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Sunday, 2 May 2021

『映画』Last and First Men(最後にして最初の人類)

2020126

Last and First Men(最後にして最初の人類)」・・・間違っていても気づかない

公開年: 2020

製作国: アイスランド

監督: Johann Johannsson(ヨハン・ヨハンソン)

原作: Olaf Stapledon(オラフ・ステープルドン)

ナレーション: Tilda Swinton(ティルダ・スウィントン)

見た場所: The Projector

 

 「Last and First Men(最後にして最初の人類)」は、オラフ・ステープルドンによる1930年の同名のSF小説を原作とした作品で、音楽家ヨハン・ヨハンソン初の監督作にして遺作となった。元は、ティルダ・スウィントンのナレーションが入った16ミリフィルムのモノクロ映像———主に旧ユーゴスラビアが建てた第二次世界大戦等にまつわる記念碑群———とともに、ヨハンソン作曲のスコアをオーケストラがライブ演奏するという作品で、ヨハンソンの死後、映画版として完成されたものである。原作小説から起こしたナレーションは、ヨハンソン自身とJose Enrique Macianによって作成された。

 

 

 COVID-19のパンデミックで、2020年は開催されなかったSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)だが、シンガポールのCircuit Breaker(セミ・ロックダウン)が段階的に緩められるのにともない、(当初の規模に比べれば)ごく一部ではあるが開催され、「Singular Screens」という映画上映プログラムも、観客数を限って行われたのだった。「最後にして最初の人類」はそのプログラムの一本で、私は103日に、会場のAsian Film ArchiveにあるOldham Theatreに見に行ったのだった。

 

 それはそれで済んでいたのだが、それから一ヶ月半ほどした後、チケット販売会社からメールが来た。いわく、今回の上映に使われたプリントには誤りがあった、と。特に顕著な誤りとして、同じナレーションを繰り返してしまっている。この問題はテスト上映の時にすでに認識されていたものの、そのまま上映してしまった。しかし、確認したところ、この映画のデジタル・プリントを作成した現像所が失敗コピーを渡したということがわかった。SIFAと配給会社(シンガポールのAnticipate Pictures)は、この見過ごしに対して深くお詫び申し上げる。そして、(いわゆるミニシアターである)The Projectorでの上映に無料でご招待するので、申し込んでほしい。もしこちらで指定した上映日に都合がつかないようであれば、配給会社がプライベート・スクリーニングのリンクをお送りする。また、今回のチケット代金を全額返金するので、チケット販売会社が後ほどその詳細をご連絡する。今後はこのようなことが起こらないよう、ベストを尽くしていく所存である、とのことだった。

 

 えっ......そうだったん?実は、Oldhamでこの作品を見た時、睡魔と戦うのが非常に大変だった。奇妙な建造物が映っているモノクロ映像に、(英語なので尚のこと)よくわからん奇天烈な未来の人類の世界が語られ、そこに「ワァ〜ワァ〜、ワァ〜ワァ〜」という壮麗な音楽。見ていてストーリーに引き込まれるとかスリルを感じてわくわくするとか、そういう映画では全くない。しかも、ティルダ・スウィントンのナレーションは、最後の人類がどのような形状か等について述べる辺りまで来ると、そこでまた最初に戻ってしまう。結局、都合三回、同じ話を聞いた。そして、そういうものだと思っていた。ティルダ・スウィントンのナレーションは未来の人類が現在の我々に語りかけているという体なので、針が飛んだレコードのように同じことを繰り返しているのを、「未来からの交信が上手くいかない」ということを意味しているのかと思ったのだ。それで実際に同じ話を繰り返すという、実験映画的な試みなのだと。そうじゃなくて、単なる間違いだったのね......

 

 というわけで、最初に見た時眠かったけど、せっかくなのでもう一回見に行ったのだった。前回は丸腰で見に行ったので、SF小説の映像化という作品紹介からは予想外の退屈さ(!)に参ってしまったのだが、今度はもうどんなものかが事前にわかっているので、大丈夫。眠くなるであろうことに心構えができていたので、かえってそれほど眠くはならなかった。前回のように同じ話を繰り返すわけではなく、ティルダ・スウィントンの語りは進んでいき、結末もちゃんとあった。

 

 

 さて、映像の中核をなす記念碑群は、コンクリート作りと思われ、様々な角度と様々な遠近で撮影されている。山々のような自然を背景に、奇妙でありながら無機質で静謐な雰囲気を醸し出しており、その映像は美しい。このモニュメントの映像はモノクロだが、暗黒空間に緑色のライトが点滅する映像も時おり挿入される。そうした映像と、神秘的なヨハンソンの音楽が、ティルダ・スウィントンが語る独特な未来世界に対するイメージを喚起している。ティルダは第18期の人類(最後の人類)として、現在の我々(第1期の人類)に語りかける。18期人類は我々の助けを求めており、海王星に住む彼らの形状(もはや我々とは似ても似つかぬ種になっている)、生態、社会等を説明する。この18期の人類の世界は、今から20億年後くらい......「法華経」の百千万億那由他みたいで、あまりにスケールが大きすぎて、なんかクラクラしてくる。

 

 

 原作を知っていればそうは思わないだろうが、そうでないと、「いったいこれは......」という驚きを抱かせられる。ナレーションだけで成り立っている作品という形式に対してではなく、その語っている内容に、想像力の飛翔に。しかしその一方で、様子や状況が淡々と語られているだけの作品でもある。映像は美しく、音楽は多様ではあるものの、筋運びに起伏があるわけではない。かしこまって見ていても(原作やヨハンソンの音楽に特別な興味があれば別だが)、眠くなってしまうのは仕方がないような気がする(自己を正当化するが)。いわゆる「映像詩」と呼べなくもないが、元々がオーケストラのライブ演奏とともに成り立っていた作品であることを考えると、この「Last and First Men」は、イベント的な映画であると思う。つまり、ビール片手に友達と一緒に、大音量で大スクリーンで見て、その音楽と映像に酔いしれる。そんなようなことが楽しい映画なのではないかと。そう考えると、映画館で見たものの、一人でひっそりと見た私の鑑賞方法は、ヨハンソンに対していささか地味であったかと。2021319日)

Saturday, 20 March 2021

『映画』The Last Artisan(最後の職人)

202095

The Last Artisan(最後の職人)」・・・「自分にとってハウパーヴィラが全てであったということだ」

公開年: 2018

製作国: シンガポール

監督: Craig McTurk

見た場所: 自宅(有料動画配信)

 

 COVID-19の大流行により大打撃を受けている映画館だが(シンガポールでは現在も座席数が限られた形での興行であり、9月時点で一会場最大50人までの入場)、映画館側の試みとしてオンデマンド配信を行っている所もある。The Projectorはかつてのインド映画(だったと思うが)上映館を改装して5年くらい前から興行している、日本で言ういわゆる「ミニシアター」である。シンガポールでCircuit Breaker(セミロックダウン)が発令されて、全てのエンターテイメント施設が一時閉鎖された時から、The Projectorは「The Projector Plus」というオンデマンド配信を進めてきた。映画館で興行できるようになった現在も絶賛配信中で、映画館の方では上映されていない作品をレンタルすることができる。この「The Last Artisan」というシンガポールのドキュメンタリー映画も、The Projectorのオンデマンド配信でレンタルしたのだった。

 

 

 Haw Par Villa(ハウパーヴィラ)はシンガポールの歴史あるテーマパークである。元々は、ビルマ出身の中華系実業家Aw Boon Haw(胡文虎)が、弟のAw Boon Par(胡文豹)のために建てた邸宅のあった所で、その敷地はシンガポール海峡を見下ろす丘を占めていた。ハウ(Haw、虎)とパー(Par、豹)のヴィラ、ハウパーヴィラである。兄弟は、シンガポールのお土産としても有名な軟膏、タイガーバームの製造販売で財を成した実業家であり、この公園もかつて「Tiger Balm Gardens(タイガーバームガーデン)」と呼ばれていたことがある。

 

 さて、1937年にヴィラの敷地は一般に開放されるようになり、以来、Aw Boon Hawの中国文化と神話に対する情熱に基づいて、園内が造成されていった。第二次世界大戦中、シンガポールを占領した日本軍によって、ハウパーヴィラは監視ポイントとして接収されていたが、戦後再びAw Boon HawAw家の人達によって公園の再建が進められた(弟Aw Boon Parは戦時中に亡くなった)。

 

 こうしてハウパーヴィラは、およそ1,000体の彫像と150ものジオラマが、中国の文化・神話・民話・文学をその独特すぎる造形とヴィヴィッドな色使いで再現する、一大テーマパークとなった。Singapore Tourism Board(シンガポール政府観光局)が運営を引き継いで以来、紆余曲折を経て、現在は無料で一般に開放された公園として親しまれている。マリーナ・ベイ・サンズだのユニーバサル・スタジオ・シンガポールだのの派手な観光地の影に隠れ、「B級」「珍名所」などという位置づけになってしまっているハウパーヴィラだが、しかし1970年、80年代頃までは、特に家族連れに人気のメジャーな観光施設であったという。

 

 私も2013年に訪れてみたが、意外にも(というと失礼だが)、「珍名所」という言葉から連想されるような廃れた感じはしなかった。確かに、入場者もまばらな、静かな公園ではある。レストランや土産物店といった観光地っぽい施設も特にない。往時は賑わったのだろうな(でも今は・・・)、と思わせる雰囲気を醸し出してはいる。醸し出してはいるが、でも、見捨てられた公園ではなかった。というのも、公園内のそこここにある彫像やジオラマの中に、明らかに新しく塗り直されたものがあり、公園全体がメンテナンスされていることが窺われるからである。洋服を着た変な動物達も、どうしてこういう表現になったのかよくわからない民話の一シーンも、まだその生命を保っているのだ。

 

 さて、えらい長い前振りであったが、この「The Last Artisan」というドキュメンタリー作品は、ハウパーヴィラで彫像達を塗り直してメンテナンスしている老人が主人公なのである。Mr. Teo Veoh Seng(テオ・ヴェオセン)は、83歳。今から70年ほど前の、第二次世界大戦後まもなくの頃、父が職人として働いていたハウパーヴィラで、テオ氏は見習いとして働き始めた。13歳の時であった。以来働き続けて70年、今やテオ氏は、ハウパーヴィラ創設初期を知る最後の職人となった。80歳を越えても毎日ハウパーヴィラに通い、8.5ヘクタールある広大な園内で、彫像やジオラマをメンテナンスしている。今日、決して高給ではないうえに野外での肉体労働となる仕事には、シンガポール国内で後継者を見つけることができず、テオ氏の他には、中国から採用された弟子が一人いるだけである。(ただし、テオ氏の退職が近くなった時、もう一人、やはり中国から採用された。)映画は、いよいよ退職の日を迎えるテオ氏の、職場での最後の日々とこれまでの思い出を描いている。本人や周囲の人へのインタビューだけではなく、それを元に作られたアニメーションも交え、見る人がイメージを掴みやすいように作られている。

 

 

 職人にもいろいろなタイプの人がいると思うが、テオ氏は基本的には弟子を誉めない。叱ってるんだか教えてるんだかという感じで、弟子の仕事にあれこれ言う、口やかましいタイプのじいさまである。しかし、これにはそれなりの理由もある。刻々と退職の日は近づいているのに、弟子はなかなか一人前にならない。結局、退職の後も、テオ氏はパートタイムで弟子達の指導を続けることとなる。しかし、第一線からは退いたわけで、それは仕事一筋であったテオ氏にとって、大きな変化であった。退職前、テオ氏の娘さんは、退職後の父にやることがなくなるのではないかと心配しているが、その心配はわりと当たっていた。ハウパーヴィラに行っていない時のテオ氏は、自宅で4-Dくじ(注1)をせっせとしてみたり、近所のコーヒーショップ(注2)でコピ(注3)を前にぼんやりと座ってみたりしている。見ている方としては、「ようやくゆっくり休めるようになって良かったですね」と言い難い、ちょっと微妙な気持ちになる。

 

 テオ氏は、奥さんとの間に8人の子供を儲け、末広がりの大家族を築いている。チャイニーズニューイヤー(旧正月)の家族の集まりともなれば、それは大変な賑わいである。この作品では、テオ氏の仕事だけではなく、彼の個人史とハウパーヴィラの歴史、そしてシンガポールの歩みまで描かれている。テオ家の発展が、イギリスの植民地から日本の占領支配、大戦後の独立とその後の経済成長というシンガポールの歴史と重ね合わせられている。・・・のかどうかわからないが、いささか盛り込み過ぎな気がしなくもない。確かに、民間人にも関わらず故なく日本軍に殺されたテオ氏の祖父の話や、中国からいわゆる出稼ぎに来ている弟子達の話など、興味深いものは多い。しかし、テオ氏に焦点を絞って70分くらいの作品にした方が良かったのではないかと思う(実際には90分の作品だった)。見ていると、テオ氏の人生を描いているのか、ハウパーヴィラという希有な施設を紹介したいのか、それともテオ氏やハウパーヴィラを題材としてシンガポールの過去と現在を俯瞰したいのか、若干わからなくなってくる。

 

 この映画の本来の肝は、「work hard(懸命に働く)」ということにあると、私は思う。作品の最初の方、シンガポールの歴史に触れるくだりで、昔のRun Run Shaw(ランラン・ショウ)へのインタビュー映像が挿入される。1920年代に映画製作会社を始め、Shaw Brothersという香港、東南アジアをまたぐ一大映画王国を築いたショウ兄弟の一人にして、シンガポールにかつてあったMalay Film Productions(マレー・フィルム・プロダクションズ)のプロデューサーだったランラン・ショウが、巨万の富を築いた成功の秘訣を聞かれて、こう答える。

 「work hard、ただそれだけだ。」

 その後の字幕で、この「work hard」は、シンガポール人の基本的な通念、理想となったことを説明している。そうかもしれない。しかし、この「work hard」の意味合いは、人種によって(シンガポールには中華系だけがいるわけではないので)、さらには各人によって、違ってくるのではないかと思う。インタビューに対するランラン・ショウの答えを端的に要約すると、一生懸命働けば成功して金持ちになれる、ということだろう。「work hard」は金をもうけることと直結しており、それは多くの人にとってそうだろうと思う。テオ氏もまた、「work hard」という言葉を口にする。しかし、この「work hard」は、単に金を生み出すための方法であることを越えて、一人前の仕事をすることで自分と家族の生活を支えるという必死さをにじませたもののように思える。

 

 作中でテオ氏は、子供に関して罰金、罰金と言っているが、これは、シンガポール政府が1970年代に人口抑制策の一環として導入していたTwo-Child Policyに関係していると思われる。かつてシンガポールでは、子供は二人で十分とされ、三人目の子供からは様々な費用が余計にかかった。(例として、政府系の病院での出産費用が高くなる、三人目の子供について所得税の扶養控除額が減る等々。)それでなくても、八人の子供を育て上げるのは大変だったろう。作中では触れられていないのだが、他にもっと収入の良い勤め先があったら、テオ氏だって転職したいと思った時期があったかもしれないのだ。

 

 別にテオ氏は、ハウパーヴィラがすごく好きでこの仕事を始めたわけではない。そしてハウパーヴィラは歴史的文化遺産でも何でもない単なるテーマパークだったわけだから、この仕事が(技術を必要とされても)いわゆる伝統技術を継承するものであるわけでもない。ハウパーヴィラの盛衰の中、まさに一職人として、普段誰にも顧みられないような仕事で「work hard」し続け、結果的には、この希有な公園が次の世紀まで人々に愛される場所となるに大きな寄与をした。最後にはあの広大な園内を、自分とわずかな弟子達で支えきった。それがテオ氏の、ハウパーヴィラでの仕事であり、生き様であった。映画の終盤、テオ氏は塗りを確かめるように彫像達を優しく撫でながら、園内を歩いて回る。それはもう何年も何十年もしてきたことであろう。このシーンにかぶさるテオ氏の言葉、

 「私はここで70年働いてきた。それは私にとってハウパーヴィラが全てであったということなのだ。」

 ハウパーヴィラで働き始めた13歳の時、テオ氏はこの人生を予想し得ただろうか?この瞬間、私は人生というものの不思議、そして人間の不断の努力というものに感じ入った。だからこそ、この映画はテオ氏のハウパーヴィラ人生にもっとフォーカスすれば良かったのにと、少し残念になったのだった。20201014日)

 

    注1 4-Dくじ: 0000から9999までの四つの番号を自分で選ぶ宝くじ。シンガポールで人気がある。

    注2 コーヒーショップ: 「コーヒーショップ」というが、ホーカーセンターに近く、飲み物だけではなく食事も売る。ただ、ホーカーセンターのような独立した建物ではなく、団地の一階などに設けられていることが多い。通常正面の壁がないので、良く言えばオープンテラス式。

    注3 コピ(Kopi): シンガポール、マレーシアの伝統的なコーヒーで、独特の香りを持ち、濃い。コーヒー豆はマーガリンを加えてローストする。練乳または砂糖と無糖練乳が入っているものが基本。

 

 以下は2013年5月19日に私がハウパーヴィラで撮った写真。ご参考までに。

 

丘に沿って公園が作られている。






有名な"Ten Courts of Hell"(閻魔大王の地獄の様子を描写した展示)に至る道

Saturday, 13 February 2021

『映画』Suk Suk (叔・叔)

20201010

Suk Suk ()」・・・Singapore Chinese Film Festival

公開年: 2020

製作国: 中国(香港)

監督: Ray Yeung ()

出演: Tai Bo (太保), Ben Yuen (袁富), Au Ga Man Patra (区嘉)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

 今年のChinese Film Festivalのクロージング作品だった。チケットは売り切れとなったのだが、入場者数が制限されているため、満席でも盛況な感じがしないというのがちょっと悲しい。

 

 70歳のタクシー運転手のおじいさんと65歳の定年退職したおじいさんとの恋愛を描く。それぞれ子供も孫もおり、「ストレート」としての社会生活を送る一方、実は隠れゲイとして生きて来たという設定である。この二人の出会いと別れを通して、自分らしく生きるとはどういうことなのか、また、人生の黄昏時をどのように生きるかといった、重いテーマを描いた恋愛映画だ。

 

 

 Tai Bo 演じるPak(パク)さんは、70歳の今も元気にタクシー運転手として働いている。長年連れ添った妻との間に息子と娘、二人の子供がいる。息子は結婚してすでに子供がおり、パクさんは息子夫婦の代わりに、孫娘の学校のお迎えをしたりもしている。一般的な婚期を逸しかけている娘の方は、無職で(でもいい人そうだが)年下の男とつき合っており、パクさんの妻の悩みの種となっている(パクさんの方はあまり気にしていない)。娘の彼氏も含めて家族全員がパクさん夫婦のアパートに集まり、夕食のテーブルを囲む時、そこにはなんの屈託もなさそうな一家の姿がある。しかし、パクさんには秘密があった。かつては一日18時間をタクシーの中で過ごして働き続けたパクさんだが、子供達が自立して子育てが終わってから、男漁りを嗜むようになっていたのである。そしてある日、真っ昼間の公園で、一人ベンチに座るHoi(ホイ)さん(演じるのはBen Yuen)と出会う。

 

 ホイさんは65歳で、すでに勤め先の工場を定年退職した身である。若かりし頃に一度結婚して息子を一人設けた。しかし、ゲイであったためか、妻と上手く行かずに離婚してしまったのである。自由に再婚したかった妻は子供を置いて去ってしまったので、ホイさんが男手一つで息子を育て上げた。現在は息子一家と同居している。息子は頭良さそうなだけに神経質そう。ゆえにホイさんにも口うるさいが、それだけホイさんを気遣っているとも言える。お嫁さんは気だてが良くて優しく、孫娘はかわいい。一家は(ホイさんも含めて)熱心なキリスト教徒でもある。そういうわけで、なんの屈託もない退職ライフを送ることのできそうなホイさんだが、やはり息子達に秘密の活動をしていた。高齢のゲイの仲間達と、ゲイ専用の老人ホームを建てるための募金活動をしているのである。具体的には、街の通りでクッキーを販売し、その収益をホーム建設のための基金とするという、ガールガイドの活動などと同じ方式を取っている。平日昼間の活動とはいえ、街角でばったり息子に会ってしまったらどうするのだろうと思わなくもない。

 

 それはさておき、二人は出会い、はっきりと口に出さずとも、目と目でお互いにゲイだとわかりあい、つき合い始めていく。ゲイであることは二人とも家族に秘密だが、特に妻のいるパクさんは神経質である。夜、自宅にいる時にホイさんに電話しなくてはならない時には、口実を作ってわざわざ外に出てから電話する入念さ。そういうわけで最初のうちはホイさんの方が積極的なのだが、ほどなくして二人は、ゲイの集う古いサウナの一室で結ばれる。秘密の関係なので、二人の逢瀬は平日の昼間に限られている(どちらも夜は家族と過ごすため)。ちなみに平日のゲイサウナは、お客さんのほとんどがシニア世代である。

 

 二人は70歳と65歳だが、恋愛の緊張とときめきは変わらない。サウナでお互いの裸をきれいだと誉め合ってみたり、「うちに泊まりに来る?」などとホイさんがさり気なくも緊張してパクさんを誘ってみたり、「スーパーは冷房が効いていて苦手」などと言いつつ(ここがシニアっぽい)二人で市場に夕食の材料を買いに行ったり。ちなみにホイさんがお泊まりの誘いをしたのは、息子一家が週末旅行に出かけて家を空けたため。もちろん息子夫婦はホイさんも旅行に誘ったのだが、ホイさんが(パクさんと過ごしたいという下心があって)断ったのだった。

 

お泊まりしてホイさん(手前)の手料理に舌鼓を打つパクさん(後方)
 

 そういうわけで、老人二人の恋愛がガッツリ描かれるのだが、人目を忍ぶ彼らの恋には様々な障害がある(そもそもゲイであるないに関わらず、パクさんに妻がいるということはいわゆる不倫の恋なのだ)。そこで感心するのは、脚本の巧みさである。言葉にして語らせずとも登場人物の心情を語るシーンの数々。二人の恋愛の推移が、家族関係や社会生活とそれとなく、だが緊密に結びついている構成。

 

 例えば、パクさんは妻に対してなんとなく味気なさを感じている。パクさんが大切にしているシャツを、妻は古いからと言って捨てようとする。長年の夫婦ならさもありなんという小さな出来事なのだが、パクさんの方は齢70にしてまだまだ色気というか、ロマンチックなところがあるのだ。一方、ホイさんの老人ホーム設立のための活動では、誰か代表となって議会(?)でスピーチをしてはどうかという話が持ち上がる。もしホイさんが代表になれば、息子にはもちろんのこと、世間に対してカミングアウトすることになってしまう。このような、それとなく二人を後押しするようないくつかの出来事が、恋の盛り上がっていく過程で起こる。そして、パクさんの娘の結婚という出来事とともに、二人の恋は頂点を迎える。

 

 パクさんの娘は妊娠し、件のいい人そうではあるが無職の彼氏と結婚することになる。もちろんパクさんの妻は不満たらたらだが、パクさんは「(妊娠を知って)相手が逃げ出さなかっただけ良かった」と、相変わらず淡白な態度である。何はともあれ、金のない彼氏に代わり、パクさん一家が費用を負担して、結婚披露宴を行うことになった。この披露宴に、パクさんはホイさんを「職場の同僚」として招待する。つまり、(「友人」としてだが)パクさんはホイさんを自分の家族に紹介するのだ。

 

結婚披露宴の記念写真。前方がパクさん夫妻と息子一家。後方が新郎新婦。
 

 この、二人にとってのエポックメイキングな出来事は、娘の結婚にまつわって起こった。しかし、同時にまた、この結婚披露宴が大きな転換点となって、二人の関係は下降に向かっていくことになる。披露宴の後、いまだ就職活動中の娘婿と話したパクさんは、タクシー運転手になることを勧める。お金がなくてタクシーのレンタルもできない彼に、パクさんは無償で自分のタクシーを貸すことを申し出る。引退を拒んでいたパクさんの、突然の決意である。こうしてパクさんは、娘婿にタクシー運転手としての心得を教えたり、彼を同僚達に紹介したりと、引き継ぎを進めていく。その中でパクさんが改めて感じるのは、自分の老いである。そして年月をかけて築いてきた家族の絆である。娘婿のタクシー運転手としての初日、パクさんは娘とともに出発する彼を見送る。その後、娘はパクさんに礼を言うと、少し微笑んで、

 「私は今まで、お父さんは私より兄さんのことが好きなんだと思ってた。」

パクさんは答える。

 「何をバカなこと言っているんだ。」

そして、「さぁ、朝飯を食いに行こう。」と、パクさんは娘と連れ立って歩いて行く。これまで娘に対して淡白に見えたパクさんだけに、娘とのこのシーンは、非常に感動的だった。

 

 こうしてパクさんが引退すると、息子の方はパクさんにお金の入った封筒をくれるようになる。パクさんが電話して断ると、息子は言う。

 「僕たち(一家)は十分やっていけるから気にしないでいいよ。母さんを旅行にでも連れて行ってやってよ。」

 「......

また、パクさんの奥さんは、「取っておきたいって言ったのあなたでしょ。」と、以前に捨てる捨てないで言い合いになった古いシャツを、ちゃんと洋服ダンスの中に取っておいてくれたのだった......。この妻と子供達に対し、今ホイさんの存在で波風を立たす必要があるのだろうか。

 

 一方ホイさんの方は、一人で暮らす高齢の友達を見るにつけ、ゲイ専用の老人ホームの必要性を感じつつも、「では、自分はどうしたいのか」で悩む。息子一家との夕食の席で、認知症になった知り合いの話を聞いた後、昔の彼氏との写真などの入った「思い出の小箱」(的な箱)を自宅から離れた外のゴミ箱に捨てに行く。自分に万一のことがあった時、所持品を家族に見られても困らないようにするためかと思う。敬虔なクリスチャンの息子(そもそもホイさんがキリスト教徒になったのは、息子の影響なのだ)に、今さら自分がゲイだと言うのか。ついに老人ホーム設立活動の集まりで、ホイさんは皆に言う。

 「ゲイ専用の老人ホームが出来ても、自分は一般の老人ホームに入りたい。息子には自分がゲイだと知られたくない。」

 

ホイさんの老人ホーム設立活動のミーティング風景
  

 こうした様々なエピソードが積み重ねられた結果、パクさんとホイさんの恋は静かな終わりを迎える。二人ともこれまでの人生における苦労と努力が報われて、(ゲイであることを隠しているということを除いては)幸福な老後を迎えてしまった。もしかしたら、パクさんの奥さんとホイさんの息子は、おぼろげに気づいているのかもしれない。しかし、それを本人がはっきりと認めてしまうのは、また別問題である。今、自分がゲイであるとカミングアウトした時、失うものはあまりにも多いように見える。あるいは、失ってそれをまた取り戻すことには、あまりにも多くの労力が必要なように見える。「今さら」自分らしく生きることに、二人は躊躇するのだ。この映画には悪人が出て来ない。しかし、一人も悪人がいないにも関わらず、否、一人も悪人がいないがゆえに、愛し合う二人が別れなくてはならなくなっている。この矛盾に、この作品が描いたテーマの重さがあると思う。

 

 ラストシーンの直前のシーンで、パクさんは孫娘を学校に送り届ける(孫娘のお迎えをする冒頭の方のシーンと対になっている)。お友達と連れ立って校舎に入って行く孫娘の後ろ姿に、パクさんは呼びかける。しかし、お友達に気を取られている彼女は、パクさんの呼びかけに振り向かない。

 

 ところで、この映画には食事のシーンが何度も登場する。家族が一堂に会して食事をすることが、日常生活の象徴であり、家族のつながりの強さの表現でもある。パクさんとホイさんも、二人の仲が最高潮だった時は、一緒に食事をしていた。しかし、家族と言っても各人それぞれの人生がある。いつまで子供達や孫達と一緒に食卓を囲めるのか、それはわからない。パクさんは妻や子供達を思って、半ば自分を犠牲にしてホイさんと別れた。それは、本当に正しかったのか。

 

 前述の、孫娘との何気ない日常のシーンは、ある種の象徴的な意味合いを孕み、パクさんとホイさんの「答え」を揺るがす。そして映画は、明確な正解のないままラストシーンを迎える。

 

 この作品では、ゲイを取り巻く社会の問題のみならず、老後の生き方もまた描かれている。そのため見終わった後、心の中にずっしり来た。自分の人生の黄昏時を思って......。それだけに、良い映画であったわけだが、自分ももう若くないので......

 

 ちなみに、二人の恋が盛り上がっている時にかかる挿入歌「Gentle Breeze and Drizzle(微風細雨)」が印象的で、気を取られる。「微風細雨」は、元は台湾の女性歌手Liu Lanxi(劉藍溪)が1979年に歌った曲ということだが、この映画では男性歌手のQing Shan(青山)のバージョンである。そよ風が吹いて霧雨が降り、二人のいる世界は美しい。僕が風で君が雨だったらいいのに(ここ若干、昔の某少女漫画のタイトルを思い出させる)。みたいな、聞いているこちらが恥ずかしくなるくらいロマンチックな歌詞の曲である。有名な曲のようで、テレサ・テンやフェイ・ウォンも歌っている。映画の後、YouTubeでいろいろな歌手のバージョンを聞いていたら、中国語ができなくても、カラオケで歌えるんじゃないか、自分、という気になった。20201125日)

 

Thursday, 3 December 2020

『映画』Bamboo Theatre (戏棚/劇棚)

 

20201010

Bamboo Theatre (/劇棚)」・・・Singapore Chinese Film Festival

公開年: 2020

製作国: 中国(香港)

監督: Cheuk Cheung(卓翔)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

 毎年45月頃に行われる中国語映画の映画祭、Chinese Film Festivalが、今年はCOVID-19の影響により、10月開催となった。と言っても、シンガポールではまだ映画館は、300席以上の映画館で150席まで、300席より小さい館では座席数の50%までを最大数としている。そのため今年の映画祭は、劇場で上映する作品とオンデマンド配信を行う作品の二種のプログラムを持ち、さらに、開会の挨拶、監督とのQ&Aセッション、パネルディスカッションは、オンラインで行われた。

 

 

 この「Bamboo Theatre」は、映画館で上映された。香港の各地で、祭事の時に寺の門前で行われるチャイニーズ・オペラ(曲)の上演。その会場となるのが、釘を使わずに竹で組み立てられた仮設劇場、「Bamboo Theatre」である。この映画は、出現しては消えていく仮設の劇場と、そこで働く人々を活写したドキュメンタリーである。

 

 映画は、竹の束が船で島へ運ばれて行くシーンから始まる。竹の束は陸に上げられ、作業員達によって劇場となるべく組み上げられて行く。アルミニウムらしき薄い金属を筒状に丸めたものが、竹の骨組みの一番上に上げられ、そこで広げられ、建物を覆う屋根となる。こうして劇場が形作られていった後は、劇団が荷物の搬入を行い、公演初日の準備が進み、初日の幕が開き、人々が集まって賑わう。そして映画の最後に、竹の劇場は解体されていく。

 


 

 大枠としては、劇場の設営から解体まで、その過程を描いているが、どこか一つの劇場や劇団にフォーカスしているわけではない。また、インタビューは一切なく、ただ建設作業員や劇団の面々の仕事ぶり、舞台での上演の模様、舞台裏の様子、劇場が設置された寺の門前の賑わい、そうしたものが淡々と映し出されていく。字幕で説明が入るが、それは最小限に抑えられており、後は前述したような映像とその編集によって、作り手の言わんとすることが表現されている。どのくらい説明がないかと言うと、この映画には複数の一座が登場するが、エンドクレジットで5つくらいの劇団名が出てきて、驚いたくらい。複数の劇団が出て来たとは思っていたが、こんなにあったとは。作品の中では、公演が行われる地名や演目名の字幕表示はあったが、何という劇団かという説明は(映像から分かる場合もあるが)全くなかったのである。役者達の名前も紹介しなかった。

 

 巡業する伝統的なチャイニーズ・オペラの俳優やスタッフと言えば、ちょっと変わった人生を送ってきた人もいるだろうし、面白いエピソードもいろいろ持っているのではないかと思われる。にも関わらず、特に誰かに、またはある集団に焦点を当てるということのないまま、作品は進んで行く。この点が、見る人によっては退屈と感じる部分かと思う。しかし私はむしろ、この場所—-伝統的なチャイニーズ・オペラを上演する仮設の劇場——とは何なのか、という問いかけに振り切った作品として評価をしたい。

 

 説明のための字幕は最小限に抑えられているが、一方、この仮設劇場という場を定義するための字幕は何度か挿入される。例えば、

 「この空間は、神と人を楽しませるための場である。」

 「この空間は、人が己の役割を捜し求め、そして家を見つける場である。」

 その後にそれぞれの定義を敷衍するような映像が続いていく。映画は一貫して、竹で作られた劇場の意義を求めて行く。

 

 香港というと高層ビルの立ち並ぶ風景をイメージしがちだが、約700万人という人口を抱える香港は、実は広かった(シンガポールよりも人口が多い)。多くの離島があり、そこにお寺があり、そして祭事には劇場が立つ。最先端都市の街並とは全く別の風景がそこにはある。芝居を見ている観客はやはり高齢者が多いのだが、しかし、お年寄りばかりでもない。線香が煙る祭壇にも、屋台が並ぶ境内にも、老若男女の賑わいがある。

 


 

 そして劇場内では、スタッフが着々とそれぞれの仕事を進め、俳優達が台本を手に打ち合わせをし、舞台監督が上演の進行を仕切っていく(舞台裏でコーラスにも参加していたりする)。白塗りの舞台化粧のスター俳優が、楽屋で老眼鏡をかけて台本を確認している。しかし、いよいよ本番ともなれば、衣装係の手を借りつつ、あの厚くて重そうな衣装をビシッと着こなす。スターの意気が大いに感じられる。一方、若い俳優は、大部屋で見本の写真を見ながら舞台化粧をする。彼女が舞台袖で出番を待っている時には、その緊張が見ているこちらにも伝わって来る。どちらも終始無言のシーンなのだが、その雰囲気までもが見事に捉えられている。

 


 

 しかし、このドキュメンタリーは、劇場の人々を活写することで、個々の人々を際立たせるというよりも、劇場という世界の森羅万象を描き出そうとしているように見える。劇場が作られ始めてから解体されるまでおよそ2ヶ月、そして劇場として使用されるのはわずか37日というかりそめの場。しかし、それは己の役割を知る人々が、黙々と働くことによって作り上げられる祝祭空間である。神々に感謝を捧げ、そして人々を楽しませるために、幻のように立ち現れる場。劇場とは建造物のことではない。このような特殊な場のことを言うのだと、改めて感じさせられた。作中、劇団の守り神の像を映したシーンが何度か挿入される。人々がそれぞれの仕事を果たし、その祝祭空間がつつがなく運営されている限り、守り神は優しく微笑んでいるかのようである。

 

 ところで、楽屋にいるスター俳優に対して、劇団員達が「おはようございます」と声をかけていくのだが、この、楽屋にいる先輩に「おはようございます」と挨拶をするという、日本の芸能界で行われていそうな習慣が、香港のチャイニーズ・オペラの劇団でも行われていることに感心した。芸能の世界では万国共通なのだろうか。20201025日)

 

Monday, 26 October 2020

『映画』Dantza(ダンツァ)

 

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Dantza(ダンツァ)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2018

製作国: スペイン

監督: Telmo Esnal(テルモ・エスナル)

振付: Juan Antonio Urbeltz

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 We Are One: A Global Film Festival」で配信された作品の一つ。サン・セバスティアン国際映画祭選。スペインはバスク州の映画祭が選んだのは、バスク州出身の監督が作るバスクダンスのダンス映画。ちょっと調べてみたら、この映画を製作した映画会社Txintxua Filmsもバスク州の会社だった。

 

 

 この映画はストーリーがあるわけではない。セリフもない。大自然や古い町並み、建造物の中で、人々が踊る、時に歌や楽隊の演奏に合わせて踊る、というだけの作品である。上映時間98分の間、場所を変え、衣装を変え、音楽を変え、編成を変えて、ひたすらダンス・シーンが続いていく。そのようなわけで、印象としては、大きなダンス・カンパニーの本公演で、一貫したストーリーはなく、いくつかの短い演目で構成されているものが映画になっている、という感じである。では、舞台作品を単純に映画化したような作品かというと、そうではない。見応えがあって、とても面白かったのだった。

 

 冒頭、草木の見えない広大な乾いた大地に、鍬を持った人々がやって来る。彼らが大地に鍬を入れ始めると、その耕す音はどんどんリズミカルになっていき、その動きは踊るようになっていく。こうしてダンスが始まる。それから、だいたい以下のようなダンスが繰り広げられていく。なお、セリフやナレーションがあるわけではないので、各シーンの説明には私の解釈が入っている。

       大地に雨が降り、洞窟で大地の神がソロで踊り、虹がかかる。

       固い大地から植物が生え、それがポールに変わる。ポールには布切れが巻かれているように見えるが、布切れと見えたものは、実はポールにくっついている精霊達だった。ポールから降りた彼女達は、メイポールダンスをする。

       メイポールダンスの途中、どこかから投げられたナイフによって、精霊の握っている綱の一本が切られ、その精霊は死ぬ。霧の立ちこめる浅瀬から、死神達が踊りながらやって来る。

       城塞から男達が死神達の元に向かう。夜、松明をともしながら死神達と戦い(踊り)、彼らに勝つ。

       まだ夜。男達は死神のリーダー(?)を城塞に運んで来る。一方、女達は手をつないで輪になり、歌いながら踊る。

       緑豊かな大地にポールが立っている。ポールを取り巻く美しい布は、今度もポールにくっついている精霊達だった。ポールを離れた彼女達は林檎を手にして収穫を祝う(踊る)。

       林檎酒の醸造所で働く男達が、ダンスの腕前を競い合って踊る

       (人々が大地を棒でついて掘り、鍛冶の炎が映し出される。幕間的映像。)

       ずっと時代が下ったように見える石畳の町。村長を先頭に、村人達が一列になって踊りながら広場に向かう。

       広場でお祭りが催される。林檎酒が運び込まれ、バーベキューを楽しみ、皆で踊る。

       ダンスの腕前を披露していた女性が、一人の男性とお祭りを抜け出し、森の中の小屋で二人だけで踊る。

       石柱に支えられた古い展望台で前述の男女の結婚式が行われる。楽団の奏でる音楽とともに、新郎新婦、出席者達が踊る。

       夜になるが、まだ皆踊り続けている。雪がちらつき始める。

       雪の降る中、新郎新婦を先頭に、皆二列に並んでステップを踏みながら帰って行く。

 

林檎を手にして踊る。
 

 バスクダンスは足さばきが重要なダンスのようで、右に左にステップを踏み、足を蹴り上げ、ジャンプして足をパタパタさせる、といった動きが特徴的。ジャンプした後、床の上に置いたコップの端に着地するというすごい技もある。手をつないで数珠つなぎになって、あるいは輪になって踊る姿は、いかにもフォークダンスっぽくて楽しそうだが、踊っている人達の足元を見ると複雑。もし、あまりリズム感があるとは言えない私が混じったら、一人だけ違う方向に踏み出し続けると思う。

 

 この映画は、様々な場所でのロケーション撮影によって構成されている。そのためか、カメラに入って来る自然光がまぶし過ぎるショットもたまにあるが、そういう所がドキュメンタリー作品っぽくもある。他にも広場でのお祭りで、人々が普通に食べて楽しんでいるようなシーンがあったりもする。とにかく、人々がいろいろな場所で踊り、彼らの衣装もまた場所によって様々で、時に美しく、時にユニークで、凝ったものである。

 

 しかし、それだけではダンス上演を映画にする醍醐味としては十分ではない。というわけで、カメラはもちろん、様々な視点や動きでバスクダンスの魅力を捉えようとする。輪になって踊る女達を上から眺めたり、二人きりで踊る男女に回転しながら近づいて行ったり。

 

 私が好きなのは、醸造所でのダンスである。醸造所で仕事中という設定なので、比較的狭い空間で、地味な色合いの衣装の男達が踊り比べを行う。人々が見守る中、各人が中央に進み出て自分のダンスを披露する。そのため、手前の端に見物する人を入れて横長の画面を狭くし、観客(と言っても映画館ではないが・・・)の目を中央で踊るダンサーに向けさせるようにしている。さらに、その後方で別のダンサーを踊らせることで、奥行きと動きを出してもいる。他にも、カメラが醸造所の外に出ると、そのフレームに飛び込んで来るダンサーがいたりして、色彩的には地味なシークエンスだが、楽しい。

 

 この醸造所での演出は、当たり前と言えば当たり前のものなのだろうが、その当たり前のことが、一連のダンスの動きに合うように、きちんと設計された上で行われているように見える。だから、無駄なものを見させられることがなく、楽しいのだと思う。また、メイポールダンスをしている精霊達の所に死神集団がやって来るシークエンスも、特に変わったカメラワークをしているわけではないが、とても面白い。面白いというより、恐い。霧の中、ガスマスクみたいな覆面をした者達が、浅瀬の水を蹴り上げて、足につけた鈴をシャンシャン鳴らしながらやって来る。この映像からしてすでに恐いのだが、彼らがどこかから次第次第に近づいて来る、という感じがよく表れるように撮られており、さらに恐い。

 

 原初から現代まで。乾いた大地から収穫の夏、そして冬へ。自然と文明、生命と死、祭りと婚礼。時代の変遷と、生命のライフサイクルとを一つにし、そのスケールと美、踊ることの喜びを十分に感じることのできる作品だった。

 

 今回のWe Are One: A Global Film Festival」で、様々な国の様々な表現の映画を見ることができ、楽しかった。国という意味においても表現という意味においても、自分の知らない景色を見ることのできる、映画とは世界に開かれた窓なのだと、月並みな感想だけど、そう思ったのだった。2020624日)

 


 

Saturday, 17 October 2020

『映画』Crazy World(クレイジー・ワールド)

 

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Crazy World(クレイジー・ワールド)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2019

製作国: ウガンダ

監督: Nabwana IGG

出演: Kirabo Beatrice, Bruce U

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 529日から67日まで、We Are One: A Global Film Festival」というオンライン・フィルム・フェスティバルが開催された。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行のため中止を余儀なくされる映画祭が多い中、トライベッカ映画祭のTribeca Enterprisesによって組織された映画祭である。世界中の名だたる映画祭が各々選んだ作品を集めており、プログラムは映画作品に限らず、トーク、パネル・ディスカッション、360VRVirtual Reality)作品など様々。一定期間の間、YouTubeでどの作品も無料で視聴できるようになっているが、COVID-19救済基金のための寄付も呼びかけている。

 

 この「Crazy World(クレイジー・ワールド)」はトロント国際映画祭発。ウガンダはWakaliwood製作のアクション映画である。Wakaliwood(ワカリウッド)とは、ウガンダのNabwana IGGが設立した映画製作会社Ramon Film Productionsのこと。ウガンダの首都カンパラのスラム地域ワカリガ(Wakaliga)で映画製作を行っているため、「Wakaliwood」と称しているらしい。超低予算というよりも、予算などないも同然の予算でアクション映画を製作し続けている。

 

 

ワカリウッドの創設者で監督のNabwana IGG
 

 ところで、まだボリウッド映画が日本で一般的に知られていなかった頃、学校の先輩に「サタジット・レイを見てこれがインド映画だと思うのは、熊井啓を見てこれが日本映画と思うようなものだ。」と言われたことがある。今からすると確かにその通りだと思う。さらに、そのサタジット・レイでさえ、かつて私がシンガポールで見た「The Elephant God」のような作品を撮っていることを知った。「The Elephant God」は、サタジット・レイ自身が書いた探偵小説の映画化作品で、探偵Feluda(フェルダー)が活躍する冒険活劇映画。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズみたいで面白かった覚えがある。それはともかく、私が言いたかったのは、ワカリウッドの映画を見て、ウガンダ映画はこういうものだと思ってしまったら、ウガンダの人達は困るのではないか?ということだ(まぁそんなふうに思う人はいないと思うけど)。

 

 要はそのくらい安っぽく、かつ、手作り感が満載。そしてもちろん、その点をけなすことはできる。また一方、予算のないことを察して、それでもよく頑張ったとほめることもできる。あるいは、珍作、カルト作という別の観点からほめることも。とにかく見終わった後、どうしていいかわからずちょっと呆然とする。が、一つ言えるのは、この映画は最後までそれなりに楽しく見られる作品であり、見終わった後に「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と自分に腹を立てる必要もなく、後5年くらいしてタイトルを見た時、自分が見たかどうか全く思い出せないという始末にはならない、ということだ(一つではなく、三つ言ってしまった)。ちなみに二番目、「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と思う人はいると思う。しかし、上映時間65分の作品なので、許していいと思う(上映時間90分くらいまでで収めてくれる長編映画は、個人的に好感度が高い)。また三番目、自分が見たかどうか思い出せないという始末にはならない、という点だが、(これしか見ていない私と違って)ワカリウッドの作品をいくつか見た人は、どれがどれだかわからなくなるかもなぁと思った。ある意味そのくらい、ワカリウッドという「ジャンル」として個性的。

 

 そして個性という観点から言えば、安っぽいということ、それ自体がもはやこの作品の個性となっている。緊張感に欠けた雰囲気、まるわかり過ぎるCG、地元そのままのロケーション(映画が始まる前に監督のNabwana IGGがワカリガの撮影所を紹介してくれる映像がついているのだが、その風景が映画のシーンと地続き的に同じ様子なので、どこから本編が始まったのか、一瞬わからなくなった)、ドキュメンタリー・タッチというのを通り越して、単に素でセリフをしゃべっているように見える俳優達。しかし、この作品はこうした欠点とも言えるべき要素を隠そうとはしない。むしろこうした要素を前面に出して、映画内の世界が映画として作られたものであることを表明している。作り物なのだから、安いCGのようなその作り物感も楽しんでくれと、見る者を誘うのだ。

 

 さらに、作品のメタ的な構造を決定的にすべく、「video joker」による変なナレーションが入っている。このナレーション、映画の最初から最後までずーっと入っている。時にサイレント映画の字幕のように登場人物の名前や役柄、状況を説明し、時にアクション・シーンの実況中継を変な合の手を入れながら行い、時に登場人物に突っ込み、時にワカリウッド映画を褒めちぎりもする。例えば、「(確かに私は俳優の顔を覚えるのが苦手だが)そんなに折に触れて何度も「Isaac Newton」言わんくても、この子がIssac Newton(役名ではない、彼自身の名前)なことはもうわかったよ、うるさいよ」、と思ってしまうほど、懇切丁寧な(または耳障りとも言う)ナレーションなのだ。その上、「海賊版を作るのはもちろんのこと、見るのもいけませんよ」という、本編とは関係のないエピソードが挿入され、出演俳優の旧作の紹介があり、もはや何でもありになっている。

 

 もしこの映画が、メタ的構造を利用したこうした遊びの部分だけのものだったら、単に仕上がりが安っぽいことの言い訳をしているようにしか見えなかっただろう。しかし、この映画の見所はそこではない。あくまでも銃撃戦やマーシャルアーツによるアクションが見せ場なのだ。分かりやすすぎるCGによるヘリコプターのシーンや建物崩落のシーンとは裏腹に、ここで登場する銃火器はそれっぽく作られている。しかも、撃たれた時に飛び散る血(血のり)は基本的にCGではない。この点もリアルさが追求された演出になっている。格闘シーンもしっかりしていて、大人の俳優だけではなく、出演している子供達も「カンフーマスター」なのだが、見ていて楽しい。「皆、足が長いなー」と子供達に感心した。だから彼らがキックを繰り出すと、とても決まって、カッコいいのだ。

 

 ちなみに、今さらながらストーリーを説明すると、このような感じである。

 ギャングの一味、Tiger Mafiaの極悪ボスMr. Big(でも小人である)は、子供を犠牲とすることによって建物を完成させる(日本の人柱的な?)ことを思いつき、部下達に子供達をさらって来るように命じる。兵士である主人公の娘も誘拐され、その時の銃撃戦で妻も殺されてしまった。月日は流れ、今や狂人としてゴミ捨て場で暮らす主人公のそばで、また一人の少年が誘拐される。少年の父親に助けを求められた主人公は、ついに復讐のため我が子を取り戻すため、立ち上がる。一方、誘拐された子供達も、大人顔負けの格闘能力を頼りに、脱出の機会を伺っていた。(なお、Mr. Bigが小人であるということが、ラストで効いてくる。)

 

 ところで、「狂人」になって以降の主人公は、派手なズタボロの出で立ちになるのだが、屈んで丸くなって背中を向けていると、そこら辺にある瓦礫の山と一体化することができる。この、ゴミ捨て場ファッションを利用した擬態シーンは一瞬だけなのだが、私には妙に面白かった。そんなことあんなこといろいろあり、チャーミングな映画だったなぁと思ったのだった。2020611日)

 

Tuesday, 29 September 2020

『映画』Alpha, The Right to Kill(アルファ 殺しの権利)

 

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Alpha, The Right to Kill(アルファ 殺しの権利)」・・・Singapore International Film Festival

公開年: 2018

製作国: フィリピン

監督: Brillante Mendoza(ブリランテ・メンドーサ)

出演: Allen Dizon(アレン・ディゾン), Elijah Filamor(エライジャ・フィラモー)

見た場所: Filmgarde Bugis+

 

映画祭プログラムからのあらすじ

フィリピン政府が進める麻薬撲滅戦争の中、マニラ警察は街の大物ドラッグディーラーの一人、アベルを逮捕するためのおとり作戦を準備する。作戦の鍵となるのは、貪欲な警察官エスピノと彼の情報屋(訳者注:警察の隠語でアルファという)であるエライジャ。エライジャは末端の麻薬密売人であり、アベルの信用を得ていた。SWATチームがスラム街を急襲すると、状況はたちまち警察とアベル達ギャングの一味との激しい衝突へとエスカレートしていく。(原文は英語)

 

  

 Singapore International Film Festival(シンガポール国際映画祭)で上映された作品。「Midnight Mayhem(深夜騒乱)」という枠のプログラムで、深夜1155分からの上映だった。

 

さて、フィリピンはマニラの警察署。古ぼけた警察署ビル内はいつも逮捕された被疑者で溢れかえっている。そのため窮屈で、しかも仕事が永遠に終わらなさそう。ここで働いているとノイローゼになるかも、という環境である。そして今、警察ではアルファであるエライジャをおとりに使った大物ドラッグディーラー逮捕のオペレーションを、実行に移さんとしていた。急襲作戦を前に緊迫感あふれる警察署内。マッチョな男達による気骨あるミーティング。それから舞台は大物ディーラー、アベルのアジトがあるスラム街へ。SWATチームが配置につき、おとりがアベルに接触、・・・そして急襲!銃撃!手に汗握るアクションが展開されていく。リアリティあるオペレーションの模様が描かれる一方、夜の大都会、屋根の上を逃げていく麻薬密売人達を空から撮ったシーンは、非常に美しい。今回の作戦の一員である警察官エスピノは、アベルが持ち出そうとした金と麻薬の詰まったデイパックを確保!警察の勝利!かと思いきや・・・えっ、それ持ってくの?エライジャに渡して?盗むの?

 

ここまでは、いかにも雑誌「映画秘宝」が好きそうな映画だなぁと思いながら、わくわくして見ていたのだった。そしてここから、悪徳警官を主人公としたノワール&アクション映画として展開していくのかなぁと思っていた。思っていたのだが・・・違った。この急襲作戦以降で描かれるのは、中流階級である警察官エスピノの生活であり、貧困にあえぐ麻薬密売人エライジャの生活である。特に、ゴミ集積場で妻と赤ん坊と暮らすエライジャの生活には悲しくさせられる。巨額の価値のあるデイパックを盗む手助けをしたにも関わらず、エスピノから渡されるのはほんの小遣い銭である。エライジャが近所の商店でおむつをバラ買いする(一パック買うお金はないので、「紙おむつ3個」みたいな感じで買う)その日暮らしぶりを見ると、こちらが落ち込む。そういうわけで、家庭人であっても、裏の顔ではエライジャのような下の者に高圧的なエスピノに、どうしても好感が持てない。しかし、そのエスピノも、表と同様、裏の世界でも中間管理職に過ぎないのだった・・・。

 

 エスピノもまた、麻薬で稼いだ金を「上納」しなくてはならない身分であり、その相手はもちろんギャングなどではなく、警察署にいる人物である。麻薬撲滅戦争の裏側、結局それは、「悪い奴ほどよく眠る」というピラミッド構造にすぎない。貧困層が浮かび上がれないのは、表の社会と変わらない。食うや食わずの末端の人間だけが取り締まられ、そして最も命の危険にさらされている。この映画で描かれる三人の人物、エライジャ、エスピノ、そしてこのピラミッドの頂点にいる人物は、「仕事」を離れれば三人ともが良き夫、良き父として描かれている。そこが恐いと言えば恐いところで、犯罪者だからと言って、特別な人々というわけではないのだ。

 

 映画は警察パレードで始まり、そして警察パレードで終わる。エライジャ達の物語を見て来た者にとっては、このラストシーンがなんと皮肉に見えることか。血湧き肉踊る警察のオペレーションの模様から一転、社会矛盾を比較的地味に描き込んだこの映画、見終わっても清々しい気持ちには全くなれない。しかし、警察好きな人は、前半部分をかなり堪能できるのではないかと思う。

 

 ところで、映画の中で伝書鳩に麻薬をつけて買い手に届けるというシーンがある。売り手と買い手が接触するのを避けるためなのだろうが、この古いような新しいような方法で、意外に買い手はきちんと支払っている様子である。やはり未払いにすると消されるせいだろうか。それにしても信用商売なんだなぁと思った。2020521日)

 

麻薬密売人としてまじめに働くエライジャ