Sunday 26 April 2020

『映画』Zombiepura(ゾンビプーラ)


20181025
Zombiepura(ゾンビプーラ)」・・・国旗掲揚!
公開年: 2018
製作国: シンガポール
監督: Jacen Tan(ジェイセン・タン)
出演: Alaric(アラリック), Benjamin Heng(ベンジャミン・ヘン), Joey Pink Lai
見た場所: Golden Village Paya Lebar

監督のJacen Tan(ジェイセン・タン)が、7年の歳月をかけ、予算90万シンガポールドルで作ったシンガポール初のゾンビ映画!公開初日のSingapore Film Society(シンガポール・フィルム・ソサエティ)の上映会に行った。監督のジェイセン・タン、プロデューサーであり出演俳優でもあるAlaric(アラリック)とBenjamin Heng(ベンジャミン・ヘン)の三人がゲストとして来場。

某小国(と言っても、あきらかにシンガポールだが。タイトルのZombiepuraZombieSingapuraの合成語で、Singapuraはシンガポールの古名)の予備兵の陸軍キャンプ。ダラダラと任務についていた予備兵達だが、そこにゾンビが!というホラーコメディである。


孤立した陸軍キャンプ内で仲間達はどんどんゾンビになっていく。これに立ち向かうのが、へなちょこ予備兵のTan Kayu(カユ)伍長(アラリック)とカユの天敵である職業軍人(と思われる)のLee Siao On(リー)軍曹(ベンジャミン・ヘン)。そして、キャンプ内の食堂の看板娘(Joey Pink Lai)。運悪く彼女は、食堂を切り盛りする元ミス・チャイナタウンだった(というこのスケールの小ささがいい)のが自慢の母親に、「お前がいると食堂の売上が上がる」と言われ、手伝いに来させられていたのだった。

ヒロインの看板娘に「怠け者で臆病な」伍長と「傲慢で自分勝手な」軍曹と、身も蓋もないがきわめて的確に表現されたカユとリー軍曹が、ゾンビだらけのキャンプからなんとか脱出しようとしているうちに、次第にバディになっていくという物語である。そして最後には二人とも、人々を守る本物の「兵士」として成長する。

陸軍キャンプ内で事件が発生しているにも関わらず、誰もゾンビを殺すことをしない。物語の中ではゾンビという表現は使われず、カユ達は、人々が何か恐ろしい伝染病にかかって発狂してしまったとみなす。しかし、観客からすればどう見てもゾンビにしか見えないので、「いっそのこと殺してしまえばどうか?殺さないと殺される(ゾンビにされる)のだが?」と歯がゆくなってくる。カユ達はただゾンビから逃げまどうばかりだが、この作品のユニークさとコメディとしての面白さはここにある。舞台となっている陸軍キャンプは、ハリウッド映画でよく見るようなキャンプではない。シンガポールの予備兵を集めたキャンプなのだ。

シンガポールにはNational Serviceという一種の徴兵制度があり、男子は二年間、軍隊等で訓練を受けなくてはならない。この勤めを終えて社会に出た後も、40歳くらいになって除隊とされるまでは、予備兵として定期的に招集される。カユはとりわけ怠け者だが、カユに限らずキャンプにいる他の仲間達も、何日間かかったるいおつとめをしなくてはならない、という気持ちは同じである。映画の最初の方でカユはぼやく。「この国は安全じゃないか。それに小さな国なんだから、爆弾を落とされたら全て破壊されて終わりなのに、なんで予備役があるんだよ。」 だから、リー軍曹のような「軍人」風をふかす輩は、ただウザいだけである(しかし、上官なので逆らえない。そこは軍隊)。しかし、そのリー軍曹だって、どれだけ非常事態に対応できるかと言うと、結局のところカユとそう変わらない。このキャンプには十分に武器がある。また、皆が少なくとも二年の(二年も)訓練は受けているので、その知識もあれば使い方も心得ている。でも、誰もそれを使う度胸が全くない。そこがとても可笑しい。

そしてカユは、そんな根性なしの見本みたいな存在だが、途中ついに一度だけ銃を使うことになる。これまでがこれまでだけに、このシーンはグッとくる。こうしてだんだんと勇気をもって困難に立ち向かうようになるカユと、威張るだけでなく協力しあうようになっていくリー軍曹。

カユとリー軍曹はゾンビ達に襲われて、国旗を掲揚しているポールによじ登る。ポールからそばの建物の二階に移ろうとする二人。建物に移ったカユは、リー軍曹の手を掴んで引き上げようとする。がっちりと握りあったカユとリー軍曹の手のクローズアップ、その背景にはためく国旗…典型的な軍隊の宣伝ポスターの構図で、大爆笑のシーンだった。

二人がバディになる瞬間の感動シーンのはずなのだが、そこでシンガポールの軍隊を茶化す余裕がいい。そもそもこの映画では、冒頭から兵役あるあるギャグがそこここに仕掛けられていて、シンガポールで兵役を経験した人にとってはかなり面白いらしい。私は兵役に行っていないが、このシーンは笑った。

このポールのシーンの後から、脱出するためにヘリポートへと向かうクライマックスまでの間が、若干同じことの繰り返しになってしまっている、という難点はある。でも、全般的に楽しい作品だった。

 上映終了後は、監督達とのQ&Aセッションがあった。脚本を書いたのはジェイセン・タン監督自身だが、この映画のアイデアは、(もちろんと言うべきか)監督が自身の兵役中に思いついたものである。インディペンデントの小さな映画で、政府の協力を得ているわけでもないので、舞台となる予備役キャンプには、古い発電所の跡地が利用されている。それだけではない。この映画、誰がどう見てもシンガポールが舞台となっているのだが、実は映画内で「シンガポール」とは一言も言っていない(と思う)。国旗はシンガポール国旗のように見えるが、六つ星になっており(本物は五つ星があしらわれている)、軍服もいかにもそれっぽいのだが違う。

そして一番すごいと思ったのが、ゾンビ達がそれを聞いている間は動きを止めている、その「国歌」。Zubir Said(ズビル・サイード)作曲のシンガポール国歌「Majulah Singapura(マジュラ・シンガプラ)」の歌詞なしバージョンっぽいのだが、でもなんか違う…それっぽいのに全く別物なのである。政府の協力がないことを逆手に取って、映画全体がシンガポールの軍隊のパロディとなっている。ちなみにゾンビ達が国歌に反応するのは、国歌が流れて国旗掲揚するときには直立不動、という彼らが兵隊だった時の習慣を、体が覚えこんでいるためである。一種自虐ともとれることを笑いに転換していく。この手際を、やるなぁと思ったのだった。2020222日)

『映画』Approved for Adoption(Couleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)


20181028
Approved for AdoptionCouleur de peau: Miel/はちみつ色のユン)」・・・Painting with Light (Festival of International Films on Art)
公開年: 2012
製作国: フランス、ベルギー、韓国、スイス
監督: Jung(ユン), Laurent Boileau(ローラン・ボアロー)
見た場所: National Gallery Singapore

National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術についての映画を集めた映画祭「Painting with Light」で上映。この「Approved for Adoption(原題Couleur de peau: Miel)」は、ベルギーのバンド・デシネ作家Jung(ユン)が、自らの半生をアニメーションとドキュメンタリー映像で描いた作品で、ドキュメンタリーの作り手であるLaurent Boileau(ローラン・ボアロー)との共同監督作。日本でも「はちみつ色のユン」というタイトルで公開された。

映画祭のプログラムから

冒頭、雪の積もる山間の施設から、先生のような人と一緒に歌いながら歩いてくるアジア系の子供達。一転して食堂のシーンになり、子供達がお椀に注がれたお粥を食べている。自分に与えられたお椀を食べ終わると、隣の子が食べ残していったお椀を当然のように取り上げて、ひたすら食べ続けている男の子が一人いる。この子が、この作品の主人公、ユンである。彼の境遇とどんなキャラクターの子であるのかをこの最初の数分で描き切った、非常に印象的な出だしだった。

ユンは、朝鮮戦争後、海外に養子縁組に出された20万人の孤児の一人である。彼らは米兵と韓国人の母親との間に生まれた子などで、母親が韓国社会の中で子供を育てることができずに捨てられ、海外に養子としてもらわれて行ったのである。ユンも5歳の頃、1人でソウルの通りをさ迷い歩いているところを警察に保護され、孤児院に収容された。そして、ベルギーの夫婦に引き取られて海を渡った。

映画は、アニメーションによるユンの子供時代の回想を中心に、養父母達が撮影した当時の8mm(?)映像、朝鮮戦争後の韓国の状況を説明する記録映像、そして現在、四十代のユンが、養父母に引き取られて以来初めて韓国に「帰った」時の様子を撮影した映像からなっている。

 養父母にはすでに男女合わせて四人の実子がいた。冒頭のシーンからわかるようになかなかタフな性格のユンは、しっかりした養父母の元、四人の子供達とともに、かなりやんちゃな子供としてのびのびと育っていった。しかし、その一方で時おり開かれる密かな記憶の扉があった。


人種が違うゆえにどうしても養子であることを意識せざるを得ない瞬間。街をさ迷っていた孤児の頃。そして(自分を捨てた)顔も思い出せない幻のような母。自分は愛されていたのか、そして愛されているのか。腕白坊主として振舞っているだけにいっそう、言い知れぬその悩みは深い。

 ティーンエイジャーになると、その不安はアイデンティティの揺らぎとともに、ユンの生活態度に現れるようになる。(同じアジアのせいか)日本人に憧れてみるのはまだしも、家出して教会に転がり込み、そこで韓国人たらんとして、ご飯にタバスコ(!)をかけて食べ続ける。(韓国人なら辛い物が食べられるという認識なのだ。)

 タバスコご飯で体を壊したユンを家に連れ帰り、彼の苦悩を優しく受け止めたのは、ベルギーの養母だった。その時、ユンが夢想してきた幻の母はようやく実体を持つ。最後のユンのナレーションの一部、
「人が自分にどこから来たのかと問うのなら、自分はここからで、同時に、別のどこかからなのだ。自分はアジアであり、そしてヨーロッパである。」
 どちらでもない、のではなく、どちらでもある。ユンがそこに行き着くラストは、とても感動的だった。

 ところで、ユンの養父母はさらにもう一人韓国人の女の子を養子にするのだが、養父母が体の弱いその子を特に気遣うことにやきもちを妬いたユンは、こっそり彼女をいじめる。人が悪いことだが、私はこのシーンが何となく好き。2020325日)