク、ガラクタといった物質的なものから、一緒にいること、愛といった抽象的なものまでを挙げていく。彼らが思いついて言うごとに、それらの単語はプロジェクターによって背後の壁に映し出される。さらに、それらを実際にマイクで叩くと、「パクパク」という音がするかしないかという基準によって、分類化を図るようになる。いや何よ、「パクパク」って。ゆるーい感じの分類は、いくつかの派生的なカテゴリーを生み、意外に複雑になってゆく。
 
 エレキ・ギターが発見され、歌うことが思いつかれ、アンプが床から取り出される。創造主(?)のカスタマーサービスに電話をかけ、アドバイスを受けた結果、彼らは黒い箱を見つける。ウィンドウズ・ビスタ(だと思う)を搭載したノート・パソコンである。パソコン画面は壁に映写され、それによって舞台の背景を変えることも言語設定を変える(例えば言語設定を日本語に変えると、Halory達は日本語を話すことができる)ことも、今や自由自在となった。そして床の下に、細かい発砲スチロールで作られた「沼」(舞台装置)を発見し、電子ドラムで効果音を手に入れる。
 
 最後は、先に分類した単語を列挙した順に(ウィンドウズを使って)時系列に並べ直すと、その各単語とともに、これまで自分達がしてきたことを歌い上げる。この時とばかりに照明効果もばっちり使い、バカバカしくも楽しいフィナーレだった。
 
 こうやって説明すると何がなんだかよくわからないようだが、75分間のこの作品が明示したもの、それは、歴史的知識に依らないテクノロジーの歴史である。歴史的知識によらない歴史という言い方だと何だかよくわからないので、別の言い方をすると、舞台上の登場人物の視点から見た、テクノロジー発見の歴史である。そしてここでのテクノロジーは、特に舞台で使用されるものについてのように見える。発見されたテクノロジーは解体され、そしてまた別の技術へと引き継がれて行く。その過程がちょっとトボケた風味で面白く表現されており、私達観客を時々笑いへと誘う。舞台上の世界の住人から見た時、普段私達が当たり前に受け入れているテクノロジーは新鮮なものとして映り、私はその斜め上からの視点にハッとさせられもした。そんな知的な冒険を彼らと共にできる一方、子供向け芝居のような遊びもあって、楽しかった。
 
 ところで、わざとというわけではないのだろうが、なぜか今回、字幕がちょっと薄くて読みづらかった。それがちょっと困った。20171011日)

Monday, 12 March 2018

『ダンス』Le Syndrome Ian(ル・シンドローム・イアン)


2017825
Le Syndrome Ian(ル・シンドローム・イアン)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: フランス
カンパニー: ICI (Institut Choregraphique International)-CCN Montpellier
振付: Christian Rizzo(クリスチャン・リゾ)
見た場所: SOTA Drama Theatre

 6、7月に開催されたプレ・フェスティバル「The O.P.E.N.」を経て、メインである「Singapore International Festival of Arts」(シンガポール国際芸術祭、SIFA)が始まった。今年はフェスティバル・ディレクターであるOng Keng Sen(オン・ケンセン)にとって最後の年であるが、本年もやはり知的でエッジの効いた作品や企画が揃ったと思う。観客として、演出家のオン・ケンセンには言いたいこともあるのだが、芸術祭のディレクター、キュレイターのオン・ケンセンの目は素晴らしいものだった。名残惜しく別れを告げる今年のSIFAである。

 「Le Syndrome Ian」は、コリオグラファー、クリスチャン・リゾによる三部作の三番目の作品にあたるのだそうだ。この三部作のテーマは、アーティストによるダンスと、無名の「発見されたダンス」との関係についてだと言う。他の二作品は見ていないので何とも言えないのだが、この「Le Syndrome Ian」について言えば、クラブ・ダンスをダンスする、ということだと思う。タイトルの「Ian」は、ポストパンクの代表的なバンド、ジョイ・ディヴィジョンのボーカリスト、イアン・カーティスの「Ian」である。


 そういうわけで、舞台ではループするビート——しかし速すぎず、音と音との間隔が広い——が流れている。このもぁっとした、全く明るくないビートが流れる中、10人ほどのダンサーが二つの塊を作っている。それぞれ体を寄せ合って丸くなったまま、ビートに合わせて心なし体を揺らしている。全員同じ、白い半袖ポロシャツに黒のパンツ、白いスニーカーという衣装。二つの塊はビートとともにゆっくりと解けていき、ダンサー達はそれぞれ踊り出す。彼らの動きは難しそうには見えない。横に揺れ、時おりその場でターンしたり、片手を上げてみたりする。また、ペアになってただ揺れていたりする。それを見ていて改めて思ったのが、人が曲に乗ってちょっと(決して激しくではない)体を揺らす時、たいてい横揺れだよな、ということだった。クラブやライブハウスで人が踊る姿を模している一方、その動きは次第にシャープになっていく。ついにはパフォーマンスとしてのダンスらしく、フォーメーションを作るのだが、すぐ崩れてしまう。そしてまた、クラブ・ダンスに戻って行く。時おりスモークが舞台を覆い、可動式の風車型の照明はダンサー達によって移動させられ、ライトを当てる場所を変えていく。ビートに乗ったユルい踊りは、「見せる」ダンスとして形をなし、そしてまたグダグダになっていく。その繰り返しに、見ていて若干気が遠くなった。あのビートにまた、催眠効果があると思う。

 皆が同じ日常的な衣装を着て踊る姿に、ふと、かつての勤め先で参加させられたチーム・ビルディングを思い出した。別にチーム・ビルディングで同じ服装をさせられるわけではないが、なぜかグループに分かれてダンスを踊らされたなぁ、と。そこでリーダーになったのはスポーツの得意な同僚だったが、たとえ有名体育学科を卒業した彼女のふさわしい指導を持ってしても、素人の大人が完全にシンクロナイズしてピシピシ踊るというのは(よほど練習しない限り)不可能なのである。身体的にも心理的にも。今回、フォーメーションを作って、てんでバラバラに片手を上げる動作をするダンサー達を見ていたら、我々のあのダラッダラッとした集合ダンスを、なんとなく思い出したのだった。しかし、彼らのバラバラ感はもちろんわざとなのであって、かつての我々のようにできないからではない。てんでバラバラと言っても、それぞれのダンサーがタイミングを見計らって手を上げているのであって、揃ってはいないが、しかし美しいと言える一定のまとまりと流れを持っている。素人が自分の楽しみのために踊りとも言えないダンスをしているように見せかけつつ、訓練を受けたダンサーが他人に見せるために踊っている。「Le Syndrome Ian」は、この境界を曖昧に行き来する。

 作品の後半に入ると、全身長い毛で覆われ、顔も見えない雪男のような怪物が舞台に現れる。彼(彼女?)は踊る人達を眺めて、また引っ込む。何かの表象かもしれないが、こういうわけのわからないものが登場すると、いかにも「コンテンポラリー」ダンスっぽくなる。とりあえず、反復ビートで気が遠くなりそうだったのが、ハッとなった。そのうち、二人の女性ダンサーを残して、他の人達は舞台から去る。ここで初めて、これまでと同様の見せるダンスを作りつつ同時に崩れていくということを、ペアで行う。そのうちに、先ほどの怪物が人数を増やして登場。舞台を占めると、これまでと同じダンス——横ゆれ、回転、片手を上げる——を始めるが、すぐに倒れてしまう。こうなるともはや、クラブ・ダンスの考察から生まれた、他人に見せるためのダンスというよりも、クラブ・ダンスのパロディのようである。

 最後は、怪物の一人がその着ぐるみを脱ぐ。中から登場するのはピンクのTシャツにレギンスの女性である。風車型の照明に向かい、大音量の音楽(この最後の曲だけ歌詞がある)に合わせて、体を後ろ方向に引きながら狂ったように踊り始める。ここでこの作品は幕となり、本当に幕が降りるのだった。(自分が)行うダンスと(他人に)見せるダンスのバランスは、怪物の登場から、見せるダンスへとぐっと傾き、「作品」になっていく。しかし最後にまた、無名の人(を装う人)によるダンス——踊り手自身の楽しみのためのダンス——へと戻って行ったのだろうと思う。

 ジョイ・ディヴィジョンを聞くことはあっても、いかんせんクラブ・ダンスに思い入れがないせいか、仕事帰りで疲れたのか、眠くなった部分も正直ある。あるが、知的という意味では刺激的で、かつユニークな作品だと思う。曖昧に往き交う、行うダンスと見せるダンスを見ていると、そもそも観客としてダンスを見るとはどういうことなのかと、改めて思い悩みたくなってくる。ところで、見ている間、この作品のループするビートは、どことなく「Blue Monday」っぽいと思っていたのだが、知人は「The Perfect Kiss」を思い出したと言っていた。どっちの曲もジョイ・ディヴィジョンではなくて、ニュー・オーダーだけど。2017918日)

終演後。風車型の照明と脱ぎ捨てられた着ぐるみ(左端)
  
 関係ないのだが、この日、Singapore Night FestivalがBras Basah Road界隈で開催されていた。数々のイベントが行われていたが、下記は、Singapore Art Museumの建物全体を利用したライトアップ。