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Sunday, 15 September 2019

『演劇』1984(1984年)--- シンガポール・インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ


2018428
1984(1984年)」———Singapore International Festival of ArtsSIFA
国:  イギリス、オーストラリア
原作: George Orwell(ジョージ・オーウェル)
演出: Robert Icke(ロバート・アイク), Duncan MacMillan(ダンカン・マクミラン)
出演: Tom Conroy, Terence Crawford, Rose Riley
見た場所: Esplanade Theatre(エスプラネード・シアター)

 2018年のSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)、メイン・プログラムの一本である。この2018年から、Theatre Works(シアター・ワークス)のOng Keng Sen(オン・ケンセン)に代わり、The Singapore Repertory Theatre(シンガポール・レパートリー・シアター)のGaurav Kripalani(ガウラ・クリパラ—二)がフェスティバル・ディレクターに就任した。新しいディレクターの元、まず日程が89月から45月に変わった。これは、毎年4月後半から5月にかけて開催されているChinese Film Festival(チャイニーズ・フィルム・フェスティバル)と完全にスケジュールがかぶっているので、正直迷惑だった。いや、映画を見に行く人は、普通演劇は見に行かないのかもしれない。しかし、SIFAには映画上映のプログラムもあるのだけど。それはともかく、プログラム自体は、オン・ケンセン時代の、演劇やダンス、コンサートといったジャンルの枠を越え、表現形式そのものから前衛を志向していたような作品群に比べ、よりオーソドックスなものだった。しかし、比較的オーソドックスな表現形式を持ちながらも、社会的でかつ重いテーマを取り扱った作品が多かった、という印象。メイン会場であるエスプラネード・シアターでのオープニングがこの「1984」なら、クロージングはドイツのSchaubuhne Berlin(ベルリン・シャウビューネ)による、ヘンリック・イプセンの「民衆の敵」。どれだけ観客を嫌な気持ちにさせれば気が済むんだよ、と思った。(もう「民衆の敵」は見に行かなかった。)


 この「1984」は、ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説「Nineteen Eighty-Four1984年)」の舞台翻案作品である。ちょっとややこしいのだが、今回上演された作品は、元々ロバート・アイクとダンカン・マクミランが台本、演出にあたったイギリスのHeadlong(ヘッドロング)、Nottingham Playhouse(ノッティンガム・プレイハウス)、Almeida Theatre(アルメイダ・シアター)のプロダクションだった。それをオーストラリアのState Theatre Company of South Australia(ステイツ・シアター・カンパニー・オブ・サウス・オーストラリア)がオーストラリア・キャストで上演したバージョンである。と思う。

 鑑賞に先立って、原作の日本語訳を読み始めたのだが、当日までに読み終わらなかった。そのため、主人公ウィンストン・スミスの運命を知らないで見に行ったのだが、まぁー予想通り嫌な話だった。

SIFAのプログラムから(上の写真も同様)

 作品は、現代の市民達が読書会(?)でウィストン・スミスの日記を読んで議論しているというシーンから始まる。この現代の枠の中に、原作通り、「ビック・ブラザー」率いる党による1984年の全体主義的社会と、党の真理省に勤務する一党員ウィストン・スミスの生活が描かれている。昔ながらの羽目板張りの部屋、コミュニティ・センターの図書室のような所で話し合っている男女が、1984年の世界の登場人物をそれぞれ演じている。現代から1984年に移っても、セットは同じで登場人物達の服装も基本的には同じ。部屋のセットの上半分にはスクリーンがあり、最初はそこにウィストンの日記が投影されている。1984年の物語の後、また現代に戻って作品は幕となる。この現代の枠組みは、原作にある附録「ニュースピークの諸原理」が過去形で描かれていることから想を得たものかもしれない(ニュースピークは、党が考案した新英語で、これまでの英語に変わるもの。党の奉ずるイングソック(イギリス社会主義)以外による思考様式を不可能にするよう、単純化された英語)。それはともかく、1949年にジョージ・オーウェルの描いた未来世界を現代の我々と結びつけて見てほしいという、作り手側の思いであろう。しかし、私個人的には、この現代シーンは若干蛇足だったのではないかと思っている。

 さて、装置や衣装が変わらないということは、どちらかと言えば居心地よく見える部屋や、シャツにズボン、スカートといった普通の服装で1984年のシーンが演じられるということである。それは、一見快適に見えても、水面下で全体主義のような事態が進行しているかもしれないという現代に呼応させているのかもしれない。しかしその一方で、ウィンストンがなぜ党の支配に疑問を持つに至ったかを、あまりよく説明することができなくなってしまった気がする。原作を引き合いに出すべきではないのかもしれないが、原作でウィンストンは次のように考えている。
 「暮らしの物質面に思いをめぐらせると腹を立てずにはいられない。昔からずっとこんなふうだっただろうか?食べ物はずっとこんな味だっただろうか?」(高橋和久訳「一九八四年」より)
 この、生活感覚から来る体制への疑問、だからこそ決してぬぐい去ることのできない疑問を、端的に視覚的に見せてほしかったと思う。

 また、ウィンストンが恋人のジュリアと、骨董品店の二階で逢い引きをするシーンで、ジュリアは派手に化粧をして赤いドレスを着てみせる。原作では、男も女も党員はオーバーオールを着ており、女性党員は決して化粧をしないとされているが、この舞台でのジュリアの衣装は、それまでブラウスとスカートだった(そして舞台なのでもちろん化粧もしている)。実際に赤いドレスを着るというのは、舞台の工夫なのだが、それでも、以前の衣装が特殊なものでもみじめなものでもないため、残念ながらそれほどのインパクトはなかった。現代と1984年とで同じセット、衣装を共有することによって、与えられる効果があった一方、失われたものもあったと思った。

 もう一つ、与えられたものと失われたものを感じたのが、ウィンストンが勤める真理省の食堂でのシーンである。食堂ではいつも同じニュースが流され、同僚達の間では同じ会話が繰り返されている。しかし、ある日忽然と同僚の一人の姿が消える。しかし、流れて来る同じニュース対し、同僚達はやはり同じリアクションを繰り返している。消えた同僚に気づかないかのように、というよりもむしろ、最初からそのような同僚は存在しなかったかのように。否定するどころか、存在そのものをなかったことにする粛清の恐ろしさが表現されているのだが、原作で私が一番恐ろしいと思ったのはそこではない。

 また原作の話で恐縮だが、党は何もかもが右肩上がりによくなっていると常に宣伝している。しかし、その一方で生活のみじめさは全く変わらない。ウィンストンは何かが間違っていると思うのだが、そこに確証はない。もしかしたら党の支配以前よりもましなのかもしれない。わからない。なぜなら、比べることのできるものが何もないからだ。歴史どころか昨日のニュースも間断なく書き換えられていく。個人が記憶していたことを、それが実際にあったことだと肯定する公的な記録は何もない。私的なものももちろん存在しない。自分以外に支持するもののない記憶は、当人の中でもやがて曖昧になっていく。そもそもタイトルになっている「1984」さえ、今が本当に1984年なのかどうか、ウィンストンには確かなことはわからないのだ。

 いつもの生活のなかで、人一人消えて気づかれない「ことになっている」恐怖、変化のない日常の水面下の恐怖が上手く描かれてはいる。しかし一方、歴史や情報が間断なく変更され、依るべきものが(今の体制以外に)何もないという恐怖は強調されない。後者の恐怖こそ、原作で私が一番恐ろしいと感じたことである。そしてウィンストンが、自分自身情報の書き換えを仕事としていながらも、党による支配前の(本当の)過去を知りたいと切に願った、また個人の記録として日記をつけるという許されない行為を始めた動機も、そこにあったのではないだろうか。

 この舞台作品の一番の見所であり、視覚的な表現が上手くいっているのは、ウィンストンとジュリアが骨董品店の二階の部屋で逮捕されるシーンである。ウィンストン達の密会部屋は、通常のセット(羽目板張りの部屋)の裏にあり、二人が会っている様子はスクリーンで映し出されるようになっている。観客は部屋にいる彼ら二人を直接見ることはない。しかし、ある時突然、二人以外の声が聞こえ、表のセットが二つに割れると、裏にある彼らの部屋———舞台裏に作られたセットにすぎない———が剥き出しにされる。そして部屋にいる二人の前に、現れる思考警察。結局、二人の密会は最初から監視されていたのである。観客がスクリーンで覗き見ていたように。

 このダイナミックな屋台崩しによって示される演劇的虚構は、ウィンストン達が党の介在しないところだと信じていた場所すら、党のお膳立てであったことを強調する。この痛烈な挫折の後、ウィンストンが政治犯として送り込まれるのは、むしろ「闇の存在しない」真っ白い空間であるという皮肉。そして、ウィンストンの運命は悲劇的な結末を迎える。

 ここで話は現代に戻る。ウィンストンの日記を検証し終わった人々は、次のように言う。「こんなことがあったはずがない。そもそも私達はニュースピークで話していないし。これはフェイクニュースだ」と。確かに、「1984」はフィクションなのだけど・・・ということではなく。要は、「1984」の世界を作り話だと思ってたかをくくっていると、今そこにある危機を見過ごしてしまいますよ、この作品を警鐘と思ってくださいよ、ということなのだと思う。しかし、観客というのは、そこまで親切にフェイクニュースという流行言葉まで用いて敷衍しないと、作品と現実とを結びつけることができないものだろうか。良識ある一般市民が全体主義社会の党員にもなりうる、「1984」の世界は他人事ではないという点で、この現代の枠組みはそれなりに効果のあるものだったかもしれない。しかし、この締めのセリフはやり過ぎのように感じた。

 そういうわけで、見に行った当初は、印象的ではあったが、同時に不満も残る作品だった。枠組みの是非はともかくとして、原作は結構な長編なので、そこから何を取って何を取らないかの問題もあると思う。それが、私が原作を読んで強調してほしいと思っている点とはちょっと違っていた。しかし、この芝居を見に行った後でようやく原作を読了し、それから改めて考え直して見ると、良くまとまった劇化ではあったと感心した。そうかと言って、内容が内容なので、何度も見たいとは思わないが・・・。2019714日)

劇場の入口

ボケた写真だが、カーテンコールの様子

Victoria Theatre前で行われたSIFAのイベントの様子

Saturday, 26 August 2017

『映画』/『コンサート』Setan Jawa(セタン・ジャワ)


2017721
Setan Jawa(セタン・ジャワ)」・・・Pesta Raya-Malay Festival of Arts
公開年: 2017
製作国: Indonesia, Australia
監督:  Garin Nugroho(ガリン・ヌグロホ)
音楽:  Rahayu Supanggah, Iain Grandage
出演:  Asmara Abigail, Heru Purwanto, Dorothea Queen, Luluk Ari Prastyo
見た場所: Esplanade Concert Hall

 “Pesta Raya”Arts CentreであるEsplanadeが毎年開催しているマレー芸術祭で、毎年、イスラム教のラマダン月の後、シンガポールの祝日でもあるHari Raya Puasa(ハリ・ラヤ・プアサ、ラマダン月終了の祭日)を過ぎた頃に開催されている。シンガポールのマレー系の人々はたいていイスラム教徒であるため、ラマダン開けのお祝いも一段落して、一息ついた所で開催するようになっているのだと思う。今年は720日から23日までの日程だった。

 “Pesta Raya”の期間中、Esplanadeでは有料無料の様々な催しが実施されるが、今年の目玉の一つがこの、「Setan Jawa」の上映・上演だった。上映・上演というのは、モノクロのサイレント映画を、歌唱隊つきのガムラン・オーケストラと、西洋楽器のオーケストラとともに上映するからである。サイレント映画を生演奏と一緒に上映するという催しはたまに見られるが、この「Setan Jawa」は、インドネシアの映画監督ガリン・ヌグロホが撮った最新作で、演奏される音楽もこの映画のために作曲されている(インドネシアのRahayu SupanggahとオーストラリアのIain Grandageが作曲)。オーストラリアのThe Asia-Pacific Triennial of Performing Artsで初公開され、オーケストラつきという上映・上演形態で各国を巡演しているらしい。


上はプログラムの表紙から。こちらはフライヤーからの写真。

 ガリン・ヌグロホの作品では、過去に一度「Opera Jawa」を見て、非常に感銘を受けた覚えがあった。「Opera Jawa」はカラー作品であるが、ジャワの伝統音楽と踊りで構成された作品で、やはりセリフがない。「ラーマーヤナ」にインスパイアされたという物語はシンプルで、村の貧しい若夫婦と、その妻に恋をした村一番の金持ちとの、三角関係の顛末を語っている。「Opera Jawa」を見て私が思い出したのは、寺山修司の遺作「さらば箱舟」だった。「さらば箱舟」が沖縄を舞台としており、「Opera Jawa」の世界観にどこか似通ったものがある(単なる南国つながりだが・・・)のも確かなのだが、それだけでなく、「この監督、寺山修司みたいだな」と思ったのだった。一つには、時代設定がいつともしれない感じなところ。1920年代のようなレトロ感はあるのだが、かといって歴史物では決してない。また、音楽が作品の重要な要素となっているところ。この「Opera Jawa」の音楽もRahayu Supanggahによる作曲である。そして最後に、これが寺山修司を思わせる最大の要因なのだが、美術が作品と切っても切れないところ。しかもその美術がきわめて独特で、伝統美を生かしたものでもSFやファンタジー小説的な空想世界に類するものでもない。一番近いと思うのは、伝統(あるいは伝統とまではいかない過去)をモチーフとしたコンテンポラリー・アートで、なんとなくどこかのビエンナーレで歓迎されそうな佇まい。そこが寺山修司っぽい。

 例えば、「Opera Jawa」の一場面で、金持ちの誘惑に負けた妻が、彼の邸宅に赴くシーン。村の道に赤い絨毯が金持ちの家までずっと敷かれており、そこを自転車に乗った妻が進んでゆく。途中に大きなドアがドアだけ立っていて、それをくぐり抜けてゆく。もちろん、インドネシアの片田舎に赤い絨毯が敷いてあるのでも、建物がなくドアだけ放置されているのでもなく、映画の演出であろう。では、このシーンは(作品の中の)現実世界ではなく、幻想シーンとして描かれているのかと言うとそうでもない。登場人物の目の迷いでもなんでもなく、文字通りに赤い絨毯とドアであるとともに、金持ちに誘われて好待遇を得ることになる妻の状況を表現したメタファーでもある。一般的な劇映画は、映画の中の世界を「現実」として扱いたがる(幻想シーンについては、登場人物か誰かの幻想であることを明示したがる)。しかし、この作品は「現実」と「幻想」(あるいはあからさまな表象表現)との切り分けを持たない。そういう意味で、作品がミュージカルである云々以前に、「Opera Jawa」は舞台劇に肌合いが近く、そしてそれを成し得ているのが、その独特の美術であると思う。舞台美術のようでもあるし、また、コンテンポラリー・アートのようでもある。実際に赤い絨毯と自転車が置かれていて、背後のスクリーンにその絨毯の続きが田園風景の映像とともに映し出される・・・こんな感じのインスタレーションは、いかにもありそう。

 「Setan Jawa」は、Esplanadeの四階席まであるConcert Hallで上映・上演された。舞台の前面にガムラン・オーケストラ、その後ろに指揮者の率いる西洋楽器のオーケストラ、そして背後に映画スクリーンという配置。サイレント映画ではあるが、スクリーンは横長で、両端がオーケストラを囲うように少しカーブしている。映像の端が歪曲するので、たとえ写実的なシーンであっても、それだけにとどまらない独特の面白さがある。

開演前。スクリーンの絵は、財産を得るかわりに家の人柱になるという悪魔との契約を描いている。

 今回の作品も物語はシンプルである。20世紀初頭、オランダの植民地下にあるジャワ島。窃盗で捕まった貧しい少年が牢獄に入れられ、彼の不幸な魂は悪魔(Setan)となる。このプロローグの後、物語は、高貴な家の娘(Asih)に恋をした貧しい村の青年(Setio)へと移る。彼女にふさわしい結婚相手となるために、SetioSetanと契約を結んで金持ちになるが、その代わり、自らが自分の家の人柱となる運命にあった・・・というもの。映画はいくつかの章に分かれていて、各章の始まりに章題が字幕で挿入されるが、セリフを字幕で入れることはない。ガムラン・オーケストラとともに時々歌が入るのだが、その意味を字幕等で教えてくれるわけでもないので、ほぼほぼ音楽と映像で物語を進めている。

 とは言いつつ、やはりこの「Setan Jawa」も寺山修司っぽいので、物語を把握することはそれほど重要ではない。上記の筋を理解できれば、それで十分ではないかと。後は、繰り出されるイメージとライヴ演奏の競演を堪能すれば良いと思う。「Opera Jawa」もそうだったが、独特の美術とともにある映像の美しさは卓越している。例えば、青年Setioが森の奥にある怪しげなマーケットを訪れ、Setanと契約を交わすというシークェンス。そこに集う人々は、伝統文化からくる神秘的な装いをしているようでもあるが、6070年代の舞踏ダンサー的でもある。正しくは、舞踏ダンサー的な前衛感が、2017年にアップデートされてより洗練された感じ。最終的にSetioは、このマーケットで大野一雄氏のような呪い師に出会い、Setanとの契約の儀式を行う。

 このシークェンスのようにあきらかに日常ではない、怪しさ満載の場では件の美術が大活躍なのだが、そうではない場面においても、終始見る者の目を楽しませる美しい作品である。例を上げると、SetioAsihを見初めるシーン。Setioが商売をしている小さな市場に、馬車を乗り付けてやって来るAsih。白塗りの男女二人の道化をお供に、買い物をするAsihの姿が優雅にとらえられている。それにしても良家の乙女のお供は、白塗りの道化(道化の召使い)。この取り合わせは、単に上品な美しい娘が登場する以上のインパクトがある。一種の異様の美しさである。その一方で、Setioが他の村人達と箒作りをして働いているシーンはきわめて写実的。しかし作品全体として、写実的な部分と、伝統と前衛の境界に花咲かせたような美術による部分とは、バランスがとれて統一感がある。結果、「現実」と「幻想(表象)」との切り分けを持たない、独特の世界観を持った作品となっている。

お金持ちになったSetio(御者の後ろに立っている若者)の元に、二人の道化をお供に嫁ぐAsih(中央)

 美術ばかりを強調したが、演技もまた作品の世界観に寄与すべく、特徴的。サイレント映画的、あるいは舞台劇的に大仰(というか勿体を付けている)と言えなくもないが、むしろダンスのようである。前述した道化達もそうだが、Asihの動きなども一度一度ポーズを取っているように見える。また実際に、ダンスのシーンもいくつかある。Asihの家の豪奢な居間を、敷居越しに正面からとらえると、長椅子などの家具を背景とした額縁舞台のように見える。そこで彼女の母が踊る。また、Setanのために祭祀的なダンスがなされ、Setanの手下達はSetioの新居に窓から飛び込んで来る。

新婚夫婦の新居に飛び込んで来る悪魔

 Asihに恋をしたSetioは、彼女が落としていった簪を、自宅でこっそり自分の髪にさして踊る。一方、落とした簪をSetioが拾ったことを知っていながら、あえて返せとは言わなかったAsihは、やはり自宅で召使いに足を洗わせている。この二人のシーンがクロスカッティングで交互に見せられるのだが、恋をしている人達の非常に美しく官能的なシーンである。Setioが簪をさして女性のように踊る姿を、カメラは彼の体に迫り、舐めるようにとらえる。外見上は男らしい男性であるSetioが、愛する女性と一体となるかのように、かくもセクシーに踊ることができるとは。一方Asihは、立ったまま足を洗わせているのだが、官能に強ばらせているかのような足の上を、召使い(女性)の手が太ももの方まで上って行く。これがまたとてつもなく官能的。もちろんただ単に足を洗っているだけなので、何かあるわけではない。しかし久しぶりに見た、何が起こるわけでもないのに非常にエロいというシーン。「アート」映画と構える必要は全くなく、このクロスカッティングのシーンを見るだけでも、結構エンジョイできると思う。

 演技がダンス的なので、感情表現も身体全体を大きく使ってなされている。Setioの命乞いに来たAsihに、Setanは恋をしてしまう。Setanに体を要求されたAsihは、どうしたらよいのか苦悩する。覚悟を決めつつ、バスタブで行水をするAsihの苦しみを表現するのに、単なる表情や日常的な動きは用いられない。Asihは、足を持ち上げてそれをバスタブの縁に出し、ポーズを取る。このイメージのインパクトと官能的な美しさ。また、結婚を申し込みに行って、貧しいゆえにAsihの母に追い返されたSetioが、やるせなく箒を作っている。悲しさ悔しさにたまらないSetioは、箒の穂を頭にかぶる。穂先を下に穂をかぶったSetioの顔は見えず、人であって人でないような異形の何かに見える。そしてこの後、SetioSetanに会いに行くのである。

 最後に音楽について。全般的にガムランの方が大きく聞こえるので、最初のうちは、二種類の音楽が合っているのかどうか、西洋楽器が必要なのかどうかよくわからない。実際Setioが訪れる怪しげなマーケットのシーンなど、ガムラン・オーケストラしか聞こえていないようなパートもある。しかし、聞いているうちに、やはり両者が揃っていなければできないこともあるな、と思ったのだった。例えば、AsihSetioの命乞いをしに、Setanに会いに行くシーンでは、西洋の弦楽器の音がはっきりと聞こえている。バイオリンの哀切な響きが、Asihの優しい(勇猛さのない)自己犠牲的な思いにふさわしく、観客の感動を誘う。そして見ているうちに、二種類の音楽が、それぞれの特徴を生かしつつ調和しているように感じられてくる。

悪魔に会いに山奥に分け入ったAsih

 この作品をライヴ演奏なしで(音楽は録音で)上映することは可能だと思う。ただ、生演奏を聞いている時のような興奮や熱気は得られない。では逆に、映画ではなく、オーケストラ付きの舞踏劇だったらどうだろうか。これまた可能でないこともないが、全く違う作品になり、もはや「Setan Jawa」とは違うものになってしまうだろう。この作品の演技も美術も舞台劇っぽいのだが、観客を巻き込むような舞台の熱気を刈り取って、映画のスクリーンに封じ込めた結果、同じ内容であっても恐らく舞台劇では感じられないような洗練が、そこにはある。怪奇なものも野蛮なものも、フィルターを通して見ているかのような。しかも、モノクロのサイレント映画のため、一応20世紀初頭という設定ではあるが、いつとも知れない時代、どこか夢のような遠さがある。舞台が与える高揚感と泥臭さ(俳優が生で演じることによる)がないかわりに、知的に怪異のドラマと美を楽しむことができるようになっている。そういう意味で、映画らしい映画なのではないか、と思ったのだった。2017730日)

カーテンコール。監督、作曲家、主演女優さん達とともに。

Esplanadeの野外劇場では無料のコンサートが行われていた。Pesta Rayaの賑わい。