Wednesday 13 December 2017

『映画』China's Van Goghs(中国梵高/中国のファン・ゴッホ)


20171013
China’s Van Goghs(中国梵高)」・・・Painting with Light (International Festival of Films on Art)
公開年: 2016
製作国: 中国/オランダ
監督:  Yu Haibo(余海波)/Yu Tianqi Kiki(余天琦)
見た場所: National Gallery Singapore

 「Painting with Light」は、National Gallery Singapore(ナショナル・ギャラリー・シンガポール)主催による、芸術をテーマとした映画祭である。「芸術的な」(美術が凝っている?)映画を集めた、というわけではなく、文字通り芸術———美術館、絵画、舞台芸術、映画、パフォーマンスアート等々———を題材とした作品達で、ほとんどがドキュメンタリーである。映画そのものを楽しむというよりも、映画を通して様々な芸術の世界を覗く、という感じの映画祭なのではないかと思う。

ナショナル・ギャラリーのロビー

上映会場入口。写真はケイト・ブランシェット主演の「Manifesto」


 さて、この「China’s Van Goghs(中国のファン・ゴッホ)」というドキュメンタリー映画である。中国広東省深圳市にある大芬村は、「大芬油画村」と呼ばれる油絵の町である。1980年代の終わりに香港のビジネスマンによって油絵の生産が開始されて以来、現在では数千人の画工が集まり、年間10万枚以上の油絵が制作されているという。西洋絵画の傑作を模写した彼らの作品は世界中に輸出され、ウォルマートのような大手スーパーマーケットから小さな土産物店まで、様々な場所で販売されている。

 このドキュメンタリーの主人公であるZhao Xiaoyong小勇)は、1990年代に大芬村にやって来た。以来20年、ここで油絵、特にファン・ゴッホの模写を描き続けている。現在では何人かのスタッフを擁し、納期と戦いながら、アパートの一室の狭いスタジオで制作に勤しむ毎日である。貧しい農家の子として生まれ、中学も満足に通えなかった小勇だが、模写の筆一本で身を立て、お金のやりくりに苦労しつつも仕事を維持し、立派に家庭も築いている。ちなみに彼の最初の絵の「生徒」は、彼の妻だそうで、夫婦で、さらに妻の兄弟とも一緒にこの仕事をしている。なお、彼のスタジオのシーンでは、狭い空間にずらりと並んで立った画工達が各々の作品を仕上げて行く様子が映される。その光景は壮観で、(部屋の広さきれいさとか、立っているか座っているかとかの違いはあれど)なんとなくアニメーターの仕事場を思い出させた。大勢の人が黙々と絵を描いているというその雰囲気のせいだと思う。

 多年ファン・ゴッホの作品を描き続けてきた小勇だが、オランダに取引先ができて以来、ゴッホのオリジナルを見るためにオランダに行くという夢を持つようになった。このドキュメンタリーでは、彼が(お金がかかるので)オランダ行きを渋る妻を説き伏せ、初めてパスポートを取得し、仲間とともにファン・ゴッホの足取りを追ってヨーロッパを旅する姿が描かれる。そして、その旅の後に何が起こったのかを。

 アムステルダムでの小勇は、取引先の言っていた「ギャラリー」が小さな土産物店に過ぎなかったことにショックを受け、にもかかわらず、自分達の卸値からすると結構いい値段で販売していることにさらにショックを受ける。模写販売もファストファッションその他諸々のビジネスと同じく、経済格差を利用した商売なのだ。そしてついにファン・ゴッホ美術館でオリジナルの作品と対面し、完全に落ち込む。自分のことを「芸術家」だと思ってきたわけではないが、それでも、ここに飾られるような価値が自分の絵には全くない、ということを痛感してがっくりするのだ。

 しかし、その後ファン・ゴッホの足取りを辿ってパリ、アルルを旅し、ファン・ゴッホが訪れた場所を訪れ、見たであろうものを見るうちに、彼は元気を取り戻していく。アルルでは「夜のカフェテラス」のモデルとなったカフェを訪れ、ファン・ゴッホが描いたのはこの宵闇、まだ完全に夜になりきっていない空の青さだったのだ、と感動してはしゃぐ。夜中、酔っぱらって、「俺はここに残るぞ!」とアルルの裏通りで叫ぶ。そして、旅の最後にオーヴェル=シュル=オワーズのファン・ゴッホの墓を訪れると、親しみと尊敬を込めて、中国から持って来た煙草を墓石に供える(小勇は大変なヘビースモーカーである)。

 帰国後、小勇は大芬の画家仲間と話し合う。自分達もそろそろ自分達のオリジナル作品を描いてもいい頃だ、と。彼が最初に描いた作品群は、湖南省の一寒村である故郷の裏通り、そこに住む自分の祖母の肖像、そして大芬の自分のスタジオである。(ちなみに小勇の実家では、いまだ土間のかまどで料理をしている。国の発展から取り残されたようだが、皮肉なことに、それだけに深圳のような都会と違ってフォトジェニックな風景が広がる。)

 非常に明確なプロットの元、ストーリーがわかりやすく流れて行くので、見やすく、かつ楽しめる作品である。社会情勢を滲ませつつ、模写で生計を立てることと、確立された芸術との間の葛藤が、大芬の何千という絵描きの中の一人を通して描かれている。しかしそれと同時に、過去の一人の画家が、国も人種も異なる後世の画家をいかにインスパイアしてその仕事に向かわせていくかという、画家の系譜の不思議を描いた作品ともいえる。

 パリのカフェに集う画家というと、何の根拠もなくロマンチックでおしゃれな感じがするが、大芬の小勇達は上半身裸で、通りに出された食堂の椅子に座ってくつろぐ。たぶん蒸し暑く、かつ洗濯をするのが面倒くさいからだと思うのだが、仕事場でもよく彼らは上半身裸である(男性の場合)。シンガポールでも団地の下のコーヒーショップで、下着のようなランニングにショートパンツのおじさんがくつろいでいたりするが、まぁそういう感じ。「オープンエア」というとなんだか格好いいが、格好よさとは無縁の世界である。そこは「おしゃれな」パリではなく、中国の都会の裏通り。でも、酔って作品と自分達の進むべき方向性について熱く語っている小勇達を見ると、あぁ芸術家だなぁ、と思うのだった。「いつか、後50年、100年したら、俺たちの仕事が認められる日が来るだろう」そう管を巻く小勇の———これまでそうやって人生を切り開いてきたであろう———その楽天主義、明るさが胸を打つ。2017114日)

小勇とファン・ゴッホ。スタジオ内はゴッホの絵でいっぱい。

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