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Sunday, 11 November 2018

『映画』Tom of Finland(トム・オブ・フィンランド)


201810月14日
Tom of Finland(トム・オブ・フィンランド)」・・・火を点けろ!
公開年: 2017
製作国: フィンランド
監督: Dome Karukoski(ドメ・カルコスキ)
出演: Pekka Strang, Lauri Tilkanen, Jessica Grabowsky, Taisto Oksanen, Seumas Sargent, Jakob Oftebro
見た場所: The Projector

 1011日から21日まで、フィンランド大使館の後援を得て、Finnish Film Festival(フィンランド映画祭)が開催された。新作8本の他、アキ・カウリスマキ監督のレトロスペクティブとして、「敗者三部作」を含む6本が上映された。映画祭のオープニングを飾ったのが、この「Tom of Finland(トム・オブ・フィンランド)」。レザーを着た筋肉美の男達をエロティックに描き、20世紀後半のゲイ・カルチャーに影響を与えた画家、「トム・オブ・フィンランド」ことトウコ・ラークソネン(Touko Valio Laaksonen)の伝記映画である。メディア検閲が日本よりもずっと厳しいシンガポールだが、ノーカット、R2121歳以上のみが視聴可)でレイティングされ、無事上映の運びとなった。

トム・オブ・フィンランドの作品が表紙となっている映画祭のプログラム。
帰宅後よく見てみたら、ちゃんとコンドームを持っている。

 私はそのオープニング上映ではなく、二度目の上映の時(日曜の夜8時から)に見に行った。映画館に着いた時、ちょうど開場したところだったので、入口で人々が列をなしてどんどん入って行っていた。列を作っているのは男性ばかりだった・・・。アジア人だろうが白人だろうが何人だろうが、カップルだろうがグループだろうが一人だろうが、とにかく男、男、男だらけだった。女一人で来てしまった私は、あまりのアウェー感にいつになく気もそぞろになり、そそくさと中に入ったのだった。そうして客席に座って眺め回して見ると、もちろん女性の観客もいた。しかし、男性観客の方がずっと多く、それこそトムの絵に出て来るようなマッチョな人もたくさんいて、こういう地味な映画祭(シンガポールにとってフィンランドは特になじみある国というわけではない)の客層としては異色。映画館側によると、この日の上映チケットは売り切れとなったらしい。

 この映画祭で、今まで見逃していたアキ・カウリスマキの作品を何本か見た。カウリスマキの映画ばかり見ていると、ヘルシンキには貧しい人とダサい人しかいないように思えてくるが、それはもちろん誤解なのだった。この映画で見るヘルシンキは素敵な北欧の街で、主人公のトウコ・ラークソネンは立派なジェントルマンだった。逆に紳士なだけあって、映画後半で見せる革ジャン姿が似合っているかと言われると、ぶっちゃけそんなに似合っていない(劇中でも妹に笑われている)。自分が描く男達のようにワイルドに着こなしていないのだが、それは別に問題ではないのだろう。自分がなりたい自分であるということが、この映画のトウコ・ラークソネンが歩む人生であって、似合うとか似合わないとかはどうでもいいのだと思う。


 物語は第二次世界大戦中、トウコがフィンランド軍の将校として戦っていた所まで遡る。戦争が終わり、トウコはヘルシンキで広告デザインの仕事に就く。仕事は順調だったが、彼の心には常にわだかまるものがあった。現在LGBTの権利について最も進歩的な国の一つであるフィンランドだが、当時、同性間の性的行為は全くもって反社会的な違法行為と見なされていた。同性愛者であったトウコは、世間にそれをひた隠し、警察の取り締まりにおびえつつ、夜の公園で出会いを求める悶々とした日々を送っていた。その中で彼は、戦争中に自分が殺したロシアの落下傘兵、公園でゲイを打ち据える警官、革ジャンを身にまとったバイカー達——自身の心を掴んで離さない様々なイメージから、ゆっくりとあの絵のスタイルを作り上げていく。どちらかと言うと、負のイメージに彼が取り憑かれていることが興味深かった。心を悩ますそうしたイメージを、トウコは絵を描くことで自身のファンタジーと結びつけ、見事に昇華させていったのだった。しかし、描き続けるものの、発表する場がない。失敗や苦難の末、ついにアメリカのBeefcake magazine(ビーフケーキ・マガジン、アメリカで検閲の厳しかった時代にフィットネス雑誌を装って発行されていた、ゲイ男性向けの雑誌)の一誌に自作が掲載される。トウコ・ラークソネン=トム・オブ・フィンランドのデビューである。アメリカのゲイ・カルチャーの開放とともに、トム(トウコ)の人気も高まるが、恋人の死やエイズ禍と言った試練にまたもや襲われる。しかし、それでも描き続けることを決意し、友人達の協力を得て、画集「Tom of Finland: Retrospective」を出版する——映画は、1940年代から晩年まで、およそ50年間のトウコの半生が描かれている。

 良い作品だけど、エロティックな絵を描くゲイの画家の伝記映画と聞いて、過剰な何かを期待する人が見るとがっかりすると思う。狂った芸術家の生涯というのは映画で好まれる題材だが、この映画のトウコは狂っているどころか、良き友人、楽しい同僚、優しい恋人として、ごく全うな人である。トウコが良い人な上に、端正で抑制の効いた演出のために、(事件はいろいろ起こるけれども)若干起伏に欠ける作品ではある。

 また、時間経過が分かりづらいというのが難点。冒頭のシーンでは、公会堂のロビーらしき所で、晩年のトウコが友人のダグと出番を待っている。そこから(恐らく)時間が少し戻って、(後になってわかることだが)エイズ禍の中で自分が何をすべきかと思い悩むトウコの姿が描かれる。さらにそこからトウコの回想であるかのように、時代が1940年代に戻るのだが、私がフィンランドの歴史に詳しくないこともあり、今がいつで前のシーンから何年たったのか、今一つわかりにくかった。戦後のトウコが戦争中の出来事を思い起こしたり、トウコの美しい恋人ニパが不老(不死ではないが・・・)だったりして、それがますます私を混乱させる・・・。

 例えば、ある日トウコがハッテン場になっている公園に行ったら、「ヘルシンキ・オリンピック開催のために」警察が取り締まりを行っており、その場をなんとかごまして切り抜けるというシーンがあった。映画が終わった後でヘルシンキ・オリンピックを調べて、「あー1952年の出来事だったのね」などと今さらのように思ったのだった。しかし、そうかと言っていちいち「1952年」などとキャプションを出したらつまらなくなるので、これはこれでよしとするしかないのだけど。ちなみに、1970年代にトウコが初めてアメリカに渡って以降の話は、わりとよく知られたアメリカのゲイの歴史と重なっているため、より理解しやすい。

 この映画は、トウコがトム・オブ・フィンランドとして世に出る前と後で、大きく前半と後半に分けられる。前半では、世に出せない絵を描きながらゲイとして生きることを模索するトウコの姿が、対して後半では、彼がゲイ・カルチャーに革新をもたらしたアーティストとして成功していく様子が描かれている。私がより好きなのは、少々駆け足気味で滑らかに描かれる後半よりも、隠れゲイとしての日々を送る、わりと地味な前半の方だ。

 そして最も印象的なシーンは、この前半と後半をつなぐ転機となる場面で、その時、トウコは一切をあきらめて、自分が描いてきた絵を燃やそうとする。ライターで火を点けようとするのだが、なぜかライターの火が点かない。何度も試しているうちにふと部屋の向こうを見ると、幻の男——黒い口髭をたくわえた、逞しい、トウコの空想の中の美しい男——が座っていて、手にしたライターの火を点ける。トウコは、夢をあきらめてはいけないことを悟る。時おりこうした幻想が彼の日常の中に織り込まれているのだが、このシーンでのそれは効果的で、かつ感動的だった。そしてこの「ライターを点けようとして火が点かない」というのは、冒頭の思い悩むトウコのシーンにもある。前に書いたように時間軸が若干複雑なために、ちょっとわかりづらかったのだけれども、冒頭のシーンはこのシーンのエコーとなっている。

 「トム・オブ・フィンランド」は、感情なりテーマなりを、見ている者に有無を言わさず押し付けて来るような、強烈な映画ではない。しかし、不思議と見終わった後、「あぁ、がんばろう」(何を?)と思ったのだった。そういうわけで、日曜の夜という、明日仕事だからあまり外出したくないような時間に見に行ったにも関わらず、わりと心軽やかに家路についた。たぶん、誰に迷惑をかけるでもなく、困難であっても、内なる自由に従ってコツコツと描き続けていくトウコの、その静かな戦いぶりに、ちょっと元気づけられるのだと思う。

トウコ(左)と恋人のニパ

 ところで、トウコには妹がいるのだが、彼女はトウコの恋人となるニパに思いを寄せて振られてしまう。それでもずっと兄達の世話を焼いている感心な妹なのだが、あの後彼女自身はいい人に巡り会うことができたのか、それが映画の終わった後も気になって・・・。(2018116日)