2016年8月13日
「Hamlet | Collage(ハムレット|コラージュ)」———だから「コラージュ」って言っているんだね
国: カナダ/ロシア
カンパニー: Theatre Of Nations(シアター・オブ・ネイションズ)
演出: ロベール・ルパージュ
出演: エフゲニー・ミローノフ
見た場所: Drama Centre Theatre
2016年のSingapore International Festival of Artsが始まった。出だしから体調を崩して一本見逃し(「The Last Supper」)、これが最初の観劇作品となった。
カナダ出身の演出家ロベール・ルパージュを迎えて、ロシアのTheatre of Nationsが製作した作品。主演はロシアの俳優エフゲニー・ミローノフだが、概ね彼の一人芝居である。なぜ概ねなのかと言うと、演出上どうしても一人で演じられない場面に、はっきりと顔を見せない替え玉がひょこひょこ現れるからである。
私が初めてロベール・ルパージュの作品を見たのは、東京のグローブ座だったと思う。「コリオレイナス」などのシェイクスピア三部作だったかと。なにせもう二十年も前のことで。「シェクスピア劇を現代政治劇として解釈」、みたいな触れ込みの上演だった気がする。しかしそのような宣伝にも関わらず、私の心に残ったのは、ロベール・ルパージュという演出家が技術の人だ、という印象だった。当時学生で一応まだ大人の腹黒さがなかった私には、政治劇と構えられても、ぽやーっとした感じで受け止めていたのだと思う。さて、「技術の人」ロベール・ルパージュの技術は、さすが二十年も経つと、その進歩は目覚ましいばかりだった。
舞台にあるのは、隣り合わせの三面がなくなった形の立方体。この三面———床面の一つの頂点を奥にし、その頂点を作る二辺から立つ壁で構成された三面———の中に、エフゲニー・ミローノフが入って、一人で「ハムレット」を演じるのである。立方体の内面全体に映像が投影されることによって、それは城壁にもなれば、書斎にも、礼拝室にも、何にでも変わる。また、立法体はそれ自体が回転する上に、扉もついていれば、面の一部に窓のような空間を開けることもできる。立方体の回転を利用して俳優が一番高い頂点に上ることもできるし、「窓」の向こうでの演技を見せたり、「窓」から例えば洗面台のような舞台装置を入れ込んで立方体の中にセットしたりもできる。そんな使い回しの効く箱の中で、一人の俳優が主立った登場人物達を全て一人でカバーしながら「ハムレット」を演じる、というのがこの作品の趣向である。
見せ場の一つ、水中に漂うオフィーリア |
それは、牢獄のような石壁の中で拘束服を着た一人の男性から始まる。一幕二場の母親の再婚を責めるハムレットの独白をつぶやいている。拘束服を脱ぎ去った男は、石壁に開かれた扉から外に出て行く。それから立方体の内面の壁に、作品タイトルが、出演者やスタッフの名前が映写されていく。そんな映画的な導入で始まる「Hamlet | Collage」は、フォーティンブラスとの争いを省略していることを除けば、シェイクスピアの筋に忠実に進行していく。各場面場面で立方体が回転し、新しい背景が映写され、違った舞台装置が持ち込まれる。くるくる回る変幻自在の箱の中で演じられる「ハムレット」は、覗きからくりを見るようである。エフゲニー・ミローノフは、時にはハムレットになり、時にはオフィーリアになり、ポローニアスに、クローディアスに、ガートルードに。彼もまた、変幻自在に次々と姿を変えていく。回る舞台装置に俳優の早変わり、演じられるのは有名なお家騒動のお話となれば、これはもう歌舞伎や大衆演劇の楽しさである。しかしこの上演、その奇想に感心することはあっても、けれんの胸をわくわくさせるような興奮はそうはない。正直なところ、幕間なしの2時間25分は長く感じられた。
この作品を見ていると、演劇テクノロジーの可能性を「ハムレット」というテキストで追求したという風情で、テキストは何も「ハムレット」でなくてもいいのではないか、という疑惑が頭をもたげる。確かに「ハムレット」の筋には沿っている。しかし、各場面が物語として有機的につながっているわけではない。また一人芝居の都合上、登場人物同士のやり取りが制限されるため、人間関係によって構築される感情やドラマが希薄である。例えば五幕二場の「雀一羽落ちるのも・・・」などというセリフも、ハムレットの心の旅路という流れがないため、見ている方はそのまま聞き流すしかない。結局この作品は、「ハムレット」の各場面を、出演者が原則一人という制約を自身でかけつつ、舞台技術と演出の妙と演技力によって意表をついた美しいものに仕立てるという試みなのだ。そういうわけで、その試みが上手くいっている場面は非常に面白く見ることができるが、それほどでもない場面は退屈である。そして成功する場面はまず、三幕一場の「生きるべきか死ぬべきか・・・」のように、広く観客に認知され、その背景を観客自身で補うことができる、それだけで確立した(流れを必要としない)名シーンの必要がある。
この作品は「ハムレット」の場面集であって、「ハムレット」というテキスト全体に及ぶ解釈に挑んだわけではない。でも、それは当然なのだ。「だからCollageって、タイトルについてるだろうが、Collageって」と、自分で自分に突っ込んだ。最初からちゃんと観客に断っているのである。だとしたら、それは松竹の歌舞伎座公演みたく、名場面を集めて一公演を作っているようなものだが、実際のところそうではない。例えば、ハムレットがローゼンクランツとギルデンスターンと会談する二幕一場。これが一人でどのように演じられたかというと、客席を背に立つエフゲニー・ミローノフが、立方体の二面の壁にそれぞれ映された自分自身の姿と対峙するという形でだった。一般的にローゼンクランツとギルデンスターンは双児のように扱われることが多いので、このアイデアは気が利いている。しかし、その最初の感心が終わると、すぐに退屈が感じられてしまう。もともと突出した有名シーンでもないこの部分、両者の腹の探り合いという緊張感でも感じられない限りは退屈なのだ。そしてこの緊張感は、各場面場面が物語としてつながり流れて行かなければ出て来ない。しかしそれがないからと言って、無意味にこの場面単体で盛り上げて行こうという「下品な」演出がされているわけでもない。あるのは熱演と技術と着想だけである。
けれんの胸をわくわくさせる興奮がないのはこういう部分で、長く感じられるのも、こういう場面が時おりあるからだと思う。「コラージュ」とつける以上、もっと思い切って切り捨てても良かったのではないか。話の筋など通さなくても良かったのではないか。冒頭、拘束服を着た男から始まると書いたが、円環構造になっているため、最後もまた拘束服を着た男としてハムレットは息を引き取って(?)いく。「コラージュ」とはいえ、あるいは、「コラージュ」だからこそか、一つのまとまりを持たせようとしている。私は最初、これを父の死と母の再婚で気の狂ったハムレットが見る一連の夢なのだと思った。しかし、プログラムを見ると、登場人物名に「Actor」とあり、どうやらこれは、気の狂った俳優が見る一連の夢だったらしい。どうりで、エフゲニー・ミローノフがハムレットを演じる時、変な金髪の鬘をかぶっているわけだ(つまり拘束服の人間とは別の人格、芝居の役なのである)。とにかく、始めと終わりを同じにすることや、ポローニアスに目覚まし時計を持たせてそれを後の場面の伏線にすること、最初の登場をシャワーシーンにしたオフィーリアに、発狂後もシャワーを浴びさせそこから川での溺死につなげていくイメージの積み重ね———場面集と言っても、全体として一つの物語を作ろうという意図はあるらしい(だからこそ筋に忠実なのだ)。しかし、こうしたまとまりに対する律儀さは、場面場面で趣向を凝らして見せている努力を裏切りはしないか。物語を流して行くなら流し、つなげないのならつなげないままの方が、個人的には好きだ。
場面別に見ていけば、もちろん素晴らしいシーンも多くある。特殊な舞台の形と一人芝居の制約が巧みに利用されており、今までに見たことないような奇抜な視点での芝居を楽しむことができる。例えば、ハムレットとガートルードの諍いを、カーテン越しのポローニアスの側から見る(もちろんこの場合はズル(?)をしていて、舞台上は一人ではない。一人二役で親子ゲンカするエフゲニー・ミローノフと、手前のカーテンの影に隠れているポローニアスを演じる人物がいるため)。また、溺れるオフィーリアを、彼女が沈んで行く所から水中に漂う姿まで見せるというシーン。この作品の目玉の一つと思われる場面だが、面白いことに、このシーンはテキストにはないものである。オフィーリアがガートルード達に花を渡しながら歌う場面はカットされ、かわりにシャワー・ルームの狂ったオフィーリアをセリフなしで見せ、そこから溺死につなげている。
もちろん、演出の奇抜さだけがその場面の良さにつながるのではない。例えば、ポローニアスが留学中のレアティーズの動向を探らせる場面。一人芝居なのでポローニアスが電話でその依頼をしているのだが、ここは面白い。場面は王宮のセキュリティ・ルームといった所で、いくつもの監視カメラの映像がある上、スクリーンに映し出された見取り図上に黒い点(恐らくハムレットを指す)が移動している。その舞台装置を見るだけだったらまた飽きてくるのだが、このシーンはポローニアスの独壇場で、エフゲニー・ミローノフがコミカルな演技を披露し、最後まで楽しむことができる。いわば役者の芸を楽しめる場面である。
そして、視点の変化や装置の妙という奇想と俳優の演技があいまって、感心するとか驚くとか楽しいとかを通り越して唯一感動的であったのが、例の「生きるべきか死ぬべきか・・・」のハムレット独白部分だった。ここはまず、前述したように見る方に予備知識のある有名場面である。その予備知識に助けられるとはいえ、素晴らしいものだった。自室(?)の洗面台でひげ剃りをしているハムレットが、不意に剃刀を自分の手首にあててみる。そこから独白が始まるのだが、やがて立方体の舞台の端に腰を降ろしたハムレットの体は、その回転にともなって上にあがっていく。ハムレットの独白は続き、思いは死の世界へ馳せられる。そこで、立方体の背景、本当の舞台の壁に仕掛けられた小さなライトが一斉につく。まるで瞬く星のように。そして、「死後に見る夢」以降でハムレットの思考がつまづくとともに、また彼は回転によって下へと降りて行く。
このシーンの美しさがあっても、私には微妙な「Hamlet | Collage」だった。長かったと感じるくらいなのだから、手放しで面白かったとは言えない。題材として「ハムレット」を選んでしまったことが問題だったのだろうか。「ハムレット」は、それを語る者に多くの解釈を許して、彼らを楽しませる作品である。作り手の想像力も大いにかき立て、そのあらゆるイメージを受け入れてきた。「ハムレット」は「コラージュ」にも応えた。それは時に美しく楽しい夢だった。しかし、それが全てだった。バラバラに提示することと、つなげようとすること。物語としては時に理屈に合っていないような「ハムレット」だが、意外にもその物語性に足を掬われてしまうことがあったのだ。(2016年8月20日)
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