Monday 6 March 2017

『演劇』Hotel Part 2(ホテル パート2)


2016713
Hotel Part 2(ホテル パート2)」・・・「わしは、このホテルで死にたい」
国: シンガポール
カンパニー: Wild Rice(ワイルド・ライス)
演出: Ivan Heng(アイヴァン・ヘン)、Glen Goei(グレン・ゴエイ)
作: Alfian Saat(アルフィアン・サアット)、Marcia Vanderstraaten(マルシア・ヴァンダーストラッテン)
出演: Ivan Heng(アイヴァン・ヘン)、Pam Oei(パム・オエイ)
見た場所: The Singapore Airlines Theatre, Lasalle

 「ホテル」公演の二日目、パート2である。パート1のラスト・エピソードで、一国家として独立したシンガポール。パート2は、その10年後の1975年のエピソードから始まる。

くどいようだが、真ん中のおじさんは単なるイメージ・キャラクター

1975
 ベトナム戦争末期。アメリカ兵スティーブンは、シンガポールでの休暇を楽しむため、ブギス・ストリートで拾ったブリジットとモニカを宿泊先のホテルの部屋に連れ込む。泥酔しているスティーブンが認識していたかどうか不明だが、(再開発以前の)当時のブギス・ストリートで拾われる「女の子」といえば、今風に言えばトランスジェンダー、昔の言い方をすれば「おかま」である。コカインでハイになって昏倒したスティーブンから、財布を抜き取って逃げるモニカ。一方、「バージン」のブリジットは、どうしていいかわからずにその場でオロオロ。そのうち、ブリジットの前に様々な幻覚が見えてきて…。

 ブリジットのサイケデリックな幻覚の中では、聖母マリアみたいなブリジット(旧名ブライアン)の母は嘆き、等身大の着ぐるみのペニスは踊り、手術服を着た外科医は性転換手術を勧める。そんな収拾がつかないどころか、わけのわからない状況が笑えるのだが、特に可笑しいのが、クローゼット(!)の中から飛び出してくる、白シャツに白いズボンというPAP党(人民行動党)の衣装を身にまとった男。言わずと知れた、「アイアン・フィスト」を持って国民を指揮し、シンガポールの経済的繁栄を築いた故リー・クアンユー元首相である。

 「男のくせにその髪型はなんだ!」から始まって、ブリジットを叱り飛ばすミスター・リーに対し、「シンガポールでは1973年に、性転換手術を受けた後、身分証明書の性別を変更できるようになったのよ?」などと抗弁するブリジット。そんな彼女は、胸は手術で豊胸しているが、股間はまだ(予算の都合もあり)男性のままなのである。議論はさらに進み、外科医は「男になるなら男らしく、女になるなら女らしく」と手術を詰め寄り、ミスター・リーも「曖昧なのは許さん!」と怒鳴る。しかし、ついに彼女が出した答えは、「このままでいい。これが自分。上から半分は女で、下半分は男。」…息を吹き返したスティーブンを、今や自信をもって妖しく誘うブリジットがいた。

 1979年のピーター・ボグダノヴィッチ監督作「Saint Jack」でも、ベン・ギャザラ演じる主人公ジャックが、シンガポールで休暇を過ごす米兵達のため、娼婦付きレクリエーション・センターを切り盛りしていた。そんな70年代の裏面史がサイケデリックで狂騒的な幻想とともに描かれているのだが、このエピソードもまた、昨今の性的マイノリティーやトランスジェンダーを巡る問題が、1975年に仮託して語られている。

 性転換者が身分証明書の性別を変更することがいち早く可能になったシンガポールだが、映画や舞台作品等々における性表現、ことに同性愛表現に対する検閲は厳しい。(ちなみに20162月に来星したマドンナのコンサートはR1818歳以上のみが入場可)だった。)同性婚なども認められておらず、その点では保守的な国であるが、こうした問題に関する政府の答えは、「国民にまだその準備ができていない」というものである。では、いつになったら準備できるのかなぁと思うのだが、その割には、下手に東京の街を歩くよりも、同性のカップルを普通に見かける国でもある(これは憶測なのだが、国が小さいために、同性愛者であろうが誰であろうが、人が休日に遊びに行く場所が限られているためではないかと)。

 性的に複雑だが、人種的にもいろいろ混ざっているブリジットが、シンガポールの掲げる四つの人種---中国、マレー、インド、Others(アザーズ、その他の人種)---をあげつらい、「この「アザーズ」って何よ、曖昧なのが嫌なら、なんで私のことも「ダッチ=ユーラシアン」とかってきちんと定義しないのよ!」と、ミスター・リーに問うシーンがあり、それもまた可笑しい。曖昧であるということ。男性でいられないのなら女性になるべきだという、性転換の先にもある性差の押しつけに対し、ブリジットは最終的に今の自分---男でもなく女でもない、あるいは男でもあり女でもある自分---曖昧な自分自身を受け入れる。政府に対する揶揄を含んだサイケデリックなパーティーから、トランスジェンダーのアイデンティティに触れるところまで行き着き、うならせられた。

ブギスの女の子達(なのか?)と踊る米兵スティーブン

1985
 1945年のエピソードの後日談となっている。松田大尉とシャリファとの間に生まれたナツオもすでに40歳。日本で育った彼は、今や「ウォークマン」の立派な営業マンになっていた。所有している彼女の写真を返したいという名目で、つてを辿ってシャリファを探しだしたナツオは、父母が暮らした思い出のホテルの部屋で、ついに彼女と会うことになった。孫娘に付き添われてやってきたシャリファには、大尉のために慣れない着物を着ていた頃の、若く初々しかった面影はどこにもない。孫の押す車椅子に乗り、口をモグモグさせた痩せこけた老婆になっていた。

 マレー語しか話さない祖母のため、片言の英語を話すナツオとの間で英語・マレー語の通訳をする孫娘。「おばあちゃん、まだ62なんだけど、もの忘れがひどくて。あまり昔のことを覚えてないの。」しかし、ナツオが持ってきたウォークマンに入っている曲を聞かせると、突然、ウォークマンを床に投げつけるシャリファおばあちゃん。彼女の記憶が少しずつ蘇ってくる。「いぬ」「こめ」「みず」、日本語を口にし始めるシャリファに喜ぶナツオ。しかし次の瞬間、彼女の口から出た言葉は、「ひざまずけ」「シナの犬!跪け、跪け、跪け!」というかつての日本兵の怒号だった…。

 感情を高ぶらせる祖母を見て、「私達そろそろ」と帰ろうとする孫娘。そこでナツオは一枚の写真をシャリファに見せる。「これは(死んだ)私の父です。私に似ていますか?」。ナツオは(孫娘にはわからない)日本語でシャリファに言う。「父は本当にシンガポールに戻って来たいと思っていました。でも、できませんでした。あなたを探してほしいというのが、父の最期の願いでした。私はもう二度とあなたにお目にかからないでしょう。」シャリファも日本語で答える。「私はあなたのお父さんを許すことができない。彼を許せない私を、あなたも許すことができないでしょう。日本語を話すのは40年ぶりです。私には子供がいます。孫もいます。昔のことを知られたくないんです。もう、会いに来ないで下さい。」そして、「いいですか、一度しか言わないので、よく聞いてくださいよ。」。そう前置きしてシャリファは言う。「私のぼうや…」。「お母さん!」。ナツオは床にがっくりと跪き、深々と頭を下げるのだった。日本語だったため、今までのやり取りがわからなかった孫娘が問う。「ねぇ、あの人、なんであんなことをしているの?」シャリファおばあちゃんは答える。「彼らがしたことを謝っているんだよ。」「?」

 二人が帰った後、ナツオはシャリファに渡そうとして渡すのを思いとどまった紙包みを開く。中からは、美しいバティックのサロンが(おそらくシャリファのもので、父が持っていたのだろう)。バティックを握りしめながら、さめざめと泣くナツオ。そこにあの、シャリファにウォークマンで聞かせた曲、父の歌う「軍国子守歌」が重なる・・・。

 11エピソード中屈指の感涙ストーリーである。会場のそこかしこから聞こえてくるすすり泣きの声。初演を見に行った知り合いも、自分の座っていた席の横一列、全員が泣いているのを見たと言っていた。さて、日本人の私からすると、確かに感動的な話は話だけど、もしこの台本を書いたのが日本の作家だったなら、ちょっと都合良すぎるのではないかと思っただろう。しかし、シンガポールの作家の手になることを初めから知っていただけに、被害国側が描くこの母子再会の物語に、私も大いに心動かされたのだった。21世紀の現代であっても、やはり作品鑑賞の際にテキスト外のことを加味しないではいられないのだ。

 シンガポールは第二次世界大戦中に日本が行ったことを、忘れてもいなければ、次世代に教えることを怠っているわけでもない。ただ声高に言わないのである。また、劇中でナツオが、「日本では(戦争について)語られないことが多くあります。」とチラッと言うように、歴史を巡る日本の葛藤についても、こちらが思っているよりもよく知っている。そうした知識があった上でのこの、ウェル・メードでウェットなストーリーである。過去の憎悪と苦しみを了解しながら、それを乗り越える人と人との結びつきを希求している点で、1915年のエピソードと通じるものがある。

 シャリファ役は1945年のエピソードと同じくSharda Harrison(シャルダ・ハリソン)が演じ、「こういうマレーのおばあさんいるなぁ」と思わせる好演。ナツオは、1945年で松田大尉を演じたMoo Siew Keh(モー・シュウケー)が演じる。ナツオのセリフは平易な口語のためか、1945年の時よりも彼の日本語が聞きやすかった。しかし、水を差すようなことを言ってしまうと、クライマックスでナツオがシャリファに頭を下げるシーン。将軍に謁見する侍みたいな下げ方だったが、この場合はもう少し脇を締めてすると、儀式ばった所がなくなってより良かったのではないかと思う。いや、男だからこれでいいのかも。自分のお母さんに礼を尽くしたことのない私が言うことでもないんだけど。

1995
 今日はリサの結婚披露宴がホテルで行われている。花嫁の控室となっているこの部屋に、当の本人がお色直しに戻って来る。スケジュールをこなしていかなくてはならない慌ただしさにうんざり気味の花嫁。そこへ現れる妹と母親、そして新郎の姉妹。リサ一家は中国系だが、花婿一家はインド系であることがわかる。共通語として英語を話してはいるものの、親族同士、お互いの名前の正しい発音もおぼつかない、微妙な間柄である。「あんた、お色直しのチョンサム(いわゆるチャイナドレス)はどこにあるの?」と問う母に、なんだか曖昧な返答をするリサ。

 そこへオネエ言葉のマレー系のメイクアップアーティストが登場。「それで、ドレスは何色なの?」「青よ」とリサ。「何言ってるの、チョンサムは赤よ」と母。何かがおかしい・・・。いや、とにかく早く準備しなくては、という状況の中、花嫁の父と花婿の母も登場。こういう場合、花嫁の姉妹は妙に冷静で、母はカッカッし、父は役ただずである。マイペースなオネエのメイクアップアーティストも、時間感覚がおおらかで、他人事のようにのんきに構えるインド系の花婿の親族も、母のイライラを募らせる一方。そんな中、ついに明らかになったリサのお色直しの衣装は、赤のチョンサムではなく、なんと青のサリー。

 怒り爆発の母。自分たちの親族の手前もあり、中国式の披露宴を望んでいる母にとってはとんでもないリサの裏切りである。そこへ、花婿の登場。「お義母さん」と、なんと見事なマンダリンで語りかける花婿。違う文化からの二人が出会い、二つの家族が一つの家族になることの喜ばしさを説く花婿。リサも言う、「この国にはいくらでも中国系がいるのだから、そのうちの誰かと結婚すれば簡単だったのに、ってお母さんは思っているんでしょう。でも、私は彼と出会い、彼と人生をともにすることを決心したの。」人種と文化的背景の違いを超えて愛し合い、ともに生きていく決意をした二人の姿に、心打たれるその場の人たち。しかし、花嫁の母一人だけはやはり納得がいっていない。「車に置いてある予備のチョンサムを取って来る」と部屋を出ていく母。一方、「そらっ、このスキに着ちまえ!」とばかりに、皆に手伝ってもらってサリーを着てしまうリサだった。

 結婚披露宴を舞台としているだけに、衣装も華やかで登場人物も多い、賑やかなエピソードである。披露宴特有の混乱に加えて、人種や文化の違いが笑いを誘う。昨今は地味婚も流行りのようだが、一般的に日本よりも親兄弟や親族同士の結びつきが強いお国柄のため、結婚式も派手にならざるを得ない。ただ通常、日本のように高額なご祝儀を期待しないため、呼ぶ方も心やすいが、出席する方も気軽に出席する。というわけで、必然的に日本なら芸能人の結婚式のような出席者数の大規模披露宴になりがちである。このエピソードを気が利いていると思うのは、最後まで花嫁の母が娘達の説得に応じないため、単なる「いい話」で終わらないところである。派手な結婚式であるだけにいっそう、出席者を前にしての面子もあれば、自分たちのルーツに対する誇りもある。また、母が娘に夢見る、理想の結婚パーティーというものもあるだろう。譲れないものは譲れないのだ。

 様々な人種・民族が調和して暮らしているというイメージのあるシンガポール。それは確かにその通りだが、その一方で感じるのは、やはり中国系なら中国系、マレー系ならマレー系といった付き合いをしがちで、意外と他の民族の文化や習慣を知らない。特にシンガポール社会における多数派である中国系は。個人的には、こんなマンダリンを流暢に話す娘婿なら百点満点だよ、なかなかいないよ、と思うのだが、母にはそれでも不満だったのだろう。多民族であっても安定した社会を築くことに心血をそそいできただけあって、政府も国民も人種に絡む発言にセンシティブである。ここでは、表立って言われることのない母の本音を、「中国系と結婚すれば簡単(なぜ中国系以外の人間と結婚するのか理解できない)」と、リサが端的に代弁している。調和の中に存在するある種の断絶を、明るさの中にそこはかとなく示したエピソードだったと思う。

2005
 1955年のエピソードから50年。マレーシアのビジネスマン、ハキム氏は、母と息子の3人でシンガポールを訪れた。この日政府要人の来訪があるためか、ホテルのセキュリティは厳重で、単なる泊り客であるハキム氏一行も、チェックインして部屋に入るまでに随分時間と手数がかかってしまった。

 チェックインの手続きが進まなかったことに対し、ハキム氏は立腹。暇を持て余し、息子はホテル内を見学しに行ってしまった。しかし、母親は部屋に入って嬉しそうである。「ここで、私はP・ラムリーと初めて出会ったの。とってもチャーミングな人だったわ。」そう、彼女は50年前、映画スターP・ラムリーと歌い踊った、あの時の若い娘である。「ボタニック・ガーデンとか、シンガポールのあちこちで撮影をしたのよ。残念ねぇ、当時はモノクロ映画だったから。あれがカラーだったらどんなにきれいだったでしょうねぇ。」この旅行は、ハキム氏が老いた母のために企画した、センチメンタル・ジャーニーだったのだ。

 そこへ、3人の警察官が部屋を訪れる。彼らはハキム氏達のパスポートを求め、職業や渡航目的などいろいろ尋ね始める。「中東へ頻繁に渡航しているな。」「パスポートを見ているなら、同じだけヨーロッパやアメリカにも行っているのがわかるだろう。」すでにチェックイン時に足止めされたため、イライラしながら答えるハキム氏。スーツ⁻ケースを開けるように要求する警官。年老いた母のまで!と鼻白む彼だが、渋々スーツケースを開ける。ハキム氏のスーツケースから「コーラン」が何冊か見つかる。「なんでこんなに持っているんだ?」「私は輸出入業者だ。休暇で来ても、新規の顧客を見つけた時のため、配布できるように持ってきているんだ。」警察官とハキム氏との間で、じわじわと増していく険悪な雰囲気。そこへ、彼の息子も部屋に戻ってくる。

 ハキム氏のブリーフケースを開けると、中からは金色の帯剣(「アリババと40人の盗賊」が持っているようなやつである)が。「武器を持っているぞ!」色めきたつ警官達。「それはただの顧客へのお土産だ!」というハキム氏に、警官達は銃を向けて迫る。そんな彼らに対し、「そうだよ、この鞘の中は・・・」と帯剣に触ろうとする息子。たちまち息子を押さえつける警官。「息子に何をする!」と彼らに向かうハキム氏。・・・結局、彼はその場で逮捕されてしまう。

 2人の警察官に挟まれて連行されていくハキム氏の後を、3人目の警官---女性で、取り調べの間中、ハキム氏の母親に付き添い、保護していた---が追おうとした時、母は言う。「どうしてこんなことをするの?あなたもムスリムでしょ?」。それを聞いた女性警官はため息をつきながら去って行く。父が警察官に暴力的に連れ去られるのを見た息子の目には、憎しみの光が宿る。母は言う。「モノクロームのシンガポール・・・もう思い出の中のものに過ぎない。映画の夢を映した世界は、もうここにはない・・・。」

 「様々な人種の人間が集まって一つの映画を作る」…明るい未来に向けた1955年のエピソードの後日談としては、あまりにも痛切である。しかもこのエピソードは2005年のものであり、現在にも直接つながる問題をストレートに取り扱っている。

 あらすじを書いて説明すると、警察の取り調べがなんだかあまりにも短絡的でコメディのように見えかねないが、これは作品中、最も暗いエピソードとなっている。作中のハキム氏はマレーシア国籍という設定だが、「イスラム教徒らしい名前(モハメドやアブドゥル等々)だと欧米の入国審査でテロリストと疑われる」というのは、それが冗談として言われることも含め、シンガポールのイスラム教徒の間にある一種潜在的な不安なのではないかと思う(そして恐らく世界のイスラム教徒の間にある)。また実際、トランジットでアメリカに入国しようとした際、いかにもな名前のために、家族の中で自分1人別室に呼ばれた、というような話も聞く。

 どんな宗教にも様々な派があり、またカルト的な団体というものも存在すると思うのだが、なぜかイスラム教徒については、十把一絡げにイスラム教徒としがちである。しかし、例えば日本の多くの人が、キリスト教についてほどには、イスラム教については知らないのではないだろうか。一方シンガポールは、日本に比べてはるかにイスラム教徒の多い国である。しかし、そのシンガポールであっても、総人口の14%ほどを占めるイスラム教徒はマイノリティーであり、1995年のエピソードにもあるように、他人種や他宗教同士だと意外とお互いに知らないことが多い。

 このエピソードには3人の警察官が登場するが、取り調べをする2人は男性で中国系、1人は女性でマレー系という設定である。2人の中国系警察官の態度には、見知らぬ恐怖に対するヒステリックな感情が感じられるが、それはまた、国家や権力機関にありがちな反応を体現しているともいえる。その中でハキム氏の母に付き添うマレー系(ゆえにイスラム教徒であると推測される)女性警官は、静かに板挟みになっているわけだが、このエピソードではっとさせられたのは、彼女に対する母の、「あなたもムスリムじゃないの?」という言葉である。

 このエピソード以前にも、人種的に見てイスラム教徒であろうという登場人物は結構いた。1945年と85年のシャリファや1965年の客室メイドの一人、1995年のオネエのメイクアップアーティスト等々。しかしこのエピソードまで、「ムスリム」という言葉をセリフの中で聞いた覚えはない。考えてみれば当たり前で、職場の同僚や友人とのつきあいで、特に必要とされる場合でなければ、お互いに信仰している宗教をことさら取り上げたりしないからだ。それがここでは、イスラム教徒がイスラム教徒であるというアイデンティティを第一に主張し、相手が同じイスラム教徒であることに依って、酌量や理解を求めざるを得ない。ハキム氏の母がこのセリフを言わなくてはならない状況は、国籍が違っても同じ宗教に属していれば連帯できることの証左ではなく、国籍の違い以前に宗教の違いによって人が分断させられてしまったことを示しているに他ならない。経済的不平等、テロリズム、21世紀…人と人とを分断をしたのは宗教そのものではなく、政治が宗教による分断を作ったのだと、このエピソードは伝えているように思う。1955年の映画人の集まりや、65年の客室メイド達の無邪気なおしゃべりは遠く、それはもう、母が言うように、思い出の中にしかない世界になってしまうのだろうか。

2015
 「ホテル」、最後のエピソードである。ヘンリーとマーガレットのヤオ夫妻は、ホテルの長期滞在客である。病床のヘンリー氏は、自前で看護師をつけて堂々居座っているが、ホテル側としては、下手にホテル内で死なれたら困ると、戦々恐々である。できることなら出て行ってほしい。今日もサービス・マネージャーの懇願をはねのけたヘンリー氏の前に、ついに支配人自らが説得すべく登場。彼らの話し合いは、たまたま見舞いに来た孫娘とそのボーイフレンドも巻き込んで、顔なじみのホテル従業員を呼び出してヘンリー氏が質問を試みるという展開へと・・・。

 最終章のため、出演者ほぼ全員が登場する総まとめ的なエピソードとなっている。ヤオ夫妻はシンガポール人であるが、支配人も含めたホテルの従業員や看護婦、孫娘のボーイフレンドでさえ外国人という設定になっており、近年のシンガポールの状況を象徴的に描いている。ホテル自体がアメリカのホテルの経営傘下となってしまったため、支配人はアメリカ人。しかし、ホテル・オーナーはUAE(アラブ首長国連邦)の大金持ちのため、そのチャラい現代っ子の甥が「インターン」として支配人にくっついてくる。サービス・マネージャーと看護師はフィリピン人、2人の客室係は中国人、ランドリー係はマレーシア人、ホテルのインターンで来ているのはブラジル人という具合である。

 総まとめのためか、これまでのようにストーリーの中に上手く社会問題やテーマを組み込む形にはなっておらず、製作者側の言いたいことがやや前のめりに表されている。しかし、それだけにはっとさせられたり、うならせられたりするセリフも多い。例えば、「多民族国家のシンガポールの会社で、ダイバーシティ(多様性)が学べると思って」と語る、ブラジルからの若い女性インターンに対し、ヘンリー氏はこう答える。「そうかい?しかし、我々はいまだ我々(シンガポール)の多様性というものを模索しているんだ」。

 典型的なシンガポールの富裕層で、余命幾ばくも無いヘンリー氏が終の住処として選んだのが、このホテルだった。「(余生を暮らすために)妻とオーストラリアに移住してみたが、(死ぬには)あそこではないと思った。コンドミニアム(日本のいわゆるマンションだが、セキュリティ・ガードが常駐し、プールやスポーツ・ジム等の施設が完備したもの)は3戸持っている。一つに私達夫婦が住み、もう一つに娘夫婦が。残りの一つは将来孫娘が使えるように、今は人に貸している。でも、どれも私の「家」ではない。」。国土が狭く土地が高いため、シンガポール国民のおよそ8割はHDB、日本のいわゆる公営住宅団地に住んでいる。そのようなお国柄で、民間企業によるコンドミニアムを持つということは一つのステイタスであるが、日本と異なり、シンガポールでは家(といってもほとんどがアパートメント・フラットだが)も消費物、という概念があると思う。日本でもライフ・ステージに応じて住む家を変えていくが、シンガポールではHDB住まいのままでも、住み替え住み替えしていくことが普通である。また、投資としてHDBやコンドミニアムを買うことも積極的に行われている。昨今の不動産の高騰にともない、シンガポールの家はますます、末永い安住の地であるよりはむしろ、金を生み出す不動産資産となっているように見える。そしてそれは、変わり続ける(発展し続ける)ことを美徳とした、忘れる都市、シンガポールを端的に表してもいると思う。

 話が少しそれるが、筆者がシンガポールに移住した2004年当時は、シンガポールがSARSの猛威から立ち直ったばかりでもあり、まだ変わり続けることが称揚されていた。「4か月前の地図は焼き払ってしまおう(現在と全く違っているので役に立たない)」というのが、ガイドマップに載っていた宣伝文句だったように思う。しかしそれから10年以上が経ち、近年のシンガポールは、振り返る、ということをするようになっていった。195060年代のオールド・シンガポールが懐かしまれ、「古臭いもの」を歴史や文化として認識、保存する意識が強くなっていった。それは、民間の側からだけに起こっている現象ではない。1965年の独立当時に働き盛りで国を支えた世代が高齢者となり、国自体が経済的に豊かになって発展した今、シンガポールという国家の歴史を打ち立てようという、政府の動きとも合致している。発展を見て、ついに振り返ることを始めた忘れる都市。

 このラスト・エピソードでホテルにもはやシンガポール人の従業員が見当たらないように、現在のシンガポールでは、あらゆる職業が外国人によって支えられている。短期で来る者もいれば、そのまま定住する者もいるが、外国人の増加が問題視される一方で、彼らがいなければ新築団地一つ作れないこともまた事実である。振り返った政府はシンガポールの歴史をまとめ上げていく。それは畢竟、ナショナリズムを高揚していくことであるが、では、シンガポールという国とは何か、シンガポール人とは誰か。それが、この作品が最終章で問うたことだったと思う。

 成功して財産を築き上げたヘンリー氏は、シンガポールの象徴でもある。そんなヘンリー氏が老境に入って永住の地を求めた時、意外にも落ち着くことのできた場所、それがホテルだった。従業員もお客も、来ては去り、集まっては消えていく。また戻ってくるかもしれないし、二度と戻ってこないかもしれない。ヘンリー氏はホテルの従業員を「家族のように」思っているわけでもなんでもない。むしろ赤の他人が行き交う場所であるからこそ、その永遠の他人同士の中で死にたい、というのがヘンリー氏の願いである。

 ヘンリー氏は淋しい人間だろうか?よく会社や国が家族に例えられることがある。「家族」というと聞こえがいいが、しかしこの「家族」とは何か?血がつながっていることだろうか?同じ人種のことだろうか?同じ社会で育ったことだろうか?そこに長く留まっていることだろうか?ホテルに集う人たちを他人同士にすぎないとし、「家族」という名前の元に甘えて寄りかかったりしない。しかし、他人同士だからこそ、お互いが協力しあわなければ、上手く運営できないし、快適に過ごせもしない。ホテル=シンガポール。緩やかで変化し続ける共同体。たまたま一緒になった他人同士が支えあって生きる国。ヘンリー氏にここが彼の死に場所、いわばふるさとであると言い切らせることで、この作品は、最近の世界的潮流である内向きのナショナリズムとは異なる愛国心というものを描いて見せた。

 ホテルで死にたいというヘンリー氏の願いに助け舟を出したのは、ランドリー係のマレーシア女性だった。長年にわたり毎日国境を越えてジョホール・バルから勤めに来ている彼女は、新参のアメリカ人支配人よりもホテルの歴史に詳しかった。彼女は支配人に言う。以前にも2度ほどホテルで泊り客が死亡した例があるが、特に問題なく処理されて評判が落ちるようなこともなかった、と。これで話し合いの決着はつき、部屋を辞去する支配人や従業員達。ヘンリー氏の妻がランドリー係の女性に礼を言うと、(すでに自分の夫は亡くなっている)彼女はこう答える。「(大変だろうけど)乗り切っていかなくてはね。」

 シンガポールはマレーシア連邦から脱退させられて独立したわけだが、マレーシアとシンガポールとの関係には常に微妙なものがある。そのマレーシア人とシンガポール人とが手を携え、ともに苦難を乗り越えていくことを励ましあう形でこのエピソードは終わる。100年の歴史の中、多くの苦難があった。そして現在様々な社会問題があり、これからもまた様々な苦難があるだろう。今、忘却と回顧との拮抗の中にあるシンガポールの未来は、多種多様な人と人との結びつきをなくしてはない、という覚悟を静かに、そして力強く希求して、「ホテル」の5時間半は幕を閉じたのだった。

こちらは「ホテル」の公演を含むSingapore Theatre Festivalのパンフ

 ところでこのパート2は、頑固だが少々女好きでチャーミングなヘンリー・ヤオ氏を演じたアイヴァン・ヘンが中心。しかし、私が好きなのは、ヘンリー氏役よりも、1975年のエピソードで全身白づくめの元首相もどきを演じた姿だ。会場が大うけだったせいもあろうが、なんか楽しそうだった。20161214日)

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