Monday 26 October 2020

『映画』Dantza(ダンツァ)

 

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Dantza(ダンツァ)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2018

製作国: スペイン

監督: Telmo Esnal(テルモ・エスナル)

振付: Juan Antonio Urbeltz

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 We Are One: A Global Film Festival」で配信された作品の一つ。サン・セバスティアン国際映画祭選。スペインはバスク州の映画祭が選んだのは、バスク州出身の監督が作るバスクダンスのダンス映画。ちょっと調べてみたら、この映画を製作した映画会社Txintxua Filmsもバスク州の会社だった。

 

 

 この映画はストーリーがあるわけではない。セリフもない。大自然や古い町並み、建造物の中で、人々が踊る、時に歌や楽隊の演奏に合わせて踊る、というだけの作品である。上映時間98分の間、場所を変え、衣装を変え、音楽を変え、編成を変えて、ひたすらダンス・シーンが続いていく。そのようなわけで、印象としては、大きなダンス・カンパニーの本公演で、一貫したストーリーはなく、いくつかの短い演目で構成されているものが映画になっている、という感じである。では、舞台作品を単純に映画化したような作品かというと、そうではない。見応えがあって、とても面白かったのだった。

 

 冒頭、草木の見えない広大な乾いた大地に、鍬を持った人々がやって来る。彼らが大地に鍬を入れ始めると、その耕す音はどんどんリズミカルになっていき、その動きは踊るようになっていく。こうしてダンスが始まる。それから、だいたい以下のようなダンスが繰り広げられていく。なお、セリフやナレーションがあるわけではないので、各シーンの説明には私の解釈が入っている。

       大地に雨が降り、洞窟で大地の神がソロで踊り、虹がかかる。

       固い大地から植物が生え、それがポールに変わる。ポールには布切れが巻かれているように見えるが、布切れと見えたものは、実はポールにくっついている精霊達だった。ポールから降りた彼女達は、メイポールダンスをする。

       メイポールダンスの途中、どこかから投げられたナイフによって、精霊の握っている綱の一本が切られ、その精霊は死ぬ。霧の立ちこめる浅瀬から、死神達が踊りながらやって来る。

       城塞から男達が死神達の元に向かう。夜、松明をともしながら死神達と戦い(踊り)、彼らに勝つ。

       まだ夜。男達は死神のリーダー(?)を城塞に運んで来る。一方、女達は手をつないで輪になり、歌いながら踊る。

       緑豊かな大地にポールが立っている。ポールを取り巻く美しい布は、今度もポールにくっついている精霊達だった。ポールを離れた彼女達は林檎を手にして収穫を祝う(踊る)。

       林檎酒の醸造所で働く男達が、ダンスの腕前を競い合って踊る

       (人々が大地を棒でついて掘り、鍛冶の炎が映し出される。幕間的映像。)

       ずっと時代が下ったように見える石畳の町。村長を先頭に、村人達が一列になって踊りながら広場に向かう。

       広場でお祭りが催される。林檎酒が運び込まれ、バーベキューを楽しみ、皆で踊る。

       ダンスの腕前を披露していた女性が、一人の男性とお祭りを抜け出し、森の中の小屋で二人だけで踊る。

       石柱に支えられた古い展望台で前述の男女の結婚式が行われる。楽団の奏でる音楽とともに、新郎新婦、出席者達が踊る。

       夜になるが、まだ皆踊り続けている。雪がちらつき始める。

       雪の降る中、新郎新婦を先頭に、皆二列に並んでステップを踏みながら帰って行く。

 

林檎を手にして踊る。
 

 バスクダンスは足さばきが重要なダンスのようで、右に左にステップを踏み、足を蹴り上げ、ジャンプして足をパタパタさせる、といった動きが特徴的。ジャンプした後、床の上に置いたコップの端に着地するというすごい技もある。手をつないで数珠つなぎになって、あるいは輪になって踊る姿は、いかにもフォークダンスっぽくて楽しそうだが、踊っている人達の足元を見ると複雑。もし、あまりリズム感があるとは言えない私が混じったら、一人だけ違う方向に踏み出し続けると思う。

 

 この映画は、様々な場所でのロケーション撮影によって構成されている。そのためか、カメラに入って来る自然光がまぶし過ぎるショットもたまにあるが、そういう所がドキュメンタリー作品っぽくもある。他にも広場でのお祭りで、人々が普通に食べて楽しんでいるようなシーンがあったりもする。とにかく、人々がいろいろな場所で踊り、彼らの衣装もまた場所によって様々で、時に美しく、時にユニークで、凝ったものである。

 

 しかし、それだけではダンス上演を映画にする醍醐味としては十分ではない。というわけで、カメラはもちろん、様々な視点や動きでバスクダンスの魅力を捉えようとする。輪になって踊る女達を上から眺めたり、二人きりで踊る男女に回転しながら近づいて行ったり。

 

 私が好きなのは、醸造所でのダンスである。醸造所で仕事中という設定なので、比較的狭い空間で、地味な色合いの衣装の男達が踊り比べを行う。人々が見守る中、各人が中央に進み出て自分のダンスを披露する。そのため、手前の端に見物する人を入れて横長の画面を狭くし、観客(と言っても映画館ではないが・・・)の目を中央で踊るダンサーに向けさせるようにしている。さらに、その後方で別のダンサーを踊らせることで、奥行きと動きを出してもいる。他にも、カメラが醸造所の外に出ると、そのフレームに飛び込んで来るダンサーがいたりして、色彩的には地味なシークエンスだが、楽しい。

 

 この醸造所での演出は、当たり前と言えば当たり前のものなのだろうが、その当たり前のことが、一連のダンスの動きに合うように、きちんと設計された上で行われているように見える。だから、無駄なものを見させられることがなく、楽しいのだと思う。また、メイポールダンスをしている精霊達の所に死神集団がやって来るシークエンスも、特に変わったカメラワークをしているわけではないが、とても面白い。面白いというより、恐い。霧の中、ガスマスクみたいな覆面をした者達が、浅瀬の水を蹴り上げて、足につけた鈴をシャンシャン鳴らしながらやって来る。この映像からしてすでに恐いのだが、彼らがどこかから次第次第に近づいて来る、という感じがよく表れるように撮られており、さらに恐い。

 

 原初から現代まで。乾いた大地から収穫の夏、そして冬へ。自然と文明、生命と死、祭りと婚礼。時代の変遷と、生命のライフサイクルとを一つにし、そのスケールと美、踊ることの喜びを十分に感じることのできる作品だった。

 

 今回のWe Are One: A Global Film Festival」で、様々な国の様々な表現の映画を見ることができ、楽しかった。国という意味においても表現という意味においても、自分の知らない景色を見ることのできる、映画とは世界に開かれた窓なのだと、月並みな感想だけど、そう思ったのだった。2020624日)

 


 

Saturday 17 October 2020

『映画』Crazy World(クレイジー・ワールド)

 

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Crazy World(クレイジー・ワールド)」・・・We Are One: A Global Film Festival

公開年: 2019

製作国: ウガンダ

監督: Nabwana IGG

出演: Kirabo Beatrice, Bruce U

見た場所: 自宅(無料動画配信)

 

 529日から67日まで、We Are One: A Global Film Festival」というオンライン・フィルム・フェスティバルが開催された。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行のため中止を余儀なくされる映画祭が多い中、トライベッカ映画祭のTribeca Enterprisesによって組織された映画祭である。世界中の名だたる映画祭が各々選んだ作品を集めており、プログラムは映画作品に限らず、トーク、パネル・ディスカッション、360VRVirtual Reality)作品など様々。一定期間の間、YouTubeでどの作品も無料で視聴できるようになっているが、COVID-19救済基金のための寄付も呼びかけている。

 

 この「Crazy World(クレイジー・ワールド)」はトロント国際映画祭発。ウガンダはWakaliwood製作のアクション映画である。Wakaliwood(ワカリウッド)とは、ウガンダのNabwana IGGが設立した映画製作会社Ramon Film Productionsのこと。ウガンダの首都カンパラのスラム地域ワカリガ(Wakaliga)で映画製作を行っているため、「Wakaliwood」と称しているらしい。超低予算というよりも、予算などないも同然の予算でアクション映画を製作し続けている。

 

 

ワカリウッドの創設者で監督のNabwana IGG
 

 ところで、まだボリウッド映画が日本で一般的に知られていなかった頃、学校の先輩に「サタジット・レイを見てこれがインド映画だと思うのは、熊井啓を見てこれが日本映画と思うようなものだ。」と言われたことがある。今からすると確かにその通りだと思う。さらに、そのサタジット・レイでさえ、かつて私がシンガポールで見た「The Elephant God」のような作品を撮っていることを知った。「The Elephant God」は、サタジット・レイ自身が書いた探偵小説の映画化作品で、探偵Feluda(フェルダー)が活躍する冒険活劇映画。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズみたいで面白かった覚えがある。それはともかく、私が言いたかったのは、ワカリウッドの映画を見て、ウガンダ映画はこういうものだと思ってしまったら、ウガンダの人達は困るのではないか?ということだ(まぁそんなふうに思う人はいないと思うけど)。

 

 要はそのくらい安っぽく、かつ、手作り感が満載。そしてもちろん、その点をけなすことはできる。また一方、予算のないことを察して、それでもよく頑張ったとほめることもできる。あるいは、珍作、カルト作という別の観点からほめることも。とにかく見終わった後、どうしていいかわからずちょっと呆然とする。が、一つ言えるのは、この映画は最後までそれなりに楽しく見られる作品であり、見終わった後に「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と自分に腹を立てる必要もなく、後5年くらいしてタイトルを見た時、自分が見たかどうか全く思い出せないという始末にはならない、ということだ(一つではなく、三つ言ってしまった)。ちなみに二番目、「どうしてこんなものを見てしまったのだ?」と思う人はいると思う。しかし、上映時間65分の作品なので、許していいと思う(上映時間90分くらいまでで収めてくれる長編映画は、個人的に好感度が高い)。また三番目、自分が見たかどうか思い出せないという始末にはならない、という点だが、(これしか見ていない私と違って)ワカリウッドの作品をいくつか見た人は、どれがどれだかわからなくなるかもなぁと思った。ある意味そのくらい、ワカリウッドという「ジャンル」として個性的。

 

 そして個性という観点から言えば、安っぽいということ、それ自体がもはやこの作品の個性となっている。緊張感に欠けた雰囲気、まるわかり過ぎるCG、地元そのままのロケーション(映画が始まる前に監督のNabwana IGGがワカリガの撮影所を紹介してくれる映像がついているのだが、その風景が映画のシーンと地続き的に同じ様子なので、どこから本編が始まったのか、一瞬わからなくなった)、ドキュメンタリー・タッチというのを通り越して、単に素でセリフをしゃべっているように見える俳優達。しかし、この作品はこうした欠点とも言えるべき要素を隠そうとはしない。むしろこうした要素を前面に出して、映画内の世界が映画として作られたものであることを表明している。作り物なのだから、安いCGのようなその作り物感も楽しんでくれと、見る者を誘うのだ。

 

 さらに、作品のメタ的な構造を決定的にすべく、「video joker」による変なナレーションが入っている。このナレーション、映画の最初から最後までずーっと入っている。時にサイレント映画の字幕のように登場人物の名前や役柄、状況を説明し、時にアクション・シーンの実況中継を変な合の手を入れながら行い、時に登場人物に突っ込み、時にワカリウッド映画を褒めちぎりもする。例えば、「(確かに私は俳優の顔を覚えるのが苦手だが)そんなに折に触れて何度も「Isaac Newton」言わんくても、この子がIssac Newton(役名ではない、彼自身の名前)なことはもうわかったよ、うるさいよ」、と思ってしまうほど、懇切丁寧な(または耳障りとも言う)ナレーションなのだ。その上、「海賊版を作るのはもちろんのこと、見るのもいけませんよ」という、本編とは関係のないエピソードが挿入され、出演俳優の旧作の紹介があり、もはや何でもありになっている。

 

 もしこの映画が、メタ的構造を利用したこうした遊びの部分だけのものだったら、単に仕上がりが安っぽいことの言い訳をしているようにしか見えなかっただろう。しかし、この映画の見所はそこではない。あくまでも銃撃戦やマーシャルアーツによるアクションが見せ場なのだ。分かりやすすぎるCGによるヘリコプターのシーンや建物崩落のシーンとは裏腹に、ここで登場する銃火器はそれっぽく作られている。しかも、撃たれた時に飛び散る血(血のり)は基本的にCGではない。この点もリアルさが追求された演出になっている。格闘シーンもしっかりしていて、大人の俳優だけではなく、出演している子供達も「カンフーマスター」なのだが、見ていて楽しい。「皆、足が長いなー」と子供達に感心した。だから彼らがキックを繰り出すと、とても決まって、カッコいいのだ。

 

 ちなみに、今さらながらストーリーを説明すると、このような感じである。

 ギャングの一味、Tiger Mafiaの極悪ボスMr. Big(でも小人である)は、子供を犠牲とすることによって建物を完成させる(日本の人柱的な?)ことを思いつき、部下達に子供達をさらって来るように命じる。兵士である主人公の娘も誘拐され、その時の銃撃戦で妻も殺されてしまった。月日は流れ、今や狂人としてゴミ捨て場で暮らす主人公のそばで、また一人の少年が誘拐される。少年の父親に助けを求められた主人公は、ついに復讐のため我が子を取り戻すため、立ち上がる。一方、誘拐された子供達も、大人顔負けの格闘能力を頼りに、脱出の機会を伺っていた。(なお、Mr. Bigが小人であるということが、ラストで効いてくる。)

 

 ところで、「狂人」になって以降の主人公は、派手なズタボロの出で立ちになるのだが、屈んで丸くなって背中を向けていると、そこら辺にある瓦礫の山と一体化することができる。この、ゴミ捨て場ファッションを利用した擬態シーンは一瞬だけなのだが、私には妙に面白かった。そんなことあんなこといろいろあり、チャーミングな映画だったなぁと思ったのだった。2020611日)