Sunday 18 June 2017

『映画』超級大国民(超級大國民/Super Citizen Ko)


201752
超級大国民超級大國民/Super Citizen Ko)」・・・Singapore Chinese Film Festival
公開年: 1995
製作国: 台湾
監督: ワン・レン萬仁)
出演: リン・ヤン林揚)、スー・ミンミン蘇明明)
見た場所: National Museum of Singapore

 今年で5回目となるSingapore Chinese Film Festival428日から57日まで開催された。「Chinese」と銘打っていて「China」ではないのは、「中国映画祭」ではなく、「中国語映画祭」だからだと思う。つまり、中国語による映画であれば国を問うていないので、毎年中国に限らず、台湾、マレーシア、シンガポールなどで製作された中国語の映画が上映されている。言語をテーマに据えるという意味では、Alliance Francaise(日本のアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)のような機関と思われる)で毎年催されているFrancophonie Festivalを気持ち連想させる。しかし、フランス語圏の各国大使館が主催者に名を連ねるFrancophonie Festivalと違い、この映画祭は民間団体であるSingapore Film Societyと研究機関であるSingapore University of Social Sciences (Centre for Chinese Studies)が主催。政治的な色合いはなく、映画の好きな人たちが中国語映画の多様性を紹介したいと思ってやっている映画祭、というのが実際のところだと思う。

フェスティバルのパンフレット表紙。今年で5回目なのである。

 作品はいくつかのカテゴリーに分けられており、新作劇映画を紹介する「Chinese Panorama」、ドキュメンタリー作品の「Documentary Vision」、短編作品を集めた「Chinese Shorts Showcase」。そして毎年、過去作品の特集上映を行っているのだが、今年は一人の監督の回顧上映などという形ではなく、近年修復された作品の特集「Restored Classics」だった。超級大国民」は、その「Restored Classics」の一本である。 

あらすじ:
 かつて大学教員であった許(Ko)氏は、仲間達と政治的な勉強会を開いていた罪で16年間投獄され、出所後も養護施設に閉じこもり、長らく世間と隔絶して生きて来た。投獄から30年あまりもの月日が経ち、今や老人となった許氏は、ある日突然養護施設を出て、一人娘の元に身を寄せる。彼の目的は、自分が「裏切った」ことによって逮捕、処刑された友人の墓を探し出すことにあった。


 映画「悲情城市」は二・二八事件を描いた作品として有名だが、この「超級大国民」では、その後の台湾の政治、社会状況が取り上げられている。逮捕された許氏は、取り調べ時の拷問に耐えかね、逃げ延びた友人の名前を「自白」してしまう。捕まった友人は、自分が勉強会のリーダーだったと名乗ることで許氏達仲間の命を救い、自分一人処刑されていった・・・。この友人の墓を探して死んだ彼に詫びるという、許氏の贖罪の旅路が描かれる。

 劇中繰り返し流れる悲しげなテーマ曲が、くどいなとは感じたのだが、いい映画だったと思う。

 友人の情報を得るため、許氏は一緒に逮捕されたかつての仲間達や、自宅の強制捜査を行った元警官のもとを訪れる。その過程で、許氏が自らの過去をも回想するというオーソドックスな構成。脚本が上手くできていて、訪ねた人達との会話の一端から許氏の過去が導きだされ、次第に明らかになっていく。さらに、最初からぎこちなかった彼と娘との間で、しだいに緊張が高まっていき、それが頂点に達した時(それは許氏の捜索の旅が終わりに近づいた時でもある)、娘の口から彼の妻の死が語られる。心から許氏を愛していた妻は、投獄された彼が何の説明もなく彼女に離婚届を突きつけたことにショックを受け、自ら命を断ったのだった。これは、許氏の回想では決して語られなかった(彼が触れたくなかった)部分であり、彼が終に友人の墓を見つける前の一つのクライマックスとなっている。

 日本でいう戦中派の許氏は、第二次世界大戦では若くして日本軍に所属して戦い、辛くも生還した世代である。日本の植民地下の台湾で教育を受けたために日本語を話すことができ、日本語の習慣が端々に残っている(仲間達の間でお互いを呼び合う時も、「許さん」「陳さん」という「さん」付けである)。知識階級の本省人として、日本去りし後の台湾で政治の理想を志向した結果、それが国民党政府による白色テロによって打ち砕かれ、彼は16年間投獄される身となった。許氏の挫折は、ひとえに政治についてだけではなく、暴力に屈して友人を死に追いやったという、自身の人間性に対する挫折でもあった。

 昔ながらにスーツを着こなし、きちんと帽子をかぶった許氏は、白色テロ時代の過去からやって来た「亡霊」として、民主化の推し進められている90年代初頭の台湾を彷徨う。この作品が上手く作られていると思うのは、ただ過去を描くのではなく、現代との対比の上で描いている点にある。かつて彼が取り調べを受けた拘置所も、政治犯の処刑場も今はその名残を留めていない。デモ行進が繰り広げられる一方、政治が金儲けの一種となっている現代の台湾を、半ば呆然と半ば不思議な面持ちで眺める許氏。彼が訪ねる先は、かなり裕福な娘一家の邸宅に始まり、バラック街、中流家庭のアパート、麺屋の屋台、海に近い地方の村と多様で、白色テロ禍に関わった人達のその後もまた、人それぞれである。

 「死んだ友人は、生き残った仲間達に自分の分まで生きてほしいと思っているに違いない。だからがんばって生きればいい。」などという都合のいい前向きな発想は、許氏には全くない。終に打ち捨てられた小さな墓を見つけた許氏は、その墓前で手をついて友人に詫びる(なお、その時素直に出て来るのは日本語の「すみません」である)。そして言う。「30年の辛苦に免じて、自分を許してほしい」と。犠牲者の鎮魂を一生の悲願とした許氏が無念の魂に捧げる灯りは、悲しくも小さく、しかし美しかった。2017514日)

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