Sunday, 20 June 2021

『演劇』The Amazing Celestial Race(天界のアメージング・レース)--- Wild Rice(ワイルド・ライス)公演

 2021年3月13日

「The Amazing Celestial Race(天界のアメージング・レース)」--- 皆大好き招き猫

製作国: Singapore

カンパニー: Wild Rice(ワイルド・ライス)

演出: Glen Goei(グレン・ゴエイ)

台本: Dwayne Lau

作曲: Julian Wong

出演: Victoria Chen, Tia Andrea Guttensohn, Dwayne Lau, Andrew Lua, Audrey Luo

見た場所: The Ngee Ann Kongsi Theatre (Wild Rice @ Funan)

 

 COVID-19のパンデミック以降、初めて劇場に行った。Wild Rice(ワイルド・ライス)による、彼らの劇場での公演である。2021年3月時点で市中感染をほぼ押さえ込んでいた(今は違う)シンガポールだが、エンターテインメント公演に対しては緩和されたとはいえ(今は違う)まだ厳しい。観客数も舞台に上がれる人数も限られている。政府の提示する様々な要件をクリアしての公演になるわけだが、そうして公演にこぎつけた作品が、この「The Amazing Celestial Race(天界のアメージング・レース)」である。十二支があの十二の動物になった昔話、神様がどの動物が一番早く自分のもとに辿り着くかを競わせた、というお話をファミリー向けミュージカルにしたもの。神様主催で動物達が競争をするというのは、日本に限らず広く親しまれているお話らしい。シンガポールでは、中華系の人々によって春節がチャイニーズ・ニューイヤーとして祝われ、この春節が干支の変わり目ともなっている。ちなみに2021年のチャイニーズ・ニューイヤーは2月12日であった。

 


 前述したように、公演ができるようになったとは言っても、条件は厳しい。普通なら一人芝居か二人芝居の会話劇を上演しそうなところを、ミュージカル上演を行おうというその心意気に感心する。カンパニーの財政的にそれが可能だったという面もあろうが、それにしても358席のうち半分以下の観客しか入れられないため、約90分間の公演を、平日は夜に2回、週末は一日3回行うという、これまでシンガポールで見たことないような公演形態だった(公演期間は一ヶ月。ちなみに月曜はお休みだったと思う)。一度に大人数を入れられない。でもチケット代をむやみ上げたくはない。となったら、少しでも利益を出すためには回数を増やすしかないのだ。

 

 2019年にワイルド・ライスの本拠地となったこのThe Ngee Ann Kongsi Theatreに行ったのは、今回が初めてだった。IT関連のお店が集まるショッピングモールとして親しまれていたFunan Mallが、再開発後にヤングアダルト向けのレジャー設備を備えたおしゃれモールに生まれ変わったのだが、ワイルド・ライスの劇場はその4階に入っている。大きくはないが、中央の舞台を客席が取り囲む形の劇場で、ロンドンのシェイクスピアズ・グローブ風の立派な円形劇場である。と思ったら、ストラトフォード=アポン=エイヴォンにあるロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのスワン・シアターにインスパイアされたデザインらしい。いい感じの劇場で、久しぶりに劇場を訪れたこともあって、わくわく感が増した。


劇場の入口
 

 出演俳優は5名のみ。十二支の競争のお話なのだが、一度に舞台に立てるパフォーマーは5人までなので、5人でやりくりする選択肢を取ったのだろう。実際のところ、十二支だけではなく、猫、天界の玉皇大帝やそのお付きの者達、レースを実況中継する鳥達、村人と、登場人物は結構いる。その全てを、5人の俳優達が早変わりで次々と舞台に登場し、それぞれのキャラクターを演じ分けることでこなしていくのだ。ミュージカルなので、5名で編成されたバンドと2名のコーラスの名前がプログラムには載っているが、客席から彼らの姿を見ることはできなかった。しかし、(定かではないが)生演奏であるように思われた。

 

開演前の舞台

 動物達が全員揃っているべきレースのスタート場面やコース途中の村での火事(があるのだ)の場面は、背後のスクリーンに投影される影絵芝居で表現される。そうかと言って、スペクタクルなシーンを全て影絵で凌ぐわけではなく、川の波頭が舞台床からせり出して動き、龍が舞台を巡って(実際に天井から)雨が降る。龍が舞台に登場するというのは、龍役の俳優とは別に、大きな龍の模型を何人かが下から棒で支えて操るという、春節のお祝いにあるような出し物が一度出て来るのだ。例年、シンガポールの職場でもショッピングモールでもどこでも、ライオンダンス(獅子舞)が見られるものだが、もちろん今年はそういうイベントが控えられていたので、なんかいいものを見た気がした。また、蛇や鳥などはパペットが使われているのだが、そうした小道具のデザインも美しい。大がかりな舞台装置はなかったが、贅沢な舞台だったと思う。

 

 十二支と猫は、5人の俳優達によって個性豊かに演じ分けられている。例えばTikTokガール(TikTokガールというのは私が勝手に言っているだけ。本来はTikTokerと言うべきなのだろう。)の兎は随所で明るく「Challenge!」と叫び、馬は女(馬だから牝と言うべきか...)でもレースに勝つことができることを証明するのだと張り切る。このように現代的な味付けがされているキャラクターもいるのだが、私が好きだったのは牛。チャイニーズ・シンガポーリアンの訛りの英語を話し、時々中国語で何かぼやくが、何を言っているのかわからない(しかし、あえて説明も字幕もない)。可笑しかった。私の記憶にある十二支の昔話どおり、やはり鼠は狡賢く(賢いとも言うか...)、そしておっとりした猫は鼠に騙されたわけではないのだが、もちろん十二支から漏れてしまうのだった。しかし、この作品は楽しいファミリー・ミュージカルである。このまま猫だけ仲間はずれになったりはしない。というわけで、紆余曲折あって、火事にあった村の宝物を結果的に守った猫は、玉皇大帝に褒められて、特別の栄誉を授けられる。玉皇大帝いわく

 「今後、幸運と富を祈ってお前の姿があらゆる商店や家々に飾られるであろう。」

 ———「Lucky Fortune Cat」!、招き猫の誕生!招き猫の由来を勝手に創作した!このオチがまた可笑しかった。

 

 たまたま大変良い席で見たが、出演者全員、はりきって歌い、きびきびと踊り、熱演であった。こちらも同じようなことを思っているせいでもあろうが、舞台ができることの喜びが前面に溢れていると、感じさせるような公演だった。久しぶりに劇場の椅子に座り込んで、楽しかった。シンガポールでは2021年5月になって、これまで緩和されてきた規制がまた強化し直されている。劇場が完全に開く時が、早く来てほしいものである。

 

 ちなみに、中華系の文化では十二支のいのししは豚である。なので今回のミュージカルでも、登場するのは太った豚だった。さらに、羊も山羊であることが多い。日本ではひつじ年に山羊の絵柄が描かれることはないだろうが、シンガポールでは山羊の絵柄もよく見る(そもそも羊と山羊をあまり明確に区別していないようにも思える)。しかし、羊=山羊のことはすっかり忘れてしまっていたので、この公演の間中、登場人物の中に山羊がいるのをずっと不思議に思っていた......。(2021年6月4日)


真ん中右端の羊年の絵柄は山羊

Sunday, 2 May 2021

『映画』Last and First Men(最後にして最初の人類)

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Last and First Men(最後にして最初の人類)」・・・間違っていても気づかない

公開年: 2020

製作国: アイスランド

監督: Johann Johannsson(ヨハン・ヨハンソン)

原作: Olaf Stapledon(オラフ・ステープルドン)

ナレーション: Tilda Swinton(ティルダ・スウィントン)

見た場所: The Projector

 

 「Last and First Men(最後にして最初の人類)」は、オラフ・ステープルドンによる1930年の同名のSF小説を原作とした作品で、音楽家ヨハン・ヨハンソン初の監督作にして遺作となった。元は、ティルダ・スウィントンのナレーションが入った16ミリフィルムのモノクロ映像———主に旧ユーゴスラビアが建てた第二次世界大戦等にまつわる記念碑群———とともに、ヨハンソン作曲のスコアをオーケストラがライブ演奏するという作品で、ヨハンソンの死後、映画版として完成されたものである。原作小説から起こしたナレーションは、ヨハンソン自身とJose Enrique Macianによって作成された。

 

 

 COVID-19のパンデミックで、2020年は開催されなかったSingapore International Festival of ArtsSIFA、シンガポール国際芸術祭)だが、シンガポールのCircuit Breaker(セミ・ロックダウン)が段階的に緩められるのにともない、(当初の規模に比べれば)ごく一部ではあるが開催され、「Singular Screens」という映画上映プログラムも、観客数を限って行われたのだった。「最後にして最初の人類」はそのプログラムの一本で、私は103日に、会場のAsian Film ArchiveにあるOldham Theatreに見に行ったのだった。

 

 それはそれで済んでいたのだが、それから一ヶ月半ほどした後、チケット販売会社からメールが来た。いわく、今回の上映に使われたプリントには誤りがあった、と。特に顕著な誤りとして、同じナレーションを繰り返してしまっている。この問題はテスト上映の時にすでに認識されていたものの、そのまま上映してしまった。しかし、確認したところ、この映画のデジタル・プリントを作成した現像所が失敗コピーを渡したということがわかった。SIFAと配給会社(シンガポールのAnticipate Pictures)は、この見過ごしに対して深くお詫び申し上げる。そして、(いわゆるミニシアターである)The Projectorでの上映に無料でご招待するので、申し込んでほしい。もしこちらで指定した上映日に都合がつかないようであれば、配給会社がプライベート・スクリーニングのリンクをお送りする。また、今回のチケット代金を全額返金するので、チケット販売会社が後ほどその詳細をご連絡する。今後はこのようなことが起こらないよう、ベストを尽くしていく所存である、とのことだった。

 

 えっ......そうだったん?実は、Oldhamでこの作品を見た時、睡魔と戦うのが非常に大変だった。奇妙な建造物が映っているモノクロ映像に、(英語なので尚のこと)よくわからん奇天烈な未来の人類の世界が語られ、そこに「ワァ〜ワァ〜、ワァ〜ワァ〜」という壮麗な音楽。見ていてストーリーに引き込まれるとかスリルを感じてわくわくするとか、そういう映画では全くない。しかも、ティルダ・スウィントンのナレーションは、最後の人類がどのような形状か等について述べる辺りまで来ると、そこでまた最初に戻ってしまう。結局、都合三回、同じ話を聞いた。そして、そういうものだと思っていた。ティルダ・スウィントンのナレーションは未来の人類が現在の我々に語りかけているという体なので、針が飛んだレコードのように同じことを繰り返しているのを、「未来からの交信が上手くいかない」ということを意味しているのかと思ったのだ。それで実際に同じ話を繰り返すという、実験映画的な試みなのだと。そうじゃなくて、単なる間違いだったのね......

 

 というわけで、最初に見た時眠かったけど、せっかくなのでもう一回見に行ったのだった。前回は丸腰で見に行ったので、SF小説の映像化という作品紹介からは予想外の退屈さ(!)に参ってしまったのだが、今度はもうどんなものかが事前にわかっているので、大丈夫。眠くなるであろうことに心構えができていたので、かえってそれほど眠くはならなかった。前回のように同じ話を繰り返すわけではなく、ティルダ・スウィントンの語りは進んでいき、結末もちゃんとあった。

 

 

 さて、映像の中核をなす記念碑群は、コンクリート作りと思われ、様々な角度と様々な遠近で撮影されている。山々のような自然を背景に、奇妙でありながら無機質で静謐な雰囲気を醸し出しており、その映像は美しい。このモニュメントの映像はモノクロだが、暗黒空間に緑色のライトが点滅する映像も時おり挿入される。そうした映像と、神秘的なヨハンソンの音楽が、ティルダ・スウィントンが語る独特な未来世界に対するイメージを喚起している。ティルダは第18期の人類(最後の人類)として、現在の我々(第1期の人類)に語りかける。18期人類は我々の助けを求めており、海王星に住む彼らの形状(もはや我々とは似ても似つかぬ種になっている)、生態、社会等を説明する。この18期の人類の世界は、今から20億年後くらい......「法華経」の百千万億那由他みたいで、あまりにスケールが大きすぎて、なんかクラクラしてくる。

 

 

 原作を知っていればそうは思わないだろうが、そうでないと、「いったいこれは......」という驚きを抱かせられる。ナレーションだけで成り立っている作品という形式に対してではなく、その語っている内容に、想像力の飛翔に。しかしその一方で、様子や状況が淡々と語られているだけの作品でもある。映像は美しく、音楽は多様ではあるものの、筋運びに起伏があるわけではない。かしこまって見ていても(原作やヨハンソンの音楽に特別な興味があれば別だが)、眠くなってしまうのは仕方がないような気がする(自己を正当化するが)。いわゆる「映像詩」と呼べなくもないが、元々がオーケストラのライブ演奏とともに成り立っていた作品であることを考えると、この「Last and First Men」は、イベント的な映画であると思う。つまり、ビール片手に友達と一緒に、大音量で大スクリーンで見て、その音楽と映像に酔いしれる。そんなようなことが楽しい映画なのではないかと。そう考えると、映画館で見たものの、一人でひっそりと見た私の鑑賞方法は、ヨハンソンに対していささか地味であったかと。2021319日)