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Tuesday, 13 March 2018

『コンサート』My Lai(ミライ)



2017825
My Lai(ミライ)」・・・Singapore International Festival of Arts (SIFA)
国: アメリカ
製作: Kronos Performing Arts Association
作曲: Jonathan Berger
台本: Harriet Scott Chessman
演出: Mark DeChiazza, Rinde Eckert
歌手: Rinde Eckert
演奏: Kronos Quartet, Van-Anh Vo
見た場所: Drama Centre Theatre

 毎年SIFAの音楽プログラムを楽しみにしている。昨年は中国出身のピパ(中国琵琶)奏者Wu Manとウイグルのミュージシャン達によるコンサートだった。一昨年は、伝統的なアボリジナル音楽を現代的なスタイルと融合させたパフォーマンスを行うBlack Arm Bandや、トイ・ピアノ奏者Margaret Leng Tanの公演を見た。イギリスのSouthbank CentreLondon Sinfonietta による、20世紀のクラッシク音楽を聞くという一連のコンサートに、4日間行った年もある。

 今年は、サンフランシスコに拠点を置くKronos Quartet(クロノス・クァルテット)とベトナム伝統楽器の奏者であるVan-Anh Voによるモノドラマ「My Lai」だった。この場合のモノドラマとは、弦楽四重奏楽団とベトナム伝統楽器奏者の演奏による一人オペラである。実は内容をあまりきちんと確認しないでチケットを買ったので、行ってみてオペラだったことに驚いた(演奏だけだと思っていたのだ)。

会場であるDrama Centre入口

 上演内容を確認しない私が言うのもなんだが、「My Lai」は、ベトナム戦争中に起こったMy Lai Massacre(日本語ではソンミ村虐殺事件)、およそ500人にものぼる非武装のベトナム人住民が米軍によって虐殺された事件を題材としている。一人オペラであるこの作品の主人公は、当時、第23歩兵師団第123航空大隊の准士官であったHugh Thompson Jr.(ヒュー・トンプソン・ジュニア)である。1968316日朝、偵察ヘリコプターを操縦していたトンプソンは、ソンミ村のミライ集落上空で米軍による住民への攻撃を目撃する。トンプソンは、二人の部下とともに虐殺を止めようとし、また生存者を探して安全な場所に避難させようとした。そして、自分が目撃した殺戮行為を上官に報告した。

 作品は三部構成になっており、それぞれ「1st Landing」「2nd Landing」「3rd Landing」と題されている。時は200512月、癌を患って入院しているトンプソンが、あの虐殺の悪夢を思い起こすという回想形式で物語は進められる。ちなみに実際の彼は、2016年1月6日に62歳で亡くなった。つまり作品は、死の数週間前という設定なのである。

 舞台装置はシンプルで、舞台向かって左手にクロノス・クァルテット、右手にVan-Anh Voと様々なベトナム楽器、そして中央のもう一段高く設けられたステージに歌手のRinde Eckertが立つようになっている。そこには椅子2脚と毛布があるぐらい。背後は(病室を仕切るような)カーテンがかかっており、そこに映像が映し出される。上空から見たジャングルや煙だったりするが、カーテンには襞が入っているし、映像自体があまりはっきりとしたものではない。そのため、それらの映像は淡くぼんやりとしており、何が映っているのかよくわからない時もある。恐らくトンプソンの追憶であることを表現しているのだろう。

開演前の舞台

 クロノス・クァルテットは幅広い音楽活動を繰り広げているようだが、ざっくりとジャンル分けすると現代音楽に当たる。今回の作品では、クロノスの弦楽器演奏に、ベトナムの琴、木琴、銅鑼のような楽器からの音が組み合わされている。これを音楽に詳しくない私が聞いて思い起こしたのは、武満徹の音楽である。不協和音や鋭い響き、予想できない音の上がり下がり。乗ることもできなければ、一緒に歌うこともできない。就寝前に聞いてもあまり心が安らがない音楽である。

 物語は全編ほぼ歌によって語られている。歌詞は基本的にシンプルで、全ての状況説明や発言、思いが歌にされている(オペラは得てしてそういうものであろうが)。例えば、「これを見ろ〜」「あれは何だ〜」「死体が山積みだ〜」みたいな感じである。

 三部構成の第一部「1st Landing」では、2005年のトンプソンが虐殺の日を回想し始める。美しい朝にヘリコプターを操縦していた彼は、米軍が村人達を虐殺しているのを見つける。思い起こすに当たり、トンプソンは病室内をウロウロ歩き回ったり、毛布をたたんでみたり、逆に身にまとってみたりと、落ち着かなげである。一部の終わりには、病室のTV(が実際に置いてあるわけではないが)からと思われるクイズ番組の音声が流れて来る。司会は解答者の一人としてなぜかトンプソンを紹介している。クイズは、赤、白、青、三つのドアの一つを選べ、というもの。ドアは三つとも赤いと答えるトンプソン。このクイズ番組のシーンは、歌にはなっておらず、通常のセリフの形式である。

 第二部「2nd Landing」では、トンプソンと彼の二人の部下が殺戮を止めようとする。二部の終わりにも、やはりクイズ番組が流れて来る。先ほどと同じ司会が、トンプソンが部下に何を命じたかを質問している。トンプソンが説明している間に司会は時間切れだとし、「(米兵に対して)こいつらを撃て」、が正解だと告げる。(正しくは、逃げる住民達に対して米兵が銃を向けるようなら、米兵の方に向かって撃てと命令した。実際には撃たなかった。)トンプソンが、彼らの行っていたことは殺人であって、兵士のすることではないと言っても、聞き入れてはもらえない。

 第三部「3rd Landing」の始まりでは、2005年のトンプソンが、かつての部下の一人、ラリーの家に電話をしている。その後再び回想に戻り、一人の少年を救い、自分のヘリに乗せて飛び立ったことが歌われ、作品は終わる。

 この作品の内容からも察せられるように、己が正しいと思ったことをしたトンプソンだったが、その結果は、必ずしも彼に幸福をもたらしたとは言えなかったらしい。便利な時代なので、彼が亡くなった時のThe New York Timesの記事をインターネットで読むことができた。この虐殺事件について、トンプソンは軍法会議等で証言を行っているが、当時の世間は(虐殺を行った方ではなく)彼の方が有罪であるかのように見なした。脅迫電話がかかってきたり、自宅のポーチに動物の死体が投げ込まれたりしたらしい。功績を讃えられて勲章を授与されたのは、虐殺事件から30年後の1998年になってからだった。

 この作品では、時間を要したものの、結果的には勲章をもらって報われた、ということは描かれていない。曲調からしてあまり楽しげではないように(むしろ不穏な感じ。三部は若干哀切である)、ここで描かれているのは、当時24歳の青年だった主人公の、人生に大きな影響を与えたあの朝、虐殺のトラウマであり、その後の苦悩である。というわけで、作品の全体的な雰囲気は苦い。しかし、それでもラストで、自分は自分にできることをしたのだという救いは描かれている。行為の称賛を押し付けたり、無理に感動させたりせず、主人公の個人的な虐殺にまつわる記憶を辿る、という作り方に好感がもてる。

 それにしても、「いつも空を飛びたかった〜」と飛翔への希求が最初に歌われ、それに呼応する形で、少年を救ってヘリコプターで飛び去ったというラストで締めているのだと思うが、今ひとつこの空への憧れに共感できない。曲や舞台の雰囲気が醸し出す神経症的な重苦しさのためではなかろうかと思う。確かに明るい話題の作品ではないのだが、この憧れが共感できないと、主人公に対する共感も減じるので、そこに多少の物足りなさは感じたのだった。2017924日)

ピントが合っていないがカーテンコールの様子。カーキ色のジャンパーのおじさんが歌手のRinde Eckert

Sunday, 21 August 2016

『演劇』Hamlet | Collage(ハムレット|コラージュ)



2016813
Hamlet | Collage(ハムレット|コラージュ)」———だから「コラージュ」って言っているんだね
国: カナダ/ロシア
カンパニー: Theatre Of Nations(シアター・オブ・ネイションズ)
演出: ロベール・ルパージュ
出演: エフゲニー・ミローノフ
見た場所: Drama Centre Theatre

 2016年のSingapore International Festival of Artsが始まった。出だしから体調を崩して一本見逃し(「The Last Supper」)、これが最初の観劇作品となった。

 カナダ出身の演出家ロベール・ルパージュを迎えて、ロシアのTheatre of Nationsが製作した作品。主演はロシアの俳優エフゲニー・ミローノフだが、概ね彼の一人芝居である。なぜ概ねなのかと言うと、演出上どうしても一人で演じられない場面に、はっきりと顔を見せない替え玉がひょこひょこ現れるからである。

 私が初めてロベール・ルパージュの作品を見たのは、東京のグローブ座だったと思う。「コリオレイナス」などのシェイクスピア三部作だったかと。なにせもう二十年も前のことで。「シェクスピア劇を現代政治劇として解釈」、みたいな触れ込みの上演だった気がする。しかしそのような宣伝にも関わらず、私の心に残ったのは、ロベール・ルパージュという演出家が技術の人だ、という印象だった。当時学生で一応まだ大人の腹黒さがなかった私には、政治劇と構えられても、ぽやーっとした感じで受け止めていたのだと思う。さて、「技術の人」ロベール・ルパージュの技術は、さすが二十年も経つと、その進歩は目覚ましいばかりだった。

 舞台にあるのは、隣り合わせの三面がなくなった形の立方体。この三面———床面の一つの頂点を奥にし、その頂点を作る二辺から立つ壁で構成された三面———の中に、エフゲニー・ミローノフが入って、一人で「ハムレット」を演じるのである。立方体の内面全体に映像が投影されることによって、それは城壁にもなれば、書斎にも、礼拝室にも、何にでも変わる。また、立法体はそれ自体が回転する上に、扉もついていれば、面の一部に窓のような空間を開けることもできる。立方体の回転を利用して俳優が一番高い頂点に上ることもできるし、「窓」の向こうでの演技を見せたり、「窓」から例えば洗面台のような舞台装置を入れ込んで立方体の中にセットしたりもできる。そんな使い回しの効く箱の中で、一人の俳優が主立った登場人物達を全て一人でカバーしながら「ハムレット」を演じる、というのがこの作品の趣向である。

見せ場の一つ、水中に漂うオフィーリア

 それは、牢獄のような石壁の中で拘束服を着た一人の男性から始まる。一幕二場の母親の再婚を責めるハムレットの独白をつぶやいている。拘束服を脱ぎ去った男は、石壁に開かれた扉から外に出て行く。それから立方体の内面の壁に、作品タイトルが、出演者やスタッフの名前が映写されていく。そんな映画的な導入で始まる「Hamlet | Collage」は、フォーティンブラスとの争いを省略していることを除けば、シェイクスピアの筋に忠実に進行していく。各場面場面で立方体が回転し、新しい背景が映写され、違った舞台装置が持ち込まれる。くるくる回る変幻自在の箱の中で演じられる「ハムレット」は、覗きからくりを見るようである。エフゲニー・ミローノフは、時にはハムレットになり、時にはオフィーリアになり、ポローニアスに、クローディアスに、ガートルードに。彼もまた、変幻自在に次々と姿を変えていく。回る舞台装置に俳優の早変わり、演じられるのは有名なお家騒動のお話となれば、これはもう歌舞伎や大衆演劇の楽しさである。しかしこの上演、その奇想に感心することはあっても、けれんの胸をわくわくさせるような興奮はそうはない。正直なところ、幕間なしの2時間25分は長く感じられた。

 この作品を見ていると、演劇テクノロジーの可能性を「ハムレット」というテキストで追求したという風情で、テキストは何も「ハムレット」でなくてもいいのではないか、という疑惑が頭をもたげる。確かに「ハムレット」の筋には沿っている。しかし、各場面が物語として有機的につながっているわけではない。また一人芝居の都合上、登場人物同士のやり取りが制限されるため、人間関係によって構築される感情やドラマが希薄である。例えば五幕二場の「雀一羽落ちるのも・・・」などというセリフも、ハムレットの心の旅路という流れがないため、見ている方はそのまま聞き流すしかない。結局この作品は、「ハムレット」の各場面を、出演者が原則一人という制約を自身でかけつつ、舞台技術と演出の妙と演技力によって意表をついた美しいものに仕立てるという試みなのだ。そういうわけで、その試みが上手くいっている場面は非常に面白く見ることができるが、それほどでもない場面は退屈である。そして成功する場面はまず、三幕一場の「生きるべきか死ぬべきか・・・」のように、広く観客に認知され、その背景を観客自身で補うことができる、それだけで確立した(流れを必要としない)名シーンの必要がある。

 この作品は「ハムレット」の場面集であって、「ハムレット」というテキスト全体に及ぶ解釈に挑んだわけではない。でも、それは当然なのだ。「だからCollageって、タイトルについてるだろうが、Collageって」と、自分で自分に突っ込んだ。最初からちゃんと観客に断っているのである。だとしたら、それは松竹の歌舞伎座公演みたく、名場面を集めて一公演を作っているようなものだが、実際のところそうではない。例えば、ハムレットがローゼンクランツとギルデンスターンと会談する二幕一場。これが一人でどのように演じられたかというと、客席を背に立つエフゲニー・ミローノフが、立方体の二面の壁にそれぞれ映された自分自身の姿と対峙するという形でだった。一般的にローゼンクランツとギルデンスターンは双児のように扱われることが多いので、このアイデアは気が利いている。しかし、その最初の感心が終わると、すぐに退屈が感じられてしまう。もともと突出した有名シーンでもないこの部分、両者の腹の探り合いという緊張感でも感じられない限りは退屈なのだ。そしてこの緊張感は、各場面場面が物語としてつながり流れて行かなければ出て来ない。しかしそれがないからと言って、無意味にこの場面単体で盛り上げて行こうという「下品な」演出がされているわけでもない。あるのは熱演と技術と着想だけである。

 けれんの胸をわくわくさせる興奮がないのはこういう部分で、長く感じられるのも、こういう場面が時おりあるからだと思う。「コラージュ」とつける以上、もっと思い切って切り捨てても良かったのではないか。話の筋など通さなくても良かったのではないか。冒頭、拘束服を着た男から始まると書いたが、円環構造になっているため、最後もまた拘束服を着た男としてハムレットは息を引き取って(?)いく。「コラージュ」とはいえ、あるいは、「コラージュ」だからこそか、一つのまとまりを持たせようとしている。私は最初、これを父の死と母の再婚で気の狂ったハムレットが見る一連の夢なのだと思った。しかし、プログラムを見ると、登場人物名に「Actor」とあり、どうやらこれは、気の狂った俳優が見る一連の夢だったらしい。どうりで、エフゲニー・ミローノフがハムレットを演じる時、変な金髪の鬘をかぶっているわけだ(つまり拘束服の人間とは別の人格、芝居の役なのである)。とにかく、始めと終わりを同じにすることや、ポローニアスに目覚まし時計を持たせてそれを後の場面の伏線にすること、最初の登場をシャワーシーンにしたオフィーリアに、発狂後もシャワーを浴びさせそこから川での溺死につなげていくイメージの積み重ね———場面集と言っても、全体として一つの物語を作ろうという意図はあるらしい(だからこそ筋に忠実なのだ)。しかし、こうしたまとまりに対する律儀さは、場面場面で趣向を凝らして見せている努力を裏切りはしないか。物語を流して行くなら流し、つなげないのならつなげないままの方が、個人的には好きだ。

 場面別に見ていけば、もちろん素晴らしいシーンも多くある。特殊な舞台の形と一人芝居の制約が巧みに利用されており、今までに見たことないような奇抜な視点での芝居を楽しむことができる。例えば、ハムレットとガートルードの諍いを、カーテン越しのポローニアスの側から見る(もちろんこの場合はズル(?)をしていて、舞台上は一人ではない。一人二役で親子ゲンカするエフゲニー・ミローノフと、手前のカーテンの影に隠れているポローニアスを演じる人物がいるため)。また、溺れるオフィーリアを、彼女が沈んで行く所から水中に漂う姿まで見せるというシーン。この作品の目玉の一つと思われる場面だが、面白いことに、このシーンはテキストにはないものである。オフィーリアがガートルード達に花を渡しながら歌う場面はカットされ、かわりにシャワー・ルームの狂ったオフィーリアをセリフなしで見せ、そこから溺死につなげている。

 もちろん、演出の奇抜さだけがその場面の良さにつながるのではない。例えば、ポローニアスが留学中のレアティーズの動向を探らせる場面。一人芝居なのでポローニアスが電話でその依頼をしているのだが、ここは面白い。場面は王宮のセキュリティ・ルームといった所で、いくつもの監視カメラの映像がある上、スクリーンに映し出された見取り図上に黒い点(恐らくハムレットを指す)が移動している。その舞台装置を見るだけだったらまた飽きてくるのだが、このシーンはポローニアスの独壇場で、エフゲニー・ミローノフがコミカルな演技を披露し、最後まで楽しむことができる。いわば役者の芸を楽しめる場面である。

 そして、視点の変化や装置の妙という奇想と俳優の演技があいまって、感心するとか驚くとか楽しいとかを通り越して唯一感動的であったのが、例の「生きるべきか死ぬべきか・・・」のハムレット独白部分だった。ここはまず、前述したように見る方に予備知識のある有名場面である。その予備知識に助けられるとはいえ、素晴らしいものだった。自室(?)の洗面台でひげ剃りをしているハムレットが、不意に剃刀を自分の手首にあててみる。そこから独白が始まるのだが、やがて立方体の舞台の端に腰を降ろしたハムレットの体は、その回転にともなって上にあがっていく。ハムレットの独白は続き、思いは死の世界へ馳せられる。そこで、立方体の背景、本当の舞台の壁に仕掛けられた小さなライトが一斉につく。まるで瞬く星のように。そして、「死後に見る夢」以降でハムレットの思考がつまづくとともに、また彼は回転によって下へと降りて行く。

 このシーンの美しさがあっても、私には微妙な「Hamlet | Collage」だった。長かったと感じるくらいなのだから、手放しで面白かったとは言えない。題材として「ハムレット」を選んでしまったことが問題だったのだろうか。「ハムレット」は、それを語る者に多くの解釈を許して、彼らを楽しませる作品である。作り手の想像力も大いにかき立て、そのあらゆるイメージを受け入れてきた。「ハムレット」は「コラージュ」にも応えた。それは時に美しく楽しい夢だった。しかし、それが全てだった。バラバラに提示することと、つなげようとすること。物語としては時に理屈に合っていないような「ハムレット」だが、意外にもその物語性に足を掬われてしまうことがあったのだ。2016820日)

Friday, 12 September 2014

[Theatre] The House of Bernarda Alba / 『演劇』ベルナルダ・アルバの家


15 March 2014
“The House of Bernarda Alba”--- I expected more intensity and more drama in the dark house
Country: Singapore
Company: Wild Rice
Director: Glen Goei
Cast: Claire Wong, Jo Kukathas, Glory Ngim
Location I watched: Drama Centre Theatre

It was Wild Rice’s performance of The House of Bernarda Alba, the notable play by Garcia Lorca (a Spanish poet) whom I always confused with Garcia Marquez (a Columbian novelist). It has been a long time since I last watched a Wild Rice performance.

When the Master of a rich house died, his wife, Bernarda, declares that her five daughters will mourn his death for eight years. Although the daughters are in the flower of womanhood, they are forbidden contact with the outside. And the household starts to rift with desire, jealousy and hatred coming up among them. Its black feelings and tensions, together with Bernarda’s tyrannical attitude for protecting her family’s honor, finally cause a tragedy. 

While the characters’ practicing religion is Christianity, the play is set in a Peranakan mansion. The traditional colourful Kebaya dresses are beautifully designed in black. The stage set; the interior of the house of Bernarda Alba is also brilliant. There are huge double doors at the back of the stage, rising from the floor to the ceiling, and vertical oriented windows like ones of Peranakan buildings. But the house is different from a usual Peranakan style mansion with light colors, and designed in gloomy black. We might say that the real protagonist of this story is the house, and this set design is suitable for that.

After the Master’s funeral, when Bernarda Alba made her first appearance through the huge double doors, she looked imposing, like a deputy of God. It was very impressive. And following her, her daughters and a female chorus came into the house. The play, not only featured female actors playing all the characters, but it also had an all female chorus. The female chorus came to the stage as funeral attendants, at first. They prayed together, and then moved to one of the stage wings. The chorus stayed there and sometimes took part in the play. For instance, when a girl was punished for murdering her baby born out of wedlock in their village, the chorus sang out “Kill (her), Kill”. (By the way, since the play is set in the interior of the house, the audience does not get to see the village directly.) In that scene, Adela, the youngest daughter, was the only character to show a negative attitude against the punishment. When the girl was killed, Adela shouted in despair. It was another impactful scene. Both the scenes with the chorus were striking and such exaggerated directions were appreciated.

In this play, Bernarda Alba’s strong will is moving the story toward one direction. That is the point of the play, I think. Bernarda does not change her decision through the play. For instance, her servant, Poncia’s admonition was just unavailing (even if Barnarda became uneasy). This rigidity dooms the story straight to the catastrophe. Even in her daughters’ scene where Barnarda was not involved, the audience could see her staying silently at the back of the stage. It seems to express how strongly her presence is dominating the entire of the story. I think it was a well-considered direction.

What I first associated with house imprisonment is Kura (a traditional Japanese storehouse) or Zashiki-Ro (a traditional Japanese room for confinement). But since this play is not a Japanese detective novel set in the pre-World War 2nd period, I had to dismiss that idea of such a horrible room. Bernarda’s declaration does not mean that her daughters cannot leave the house. They can still take a walk around the house. They can still receive visitors. In fact, even a marriage arrangement is brought for the oldest daughter, Angustias. Her daughters can still enjoy limited freedom under the permission of their Mother, Bernarda. According to the brochure, Glen Goei, the play’s director, seems to have revolved around the question about the play’s theme: “What happens when the Old Man dies?” That is “What happens to the family when the Patriarch (the Old Man) dies?” His family has been inured to repression and depending on him for such a long time, so they hope continuous domination. And they make their desire or hatred repressed till now spout out slowly. This is interpreted not just for a family, but it also can be for a system of politics or a nation, and maybe even for Singapore itself.

If this production were created with this idea, it would be a quite sharp comment on Singapore politics. But as long as I watched it, I could not see any of its execution. What I felt more as something notable was the situation where there was a physical lack of men among women. For instance, in an early scene, a maid missing her late Master, was writhing with masturbation. That scene was expressing the situation straightforwardly. This play describes a tragedy caused by the Mother’s domination of her daughters’ freedom when she is haunted by the family honor, respectability and convention. With the emphasis of the lack of eligible men, this idea seemed antiquated; it does not reach me so much as an actual problem. I never think that it is an old-fashioned theme for a mother to repress her children, especially on their sexuality. But this production makes it feel a little old-fashioned.

If this production had carried through its exaggerated directions throughout the play, it would have been stronger and convincing since the audience would not have time to wonder about the situation as old-fashioned one. What should have been needed was more intensity throughout the play. I earlier praised the beautiful stage design and costumes, but it is also a weak point. For the darkness of repression with sexual crisis, this production was partly too stylish and sophisticated, I think. 

Since a local bakery, Bengawan Solo, was cooperating with this production, the audience was treated to free cakes like Kueh Lapis in the theatre foyer before the performance. The brochure had the Bengawan Solo advertisement of dignified Bernarda Alba with the tagline “Only Bengawan Solo will do! –BERNARDA ALBA”. It was funny. After the performance, I checked a Bengawan Solo outlet on the way home. It was still effective what Mother said. (20 March 2014)



At a Bengawan Solo outlet




2014315
「ベルナルダ・アルバの家」---期待したのは、暗い家での、より激烈で劇的なものだったけれど
国:シンガポール
カンパニー:Wild Rice(ワイルド・ライス)
演出:Glen Goei(グレン・ゴエイ)
出演:Claire Wong, Jo Kukathas, Glory Ngim
見た場所:Drama Centre Theatre 

 私がよくコロンビアのガルシア・マルケスと混同してわからなくなる、スペインの詩人、ガルシア・ロルカの代表的戯曲の上演。久しぶりにWild Riceの公演を見に行った。

 富裕な主の死後、その妻であるベルナルダは、5人の娘達に8年間喪に服するように宣告する。娘達は女盛りで外界との接触を禁じられ、家は彼女達の間に生まれる欲望や嫉妬、憎悪によって揺さぶられる。そうした黒い感情と緊張、体面を重んじる専横的な母の姿勢が、ついには悲劇を招くという筋立ての作品である。

 今回の舞台設定は、プラナカンのお屋敷ということになっている。ただし、ベルナルダ達の信仰する宗教はキリスト教である。伝統的にはカラフルなケバヤを、黒にデザインした衣装が素敵。また、装置も素晴らしく、まさにベルナルダ・アルバの家の内部が舞台装置なのだが、正面奥に舞台の天井まである巨大な正面扉、そしてプラナカン建築に見られるような縦長の窓。しかし衣装同様、本来は明るい色彩のプラナカンの屋敷とは異なり、薄暗く、黒い。ある意味、家が主役とも言える作品には、ふさわしい舞台装置だった。

 主の葬式の後、ベルナルダ・アルバは初めて舞台に姿を表す。その正面の大扉を入って来る姿には、神の代理人のごとき威厳があり、非常に印象的である。そして彼女に続き、娘達とともに女声合唱団も一緒に入って来る。この作品では、全ての登場人物が女性によって演じられるだけではなく、女声合唱団も登場するのだ。合唱団は、最初葬儀の参列者として舞台に登場し、家族と一緒にお祈りを唱えるのだが、その後も舞台袖に控えていて、時おり芝居に参加する。例えば、村で私生児を生んで殺した娘を処刑するというシーン(なお、舞台設定はあくまで家の中なので、観客がそのシーン自体を見ることはない)で、「(娘を)殺せ、殺せ」と合唱する。このシーンでは、末娘のアデラだけが処刑に否定的態度を示すのだが、結局娘は殺されてしまい、彼女は絶望の叫びをあげる。ここも迫力があった。合唱団も参加するこれら二つのシーンは印象的で、この辺の演出の大仰さは評価されて良いと思う。

 この作品は、ベルナルダ・アルバの強い意志によって、物語が一つの方向へと進んで行くところに特徴があると思う。ベルナルダは最初から最後まで判断を変えず、その峻厳さが一直線に破局を押し進めていく。例えば召使いポンシアの諫言など、(それによってベルナルダが動揺したとしても)虚しい限りだ。そうした作品全体を圧するベルナルダの存在を強調するためか、娘達だけのシーンであっても、舞台の奥の方にひっそりとベルナルダがいるのが見受けられた。そういう点も、良く考えて演出していると思う。

 家に閉じ込められるというと、なんとなく蔵とか座敷牢とかイメージしたくなるが、戦前の日本の探偵小説でもあるまいし、そういう恐ろしげなものはない。娘達は家から一歩も外に出られないわけではなく、庭を散歩したりはしている。また、訪問客に会ったりもする。それどころか、一番上の娘、アングスティアスに縁談が持ち上がりもする。要は、彼女達は母親であるベルナルダの許す、限られた範囲での自由を享受できるわけだ。プログラムによると、演出家Glen Goeiは、この作品のテーマについて、「(家長である)老いた男が死んだ時、(その家に)何が起こるか?」という問いを中心にすえて考えたらしい。これまでの抑圧にあまりにも慣れ依存した人々が、引き続きの支配を望むとともに、その抑圧の元で押し殺して来た欲望や憎悪をじわじわと噴出させていく。これは、単なる一つの家の問題ではなく、国家や政治システムについても言えることなのではないか。と考えると、これはシンガポールという国そのものについても言えることかもしれない。

 もし制作者側がそれも考えてこの作品を上演したとすれば、シンガポールの政治システムにも言及した、かなり鋭い芝居になるのだが、見た限りでは、そのような含みは感じられない。それよりも心に残るのは、女性達の間に起こっている男ひでりの状態である。それは例えば、メイドが亡くなった主を恋しがり、身悶えしてマスターベーションするという最初の方のシーンに、端的に表現されている。家名や体裁、因習にとらわれた母親が、娘達の自由を支配することから来る悲劇を描いているわけだが、男ひでりを強調されると、なんとなく大時代的な気がして、アクチュアルに響くものがあまりない。いや、母親が子供達をとりわけ性的に抑圧するというのは今にあっても古くないテーマだと思うが、この上演においては、いささか古めかしく見える。

 もし、前述したような大仰な演出による勢いで最初から最後まで押し切ったら、見ている方に古めかしいなどと考える余裕もなくなり、かえって胸に響くような説得力が出たように思う。この上演に必要だったのは、一貫した激烈さだったのではないか。衣装も舞台装置も美しいと誉めておいた後でこんなことを言うのもなんだが、それはまた作品の持つ弱さでもあった。総じて、性的危機とともにもたらされる、抑圧されたドロドロとした心理を扱うには、この上演は若干上品で洗練され過ぎたのではないかと思う。

 今回の公演は、お菓子屋のブンガワン・ソロと提携している。そのため、開演前にロビーで、無料のKueh Lapisなどのケーキを振る舞ってくれていたのだが、プログラムにもブンガワン・ソロの広告が載っていた。厳めしいベルナルダ・アルバが、吹き出しで「Only Bengawan Solo will do! –BERNARDA ALBA」と言っている。面白いから。そこで帰りに、ブンガワン・ソロの店舗に寄ってみた。やはりお母さんの言う事は有効である。(2014年3月20日)