Tuesday 21 February 2017

『演劇』Ibsen: Ghosts(イプセン:幽霊)


201677
Ibsen: Ghosts(イプセン:幽霊)」———ゆきてかえらぬ物語
国: ドイツ
演出・着想・構想・テキスト: Markus & Markus(マーカス&マーカス) (Lala-Joy Hamann, Katarina Eckold, Manuela Pirozzi, Markus Schafer, Markus Wenzel)
出演: Markus Schafer, Markus Wenzel
見た場所: SOTA Studio Theatre

 Singapore International Festival of Artsの前夜祭的なフェスティバル、The O.P.E.N.のプログラムの一つ。一年があっという間に巡って来る。最近は時の経つのが恐ろしく早い。それはともかく、「イプセン:幽霊」というタイトルがついているが、別にイプセンの「幽霊」の上演ではない。一言で言うと、これは安楽死についての作品なのである。

 マーゴットは81歳。長年の病に耐えつつ一人暮らしをするドイツの老婦人である。この世の煩いから解放され、また自分の世話が友人達の負担になるのも好まず、自殺幇助が法律で認められている国、スイスに渡る。自殺予定日は、201451日。

 この作品は、演劇集団マーカス&マーカスが、特にパフォーマーである二人のマーカス(Markus SchaferMarkus Wensel)が、最期の一ヶ月間をマーゴットとともに過ごし、彼女の死を見届けた、その足跡をまとめたものである。作品は、当時撮影したビデオ映像、経過報告調の語り、彼女の手紙や日記の紹介、実際の出来事やイメージを喚起するパフォーマンス(15分毎に薬を飲む動作、ぬいぐるみを客に見立てたホーム・パーティー、大鎌を持った幽霊等々)といった雑多な断片から成っている。しかし、そこで一貫して問うているのは、死の意味と安楽死についてである。注目すべきは、マーゴットがいたからこの「イプセン:幽霊」が出来たのではなく、彼らは作品作りのためにそのオープニング・ナイト前に死んでくれる人を探し、見つけたのがマーゴットなのである。

古典的なシーツのお化け。安っぽさが魅力

 冒頭、オペラ「マダム・バタフライ」からの曲のリップシンクで始まり、その後も「若きウェルテルの悩み」(だと思ったのだが・・・)、「ロミオとジュリエット」「トスカ」等々、自ら死を選んだ人達の死の場面が再現される。ぶっちゃけた話、「イプセン:幽霊」と銘打っているものの、イプセンの「幽霊」とは関係のない作品である。病気による安楽死という問題が語られているだけで。作品を作るにあたって、「幽霊」が一つのインスピレーションとなった、ということだと思う。

 とはいうものの、マーゴットとマーカス達とで、「幽霊」最終幕の、主人公と彼女の息子との対話を読み合わせする、というビデオ映像がある。死、とりわけ自らが望む死について考える一つの材料となっているわけだが、けだしこの作品で取り上げられていることの一つ一つが———それがマーゴットに直接関係することに限らず———、それを思い出させ、考えさせる契機となるべく作られている。

 この作品で、私達はマーゴットがどんな人なのかを、ある程度知ることができる。しかし、彼女がどんな過去を持ち、どんな考えであるか、それを掘り下げることはない。私がこの作品を好きな点はそこで、例えば彼女を質問攻めにしたりして、安楽死を選ぶ人はどんなタイプなのか、ということを分析したりはしない(もちろん、元は赤の他人とはいえ、ひと月一緒にいたことで知り得た彼女の人となりやバックグラウンドについて、彼らは知っている)。なぜなら作り手のマーカス&マーカスにとって、安楽死は誰にでも起こり得る、そして誰もが選択し得ることだからだろう。ビデオ映像の中の彼女は高齢であり、歩行器に頼っているものの、達者そうに見える。マーカス達のリポートによると、いくつかの病気を抱えているらしいのだが、死に臨む悲壮感というものはない。正直、映像を見た印象は、いつもマーカス達と自宅で楽しそうに飲み食いしている、というものである。そして実際、取りようによってはすごいブラックジョークなのだが、マーゴット自身が、「今こんな楽しいと、死ぬ計画を中止しようかと思ってしまうわね。でも、中止するとあなた達の演劇をダメにしてしまうし。」と言っている。

 マーゴットは、死ぬことも今まで経験したことのない一つの経験であると言った。それを反映するかのように、彼らのパフォーマンスは、ぬいぐるみのパーティー、映画「ゴースト・バスターズ」のテーマソングとともに踊る白い布のお化け、安楽死で使用される薬についてのパワー・ポイントによるプレゼン(バケツ一杯、3kg分の薬の見本を客席に回すサービス付き)等々、遊びに満ち、自ら死を選んだ人について語る暗さはない。マーゴットとマーカス達は、スイスに渡り、諸手続きを行い、友人達を招いてパーティーを開き、その日にために着々と準備を進めていく。死そのものだけではなく、その準備も含めて全てが、マーゴットにとっての冒険であり、マーカス達にとっても冒険であった。だからと言って、死は簡単にできる冒険ではない。直接に多くは語らないが、彼女だって苦渋の策として死を選んだのだと思う。

 マーゴットがいよいよ死に旅立つという映像を見せる前、マーカス達は世界の葬儀と死者に関する「奇習」を紹介する。葬儀で飲めや歌えやのパーティーを行ったり、死者に話しかけたりといった奇習を紹介し、観客の中にそういった経験のある人がいるかどうかを聞く。シンガポールでは人種・宗教を問わず、たいていはごく一般的な方法で葬儀しているため、そんな経験のある人はそうはいない(しかし、一人、二人はいるものである)。そんな、死者と生者とが近しい奇習についてカジュアルな雰囲気で話していた次の瞬間、二人のマーカス達は真剣に叫ぶ。

 いかに人々が常々死を思っていないか。しかし、自分達は彼女の死の瞬間まで見届けてしまった。そして彼女が息を引き取ってから、彼女の存在がどれほど忘れ難いものになってしまったか。

 極端な言い方をすれば、マーカス達にとって、マーゴットは安楽死を考える上での貴重な、しかし「一例」であった。それが奇妙なことに、安楽死を成功させるという同じ目的を持ってひと月の交際をした結果、彼らにとってマーゴットは忘れ難き人となった。死してなお人々の胸に生き続けるというあの陳腐な言い回しが、単に陳腐なのではなく、一つの真実であることを、彼女は彼らに体感させたのだ。安楽死を考えるというコンセプチュアルな取り組みの返す刀で、死=人を失うことの心の痛みを訴えかけ、この作品は、社会的にラディカルであるだけではなく、極めて感動的なものとなった。個人的な理由により彼女は安楽死を求め、社会は彼女のその最期の願いを叶えることができた。我々は彼女を幸福に死なせてあげることができたと言えるかもしれないが、しかしその一方で、親しかった人が死ぬのは単純に悲しい。人が死ぬと悲しいなんてわかりきったことだが、人はその「わかりきったこと」を常々どれだけ真剣にとらえているだろうか。マーカス達が訴えたのはそこだったと思う。

 この後、いよいよその日が来て、担当の医師によって薬が用意される。点滴で流される薬は、マーゴットが最後の最後でためらえば自分で中止できるようになっているが、彼女はそうしない。マーゴットが静かに息を引き取り、その遺体が棺で運ばれる映像が流れる。そしてマーカス達は、彼女が好きだったバレエ「ジゼル」を踊り(まぁ、一応。上手くないけど・・・)、作品は終わる。

 さて、マーカス達は上演の度ごとに彼女に別れを告げ、彼女の死を悲しみ、彼女を思い出す。しかしその一方で、作品である以上、その全ては予定されているフォーマットでもある。彼女の死を悼む「現実」と繰り返されるパフォーマンスの「虚構」との間に明白な線引きはない。それは舞台芸術の舞台芸術たる特徴であるが、死に対する客観と感情というこの作品の両側面を、まさに体現したものでもあった。

 人は皆一人である、とはマーゴットの言葉である。それは突き放した人生観であるように見えるが、私には何か勇気づけられるものを感じさせる。一人だからこそ、たまに誰かに助けてもらえれば嬉しいし、たまに誰かと一緒にいれば楽しいのだろう。そしてどんなに多くの人が見取ってくれたとしても、最期の旅立ちは一人である。しかし、そこを気にする必要はない。そもそも人は最初から一人だったのだから。「どんな旅人も帰って来たことがない」とハムレットが恐れた旅路。その冒険には一人で乗り出さなくてはならないからこそ、今しばらくの少しの間は、見知らぬ若者達と一緒にいてみてもいい。マーゴットはそう思ったのではないだろうか。2017219日)